2010年1月27日水曜日

聖書とは何か(六)

聖書とは何か(六)
ベック兄暦年テープ、DVD1、CD18-222
ゴットホルド・ベック

【これまでのまとめ】

今まで、私たちは、聖書が神のみことばであることを見てきました。そして、預言者たち、使徒たちによって宣べ伝えられ、また、書かれたみことばが、神によって受け取られたみことばであることをも見てまいりました。すなわち、これは語られ、書かれたみことばと、受け取られたみことばとが等しいということを意味しています。また、私たちは今までに、神が預言者たちと使徒たちをとおしてお語りになったということを、確認して参りました。したがって、書かれたみことばと受け取ったみことばとは等しいということが明らかになったわけです。

今までのことを、ここでわかりやすくまとめてみましょう。先ず、第一に言えることは、神のお語りになったみことばと、人間、すなわち、預言者たちや使徒たちが受け取ったみことばとは等しい。同じものであるということです。第二に、預言者たちや使徒たちが書き記し、宣べ伝えたみことばは、彼らの神から受け取ったみことばと等しい、同じものであるということです。したがって、その結果として、第三に言えることは、主なる神のお語りになったみことばは、預言者たちや使徒たちが宣べ伝え、書き記したみことばと等しいということです。この結論は、否定することができません。


もう一度、以上のことをまとめてみますと、次のようになります。神によって語られたみことばは変わることなく、また、完全なかたちで預言者たちや使徒たちによって語られ、書き記されて、みことばの中に表現されているということです。そしてまた、神によって語られたみことばは、人間たちによって受け取られたみことばに等しく、そしてまた、同じように人間たちによって宣べ伝えられ、書き記されたみことばに等しいということです。すなわち、聖書は神のみことばです。

(六)神のみことばに対する信仰

もう一つの点について、考えてみたいと思います。すなわち、神のみことばに対する信仰、あるいは、聖書に対する私たちの立場について、これから、ご一緒に見てみたいと思います。

聖書が、自らについて証しする事柄、言わば、聖書の自己紹介は何かと言いますと、それは、神のみことばであるということです。もう少しくわしくご説明いたしますと、聖霊によって与えられ、預言者たちや、使徒たちによって、みこころにかなって書かれたものです。聖書の要求は、極めて明瞭です。すなわち、聖書はすべての部分において、一つ一つのことばにおいて、まことの神のみことばであることを、主張しているのです。

それでは今、私たちは、この聖書の要求に対して、どのような態度や行動を取りたいと思っているのでしょうか。

私たちは、自由に決断すべきです。すなわち、私たちは、この聖書の要求を拒むか、あるいは、素直に受け入れるかのどちらかです。聖書の要求を受け入れる人は、それによって、聖書全体を獲得します。しかし、この要求を拒む人は、聖書全体を失う者です。

事実上、次の一つのことは不可能です。すなわち、聖書の要求を全部、あるいは、一部、否定して、しかしながら、聖書の他の箇所を信じたいと思うことは、全く不可能なのです。聖書の言っているすべてが正しいか、あるいは、聖書の言っている何ひとつ信頼できないかのどちらかです。人間は誰でも、聖書に対して、根本的な決断をしなければなりません。つまり、誰でも、聖書に対して、立場を取らなければならないのです。しかし、みことばに対する私たちの立場は、一人の人格に対する立場なのです。私たちが見たように、聖書をとおして、神はお語りになっています。主なる神は、聖書を我がことばと呼んでおられます。主なる神は、また、御子を通して、お語りになったのです。そして、主イエス様は、新約聖書について、我がことばと言っておられます。したがって、私たちは一つの人格、すなわち、私たちにお語りくださる主なる神ご自身に対して、直面しているのです。

ヘブル
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

神の前で隠れおおせるものは何一つなく、・・・・私たちはこの神に対して弁明をするのです。したがって、神のみことばである聖書に対する決断とは、私たちにお語りくださる人格者、すなわち、主なる神に対する決断であり、みことばに耳を貸さないということは、みことばをお語りになられる主なる神を無視することになります。

■聖書の要求[一] 聞きなさい

聖書は、三つの要求をもって、一人一人の人間に迫って来ます。すなわち、第一番目は、聞きなさい。第二番目は、信じなさい。そして、第三番目は、従いなさいということです。

それでは、先ず、最初の要求、すなわち、「聞きなさい」という要求から見てみることにしましょう。聖書全体は、人間に対して、聞きなさいというはっきりとした要望、また、命令です。この要望は、しかしながら、人間が聞くことができないならば、おかしなことでしょう。みことばが、私たちの心の耳を開いてくださるということは、まさに神のみことばの力です。主イエス様は、ツンボ人に、「エパタ」、すなわち、「開け」とおっしゃいました。すると、聞こえるようになりました。同じ意味のことばは、聖書の中で何回も何回も、出てきます。

先ず旧約聖書の呼びかけとして、『イスラエルよ、聞け』と、よく書き記されているのであります。

申命記
4:1 今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。

6:4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

9:1 聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。

また、「天地よ、聞け」という表現が、イザヤ書に書き記されています。

イザヤ
1:2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。

1:10 聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。

7:13 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。」

8:9 国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。

28:23 あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを、注意して聞け。

32:9 のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。

34:1 国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。

34:16 主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。

39:5 すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主のことばを聞きなさい。」

40:21 あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。

40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

44:1 今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。

47:8 だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう。』と言う者よ。

48:12 わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。

51:4 わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。

51:21 それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ。

55:3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。

マタイ
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

主イエス様の呼びかけは、どういうものだったのでありましょうか。

マタイ
11:15 耳のある者は聞きなさい。

黙示録
2:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

さらに、使徒たちの呼びかけとして・・・・、

使徒行伝
2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。

聖書の結論は、次のように証ししています。

黙示録
1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。

同じような意味として、聖書には次のような表現も出てきます。『見なさい』、『見よ』、『味わいなさい』と。実は、もっとも大切な事実は、『見よ』ということばで紹介されています。『見よ、わたしのしもべ』と、イザヤ書に書いてあります。

イザヤ
42:1 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。

また、「見よ、あなたの王があなたのところに来られる」と、ゼカリヤ書に書いてあります。

ゼカリヤ
9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。

また、ルカ伝に、『見よ、わたしはあなたがたに大いなる喜びを知らせる』と、書いてありますね。

ルカ
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」

ヨハネ
1:29 見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

黙示録
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

こういう箇所を見るとわかります。もっとも大切な事実は、「見よ」ということばで紹介されています。「見よ、わたしのしもべ。」「見よ、あなたの王があなたのところに来られる。」「見よ、わたしは、あなたがたに大いなる喜びを知らせる。」「見よ、これは神の小羊。」「見よ、わたしは戸の外に立っている。」

同じように、「味わいなさい」という表現も出てきます。

詩篇
34:8 主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。

第一ペテロ
2:3 あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。

また、みことばは食べ物となります。

黙示録
10:9 それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」

エゼキエル
3:1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」
3:2 そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、
3:3 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

聞くことは、心の態度であり、みことばに対して心を開くことです。すなわち、聞くことは、意志の問題です。神がお語りになることを、人間が聞きたくないと思うことが、罪の始まりです。

イスラエルの罪は、次の三つに別れます。イスラエルの民は、聞こうとしなかった。イスラエルの民は、信じようとしなかった。イスラエルの民は、従おうとしなかった。

エレミヤ
7:23 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』
7:24 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。
7:25 あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、
7:26 彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。
7:27 あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えまい。
7:28 そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。

25:3 アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。
25:4 また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。

25:7 それでも、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。――主の御告げ。――それで、あなたがたは手で造った物でわたしの怒りを引き起こし、身にわざわいを招いた。」
25:8 それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、

ローマ
10:21 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

■聖書の要求[二] 信じなさい

次に、「信じなさい」という神の要求を見てみましょう。すなわち、神のみことばに対する信仰が、ここで要求されているのです。私たちは、聖書による神の啓示、すなわち、神のみことばは、神のみことばであるという啓示が、根本的な事実であることを確証いたしました。ひとつの事実は、私たちが、それを理解できなくても、認めざるを得ません。主なる神は、人間から信仰を要求しておられるのであり、私たちが、まず、すべてのことを理解して、信ずるということを期待していらっしゃるのではありません。

神の事実を体験するためには、ただひとつの道、すなわち、信仰の道だけが存在しています。救いに至る信仰とは、絶対者である主なる神を百パーセント、信頼することであり、神の権威を、百パーセント認めることです。この信仰は、いかなる証拠も、保証も、証明も必要としません。私たちは、主なる神が絶対者であるから、信ずるのです。

霊感の問題については、理解したり、証明したりしてから信じるというようなものではなく、ただ単純に、信じることが大切です。もしも、私たちが、理性で神の知識を得ようとするならば、神は、否という態度をお取りにならざるを得ません。信じる者は認識し、理解し、見るようになるのです。

『聖書は、神の霊感によって書かれたものである』と、聖書は、事実として伝えていますから、私たちは正直になりたいと思うなら、この事実を信ぜざるを得ません。私たちは、人間の理性に頼るのではなく、聖書は真理ですから、その真理を信ずるという態度、すなわち、意志の問題が問われることになるのです。自分の理性で判断してから、安全な路線を行くことに慣れてしまっている人間にとって、神の要求は、何と困難に思えることでしょうか。それはまさに、今までの道とは逆行する、正反対の道だからです。

ヨハネ
4:50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。

私たちは、イエス様がみことばに対して取られたのと、同じ態度を取るべきです。ヨハネ伝にイエス様は、次のように言っています。

ヨハネ
17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

弟子たちについて、聖書は次のように言っています。

ヨハネ
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

これこそ、預言者たちや使徒たちの証しを信じ、大いに用いられた人々の勝利の秘訣だったのです。彼らは、旧約聖書と主イエスのお語りになったこと、すなわち、旧約聖書と新約聖書を素直に信じました。すべての不信仰の源(みなもと)は、悪魔です。悪魔が人間に語った最初のことばは、神のみことばに対する疑いを含んでいます。

創世記
3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

悪魔は、神のみことばの後ろに、最初の疑問符を置きます。そして、それ以来、神のみことばの後ろにつけられる疑問符は、疑いもなく、蛇である悪魔の足跡です。悪魔自身も、神のみことばを信じます。というのは、悪魔でさえも、神のみことばが真理であることを認めざるを得ないのです。しかし、悪魔は、自らを低くして神のみことばに従おうとはしません。これこそ、罪そのものです。しかし、悪魔は、神のみことばである聖書が、真理であるということを知っているからこそ、そのように、人間から奪い取ろうとするのです。そして、完全に奪い取ることができない場合には、みことばの下にトンネルを掘って、土台を崩そうとするのです。

悪魔は、私たちから聖書を奪い取ろうとしますが、うまくいかない時には、聖書を穴だらけにして、役に立たないようにしてしまおうと企みます。この悪魔の企てが成功しますと、聖書は私たちにとって、もはや巌(いわお)の土台ではなく、揺り動く大地となり、私たちを罠にかけてしまいます。悪魔は、初めから偽り者であり、神のみことばは神のみことばではない、神のみことばは、一部分だけ神のみことばであるということを、人間に信じ込ませることに成功した時、悪魔の目的を達成したことになります。それによって、悪魔は私たちの日常生活を無力にし、私たちの奉仕を不毛としたことになります。

『聖書全体が完全な神の霊感によるものである』という事実から出発しないようなものである福音宣教や聖書研究は、初めから、無効であることになってしまいます。その結果、空しい努力がなされ、いつも落胆の結果に終わります。それは、空気を打つようなものです。ですから、悪魔は、あらゆる信者を、聖書の完全な霊感によるものとする信仰から引き離すことに、一生懸命がんばるのです。

神のみことばは、ダイナマイトのようなものです。なぜなら、みことばによって、巌(いわお)は爆破され、鎖は解け、悪魔のとりこから解放されるようになるからです。しかし、私たちは、神のみことばに徹頭徹尾、信頼しなければ、悪魔にとって、要注意人物とはなりません。みことばを信じないことは、悪魔の嘘を信ずることになります。

主なる神の切なる願いは、人間がみことばを百パーセント信じることです。創世記15章16節に、「アブラハムは主を信じた」と書いてありますが、ひとりの人間がアブラハムのような態度を取る時、天において、大いなる喜びが上がるのです。主のみことばを信じることは、今日の私たちと同じように、アブラハムにとっても簡単なことではありませんでした。信仰によって、昔の信者たちは生き、歩み、行動しました。彼らはただ、みことばだけに頼ったのです。

イスラエルの民の悲劇は、神のみことばを、預言者たちの口をとおして与えられていながら、信じようとしなかったこと、信じたいと思わなかったことにありました。聖書のどこを見ても、『イスラエルの民が神のみことばを信じることができなかった』とは書き記されておらず、信じようとしなかった、ということがわかります。

エレミヤ
25:3 アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。
25:4 また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。

「あなたがたが、わたしのことばに聞き従わなかった」とあります。イスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を指し伸べた」と。ローマ書10章21節にあります。そして、この不信仰の恐ろしい結果は、イスラエルの歴史にあらわれています。

主イエス様は、この地上において生涯のあいだ、イスラエルの民、パリサイ人、聖書学者、律法学者、弟子たちが、神のみことばを信じるようにと、どれほど一生懸命になられたことでしょうか。主イエス様が、いつも繰り返しお責めになった、ただ一つのことは、神のみことばとご自分のお語りになったことに対する人間の不信仰でした。

ヨハネ
5:46 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
5:47 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

復活された主イエス様は、エマオの途上で、神のみことばに対する弟子たちの不信仰について、真剣に弟子たちにお語りになっておられました。

ルカ
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

主は、今日、信者たちの不信仰について、何とおっしゃることでしょうか。

第一ヨハネ
5:10 神を信じない者は、神を偽り者とするのです。

このことばは、われわれにとって、何と重大な意味を持っていることでしょうか。これは、今日の信者、および、イエス・キリストのからだなる教会の最大の負い目です。すなわち、あらゆる聖書批判は、神を偽り者とするのです。何と深く、この罪の中に私たちは入り込みやすいものでしょうか。

私たちは、大きな問題がなければ、自信をもって、聖書は神のみことばであると言い張ることができるでしょうが、全部、滅茶苦茶になってしまうような状態が発生しますと、簡単に主のみことばに頼ることをやめ、主の約束に信頼を置けないようになってしまうのではないでしょうか。ですから、私たちは、そのようなことをとおして、主なる神のご栄光を恥ずかしめ、傷つけしてしまったことを悔い改めましょう。

今日、もっとも必要とされているものは、みことばに対する信仰と信頼の回復であり、すべてを主に明け渡すことにより、聖霊に満たされることです。私たちは、自分の不信仰と疑いによって主を悲しませたことを、正直に言い表わして、悔い改めるべきです。私たちは、主に対する不信頼という罪を、主の血潮によって洗いきよめていただこうではありませんか。「信仰から出ないことはすべて罪である」と、聖書は言っています。主に頼らない人生も罪です。しかし、主はあらゆる罪を赦したいと、切に願っておられます。そして、主は赦してくださると、再び回復してくださり、用いてくださいます。今まで間違って用いられていたみことばという剣を、主は再び、私たちに返してくださいます。

エペソ
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

神のみことば、すなわち、聖書全体を主は、御霊の剣として、私たちに与えてくださいます。私たちは、悪魔の巧妙な攻撃に抵抗し、悪魔のとりこから解放されたいと願うならば、みことばというこの剣を、どうしても必要とするのです。主は、みことばを私たちにも与えてくださったのです。

ヨハネ
17:8 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

繰り返し、繰り返し言われたように、信仰こそ、もっとも必要とされているものです。信仰の前提条件は、本当の意味で聞くことです。なぜなら、聞くことから信仰が出て来るからです。

ローマ
10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

みことばの提供は、同時に信仰の提供です。誰でも、この提供されたものを受け入れるか、拒否するか、全く自由です。

聞くことと、信じることは、密接に結びついています。聖書の作者である聖霊は、神のみことばをとおして、まことの信仰を引き起こします。聖霊は、神のご臨在を明らかにし、主イエスの栄光をあらわしていてくださり、それによって、まことの信仰が生まれます。

第一コリント
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

まことの信仰とは、主イエス様に対する信仰、また、主のみことばに対する信仰です。まことの信仰とは、聖霊の働きの結果でありますが、しかし、人間が信じたくなければ、聖霊の働く余地はありません。誰も自分の力で信じることはできません。しかし、誰でもみことばに対して、心を開くことができます。人間が信じるか、信じないかは、意志の決断であり、理性の問題ではありません。信仰は、神によって引き起こされます。しかし、信仰は決して、強制ではなく、みことばの働きに対する私たちの意志の肯定です。したがって、『私たちが信じたいと思うかどうか』というひとつのことだけが大切なのです。

信じるとは、受け入れることであり、主のみことばを真理として受け入れる、そして、また、みことばにおいて、事実、すなわち、真理を受け入れることです。みことばを受け入れることは、みことばを語った方を受け入れることです。みことばを受け入れることは、主イエス様を受け入れることに他なりません。

第一テサロニケ
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

神のみことばは、受け入れて欲しい、信じて欲しい、という主なる神の願いです。イスラエルの民は、イエス様を受け入れませんでした。主なる神は、いつの時代でも、信じる人たち、すなわち、ご自身を信じ、みことばを信じる人たちを探し求めておられます。

創世記15章6節に、『アブラハムは主を信じた』と、書いてあります。弟子たちが信じた時、主イエス様の心に何という喜びが起こったことでしょう。

ヨハネ
16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。」

主イエス様は、何度も何度も、「わたしのことばを聞いて信じる者」という表現をお使いになられました。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。

6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。

信仰は、神のみことばに対する鍵です。信仰者にはみことばが開かれます。信仰者は、見えない世界を見ることができます。信仰者は、開かれた天国を体験します。イスラエルの民については、彼らの不信仰のゆえに、彼らは、約束の地、カナンに入ることができなかったと記されています。

ヘブル
3:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

主イエス様は、みことばに対する弟子たちの不信仰を、何度もお責めになりました。ルカ伝、二十四章二十五節から二十七節までを読むと、よくわかります。みことばを信じないことは、主ご自身に対して自分の心を閉ざすことです。

【参考】ルカ
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

■聖書の要求[三] 従いなさい

今まで私たちは、主の要求として、第一番目は、『聞け』という要求、第二番目は、『信ぜよ』という要求について、聖書から見て参りましたが、最後に、第三番目として、『従え』という主の要求、また、みことばの要求について見てみることにしましょう。

みことばを受け入れる者は、みことばの力を体験します。従うとは、聞いたことを行うことであり、約束されたことを経験することです。なぜ、みことばが与えられたかと言いますと、それを行うためです。ですから、聖書の命令は、『行いなさい』と言うのです。

申命記
4:1 今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。
4:2 私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。

4:5 見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。
4:6 これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。

マタイ
7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

ヤコブ
1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

使徒行伝
6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

ヤコブ
2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。

ヨハネ
4:50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。

従うことは、主のみことばに従って、主ご自身に従うことを意味しています。みことばは、私たちの人生を変えてくれます。

「光よあれ」と神が言われると、光が生まれたのです。従おうと思う人は、みことばの力を経験するようになります。最後に二、三ヵ所、読んで終わりたいと思います。

第二コリント
3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

第一ペテロ
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

すなわち、回心は、みことばを通してのみ起こるのです。

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

みことばは、私たちの必要とする食べ物です。

第二テモテ
3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

すなわち、みことばは、私たちの人生を完成させる力を持っています。

エペソ
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためで(す。)

私たちは、主を見る時、主の御姿に変えられ、すなわち、主に似た者とされ、みことばは、私たちを通して実現されます。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

おわり

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