2010年2月18日木曜日

こんなにすばらしい救い

こんなにすばらしい救い
暦年テープ、DVD1-CD10-0130
ゴットホルド・ベック

マタイ
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

今日の交わり会の主題は、ヘブル書、二章三節からの短いことばです。すなわち、「こんなにすばらしい救い」であります。


ヘブル
2:3 私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。

今、読まれましたマタイ伝一章から、もう一回、部分的にお読み致したいと思います。二十一節、『その名をイエスとつけなさい。』二十五節、『その子どもの名をイエスとつけた』と。

イエスという名前は、罪人の救い主を意味します。二十一節に書いてありますように、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」これこそ、主イエス様に与えられた使命でした。それですから、望みは、すべての人のために存在しています。もっともひどい罪人に対しても、望みがあります。聖書によれば、全人類は罪の重荷のもとに、嘆き、呻き、苦しんでいます。と言うのも、「すべての人は罪を犯して、主なる神の栄光を受けられなくなっているからです。」

ローマ書に、『罪から来る報酬は死です』(六章二十三節)と、書いてありますが、別のことばで表現すれば、罪は罰せられなければなりません。主なる神は、いかなる罪をも見逃すことができません。罰がなければ、赦しはないというこのことは、聖なる神の確実な判断なのです。聖書の喜びの訪れというのは、十字架におけるイエス様の死をとおして、全人類の罪がすでに罰せられているということです。私たちが受けなければならなかったはずの罰を、主イエス様がご自身の上に受けてくださいました。

十字架につけられた方、すなわち、主イエス様は人類の罪に対する主なる神の裁きを、ご自身の身の上に引き受けてくださり、完全な贖(あがな)いを成就してくださいました。主イエス様が、永遠から、この地上にいらっしゃったとき、「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださるお方です」と、言われました。主イエス様のご降誕は、決して、主の始まりではなく、この地上に来られたことに過ぎませんでした。主イエス様は、目に見える世界と目に見えない世界の造り主です。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

コロサイ
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

黙示録
4:11 主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

ヘブル
9:26 ・・・・しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

主イエス様は、ご自分の教えによってではなく、ご自身の犠牲によって、すなわち、死によって、罪の問題を解決してくださいました。キリストの教えではなく、主イエス様の死が、聖書の中心なのです。

もう一度、申し上げますと、どのような罪を犯したかは問題ではなく、すべての人のために、希望が存在してるのです。主イエス様が、ご自身の流された血潮によって、贖いの代価を支払ってくださいましたので、主は、赦してくださるために、悔い改めの備えのある罪人を待っておられるのです。罪の赦し、それは、すべての人が必要としているのです。誇り、高ぶる人、自己正当化する人は、わざわいです。最後の赦しを得るために、主イエス様のもとに来たいと思わない人は、わざわいです。それほど愚かなことはありません。

木は、その実によって知られます。これと同じように、私たちは、主イエス様を信じることによって変えられ、新しく造られた人々によって、主イエス様の贖いの偉大さを知ることができます。人生を通して、何十年ものあいだ、神もなく、望みもなく、生きてきた人が、今日、イエス様を信ずることによって、確固たる人生の目標をもち、望みに満たされている、そのような人々が、大勢、私たちの中にいます。なぜでしょうか。

その人たちは、主イエス様によって、新しい人間とされたのです。ある人は、次のようにたずねられました。あなたはすでに福音を聞きましたか。答えは、次のようなことでした。いいえ、私は聞いたことがありませんが、見たことがあります。すなわち、近所の一人の人がいたのですが、その男の人はすべての人によって、恐れられ、避けられ、その人が酔っぱらうと、猛獣のように暴れ回りました。しかし、この男の人はイエスを信じ、自分の人生の中に受け入れたのです。それ以来、すべてが新しくなりました。

今日は、トヨダ・キヨシ兄弟も証しをしてくれます。彼のお嬢さんは、私に次のように言いました。「私のお父さんが、主イエス様を信じてから、私は新しいお父さんを貰いました。私は、イエス様を信じるということが、すばらしいものだということを知りました」と。これは、娘のあやこちゃんのすばらしい証しではないでしょうか。

ここで、ちょっとたくさんの宗教のことを考えてみてください。すべての宗教は、これもあれも約束しますが、しかし、人々は、それによって騙されるだけなのです。というのは、罪の赦しと永遠のいのちの確信は、ただ、主イエス様だけが、提供してくださるからです。主イエス様は、債務を赦してくださいます。主イエス様は、罪に対する勝利を与えてくださいます。主イエス様は、ひとりの人間を根本的に変えてくださいます。

それでは、主イエス様は、いったいどのように一人の人間を変えてくださるのでしょうか。罪を、いい加減にすることによってではなく、罪の源を示すことによってです。マルコ伝からお読み致します。イエス・キリストのことばです。

マルコ
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

イザヤは同じことを別のことばで言っています。

イザヤ
1:5 ・・・・頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
1:6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

最近、大阪から一組の夫婦がやって来ました。私は、非常に心を動かされ、悲しくなりました。その夫婦は結婚していたのですが、二人とも、自分のしたいことをしているのです。その二人は、まことの一致を、一度も知ることがありませんでした。二人は宗教について、何も知りたいと思いません。どうしたら、この夫婦を助けることができるでしょうか・・・・と、私は考えました。すると、突然、その奥さんが言いました。『ただひとつの可能性jは、生まれ変わることでしょう。』もちろん、彼女は、この地上で、この人生において、全然、可能性がないと思っていました。しかし、『もしも、私たちが、この世に再び、人間として生まれることができるならば、多分、可能性があるでしょう』という意味でした。もちろん、私は当然のことながら、この奥さんのことばをとらえて言いました。「そのとおりです。新しく生まれ変わること、そのことが実際、可能なのです。というのは、主イエス様が、それを提供してくださるからです。

主なる神の霊は、霊的に死んでいた人を生き返らせることができます。主イエス様は、心を開いて求めたニコデモに向かって、次のように言われました。

ヨハネ
3:3 ・・・・「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

主イエス様を自分の人生に受け入れる者は、それによって、新しいいのちをもらいます。主イエス様を自分の人生に受け入れる者は、『私は、死からいのちに移されている』と証しすることができます。主イエス様を自分の人生に受け入れる者は、罪が赦されていることを知り、そして、やがて、栄光に包まれて、イエス様のもとで、永遠の時を過ごすことを知っています。

以前、仏教徒だった人が、イエスを自分の人生に受け入れ、それによって、本当に新しい人間になりました。その人は、しばらくしてから、ひとつの夢を見たのですが、それは、実際、自分の経験したものを反映した夢でした。

彼は、深い穴に落ち、深い深い泥沼に、沈んで行きました。彼が助けを求めて上を仰いだとき、恐るべき一人の老人が、自分を見下ろしているのが見えました。すると、その老人が言いました。「わが子よ、お前は何という恐ろしいところにいるのか。」「私は、知らずにこんなところに堕ちてしまったのですが、ここから抜け出すことができないのです。あなたは、私を助けることが、おできになれませんか。」すると、その老人は答えました。「私は孔子です。お前が、私のたくさんの本を読んで、私の教えに従っていたならば、今日、別のところにいたことであろう。」「確かに、その通りです。しかし、今、私はここにいるのです。どうか、私を助けて下さい」と、その人は叫びました。しかし、孔子は、もはや二度と、見ることができませんでした。私は、絶望的になって、あたりを見まわし、別の人が見えないかと探し、一人の別の老人がそこにいたのは、何という喜びだったでしょうか。

その老人は、両目を閉じて、両手を重ねていました。私が助けを求めると、その老人は言いました。「私は仏陀、すなわち、釈迦です。あなたも両目を閉じて、両手を束ね、すべてのことを忘れ去り、全く静かに落ち着きなさい。そうすれば、誰も、そして、どんなものも、お前を動揺させることはできない。そうすれば、我が子よ、お前は、私と同じように、平安のうちにいるようになる」と。「はい、お父さん、私はそうします。しかし、まずこの穴から私を助けて下さい」と、その人は、一生懸命、叫びました。しかし、仏陀――釈迦――もまた、姿を消してしまいました。

その男の人は、ますます深く、穴の中に沈んで行きました。そのとき、彼は突然、三番目の男の人を見ました。その人の顔には、大きな苦しみと悩みの跡が刻み込まれ、その人の両手両足には、刺し通された傷跡がありました。そのとき、泥沼に沈んでしまっていた人は、ただ一言だけ叫びました。「どうか、私をあわれんでください。」すると、この三番目の人は、深い穴の泥沼にいる彼のところにまで降りて来て、両手を彼に差し伸べ、穴から救い出してくださいました。その第三の人は、穴から引き上げられた人に、十分な食物を与え、安らぎの場を提供し、そして、おっしゃいました。「今からは、わたしがあなたとともにいて、あなたを助けましょう」と。この解放者こそ、主イエス様でした。

「あなたは、彼の名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民を、罪から救ってくださる方です。」このようにして、悔い改めた仏教徒は、自分がどのようにして、イエス様を経験し、知るようになったかを述べました。

イスラエルの王、ダビデは同じことを経験できました。まず最初に、サタンは彼を誘惑しました。ダビデは姦淫を犯し、その夫を殺させました。悪魔はこのようにして、ダビデが永久に役に立たない者となるだろうと期待しました。しかし、ダビデは、主なる神の解放を経験しました。詩篇四十篇から5、お読み致します。これこそが、ダビデ王の救いの経験をあらわすことばです。

詩篇
40:1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、
40:2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
40:3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。
40:4 幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
40:5 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。

まず、悪魔は、罪を大したものではないと思わせました。表面的には、蜜(みつ)に包まれているかのように見えても、実際にはたいへんな毒なんです。罪によって人間は、せいぜい、移り行く快楽感を手に入れることはできますが、良心の呵責は残ります。まことの喜びは、主イエス様だけがお与えになります。なぜでしょうか。まことの喜びの土台は、罪の赦しであり、罪を赦すことがおできになるのは、イエス様だけ、イエス様お一人だけです。ガラテヤ書、五章にあります。

ガラテヤ
5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

初めに読みましたヘブル書をお読み致します。

ヘブル
2:3 私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。

なぜ、私たちは、今日、こうした交わり会を持っているのでしょうか。多くの人は、じっくりと考えるようになるべきです。すなわち、私のたましいの救いは、どうなっているのでしょうか。いったい私は、死んでから永遠の時を、どこで過ごすのでしょうか。罪の救い主から、遠く離れた地獄で過ごすのでしょうか。あるいは、考えられないほどの栄光に包まれて、主イエス様のもとで過ごすのでしょうか。

あなたの失われた、望みのない状態を知ってください。ただひとり、生けるまことの神だけが、逃れ道をご存知であるということを知ってください。単なる聖書の知識は、あなたを救いに導かないということを知ってください。あなたの立派なこころざしも救うことができないということを知ってください。

神のみことばである聖書は、努力する人やがんばる人、聖書を研究する人や、いい人間になりたいと思う人が救われるのではなく、主イエス様を受け入れる人が、神の子、つまり、救われた者となると言っています。聖書の救いの福音は簡単に理解できます。

ヨハネ
3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

ここでは、『信じる者』と『信じない者』と言われています。その中間の道は、提供されていません。主なる神は、私たちに選択をさせますから、私たちは、その責任を持っています。永遠のいのちが、ここに提供されます。私たちはどのような決断をするのでしょうか。次のように祈る者は幸いです。『主イエスよ、私は今、失われた罪人として、あなたのみもとに行きます。あなたは、私の身代わりとなって、罰を受け殺されました。あなたの名前はイエスです。あなたは、ただひとり罪の救い主です。私はあなたを、私の人生のなかに受け入れます。
私は、あなたの血潮が、私の債務の赦しのために流されたことを、そして、あなたが私をも、赦してくださったことを感謝します』と。

彼の名前は、イエスと名づけられました。というのは、主はあなたの罪をも、赦したいと思っておられ、あなたに全く新しいいのちを送りたいと、望んでおられます。提供された罪の赦しを受け取る人は幸いです。

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