2010年7月14日水曜日

走っているパウロ

走っているパウロ
ベック兄の暦年ファイル
第六期、教会を建て上げる秘訣、他(DVD6~7)
散歩道ではないよ、ほか(CD#70)より
ゴットホルド・ベック

ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

前回に引き続いて、『走っているパウロ』について考えたいと思います。

パウロは証しとして言いました、『私は主イエス様によって捕えられてしまった。』イエス様は、はっきりとした目的を持っていた。そして、その目的を目指して走ることが、自分のすべてのすべてであると、パウロは喜んで言うことができたのです。


人間は皆、悩んでいます。そして、悩んで、どうしたらいいのでしょうかと、尋ねる人は非常に多い。けれども、多くの人は過ぎ去ったことについて考えています。しかし、過ぎ去ったことは、もう終わっているのです。問題は今から。パウロは、「私は今から走ります」と、はっきり言ったのです。もちろん、大切なのは、人間はなにをすべきか、ではない。信者たちに向かって、使徒たちは皆、ほとんど同じようなことを繰り返して、言ったのです。たとえば、「主にあって喜びましょう」、「首を長くして再臨を待ちましょう」、「目標を目指して走ろう」、そういう呼びかけがあります。もちろん、「人間はできるから」ではなく、「主を仰ぎ見るとそういうふうになる」と、あります。

ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

私がイエス様を受け入れた、勉強していろいろなことがわかった・・・・のではなく、『イエス様が私を捕えた。』監禁された者になってしまった。

ピリピ
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

そして、パウロは当時の信じる者たちを励ましたのです。『兄弟たち、私を見習う者になってください。またあなたがたと同じように、私たちを手本として歩んでいる人たちに目を留めてください。』こう言って、励ましていたのです。このピリピ人への手紙の内容は、確信に満ちたものだったのです。

ピリピ
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

パウロは、自分の肉体が滅びて、天の住いに帰り、主イエス様とともに生きることを、ほんとうに楽しみにしていたのです。

ピリピ
1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

パウロは、自分自身のことは少しも考えなかったのです。自分のすべては主にあることを、よく知っていたからです。

ピリピ
4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。

満ち足りたパウロの心が表されているのではないでしょうか。『私はすべてのものを受けて満ち溢れています。』目標を目指して、神の勝利を得ようと努めているのは、不思議なことではないでしょうか。

先週の水曜日だったと思いますけど、春日部でひとりの姉妹の葬儀がありました。棚橋シズエ姉妹の葬儀だったのです。その二日前の月曜日、結局、召される前の日でしたか、忘れましたが、前の日だったと思うのですけど、結局、前の日、見舞いに行ったとき、非常に楽しかった。今朝、野田ヨウコ姉妹にその時の写真を見せたのです。(シズエ)姉妹は、(別の時には)目をつむっていたのですけど、私の撮った写真ではちゃんと眼を開いていますね。ヨウコは、『負けた!』と言っていました。

結局、死ぬ人の顔ではなかった。死ぬ人の目つきでもなかった。やはり、パウロと同じように、私はもうすべてを持っています。満ち溢れています。本人ははっきり、そう言いました。『私は何も欲しくないし、何も必要ない』と、はっきり言われたのです。もちろん、彼女は、『私は立派になった』とは言わないんです。すぐ、私は罪深い者ですけど、イエス様によって愛されているから、感謝でいっぱいです。それから、ちょっと可愛いこと言ったんです。ちょっと悲しそうな顔で、『今日は仕事できなかった』と言うんです。本当に可愛いと思ったのです。どういう仕事したのでしょうか。その前の日まで、仕事したのです。どういう仕事かといいますと、小さい福音を宣べ伝えるパンフレットがいっぱいあって、その後ろに、イエス様を信じてもらいたい、救われてもらいたい人々の名前を書いて、一文章、二文章つけ加えていました。イエス様を紹介することだけを彼女は思ったのです。

自分の病気のことは、きれいに忘れて、イエス様のことを紹介したい。結局、私はもう満ち溢れてるから何も必要ない、何も欲しくない。その日は、姉妹はちょっと仕事ができなかった。けれども、必ず姉妹の詩を通して、いろいろな人々が真剣になり、求めるようになり、救われるに違いない。

この言葉も、確かに刑務所の中で書かれた言葉です。

ピリピ
4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。

欲しいものはない、必要なものもない。結局、違う言葉で言いますと、姉妹は、『私はイエス様のこと大好き。救われたのはよかった。』イエス様を知ることは、彼女にとって何を意味していたかと言いますと、彼女は変わらない喜びを得るようになり、心の平安を持つようになり、また、生ける望みを持つ者となったのです。

彼女も、結局、病気のおかげでイエス様の素晴らしさを知るようになり、イエス様に頼ると幸せであると、体験的に知るようになったのです。そして、結局、最後まで走り続けました。ゴールインした。

パウロも、もちろん、同じ心構えを持っていました。何回も読んだ箇所なんですけど、使徒行伝を見ると、次のように彼は証してます。(・・・咳き込む・・・)これは、水です。酒じゃない。妬む人がいると困っちゃうから。

使徒
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

喜びに満ちた、驚くべき証しです。パウロの目指した目標とは、結局、イエス様をより良く知ることでした。彼はちょっと違う表現を使ったんです。『イエス・キリストを知る知識の絶大な価値』という表現を使ったんですね。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

キリスト・イエスを知ってることのすばらしさ。結局、イエス様を知ってることとは、パウロにとってすべてのすべてでした。イエス様を知る者は、もちろん、イエス様を愛さざるえなくなる。パウロは、『私はイエス様を信じる』と言っただけではない。パウロは、『私はイエス様を必要とする』と言っただけではない。『私はイエス様を愛しています、イエス様を慕ってる』と、心から言えたのです。パウロは、イエス様をより良く知るために、すべてのものを捨て去りました。パウロがここで言っている、『イエス・キリストを知っている』と言う素晴らしさは、イエス様について知ってる知識とはまったく違います。より以上にすぐれたものです。

イエス様についての知識は、聖書を読んだり、他のものを読んだりすれば、だいたい蓄えることができるでしょう。けども、イエス様についての知識とは、余り役に立たない。考えられないほど多くの人々が、イエス様についての知識を得ることによって高ぶるようになり、傲慢になったのです。そうなると、まったく役に立たないものと言えるのではないでしょうか。主は高ぶる者を退けざるえないからです。

いわゆる教会の歴史を見ると、はっきり言えることですが、信ずる者の最大の敵は聖書学者でした。イエス様も、聖書学者の憎しみによって、結局、殺されてしまったのです。パウロは、イエス様についていろいろなことを知りたいとは、全然、思わなかったんです。『私はイエス様をより良く知りたい、キリストを得たい』と、心から叫んだのです。これは何を意味しているかといいますと、パウロは、よみがえりの主のいのちを自分のものにしたかったのです。それでは、このよみがえりの力は、どうしたら自分のものとされるのでしょうか。

ピリピ人への手紙の3章の次の節を見るとわかります。それは、『イエス様の苦難にあずかって、その死のさまに等しくなること』によってのみ、自分のものにすることができるのです。

【参考】
ピリピ(口語訳)
3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。

私たちは、すべてを主に捧げた献身者として、自分が持っている考え、意志、感情、すべてを主に捧げ、また、自分がもって良いと思われる権利も、主に捧げたいものです。主なる神の御座で、主なる神の勝利を得る者は、聖書の知識が豊かな者ではないでしょう。また、熱心に奉仕する者でもないでしょう。キリストの霊を、豊かに内に宿してる者が、主の勝利を豊かに受けるのです。

前に話したように、普通の競争では、何とかして自分だけが速く走り、他の人々は遅くなるように心がけます。他の人が遅くならなければ、自分が一番にならない、そういう気持ちがあるからです。けど、御座に向かって走る兄弟姉妹の競争はまったくこれとは違うものです。反対です。おのれをむなしくし、他の人々を顧み、他の人々を助け、仕えていく者が、一番早く、御座に達することができるのです。

パウロの祝福された人生の特徴のひとつは、妥協するよりも死んだほうがましだと言う考えでした。そして、このパウロは兄弟たちに、「私を見習うものになってほしい」と、書き記したのです。

それから、パウロの祝福された人生のもうひとつの特徴は、彼の謙遜でした。確かに彼は、人間的に考えれば、誇ろうと思えば誇ることができたんです。けども、彼は光の内に歩んだから、いつも自分の限界を知り、全知全能なる主に寄りすがったのです。こういうふうに彼は用いられ、多くの人は祝福されたのです。

パウロがある時、ルステラというところで奇跡を行ないました。人々はそれを見て、パウロを非常に誉めそやしました。その時、パウロは群衆の中に飛び込んで行き、叫んだのです。「みなさん、みなさん、私もあなたがたと同じような人間にすぎない」と、大声で言ったのです。パウロがあまりに偉いから、(群衆は)彼を神として拝もうと思ったんです。いやあ、たいへんだ!『私はあなたがたと、全く同じ人間だよ』と彼は言ったのです。

パウロは(言いました)、私は全く普通の人間にすぎません。彼は、はじめからイエス様に用いられる器ではなかったのです。徐々に、主の恵みによって、そうなりました。パウロは、回心の直後に自分自身について考える機会があったのです。彼はコリント人への手紙、第1の15章を書いたのです。この15章は、いわゆるよみがえりの書と呼ばれてるものです。

そして、彼の気持ちとはどういうものであったかと言いますと、彼は、コリントのひとりの兄弟にこう言ったのです。羊皮紙と筆を持ってきて、使徒たちのリストを作りなさい。初めにもちろん、ペテロ、それから、ヤコブ、ヨハネの順に書き、そして、もし、終わりに書く余地があれば、目立たないように一番、小さい字で、『使徒たちの中で一番小さな者パウロ』と書きなさい。パウロとは、結局、こういう者でした。ほんとにへりくだっていたのです。私たちが彼の書いた手紙を読むと、彼は決して一番ちいさな者などではなかった。ナンバー・ワンだった、間違いなく。

普通の弟子たちの経験したことと、パウロの経験したこととは全く違う。パウロの教えたことと、弟子たちが教えたこととは、いろいろな点で違う。ずっと優れていたのです。たとえば、空中再臨について他の使徒たちはひと言葉も書いてないんです。パウロだけ。本当の教会はどういうものであるかについて、使徒たちは書かなかった。パウロだけ。ほんとに優れた使徒でした。けども、彼、本人はそうは思わなかったんです。『使徒たちの中で一番小さな者パウロ』と、彼は書いたのです。

それから数年後、パウロは、また手紙を書くようになりました。エペソ人への手紙を書いたのです。このエペソ人への手紙の中心になるのは、まことの教会とはどういうものであるか(ということでした)。もちろん、人間の作った団体でもないし、人間に作られた建物でもない。まことの教会とは、主の恵みによって救われ、イエス様とつながってる兄弟姉妹であると、詳しく書いたんです。

そして、その時、エペソの兄弟に頼んだとしたら、彼は次のように言ったに違いありません。ちょっと羊皮紙と筆を持ってきて、今度は、聖徒のリスト、信ずる者のリストを作りなさい。あなたの知っている聖徒の名前を書き連ねて、なお紙に余りがあれば、良いだろう、一番下に、一番小さな字で、聖徒たちのうちでもっとも小さなパウロと書いても良いだろう。結局、『他の信者たちは、自分よりも優れてる』と、彼は思ったのです。心からそう思ったのです。それは、単なる言葉ではなかったのです。『聖徒たちのうちで最も小さいものは私である』と、パウロは言ったのです。

それから何十年間か、主に仕えた後で、愛弟子であるテモテに、また、手紙を書いた時、彼は次のように言いました。キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださったことをあなたは知っている。ちょっと羊皮紙と筆を持ってきて、罪人のリストを作りなさい。そのとき、一番、初めに、一番、大きな字で、罪人のかしら、パウロと書きなさい、と言ったのであります。

もちろん、これだけではなく、最後にパウロは、もう一つの言葉を残していたことでしょう。テモテよ、筆と赤いインキを持ってきて、もう一度、使徒たちのリストをとって、次の言葉を書き入れてください。『主の恵みにより、主イエスの使徒パウロ』と書き入れてください。次に、聖徒たちのリストを持ってきて、『主の恵みにより、イエス・キリストにある聖徒パウロ』と書き入れなさい。罪人のリストを持ってきて、『主の恵みにより、小羊の血によって贖い出され、買い取られ、聖められた罪人パウロ』と書き入れなさい。

主の恵みをほめたたえられる兄弟姉妹は、本当に幸せなのではないでしょうか。ペテロも、主の御名をおおいに褒め称えたのです。主の恵みをほめたたえるみことばとは、第一ペテロ、5章10節に書かれてます。

第1ペテロ
5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

結局、主は恵み深いお方であり、主が恵んでくださらなければ、もう見込みがないと言うのです。御心にかなう者となったダビデも、絶え間なく祈り続けました。主よ。私を調べ私を試みてください。私の思いと私の心を試してください。私たちも、心からなる願いをもって、自らの内を主の光によって照らし、試していただく必要があります。主の光に照らされると、小さくなります。顔を上げられなくなります。『どうしたらいいだろう』としか考えられないでしょう。

音楽家であるヨハン・セバスチャン・バッハは心から次のように証したのです。「私は、私の生活を見ると、口から次の言葉が出てきます。『主よ。私の神よ。あなたは私のために何をなされたのでしょうか。たとえ、私の舌が千枚あっても、あなたのなされたことを言い表すことができません。あなたはなんと善良なのでしょう。あなたの愛はなんと豊かでしょう。だからあなたに、賛美と栄光の歌を歌います。』」

パウロは、主の恵みをほめたたえるものになったのです。彼はどうして、用いられたのでしょうか。へりくだったからです。

私たちは、ただ救われるために、救われたのではなく、主イエス様に用いられるためで、主はどういう人たちを用いられるかと申しますと、主の御姿に変えられるようになった者です。そして、イエス様の御姿に変えられるために、まことの知識にあずかる必要があります。まことの知識の内容とは一体何なのでしょうか。

まず第1番目、私たちの生まれながらの罪の性質は決して直らないということです。これを知っている人は、『自分では何をすることはできない、主に依り頼まなければ何もすることができない』ということも知ってるのです。私たちは罪を赦されて、主から義と認められるために、自分からは何もすることができなかったのです。ただ一方的なあわれみによって、義とされました。

それとまったく同じように、2番目ですけど、私たちが聖められていくのも、自分の行いではありません。このことも知るべきです。このことを、まことの知識として知っている人は、自らを聖めようと努力することを止め、ただ、復活なさった、高く引き上げられたイエス様だけに自らをゆだねるはずです。

けれども、問題はいかにしてこのような知識を得られるのでしょうか、ということです。それは、主イエス様と同じ姿に変えられていくことによってのみ、できるのです。イエス様の霊は、イエス様と同じ御姿に変える御業を、ただ悩みによってのみ行ないます。悩みと戦いの真っ只中に置かれて、はじめてイエス様と同じ姿に変えられていくのです。イエス様は、私たちを、人間的な目で見るならば、全く望みのない状態に導いてくださいます。どうしてでしょうか。

それは、私たちが、我々の生まれながらの罪の性質は、絶対によくならないものであるということを本当の知識として知ってるかどうか、また、聖きにいたることについて、私たちは全く無力であるということを(知ってるか)、まことの知識が単なる教えであるか、あるいは、私たちのいのちとなっているか、これらを試し、見るために、主は悩みの内に私たちを導いてくださいます。

イエス様が私たちを通して、集会全体を通して、現されていかなければいけません。これは、主ご自身のご計画です。そして、信ずるものが悩み、苦しみ、押しつぶされているのも主のご計画です。この苦しみによって、兄弟姉妹のうちに、イエス様の御姿がかたち造られて行きつつあるのです。イエス様に変えられることが、主の導きの目的であるからこそ、すぐに祈りに応えて、悩みから私たちを解放することをなさらないのでしょう。人間は誰も、悩みたくない。だから、『解放して、問題を解決してください』と、祈ります。しかし、主はそういう祈りを聞こうとしない。

イエス様によって、すべてが創造されました。このイエス様が、叩かれ、むち打たれ、つばきを吐きかけられ、あなどられました。もし、イエス様がそうしようと思われたならば、それらの人たちは、イエス様の一言で、この地上から抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったでしょう。けど、イエス様は耐え忍んで、すべてを負われ、自ら悩みを良しとされ、両手両足に釘を打たれ、十字架の上で、「おまえは人を救ったのに自分を救うことができないのか」と、罵られたのです。もし、しようと思えば、イエス様のために十万の天の軍勢が控えていましたから、イエス様の一言でイエス様を救うためにやってきたことでしょう。けど、イエス様はそうはされませんでした。

イエス様は、柔和にして、心へりくだったお方です。私たちは、このような主と同じ御姿に変えられていきたい者なのではないのでしょうか。イエス様は、透き通った人格の持ち主です。きわみまでご真実なお方であり、また、偽善を知らなかったのです。また、二心を持たなかったのです。向こうに行って、あのように言い、こっち来て、都合のよいことを言うといった方では決してありませんでした。そして、私たちは、このイエス様の御姿に、変えられなければなりません。

イエス様は、はっきりとした目的をもっていたお方でした。イエス様は祈りの方でした。勇気のお方でした。柔和にして、心へりくだったお方でした。平安、平和、喜びの方でした。この御姿に、私たちも変えられていきたいものです。そこにいたる道は、主の歩まれた道です。悩み多き道、誤解に満ちた道、また、それはあざけりに満ちた道です。私たちが静かにイエス様に吟味していただくことが必要でしょう。

主が私たちに語ってくださり、妨げとなっているものをすべて明らかに示してくださるように。ダビデは、心から祈りました。『私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』ダビデはこう祈ったのです。

また、エレミヤも同じように願ったのであります。

哀歌
3:40 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

主は、立ちかえるべきであると、言っておられますが、一体どうしてでしょうか。それは、私たちが間違った方向に進んでいたからです。私たちは、戻らなければらない。どうしてでしょうか。それは、私たちが主から離れてしまったからです。主に頼るよりも、自分の知恵、力に頼ったからです。これを認識することは、非常な謙遜です。そして、債務を認めらること、債務を告白することは、やはり、大切であり、必要です。

旧約聖書を見ると、主によって用いられたいろいろな人々の証しが出てきます。士師記の16章を読むと、サムソンという男について、いろいろなことが書き記されています。彼は、いうまでもなく、主に選ばれた民に属し、主を信じるものであり、長い間、用いられた器でした。けども、この16章を読むと、自分自身の押さえがたい情熱によって、気がつかないうちに、主の霊が彼から去ってしまったことが分かります。イスラエルの敵はサムソンをあざ笑いました。というのは、主の霊なしには、彼は、力なく、望みなく、助けのないものになってしまったからです。なんという悲劇でしょうか。

第2サムエル記の11章を見ると、ダビデ王は、同じように、主の民に属していただけではなく、主の選ばれた民の王であり、指導者でした。ダビデは王でありながら、バテシバという女と姦淫を犯しましたが、預言者であるナタンの奉仕によって、自分自身を主の光の中に見ることができ、そして、告白せざるを得なくなったのです、『その姦淫をした男は私です。』ここにも比類のない悲劇があります。

今、(司会の)兄弟も言われたように、エリヤという預言者は、主に選ばれ、主によって遣わされた預言者でした。けれど、ある時、彼は落胆して荒野に引き戻り、主に自分の命を奪ってほしいと真剣に祈りました。もう十分です。死にたい。結局、自信をなくてしまったんです。私はだめ。彼は、本当にペチャンコになりました。そのことに対して、悪魔は、どれだけ、勝ち誇ったことでしょうか。

イザヤという預言者は、自分自身を主の光の内に見ました。彼は自分の不潔さ、不純さに驚き、次のように叫ばざるを得なかったのです。『ああ、私はわざわいなるかな、私はもうだめです』と、彼はすべての障害物を認識し、告白しました。

イエス様の弟子たちのことを考えても、同じことが言えるのではないでしょうか。最後の晩餐のとき、イエス様は言われました。『あなたがたのひとりが、わたしを裏切ります。』すると、ひとりの例外もなく、すべての弟子たちが、驚いてイエス様に尋ねたんです。『主よ。それは私でしょうか』と。私たちもまた、『それは私でしょうか』と、問うべきです。『私はあなたを悲しませたのでしょうか、隠れた所にある障害物を私にお示しになってください、私の障害物を認める恵みをお与えになってください』と、祈るべきなのではないでしょうか。

弟子のひとり、ペテロが、自分の恐るべき、絶望的な状態を求めるようになったことが、ルカ伝22章に書かれてますが、彼は外に出て、激しく泣いたと書き記されています。これらの、主の、いわゆる、器、しもべたちは、主に立ち帰りました。

光の中に出ることを敢えてしましょう。すべて偽善的な行為を止めましょう。私たちも、サムソンのように、あらゆる力のない、望みない、助けのない状態から脱出すべきです。ダビデのように、あらゆる偽善と姦淫から脱出すべきです。エリヤのように、あらゆる無気力さと失望、落胆から脱出すべきです。イザヤのように、あらゆるめくらの状態と不純から脱出すべきです。ペテロのように、あらゆる思い、高ぶりと傲慢から脱出すべきです。聖書の報告とは、本当にすばらしいものです。すなわち、サムソン、ダビデ、エリヤ、イザヤ、ペテロは、自分の罪過を認め、主に告白し、主のみもとに立ち帰った後で、全く回復されたということです。

イエス様の苦しみにあずかることなしには、成長も、実を結ぶこともありえません。日々、打ち砕かれることがなければ、我々の自我は主の妨げとなります。次のように祈る者は、祝福されます。私は自らに絶望してます。自ら何もすることができません。どうか私を通して、ご自身の御心をなさしめてください。こう祈れば、主は大いに祝福してくださいます。

終わり

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