2010年1月22日金曜日

聖書とは何か(一)

聖書とは何か(一)
暦年テープ、DVD1、CD18-217
ゴットホルド・ベック

今日から始まる学びの題は、「神のみことばは、神のみことばである」という、まことに意味深い題です。すなわち、聖書は、すべて神の霊感によるものです、と。

まず、聖書の霊感について、学んでみることにしましょう。聖書は今日、もっとも普及した書物であり、また、もっとも近代的な書物です。疑いもなく、聖書に惹かれる動きは、どこの国でも進行しています。現代の悩みと混乱にあって、多くの人々は、しっかりとした支えを求め、聖書を読もうという飢え渇きを持っています。

なぜ、聖書が求められるのでしょうか。この書物の比類なき内容は何なのでしょうか。聖書は、どういう点で、他の書物とは比較にならないほど、すぐれているのでしょうか。聖書には、どのような特別な地位が与えられているのでしょう。私たちは、こういう問いに従事したいと思います。すなわち、その問いとは、全く簡単に表現すれば、次のように言えるでしょう。「聖書とは何か」と。


いったい誰が、私たちの問いに対する答えを与えることがおできになるのでしょう。聖書よりも、高い権威があるものだけが、この問いに対して、有効な解明を私たちに与えることができるでしょう。しかし、それは、いったどこに見出されるのでしょうか。私たちは、すべての国を巡り歩き、すべての時代を探索しても、聖書より高い権威をこの地上で見出すことはできません。聖書よりも高い権威があるものとは何でしょうか。私たちのちっぽけな人間の理解力が、それなのでしょうか。いいえ、決して、決して、そんなことはありません。

人間の理解力というちっぽけなもので、そんなに大きなものを考えるなら、それは、全宇宙を顕微鏡の下に置こうとするのと同じほど、愚かなことでしょう。私たちに残されているただ一つの道は、「聖書とは何か」を知ろうとするならば、聖書そのものに、問わなければならないのです。したがって、私たちは「聖書とは何か」という問いを次のように言い換えることができるはずです。

聖書そのものは何と言っているのか。聖書はどのような要求をするのか。この問いについて、私たちは聖書に語らせたいと思います。しかし、聖書は、どなたにでも語るのでしょうか。はっきりと言えることは、聖書を信じたいと思っている人にははっきりと語ってくれる聖書も、信じたくない人には語ってくれない、ということです。聖書に対して、心を開いている人は聞くことができ、理解することができますが、心を開いていない人には、意味のないものに終わってしまいます。

マタイ
13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」

主イエス様でさえ、聞く備えのある弟子たちに話す場合と、聞く備えのないパリサイ人たちに話す場合とでは、話し方を変えておられました。すなわち、主は弟子たちにお話しになる時には、たいせつなことを直接お話しになったのに、パリサイ人たちに話す時には、たとえ話でお話しになったのです。

新しく生まれ変わっていない人に、聖書の奥義について語ることは、全く空しい努力に終わります。聖書の奥義は、聖霊をとおしてのみ理解することができますので、聖霊を持っていない人は、聖書を理解することができないのです。そのことをパウロは次のように証ししています。

第一コリント
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

したがって、聖書の真理を知りたいと思うならば、次のことが前提条件として、どうしても必要です。

ヨハネ
3:3 人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

それでは、いったい新しく生まれ変わることは、どのようにして可能なのでしょうか。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

こう主イエスは言っておられます。

そのことを切に望む者は、新しく生まれ変わろうと思えば、だれでも、この瞬間に、主イエスを自分の救い主として受け入れることができます。というのは、主イエスのうちにこそ、主の流された血潮による罪の赦しがあるからです。

エペソ
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

主イエスは、切に望む人には誰に対しても、永遠のいのちをお与えくださいます。主のみことばを真剣に受け取る者は、イエス様のみことばに基づいて、新しく生まれ変わっていることを主に感謝することが許されています。

信じる者は持ちます。すなわち、悔い改めた人は、罪の赦しを持ち、主イエスを受け入れた人は、永遠のいのちを持つことができるのです。

信者は、みことばを通して語ってくださる聖霊により、「聖書とは何か」、そして、「聖書はいかなる要求をするか」について、宣べ伝える責任を持っています。どうしても必要なことは、聖書をとおして、主のみことばを聞くことです。キリスト者として、人間の理性の力で聖書を理解し、把握しようとすることは罪であると言っても、言い過ぎではありません。

どんな外科医の名人でも、生きている人のからだを切り刻んで、解剖することはできません。その外科医は、まず、患者さんが死んで、初めて解剖することができるのであって、死体にはいのちがないと言っても、それは当然のことです。ちょうど、外科医が人間を、まず殺してから死体解剖をするのと同じように、人間の理解力で聖書を理解しようとする者は、聖書をまず、いのちのない書物にしてしまい、それから、小さく切り刻んだ一部分を顕微鏡で調べるのと変わりないわけですが、そこにいのちがないというのは、当然のことです。

私たちは、聖書を死んだものにしたいとは思いません。聖書はいのちであり、生きる言葉として、私たちに語りかけてくれるはずです。そうすると、聖書が主体で、私たちが客体、すなわち、聖書が中心で、私たちが対象物になるわけです。私たちが聖書を判断するのではなく、聖書が私たちを判断するのです。

聖書の絶対無比な性質は、霊感ということばで表現されます。それでは、いったい霊感とは、何でしょうか。霊感とは、「神が吹き込む」という意味です。テモテ、第二の手紙に、『聖書はすべて、神の霊感によるものです』と、書いてありますが、ここで神の霊感と言われるものは、「神が吹き込んだ」という意味です。

【参考】第二テモテ
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

ペテロ第二の手紙に次のように書いてあります。

第二ペテロ
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

これら二つのみことばは、次のような三つの事実をふくんでいます。まず第一に、主なる神は聖書の発起人、すなわち、著者そのものです。第二に、神のみことばは、人間に与えられ、吹き込まれました。第三に、彼らは与えられ、受け取ったものをさらに伝えて来ました。すなわち、宣べ伝え、書き伝えました。

霊感としての聖書は、これら三つの事実を特徴として持っています。これら三つの面は、実際は、ひとつの統一的なものを形成しています。すなわち、第一は遣わすこと、第二は受け取ること、第三はさらに伝えることです。あるいは、同じことを次のように言うこともできるでしょう。第一は語られたみことば。第二は受け取られたみことば。第三は書かれたみことばです。

私たちは、この構造を次のように図解することもできるでしょう。Aは、すなわち、差出人。Bは、その受取人。Cは、宣べ伝え、書き伝えられたこと、すなわち、聖書です。

聖書は、旧約聖書と新約聖書の中で次のような要求をしています。すなわち、A=C、つまり、語られたみことばは、書かれたみことばに等しいという要求です。私たちは、こういう聖書の要求を、聖書の完全な霊感と呼びます。部分的ではなく、聖書の全体こそが、主なる神のみことばなのです。神によって語られたみことばは、少しも変わることなく、人間によって書かれたみことばに等しいものとなっています。

ヘブル
1:1 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました。

「神は語られたのです」と。このみことばの中に、霊感の三つの行動が要求されています。すなわち、第一に、神が語られたということ。第二に、預言者を通して語られたということ。第三に、先祖たちに語られたということです。はっきりしていることは、預言者たちを通して、主は語られました。すなわち、すべての預言者たちを通して語られ、しかも、すべての預言の全体によって語られたということです。すなわち、聖書は間違いのない主なる神のみことば、そのものなのです。

それでは、これから霊感のこれら三つの行動について、聖書に語ってもらいましょう。

先ず、主なる神は、みことばの発起人、すなわち、著者です。このことについて、私たちは三つに分けて考えてみたいと思います。すなわち、第一に、神が、父なる神が、語られたこと。第二に、主イエスが語られたこと。第三に、聖霊が語られたことです。なぜならば、主なる神は唯一の神ですが、三つの異なった人格、すなわち、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊を持っているお方であるからです。

『神のみことばは神のみことばである』という命題は、何と当たり前のことでありましょう。しかし、今まで、長い歴史の中で、どれだけ多くの人たちが、この当たり前のこと、すなわち、『神のみことばは神のみことばである』という命題を否定するために、がんばったことでしょう。しかし、結局、神のみことばの否定を、徹底的に証明することはできませんでした。

たとえば、ドイツで始まった聖書批判は、A=Cではない、すなわち、神の語られたみことばと、聖書に書かれたみことばは等しくないということを証明しようとしたのです。しかし、神はみことばの発起人、すなわち、著者です。神が語られた。これこそ、聖書が全く当然のこととして行う要求なのです。『神が語られた』と、聖書が伝えている時、語っている者が本当に神であるかどうかを証明する必要は全然ありません。聖書は、神が語られたことを、そのまま、私たちに伝えています。ですから、神のみことばは、本当に神のみことばであるということを証明してもらいたいということは、何という侮辱でしょうか。

聖書は事実だけを宣べ伝えている書物です。神が語られたと聖書が言っていることは、そのまま事実として該当します。それを、私たち人間が認めようが認めまいが、事実は事実なのです。

神が語られたことは、神の啓示です。それは、上から与えられたものです。人間のことばは、下から来たものであり、神のみことばは、上から来たものです。ひとつのことばが、同時に上からと下から、両方から来ることはあり得ません。神のことばと人間のことばとは、その本質上、全く違った性質のものです。「神が語られたと聖書が言う時、それは、聖書が私たちに伝えるみことばが、その本質上、人間のことばとは全く違っていることを、私たちに証ししています。

神が語られたと聖書は言っていますが、その実例を幾つか聖書の中から見てみましょう。

創世記
1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。

1:6 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。

1:9 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。

1:11 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。

1:14 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。

1:24 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。

1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

1:29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。

何回も何回も、「神が仰せられた」、「神は仰せられた」、「神は仰せられた」、「神が仰せられるとそのようになった」と書いてあります。

創世記
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。」

3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」

4:9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。

6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。」

7:1 主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。」

8:15 そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。」

8:21 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。」

9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」

9:8 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。

11:6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」

12:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。

出エジプト記の中には、同じように、何度も何度も、『主は仰せられた』、とくに、『主はモーセに語られた』という表現が出てきます。ほとんどすべての章が、この言葉で始まっています。

【参考】出エジプト記
3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。

3:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」

3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」

4:2 主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」

4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。」

6:1 それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」

7:1 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。

8:1 主はモーセに仰せられた。「パロのもとに行って言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。

9:1 主はモーセに仰せられた。「パロのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。

レビ記の場合も同じように、『主はモーセに語られた』ということばで、新しい章が始められています。旧約聖書の中で、『主は語られた』という表現にアンダーラインを引いてみると、その数がいかに多いか、驚くほどです。次の箇所をお読みになればわかると思います。

【参考】申命記
1:6 私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。

1:34 主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。

4:12 主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。

5:5 そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。

【参考】イザヤ
1:1 アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。

1:10 聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。
1:11 「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。

1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

1:24 それゆえに、――万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ。――「ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。」

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

8:11 まことに主は強い御手をもって私を捕え、私にこう仰せられた。この民の道に歩まないよう、私を戒めて仰せられた。

13:1 アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。

40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。」

【参考】エレミヤ
7:1 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。

11:1 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。

18:1 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。

21:1 主からエレミヤにあったみことば。ゼデキヤ王は、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言わせた。

26:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。

27:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主からエレミヤに次のようなことばがあった。

30:1 主からエレミヤにあったみことばは、次のとおりである。

これらの個所を読むと、いつも、『主は仰せられた』、『主は語られた』と書かれています。エレミヤ記の中だけでも、五百回以上、この表現が出てきます。

【参考】ミカ
4:4 彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。

【参考】エレミヤ
9:12 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれか。主の御口が語られたことを告げ知らせることのできる者はだれか。どうしてこの国は滅びたのか。どうして荒野のように焼き払われて、通る人もないのか。

13:15 耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。

30:4 主がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。

50:1 主が預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデヤ人の国について語られたみことば。

【参考】第一サムエル
23:2 そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」

【参考】エレミヤ
9:19 シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、いたく恥を見た。私たちが国を見捨て、彼らが私たちの住まいを投げやったからだ。

10:1 イスラエルの家よ。主があなたがたに語られたことばを聞け。

【参考】第一列王記
12:22 すると、神の人シェマヤに次のような神のことばがあった。

17:3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。」

【参考】ルカ
3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。

【参考】エゼキエル
1:3 カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。

3:22 その所で主の御手が私の上にあった。主は私に仰せられた。「さあ、谷間に出て行け。そこでわたしはあなたに語ろう。」

8:1 第六年の第六の月の五日、私が自分の家にすわっていて、ユダの長老たちも私の前にすわっていたとき、神である主の御手が私の上に下った。

2:1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」

4:7 それから、あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。

3:1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」

3:4 その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。

3:16 七日目の終わりになって、私に次のような主のことばがあった。

3:22 その所で主の御手が私の上にあった。主は私に仰せられた。「さあ、谷間に出て行け。そこでわたしはあなたに語ろう。」

45:9 神である主はこう仰せられる。イスラエルの君主たちよ。もうたくさんだ。暴虐と暴行を取り除き、公義と正義とを行なえ。わたしの民を重税で追い立てることをやめよ。――神である主の御告げ。――

45:18 神である主はこう仰せられる。第一の月の第一日に、あなたは傷のない若い雄牛を取り、聖所をきよめなければならない。

【参考】ホセア
1:1 ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。

【参考】アモス
3:1 イスラエルの子らよ。主があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。

【参考】ヨナ
1:1 アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。

3:1 再びヨナに次のような主のことばがあった。

【参考】ゼパニヤ
1:1 ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼパニヤにあった主のことば。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒゼキヤの子である。

【参考】ハガイ
1:1 ダリヨス王の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような主のことばがあった。

【参考】ゼカリヤ
4:1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。

5:5 私と話していた御使いが出て来て、私に言った。「目を上げて、この出て行く物が何かを見よ。」

8:1 次のような万軍の主のことばがあった。

【参考】マラキ
1:1 宣告。マラキを通してイスラエルにあった主のことば。

これらの箇所にも同じ表現が出てくるのです。

このように旧約聖書における預言者の書を見ると、私たちは本当に主が語られたことを認めざるを得ません。そして、預言者が書き記した言葉は、確かに神の御言葉であると言わざるを得ません。例えば、エレミヤ書の中だけでも、『主が語られた』とか、『主からエレミヤにあったみ言葉はこうである』という箇所に、アンダーラインを引くならば、その数もまた、前に言いましたように、驚くほど多いことがわかります。

そして、神が御言葉を書くようにと命令してくださいました。出エジプト記、17章14節、24章4節、34章27節にそう書いてあります。

【参考】出エジプト記
17:14 主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」

24:4 それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。

34:27 主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」

また、サムエル上、10章25節、また、エレミヤ記30章2節、36章の2節に御言葉を書くようにと命令されたことがわかります。

【参考】第1サムエル
10:25 サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた。こうしてサムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。

【参考】エレミヤ
30:2 イスラエルの神、主はこう仰せられる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書きしるせ。

36:2 「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。

旧約聖書の中では、『神が語られた』という表現が象徴的に使われているのに対して、新約聖書では、『主イエスが語られた』という言葉で表現されているのが特徴的です。いたるところで、『イエスが語られた』、『イエスが語られた』という箇所を見出すことができます。

ヘブル
1:1 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

『神は御子によって語られた』とあります。主イエス様の御言葉は、神の御言葉です。それは、ちょうど預言者たちの言葉が、神の御言葉であるのと同じように、確かなことです。主イエスが語られた言葉は、上から、すなわち、父なる神から与えられた御言葉です。それですから、それらの御言葉は霊といのちなのです。

ヨハネ伝に、イエス様は次のように割れたのです。

ヨハネ
6:63 ・・・・わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

主の御言葉によって生かされたものは、永遠のいのちを持っています。そして、そのような永遠のいのちを持ってる人にとっては、主イエス様の御言葉は、単なる教えではなく、力であり、喜びです。

ヨハネ7章46節を見ると分かりますが、当時の人たち、そして、役人たちでさえも、イエス様の御言葉に接した時、『あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません』と言わざるを得ませんでした。

【参考】ヨハネ
7:46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」

そして、今日までイエス様の御言葉を超えるものは何もありません。すなわち、主は神の完全な認識を持っておられ、常に愛に満ちて語られます。主の御言葉は、少しの疑いもない、明確な真理なのです。今日に至るまで、主の御言葉は、時代遅れの古臭いものとはならず、何ひとつ、変えるべきものもなく、削除するべきところも、撤回するところもありません。主のみ言葉の一つ一つが、いのちそのものであり、いのちを作るものであり、心を開いて主のみことばを聞くものは、誰でも計り知れない神の力を経験いたします。

主イエス様が地上で語られたことは、父なる神ご自身が御子を通して語られたことでした。主イエスの声は、神の声にほかなりませんでした。

今まで、私たちは、「神が語られた」ということ、次に、「主イエスが語られた」ということについて、聖書から見て来ましたが、次に、「聖霊が語られた」ということについて、聖書から見てみることにしましょう。

主イエス様は、この地上を去る少し前に、もう一人の慰め主、すなわち、聖霊を紹介して、聖霊について、今や、聖霊がイエス様の代わりに語られるようになるとおっしゃいました。

ヨハネ
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

聖霊は、五旬節の時から、イエス様の代わりに語ってくださるものとなってくださいました。

ヨハネ
15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
15:27 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。

聖霊は、教えてくださるお方であり、思い起こさせてくださる方でもあります。

ヨハネ
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

主イエス様は昇天され、高く引き上げられて、天にもどられてから、これからは聖霊が語り手であるということを、重ねておっしゃってくださいました。

黙示録
2:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

新約聖書の多くの作者たちは、聖霊が自分たちをとおして語っておられるということを、常に意識していました。彼らは、自分たちが考え出したことではなく、上から与えられた神の啓示を宣べ伝えなければなりませんでした。そして、彼らは、旧約聖書に書かれている事柄だけではなく、自分たちを通して、聖霊が語られたみことばも、同じ権威を持っていると要求しました。ペテロは、イエス・キリストの霊が、預言者たちを通して語られたこと、そしてまた、同じ霊が、自分たちを通しても語っておられると、私たちに証ししています。

第一ペテロ
1:10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
1:11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。
1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

パウロもまた、その福音の発生について、それが自分の考えではなく、主なる神によって、上から与えられたものであることを強調しています。

第一コリント
2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。

パウロは、ここで書いたこと、語ったことは、とりもなおさず、神のみことばに他ならないと断言しています。もしも、自分の考えに過ぎないのであれば、パウロの言っていることは、とんでもないことになってしまいますが、本当に神のことばが語られているのであれば、それを明らかにしないことは、たいへん大きな債務になってしまうわけです。

主イエス様の語られたことばが、神のみことばであるのと同じように、聖霊が語られることばも、また、神のみことばなのです。新約聖書のたくさんの手紙の中に、明らかにされている神の啓示は聖霊の証しに他なりません。すなわち、それは、上から与えられた神のことばなのです。

聖書の最後の書である黙示録について、もう一言だけ、もうし上げたいと思います。ヨハネ黙示録、また、上からの要求、したがって、神のみことばであるという要求を知っているのでしょうか。

黙示録
1:1 これは、神がキリストにお与えになったものである。

黙示録の最初に、こう書かれていることから明らかなように、ここに書かれていることもまた、全て神のみことばなのです。このようにして、聖書は最後のところでもまた再び、それらのみことばが、神のみことばに他ならないことを強調しています。

黙示録
22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

22:16 わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。

ひとことで言いますと、聖書は、統一を持った神のみことばです。

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