2010年1月24日日曜日

聖書とは何か(三)

聖書とは何か(三)

ベック兄暦年テープDVD1、CD18-219
ゴットホルド・ベック

学びの題は、『神のみことばは、神のみことばである』という題です。

南太平洋にある島の話ですが、ヤシの木陰で一人の土人が、聖書を読んでいました。そこへ神を信じない西洋人が通りかかり、『イギリス辺りでは、よほど時代遅れの者でなければそんな本は読まないよ』と言いました。すると土人は顔を上げて、ニッと白い歯を見せながら、「しかし、私がこの本を読んでいればこそ、あなたは無事にここにおられるのですよ。私どもは人食い人種でしたが、キリストを信じてから、以前の悪習慣を捨てて、全く生まれ変わった人間となりました。もし、私どもが聖書の教えを知らなかったら、あなたは私の腹の中にいることでしょう。」この西洋人はブルッと身震いしたまま、二の句も告げず、そのまま足早に立ち去って行きました。

聖書は、神が語られたことを、そのまま私たちに伝えています。すなわち、主なる神は語られました。神の御子、主イエス様が来られ、そして、語られました。それから聖霊が遣わされ、証しをし、そして、宣べ伝えました。神ご自身が聖書に記されている黙示を書いた方なのです。


神のみことばの一体性について、もう少し考えてみたいと思います。主なる神ご自身が聖書の著者ですから、聖書は、完全に統一を持った一体的な福音そのものです。千六百年の間かかって、いろいろな人たちによって書かれた聖書の六十六巻は、モザイクの一つ一つの石のように、しっかり結びついて、全体を構成しており、一体的な全体として神の啓示そのものです。

ちょうどみことばが、ひとつの大きな建物を構成する礎石のように一つであるのと同じように、聖書の一巻一巻は、神の完全な啓示を私たちに伝えるためになくてならないものです。天と地をお造りになった全知全能の神は、何億と言う星から、宇宙をお造りになりました。果たして、いったい誰が、この星はいらないとか、あの星は必要だなどと言うことができるでしょうか。はたして誰が、いったいこの星の形はどうしてこういう形になっていて、他の形にならなかったのかを説明することができるでしょうか。誰もできません。

ヨブ
38:31 あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。
38:32 あなたは十二宮をその時々にしたがって引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。
38:33 あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。

そういうことは私たちにはできませんし、また、私たちには分からないことです。

なぜ、ちょうど六十六巻が聖書を構成していて、それよりも多くもなければ、少なくもないということについて、私たちは説明することが全くできないと言えましょう。ご自分の思いどおりに天と地を造られた最高の神が、私たち人間にも、神の思いをあらわす書物として聖書をお与えになってくださったのです。もしも、私たちが人間的な思いで、六十六巻を一緒にしようとするならば、六十六のちがった考え方が出てきて一巻、一巻に対して、それを書いた人の神概念が出て来ることになり、それらを一つにまとめることは、とうていできそうにありません。なぜならば、二冊の本でさえも一つの考えで統一することは困難だからです。

聖書は一冊の本です。これこそ神の奇跡です。聖書のどの頁を開いても、その一つ一つは、同じ神の啓示が明らかにされています。神ご自身が聖書全体の著者であるならば、それは当然と言えましょう。主なる神は語ってくださいました。聖書の各巻、また、各部分は、御子イエス・キリストをとおして、ご自身を啓示してくださった生ける神を正しく知るために、どうしても必要な貢献をしてくれています。聖書は、最初の一頁から最後の一頁にいたるまで、イエス・キリストを明らかにしておられます。

聖書は御子、イエス・キリストのために書かれました。そして、すべてのことは、イエス・キリストによって成就されました。イエス・キリストは、神の啓示の内容、そのものですから、聖書全体の中心点となっています。イエス・キリストは、聖書のいちばん最初、すなわち、創世記において、既に救い主として預言されており、そのあとに続く多くの預言書をとおして、はっきりと預言されています。そして、イエス様が実際に地上に来られた時、初めて神は、ご自身を私たちの目にも見えるような形で表してくださいました。「私たちは主の栄光を見た」と、弟子たちは証ししています。

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

これこそが、弟子たちの経験だったのです。しかし、弟子たちがまだ、耐える力がなかったため、イエス様は、この地上で、弟子たちにすべてのことを解き明かすことができませんでした。

ヨハネ
16:12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。

しかし、主がお遣わしになってくださった聖霊が、このことをしてくださり、弟子たちが、また、見たり聞いたりしたことだけでなく、理解していなかったことを、さらに一層、明らかにしてくださいました。すなわち、聖霊の働きを通して、私たちは、使徒たちの書かれた手紙を通して、主イエス様の偉大さを知ることができます。旧約聖書は、イエス・キリストの目に見える啓示の準備でしたが、新約聖書は、イエス・キリストについて、以前に語られたすべての事柄を表して、成就されたものとなっています。

私たちは、旧約聖書に書かれている事柄を通して、主イエスが、どのような方であられるかを、正確に描写することができます。なぜなら、約束された救い主については、三百三十三回も預言されており、そのことによって、明確な姿が描き出されており、それが、具体的現実となったものが、地上における主イエス様だったのです。

今まで見て来た聖書こそ、神のみことばであることは、このようにして、はっきりいたしました。そこで、これから、少しばかり、神の言わんとしていることが何であるかを、御言葉から見てみることにしましょう。聖書の内容は、いったい何なのでありましょうか?このことについて、これから、ご一緒に、見てまいりたいと思います。

堕落した人間の望みは、蛇のかしらを打ち砕く人でした。創世記に、この解放者、救い主について、次のように預言されています。

創世記
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

その方は、聖書によると、アブラハムの子孫であり、ユダ族から出る者と預言されています。

創世記
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

日本語の表現では、必ずしも、明確ではないかも知れませんが、神に与えられている名前は、六百以上にものぼります。ところが、注意すべきことは、『贖い主』とか、『救い主』という名称が数多く出てくることです。この『贖い主』は聖書の第一頁から行動しておられる方、臨在しておられる方です。黙示録1章8節に、『神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方』と書いてありますが、この方は、永遠から永遠に至るまで、救い主であられ、贖い主であられます。「世の罪を取り除く神の子羊」として、召し出された救い主は、出エジプト記十二章に描かれている「過越の子羊」という形をとおして、すばらしくはっきりと描き出され、生き生きと描写されています。債務を負うために流される血潮の力は、レビ記をとおして、極めて明確にされています。殺された罪なき子羊の血を携えて、至聖所に入って行った大祭司は、ご自身の流された血潮によって、全人類の罪を赦してくださった、まことの大祭司である御子イエス・キリストを象徴する役割を果たしています。

ヘブル
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

イエス・キリストの偉大さは、旧約時代における幕屋とか、礼拝とか、捧げる生けにえとかをとおして、明らかにされています。聖書の中心は、ほふられた小羊であるイエス・キリストなのです。

旧約時代の預言の中心なるものは、『イスラエルのまことの王とはいかなるものなのか』ということです。その王は,先ずダビデの子孫であると書き記されています。

第二サムエル
7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

そして、この方は、ダビデの故郷であるベツレヘムに生まれると、預言されています。

ミカ
5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。

その王は、ソロモンより偉大で、平和の君と呼ばれるお方です。

イザヤ
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

しかし、その王は、多くの場合、主のみこころに反することを行ったユダの王やイスラエルの王たちとは、違ったものであると預言されたのであります。イザヤは、その王が処女から生まれることを預言したのです。

イザヤ
7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

平和の王として支配するお方であり、すべての諸国民が仕えるようになると、預言したのです。しかし、イザヤはまた、その王を、神のしもべとして、ほふり場に引かれて行く小羊のように、世の罪を荷なうお方であるとも、おもに、イザヤ書五十三章を通して、預言したのであります。

預言書や詩篇においては、イエス・キリストの姿は、偉大なる王として描かれている反面、ご自分を空しくして、打たれ、欺かれる羊飼い、また、迫害された者、死に追いやられた者、罪なき者として、ご自身のいのちを捧げてくださった方として描かれ、そして、最後に、世界史を完成するために、世界の裁き主、また、イスラエルの王として現れてくるというふうに描かれています。来たるべき方、イエス・キリストは、旧約聖書の中では、明けの明星のようにのぼって来るお方として表現されています。それに対して、新約聖書においては、主イエスは、真昼に輝く太陽のように現われたのです。そして、しばらくのあいだ、その輝きを隠し、すなわち、昇天されたのですから、今、私たちは主の輝きと栄光を見ることはできません。しかし、新約聖書の希望は、天の栄光のうちに再び来られるお方に対して、私たちの目を開けてくださいます。

聖書の最後の書は、イエス・キリストの啓示と呼ばれ、ほふられてから神の右の座に着かれ、天と地において測り知れない権力と力とを持った小羊として紹介されています。永遠にわたって、次のような歌が繰り返し、歌われることでしょう。

黙示録
5:12 ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。

今まで、私たちは、父なる神が語られたこと、次に、イエス様が語られたこと、第三に、聖霊が語られたことについて学びました。それから、御言葉の一体性、そして、また、御言葉の内容について、聖書から見てまいりました。次に、みことばの結果について見てみることにしましょう。

ことばは、人格を持っているものを表すものであり、それによって、その方の本質と意志を知ることができます。語り手が偉大であればあるほど、語られたことばの結果も、大きなものとなります。主なる神が語られました。したがって、御言葉は、神ご自身の本質と意志のあらわれであり、語られたみことばの重さは、たいへんなものであるに違いありません。父なる神は、ご自身の中におけるいのち、そのものですと、イエス様は私たちに証ししています。

ヨハネ
5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

主なる神が、いのちそのものなのであれば、神のみことばは、いのちをもたらすに相違ありません。したがって、イエス様のみことばも霊であり、いのちです。

ヨハネ
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

イエス様は、このように言われたのです。そして、イエス様はご自身を信ずる者に、生ける神の御霊を与えてくださいました。そして、聖霊について、次のように証しています。「いのちを与えるのは御霊です」と、今、読みました六十三節に書かれています。

したがって、私たちは聖書の中に、ものすごい力と作用を持った御言葉を見出すことができます。そしてこの書物の比類なき意義は、他のあらゆる人間のことばには絶対にできないこと、すなわち、いのちをもたらすことがおできになるということの中にあります。人間のことばは、いのちを説明できますが、神のことばは、いのちを与えることがおできになります。造られたものはすべて、神のみことばによって成立しました。

ヘブル
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

したがって、すべての被造物、また、神によって造られた人間は、神のみことばのいのちの力を証明するものです。しかし、私たちが見ている被造物や、私たちの体は、過ぎ行くものであり、罪の支払う報酬、すなわち、死を味わわなければなりません。

神のみことばによって、再び、新天新地が現れ、その時、死ぬものが不死を着るのです。

第一コリント
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

しかし、罪と死に特徴づけられた今の時代に、神のみことばのいのちの力は、どのようにして、あらわれてくるのでしょうか。エペソ書二章一節によると、すべての人間は罪と罪過の中に、生けるまことの神に対して死んでいる者です。しかし、神のみことばによって、この死んでいた者が生かされるようになり、新しいいのちを持つようになります。みことばの力について、ヘブル書に次のように書いてあります。

ヘブル
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

神のみことばは、人間の罪の状態を明らかにします。みことばは真理ですから、剣のように、人間の心を刺し通します。私たちは、みことばを通して、燃えるような神の目に出会い、主なる神が語られると、私たちは沈黙しなければなりませんし、また、サマリヤの女のように、次のように言わざるを得ません。

ヨハネ
4:39 あの方は、私がしたこと全部を私に言った。

これこそ、罪と罪人に対するみことばの結果であり、このみことばのゆえに、みことばを受け入れなかったすべての人の上に、神のさばきがくだされるのです。みことばによって生かされたいと思わない人々にとって、みことばは永遠の死へと導くみことばとなります。ヨハネ伝十二章に、イエス様は次のように言われました。

ヨハネ
12:48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

しかし、みことばを受け入れ、イエス・キリストのうちに救いがあると信じる者は、このみことばによって、新しく生まれかわり、永遠のいのちを持つようになります。

第一ペテロ
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

あなたがたが新しく生まれたのは、神のことばによると、書いてあります。みことばのいのちの結果は、イエス・キリストによって新たにされることであり、そして、また、新たなる歩みでもあります。

エペソ
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

新しく生まれ変わった人間は、みことばの霊感に対する、目に見える証明なのです。

第一ヨハネ
5:10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

ある会社の社長が、秘書に、一通の手紙を書き取らせています。彼が語ることを、秘書が全部、書き取り、それをタイプすると、社長がそれに署名をしました。この場合、この手紙を書いたのは、いったい誰でしょうか。あまり深く考えない人は、『秘書』と言うかも知れませんが、しかし、秘書は社長が書こうと思ったことを書いたに過ぎないのですから、やはり、これは社長の手紙です。

第二ペテロ
1:21 預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

預言とは聖書のすべてのことばです。聖書は神からのことばを受けた四十人ほどの人々によって書かれましたが、それらの人たちは、聖霊の力により、聖書の完成まで、完全に導かれました。ですから、聖霊の働きのもとにあって、人々が書いた聖書は、彼らの著作ではなく、神の著書です。聖書記者たちを導いた聖霊は、その聖書を読む人々も導かれます。ですから、聖書は、心して読む人に、真理を教え、その罪をあらためて、悔い改めに導き、救いを与えることができるのです。

今まで、私たちは、まず神ご自身がみことばの発起人、すなわち、著者であることを見てまいりました。そこで、これから、神のみことばは、人間に与えられ、吹き込まれたということを見ることにしましょう。主なる神が差出人であり、人間が受取人であるわけです。今までは、神が語られたみことばについて見て来ましたが、これからは、人間によって受け取られたみことばについて、学んでみることにしましょう。

主なる神は、ご自分との交わりを持つことができるようにと、私たち人間を造ってくださいました。しかし、交わろうとすれば、ことばなしには不可能です。というのは、ことばの中にこそ、本質が現われるからです。それですから、主なる神は、人間に語ってくださるのです。主なる神は、いろいろな方法で語ってくださいました。主なる神は、預言者のかたくなさを砕くために、ろばを通して、語られたこともありました。

民数記
22:28 すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」

第二ペテロ
2:16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。

また、神は、壁にみことばをお書きになられたこともありました。

ダニエル
5:5 すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、
5:6 王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。

5:24 それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。

今から、次の三つの事柄を見てみたいと思います。すなわち、まず第一に、みことばを宣べ伝える者としての預言者たち、第二に、みことばを宣べ伝えるお方としての主イエス、そして、第三に、みことばを宣べ伝える者としての使徒たち。この三つに分けて、考えてみたいと思います。

先ほど、例として挙げましたように、主なる神は、人間以外の動物を通して、私たちに語ってくださることもありますが、普通は、人間を通して語られます。主なる神は、用いようとする人々をお選びになります。神によって選ばれた人たち、すなわち、預言者たちに対して、主なる神は直接、語ってくださり、したがって、預言者たちは、神の声を聞き、みことばを受け取るわけです。すなわち、預言者たちは、神のみことばを宣べ伝える者となるのです。このようにして、特別に神によって召し出された人たちのことを、聖書は『預言者』、すなわち、宣べ伝える者と呼んでいます。

したがって、預言者とは、言わば神の通りよき管のようなものです。すなわち、預言者は、みことばを直接、主なる神から受け取り、それを、さらに人間に伝えるわけです。つまり、預言者の特別の使命は、主なる神から受け取ったみことばを、私たちに伝えることに他なりません。このように、聞いたことをそのままの形で伝えることを、聖書は、霊感と読んでいます。

ひとつの実例を挙げますと、それに、やや近いかたちを旧約聖書の中に見ることができます。たとえば、モーセがアロンの口を通して語った時、アロンは言わば、モーセのことばの預言者、すなわち、宣べ伝える者になったわけです。宣べ伝えられたものは、モーセのことばですが、それをアロンは宣べ伝えたわけです。

出エジプト記
4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

7:1 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。
7:2 あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。

それと同じように、主なる神は、その口を通して、神が語りたいと思う人たちを選び出し、直接、その人たちに語られます。このようにして、主なる神は、モーセとともに、顔と顔とを合わせて、人が友と語るように語られました。

出エジプト記
33:11 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。

しばしば、主なる神は、みことばを、ただ単に聞かせるだけでなく、見させることもなさいます。神は、人間のことばで表現することのできない事柄を、預言者たちに見させるのです。したがって、預言者たちは、主なる神の啓示を聞く者でもあり、見る者でもあるのです。

第二サムエル
9:9 今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。

預言者の一人は、神のみことばを受け取ったときの様子を、私たちに正確に書き記しています。

民数記
24:3 彼は彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。
24:4 神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。

預言者は、神の啓示を直接、見たり聞いたりします。主なる神は、行動するお方であり、みことばを与えてくださるお方です。これに対して、預言者は単に、受身的に参加し、見たり聞いたりするのです。神のみことばは、いわば、預言者たちを襲ったのです。決して、預言者たちが、自分勝手に作り上げたものではありません。そのことによって、本当の預言者と偽りの預言者とが区別されます。ほんとうの預言者は、神のみことばを受け取る時に、全く受身的に預かります。ところが、偽りの預言者は、神の啓示を自分の意思で作り替えてしまおうとします。偽りの預言者は、心に偽りのことばを抱きます。

イザヤ
59:13 私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。

主なる神のもっとも嫌われることは、神から直接に受け取ったみことばをではなく、自分勝手なことばを、神のことばとして、言いふらす偽りの預言者のことばです。

エレミヤ
14:14 主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。」

主なる神は、偽りの預言者のことばを、わらに過ぎないとおっしゃり、まことの預言者のことばを、麦と呼んでいます。

エレミヤ
23:28 夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ。――
23:29 わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ。――

私たちが、神のみことばを判断する時、ほんとうの預言者と、偽預言者とのあいだの明確な区別をするよう注意しましょう。

神のことばは、人間のことばとして説明するならば、それは大変な債務となります。神のみことばの霊感は、ただ単に人間の意志とは無関係であるのみならず、人間の理解力とも関係がありません。霊感と啓蒙とは、全く異なったものであり、聖霊の働きの結果という点でも、両者は全く異なったものです。

神が語る時に、用いられた人間たちは、神のみことばを、ごく一部分しか理解できないことが、しばしばありました。みことばは、多くの場合、人間の理解力をはるかに越えていたのです。したがって、みことばを、極めて小さな基準でしか、理解できなかったのです。啓蒙と霊感は、本質的に違ったものです。すべての信ずる者は、ある程度、啓蒙されています。しかしながら、極めて少ない信者だけが、霊感を受けた神のみことばを宣べ伝えるように召し出されました。啓蒙は段階的であり、したがって、信者の認識には成長があります。しかし、霊感は、段階的ではなく、常に全体的です。ことばは、神のことばであるか、ないかのどちらかです。その中間はありません。啓蒙は持続的で、霊感はある時だけ与えられるものです。

主のことばが私に臨んだと、預言者たちは言いました。そうして、彼らの語ったことばを、『直接、上から聞いたことば』と言います。すべての預言者たちは、自分がまことの預言者であるということに、大きな価値を置いています。そのために、多くの預言者たちは、自分たちの召された歴史を、くわしく私たちに語り、他の預言者たちは、彼らが宣べ伝えていることばを、直接、主から受け取ったことを、はっきりと私たちに証しています。

最後に、イザヤは自分の召しについて、次のように述べていることを読んで、終わりたいと思います。

イザヤ
6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

私は主を見た。私は災いなるかなと言った。私は主の声を聞いた。すなわち、イザヤは、主を見、そして、聞きました。イザヤは、大いなる任命に直面し、いかに無価値な者かと思い、主の前に、汚れた者として立ちました。しかし、彼は聖められ、彼の唇は、火の炭でさわられ、聖められました。このことを通して、彼は、主に用いられる器となったのです。

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