2010年9月18日土曜日

洗礼の証し(2010年)

洗礼の証し(2010年)
2010年9月18日、御代田
ゴットホルド・ベック

マタイ
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

ときどき、「どうして、洗礼を受けるの?」、あるいは、「どうして洗礼を受けたの?」と、きかれます。聖書の答えは、救われるためではない。けれど、用いられるために必要なのではないかと。


洗礼とは、個人的な体験の証しです。すなわち、洗礼を受けるR兄弟、T姉妹は言えます――人生そのものは、おもしろくない。成功したとしても、やっぱり心は満たされない。今、お二人は、『われわれにとって、イエス様とは尊いお方です。比類なきお方です。』イエス様の十字架、イエス様の墓、イエス様のよみがえりは、結局、全人類の十字架と墓とよみがえりでした。そして、私たちはこの永遠に変わることのできない歴史的事実を、信仰によって、イエス様に信頼することによって、初めて自分のものとすることができます。したがって、洗礼は、次の三つのことを含んでいると思います。

第一番目。いわゆる水の洗礼は、二千年前にイエス様と共に死に、葬られ、よみがえされられたという歴史的事実であるまことの信仰を、イエス様に信頼することによって、自分のものとしたということを証しします。洗礼を受ける一人一人は、『イエス様は、自分のようなものを受け入れてくださった。自分の過ち、わがまま、罪は許されている。自分は、生きるまことの神の子供となった。今から、イエス様をよりよく知りたい。全部、イエス様にゆだねたい。イエス様に従って生きたい。』こういう心構えの現われであります。ひとつの証しです。告白です。

二番目。洗礼とは、この世からの分離を意味します。いわゆる信心深い世から、また、命よりも形式を大切にする世からの分離を意味します。その外面的な分離は、ガラテヤ書、六章十四節に書いてあります。『しかし、この十字架に付けられて、この世は私に対して死に、私もこの世に対して死んでしまったのである。』

ガラテヤ
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

自分は、この世にもう関心がない、興味がない、といった状態にあるはずです。そして、内面的分離は、ガラテヤ書、二章二十に書いてあります。信ずるものにとって一番大切な節でしょう。『私はキリストと共に十字架に付けられた。生きてるのはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

洗礼を受けるお二人は、イエス様の十字架と、イエス様の墓によって、古き人は終わりを告げ、妬みやおのれを高しとする自尊心も終わりを告げたということを知っているお二人です。また、洗礼を受けるお二人は、イエス様のよみがえりにより、共によみがえらされて、新しい人に作り変えられたということを認めているお二人です。ローマ書、六章四節に、「それはキリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、私たちもまた新しい命に生きるためである」とあります。

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

最後にもうひとつ、三番目ですけど、洗礼は、教会内、集会内の証しを意味します。すなわち、他の兄弟姉妹に属するものとなり、他の兄弟姉妹とひとつ家族のものとなり、ひとつ身体の、ひとつの肢体となったことを証しするのです。

コリント第一の手紙、十二章十三節を見ると、次のように書かれています。「一つの御霊によって、ひとつの身体となるように、バプテスマを受け、そしてみな一つの御霊を飲んだからである」とあります。

第一コリント
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

その経験は、肢体が頭に関係することを示しています。すなわち、イエス様の救いを受けたとき、その人はイエス様の子となったわけで、そのとき、聖霊によって、キリストの身体になったわけで、そのとき、聖霊によって、キリストに預かる洗礼を受けたと。その人が、この事実を認めると認めないとに関わらず、それは行われています。

イエス様を信じたとき、イエス様の肢体となりましたと、聖書ははっきりと言っています。第一コリント、一章二十七節、「あなたがたはキリストの身体であり、一人一人はその肢体である」。もう一箇所、コリント第二の手紙、五章十五節、「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」。

第一コリント
1:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

第二コリント
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ほんとうに、私たち一人一人が、自分のために死んで、また、よみがえられたイエス様のために生きるすばらしさをよりよく知ることができれば、ほんとうにありがたいと思います。

私は、ときどき人と会いますと、これは、有名なRです、有名なTです・・・・云々と言うと、だいたいの人々はみんなびっくりする。有名か?天国で有名な者になった。どうして?悔い改めたからです。悔い改めると、天国で知られるようになりますし、そして、その主の恵みによって救われた人々が、洗礼を受けることによって、もっと天国で有名になる。もちろん二人はりっぱじゃないよ。けれど、二人はりっぱなイエス様に頼るようになったから、イエス様はすごい。イエス様は何でもできる。だから、天国で今晩も大いなる喜びであるに違いない。

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