2010年2月6日土曜日

キリスト者の使命(三)悪の霊に対する戦い

キリスト者の使命(三)悪の霊に対する戦い
暦年テープ、DVD1-CD19[新番号253]
ゴットホルド・ベック

民数記
8:14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。

8:16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。

8:24 これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。

今日はもう一回、今まで学んできたテーマ、すなわち、『キリスト者の使命』というテーマについて一緒に考えてみたいと思います。

主の目的は、今まで学びましたように、一人でも多くの人々が、真の救いにあずかることです。永遠のいのちを持つことができ、毎日、安心して生活することができ、生き生きとした希望をもって、死に向かうことができる。そして、死後、もちろん、永遠に喜びの泉である神と、一緒に過ごすこと、これこそが、主の目指すところであります。


けども、それだけでなく、救われた人々をとおして、主は今、自分のご臨在、ご栄光をあらわそうと切に望んでおられるのです。すなわち、イエス様を信じ、イエス様を受け入れた人々を通して、主は働こうと望んでおられます。

内に住んでおられるイエス様こそ、生まれ変わった証拠です。すなわち、まわりの人々は、我々のうちに、イエス様が住んでおられることに気づくはずです。そのように、身をもってイエス様を証して初めて、主の証し人と言えると思います。そして、前に読まれました箇所を見ると、会見の幕屋で、働き、いわゆる契約の箱を担う務めをしたレビ人たちこそが、主の証し人だったのです。

彼らは、全く主にささげられていたことが、前に読みました箇所をとおして知ることができます。ひとつ残らず、すべてを主にお捧げしたのが、当時のレビ人たちだったのです。すべてを主にささげ尽くしたこのレビ人こそ、主の栄光をあらわすことのできる模範の人々でした。レビ人には、三つの特徴があります。第一番目は、神に対する礼拝です。第二番目は、人に仕える奉仕です。今まで、この二つの点について学びました。第三番目は、「悪の霊に対する戦い」です。

レビ人は、この三つの特徴を持っていました。この三つのことは、そのまま我々の日々の生活に、主が求めておられることなおです。

「礼拝」とは何でしょうか。父、ならびに、御子イエス様の偉大さを認め、いかに尊いお方であるかを、心から言い表すのが礼拝です。もっともっと、心の目が開かれ、主がどんなに素晴らしく偉大なお方であるか、見させていただきたいものです。主の偉大さに、心の目が開かれることは、礼拝にとって、ほんとうに必要なことです。主の偉大さがわかればわかるほど、まことの礼拝ができ、礼拝すればするほど、主の偉大さが見えてきます。

我々の生活の真ん中に、主に対するまことの礼拝がなされているのでありましょうか。

私たちは、なるほど、主の恵みによって救われた者です。けども、この世に生活している者として、礼拝する者として、毎日毎日、過ごしているのでありましょうか。主なる神はあまねく全地を見まわし、心を全うして礼拝する人々を、切に望んでおられるのです。結局、神に対するまことの礼拝は、我々の生活の第一の場所を占め、礼拝が我々の全生活を支配していなければなりません。あなたはただ、救われるために救われたのではなく、あなたによって、主なる神が礼拝の中心になるように――これこそがあなたの生活の使命なのです。

礼拝は、主なる神が、あなたにあってすべてとなられることです。

主が我々の心の内に、どれほどの余地を持っているかが問題です。主が、我々のために、いかほどの価値があるでしょうか。主が、私たちにとって、真に尊い方であれば、余りに良いというものは一つもありません。余りに高いというものも一つもありません。私たちのあらゆるものは、それがもっとも深く、もっともすばらしくあっても、主に対してささげます。主は、かつてペテロにあなたは、「わたしを愛するか」と、訊ねたのでありますが、もちろん、主は、今日も同じように私を愛するかときいておられます。

前に、私たちは、新約聖書に出て来るベタニヤについて考えたんですけれども、ご存知のように、ベタニヤではおのおのちがった特徴を持った三人の兄弟姉妹、すなわち、マリヤ、マルタ、ラザロが住んでいたところでした。そして、イエス様は、いつも好んでこのベタニヤに来られて、三人の兄弟姉妹をお訪ねになったのです。そこでお休みになり、また、食事を取ったりされました。いつも、楽しみにして、ベタニヤをた訪れたイエス様だったのです。

イエス様は一体、どうしてそんなにベタニヤを愛されたのでありましょうか。第一の理由は、今、話したことです。ベタニヤでイエス様は、本当の意味で礼拝されたのです。

イエス様は、本当の意味で愛されたのです。おもにマリヤの特徴は、まことの礼拝ではなかったでしょうか。彼女は生涯、イエス様を愛し抜きました。非常に価の高いナルドの匂い油をイエス様に降り注ぐことによって、実に高い、また、聖い主に対する愛を示したのです。ベタニヤは、したがって、主に対する愛が満ちあふれていたところです。福音書を見ると、ナルドの匂い油の匂いが家全体に満ちたと、書き記されていますが、それと同じように、愛の雰囲気が、三人兄姉の家を包んでいました。彼らは、本当の意味での礼拝者だったのです。そして、主は満足して下さったのです。

主に対するこのようなマリヤの愛は、主が何にも増して、求めておられるところのものです。イエス様は、私たちが心からすべてを捧げ、主を愛しているかどうかを見ておられます。

そして、レビ人の第二番目の特徴は、前に言いましたように、まことの奉仕でした。あるいは、仕えることでした。我々のご奉仕は、瞬間、瞬間、主を見上げ、主により頼み、すがっていくご奉仕でなければならない。レビ人は、驚くほどたくさんの奉仕をなしたのでありますが、このレビ人たちは、そのご奉仕において、自分の力、自分の能力により頼まないで、ただ主の力により頼んだのです。我々のご奉仕も、信仰のあらわれでなければなりません。もしそうするなら、どんな小さなことも、まことのご奉仕となります。

パウロは次のように書き記したことがあります。『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。飲むにも食べるにもまた何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。すべてをとおして、神のご臨在が、神の栄光が、明らかになるように』と。それが何であれ、信仰をもって御栄えのためにやるなら、まことのご奉仕である・・・・ということです。

キリスト者の使命について考えると、このあいだ、使徒行伝から一ヵ所、読みましたが、イエス様は次のように言われたのです。

使徒行伝
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

キリスト者の使命は、全世界に福音が宣べ伝えられることです。もし、私たちが大胆な証し人とならなかったら、管が詰まっているのです。へりくだりましょう。管が通り良くなるために。

ちょっと、ベタニヤに帰りましょう。

ベタニヤには、生涯をとおして愛し抜いたマリヤだけではなく、主に本当に忠実に仕えたマルタもいたのであります。ですから、我々はこの主に対する愛に満ちた家の中で、同時に、主に対してなされた忠実な奉仕を見ることができます。このマルタはイエス様のために――自分のためではないんです――他の人々のためよりも、主のために食事を準備したのです。

我々も、マルタと同じように、主に対して奉仕する者なのでありましょうか。あるいは、他人を見てあれこれをやるんでありましょうか。献身をし、できるだけ多くの奉仕をすることが、問題ではありません。私たちがイエス様に対して、奉仕しているかが問題です。マルタがイエス様のために食事を用意した時、何を考えたのでありましょうか。これを作ったら、主はお喜びになるのでしょうか。こうやったら、主は満足するのでありましょうか。イエス様を喜ばせたいという気持ちでいっぱいだったと思います。これこそが大切なんです。

私たちが主の御前に出る時に、主は、私たちの奉仕を心から喜び満足しておられるのでありましょうか。そうなったら私たちは初めて、主の喜ばれたベタニヤとなることができる――主の憩いの場所となることができるのです。

私たちはこの二人の姉妹を見ると、イエス様に対する真の愛と、イエス様に対する真の奉仕という、主の御心にかなった二つの大切な事柄を見ることができます。けども、この二つのこと、主に対する愛、主に対する奉仕が、決して、最後ではありません。私たちの主イエス様は、もっと大いなることを望んでおられるお方です。

けど、何と言ってもやはり、先ず第一に、この愛と奉仕がなければ、主は、私たちをもっと先へ導くことができません。と言うのは――第三番目になりますけど――私たちは主のよみがえりの力を経験しなければならないということです。イエス様は何を願っておられるでありましょうか。イエス様は今、死の暗闇を通り、その後、主のみことばによってよみがえらせられたラザロと食を共にし、交わりを持ちたく願っておられるのです。

聖書を読み、主のために働いた人々を見ると、また、教会の歴史を見て、主によって用いられた人々を見ると、それらの人たちは、主に対して、二つに分かれていない愛を持ち、また、忠実な奉仕をした結果は、何であったかと言いますと、死のような苦しいところを通され、後によみがえりの力を持っていたことです。

イエス様の救いにあずかり、イエス様をよりよく知ろうと思えば、イエス様に用いられたいと願うようになれば、必ず戦いの中に、閉じ込められるようになるのでありましょう。この戦いに勝つためには、全力を挙げて走らなければならないと、聖書は言っています。なぜならば、この戦いは激しいものであるからです。パウロはキリスト者の生涯を、「競技者」にたとえています。たとえば、一ヵ所、お読み致します。

第一コリント
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

それから、もう一ヵ所、パウロは使徒行伝で、次のように告白しています。良く知られている箇所です。すばらしい告白であります。

使徒行伝
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

こういうふうにパウロは、キリスト者の戦いについて、書き記したのであります。キリスト者の生涯を競技者にたとえているわけです。

これらのことばを読んでみると、信仰の競争を走り抜くには、色々なものを捨てなければならないことが分かるのではないでしょうか。それが、思い煩いである場合もありましょう。憂鬱な気持ち、不信仰、不従順、人間を恐れる恐れであるかも知れません。また、十字架を負うことを拒むことであるかもしれません。

悪魔は、神に用いられ、神の御業のために心を尽くしてご奉仕しようと心がけている者の上に、集中的に攻撃して来ます。主のご臨在を持ち運び、まことのご奉仕にかなう人々は、地獄の憎しみの真ん中に置かれ、悪魔の攻撃の目標に置かれます。もし、悪魔の目的の中心に立たされていないなら、我々の礼拝、また、我々のご奉仕は、根本から誤っていると言わなければなりません。

この戦いは、厳しい現実です。この激しい戦いの中にある時もなお、私たちは、主が成し遂げてくださった完全な勝利に包まれて、雄々しく立っていなければならないのです。

勝利を得るために戦うなら、その人はその時、負けてしまいます。悪魔の力を考え、このように、あのように戦おうと考える時、その時、もう既に、負けてしまっているのです。ゴルゴタの丘の上で、十字架の上で、イエス様が勝ってくださった勝利は完全なる勝利です。勝利のために戦う必要は少しもありません。我々が戦おうとする試み、戦いは、私たちを絶望に陥れるだけです。イエス様は、完全な勝利をお取りになりました。悪魔は打ち負かされた敗北者です。これを堅く信じなければなりません。

不安、色々な思い煩い、まわりを見て、また、行く末を考えて恐れること・・・・これらは、無益なことです。父なる神の右に座したもうイエス様から目をそらす瞬間に、私たちは、証し人の力を無くしてしまいます。普通の人と同じような状態になってしまいます。

イスラエルの民を取り巻く敵たちは、会見の幕屋を見た時、その上にとどまる主の臨在を見ました。主を知らない人々が、我々の真中に来る時、私たちの内に光り輝く主を見るのでありましょうか。あるいは、失望して元気のないみじめな人を見るのでありましょうか。どちらでしょうか。

私たちの戦いは、勝利で始まります。勝利から始まります。イエス様は、完全な勝利者となられましたから、私たちも勝利者となることはできますし、また、そうする必要もあります。どんなに悪魔の力が強く、攻撃が激しくても、私たちは、イエス様が私たちのためになしてくださった勝利のうちに、堅く立っていなければなりません。

けど、私たちは、実際にどうでしょうか。イエス様の勝利の真中に立っているのでありましょうか。聖書では、なるほど、主の勝利を告げています。また、私たちは、過去に勝利を収めたかもしれませんけど、今、今日、勝利の真ん中にいるのでありましょうか。もし、勝利の真ん中に私たちが堅く保っているなら、主の証し人として生きていることになります。今日、新しくイエス様が十字架でなしてくださった完全な勝利に、心からなる感謝をささげたいものです。私たちはもうすでに、あらゆる悪魔の攻撃に対する答えを持っているのです。

私たちもレビ人と同じように、悩みと苦しみと誤解と無理解の荒れ野の真っ只中で、なお、主の臨在を担い、御栄えのために、ひたすら前進するものとなっているでしょうか。臨在の雲は、我々の上にとどまっているのでありましょうか。私たちは、主の喜ばれる者となっているのでありましょうか。私たちの目は主の偉大さに開かれ、私たちは、まことの礼拝する者となっているのでありましょうか。私たちは、全身全霊をあげて、主により頼んでいるのでしょうか。それとも、私たちの奉仕は肉の力でなされているのでありましょうか。あらゆる問題の中にイエス様の勝利がもたらされ、私たちは、それを喜ぶことができているのでありましょうか。

私たちに与えられた使命は、いったい、何なのでしょうか。「主イエス様の顔に輝く神の栄光の知識を明らかにする」ことだとコリント第二の手紙に書き記されています。

第二コリント
4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

「私たちは、この宝を、土の器の中に持っている」と、パウロは言っています。何の宝でしょうか。キリストの顔に輝く神の栄光の知識です。

私たちの使命は、いったい何なのでしょうか。私たちの働きや目的は、何なのでしょうか。キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにすることなのです。これは偉大なる使命です。私たちの場合はいったいどうでしょうか。私たちはイエス様を信ずる者になったのですけど、私たちは、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするのでしょうか。これこそが、我々に与えられている使命です。神の栄光をあらわすのは、よみがえりのいのちです。

明らかになるのは、いつも自分のわがままであるか、主のよみがえりのいのちかのどちらかです。

パウロの生活を見ると彼が、これがよく分かるはずなのです。神のご栄光は、よみがえりの力です。パウロは死に面したこともしばしばあった、また、生きる望みさえも失ってしまった、いつもイエスの死をこの身に負うていると、パウロは告白しています。ここで、私たちはパウロの弱さ、パウロの戦いを見ることができます。けれど、もしパウロの働きの深さ、満たし、結果を見るとびっくりするでしょう。いったい、どうしてでしょうか。パウロはとっても強かったのでしょうか。パウロの利口さのせいでしょうか。いえ、決してそうではありません。パウロの証しはこの今、読みましたところなんですね。

第二コリント
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

土の器に宿っているよみがえりの力が、パウロの生活の秘訣だったのです。あなたは、「土の器」でしょうか。『わたしは弱い者だ。あまり役に立ちません。主は私を用いることができないでしょう』・・・・などと、言うのでありましょうか。パウロは、実に土の器でしたけど、パウロは、この土の器こそ、それが神の計り知れない力の器であるべきだと確信しました。神はこの土の器によってだけ、ご自分の測り知れない力をあらわすことができるのです。

先ほどの二人の姉妹の弟、ラザロをちょっと見てみましょう。ラザロは、イエス様に愛された者だったんです。ラザロについて書かれている、ヨハネ伝、十一章、いちばん初めに、『ひとりの病人があった、それはラザロだった』と、書いてあります。どうして、イエス様は、ラザロが病気になることをお許しになったのでありましょうか。ラザロは、心からイエス様を愛し、また、イエス様は、心からラザロを愛したのです。なぜ、ラザロは病気になったのでありましょうか。

その時のラザロを想像してみましょう。彼は、病の床に倒れました。日を追うに従って、段々、衰弱して来ます。しかし、イエス様は来られません。「もし、イエス様がここにおられたら、そうしたら、何の問題もないのに。」ほんとうに、もしイ、エス様がおられるなら、問題はないでしょうか。もちろん、ラザロにとっては、主がおられれば何の問題もありません。病もすぐに治ったでしょう。けど、それはイエス様のみこころではなかったのです。だから、イエス様はすぐにラザロのもとに来ようとしなかったのです。もちろん、心の中では、三人の兄弟姉妹をあわれみ、泣いたでしょう。イエス様は、一刻も早く、ラザロを助けたかったんですけど、みこころは違うところにありました。ですから、すぐには、ラザロのもとに、お出でにならなかったのです。ラザロが、イエス様のよみがえりの力を経験するには、死を通らなければならなかったんです。

我々の信仰生活におきましても、主は、同じような導き方をされます。恐ろしい自分を愛する愛と、主を愛する愛は、ともにあることはできません。また、自分の名前を人に知ってもらうというような気持ちと、主に対するまことの奉仕は、両立しません。おのれの考えと計画も、これらと一緒に、死にわたされなければ、よみがえりの力を自分のものとすることはできません。

私たちの信仰生活には、いろいろ思いがけないことが起こります。そうすると、「いったいどうしてであろう?なぜだろう?」と、考えます。けど、それも乗り越え、見えないところを信仰によって希望を抱き、前進しますが、その結果は、思いがけない悲劇に終わることもあります。すべてを主にゆだねて進んでも、何の変化も起きて来ないことが、往々にしてあります。信仰によって歩み、絶望し、その絶望の中から小さな光を見つけ、それにとりすがり、何とかして、浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて、全く絶望してしまいます。自分はもう駄目だ。自分の前には死が待っている。墓が待っているだけだとさえ、思うこともあるでしょう。そこにまで、主が私たちを導いてくださる時、そうなって始めて、絶望して始めて、主は私たちをしっかりと握ってくださいます。それはいったいどういうわけでしょうか。それはイエス様が、私たちをとおしてよみがえりの力をあらわしたいからです。それは理論でもなく、説教でもなく、また、特別な教えでもなく、主のみこころなんです。

あなたの生活、また、私の生活は、彼の証し、すなわち、イエス様の証しのためでなければいけません。よみがえりの力の証しでなければいけません。けど、私たちは、『主のみこころは、もちろん、死ではなく、いのちである。しかし、このいのちは死をとおして始めてやって来る』というところに目を留めなければいけません。ヨハネ伝、十二章の二節に、イエス様と一緒に食卓に着いた人々のうちに、ラザロも加えられたと書いてあります。

ヨハネ
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。

ラザロが何かをしゃべったとは書いてありません。ラザロは、別段、説教者ではなかったようです。けども、十二章、九節から十一節には、驚くべきラザロの証しが書かれています。

ヨハネ
12:9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

彼らは、当時の、結局、ユダヤ教から去ってしまったのです。ユダヤ教は、結局、形式的でいのちのないものになったのです。今日、言えることは多くの人々は組織されたいのちのない教会を離れると、やっぱりまわりの人々の、いわゆるクリスチャンからの憎しみを感ずるようになるのではないでしょうか。

結局、祭司長たちはラザロを殺そうと相談したのです。彼をとおして、多くの人々がイエス様に対する飢え渇きを感ずるようになり、イエス様によって満たされるようになったからです。この箇所を見ると、ラザロは口で証しすることをしなかったようです。よみがえらされた生きたいのちで証しました。よみがえりの力で生活するとはいったいどういうことなのでありましょうか。「主よ、あなたが召してくださったご奉仕に力がない。私には何一つできない、この奉仕をするのは、あなたでなければ駄目です。私を導く力を与えて下さい。」こういう、全く自分の無力を認めた生活が、それなんです。すなわち、生まれながらの力、人間の知恵で送る生活ではなく、全く主により頼む生活こそ、よみがえりの力による生活への道です。

多くの人が、ラザロの証しをとおしてイエス様を信ずるようになり、救われたのです。けど、それでは、終わりではありませんでした。ラザロが証したとき、悪魔も、祭司たち、聖書学者たちをとおして、ラザロを殺そうと攻撃していました。すなわち、悪魔にとってよみがえりの力より嫌なものはありません。

私たちは、ラザロと同じように、主と友なる交わりを持ちたく思っているのでありましょうか。主と友なる交わりを得るには苦しみも、攻撃も、戦いも経験しなければいけないでしょう。第一に、死を通らなければなりません。誤解もあり、迫害もあるかも知れません。それとも、私たちは、もっと楽な道を選びたいと思うのでしょうか。

私たちは今、末の世に生きています。イエス様は間もなくお出でになるでしょう。どこへ行っても、そこには暗黒と混乱があります。けど、もし私たちがイエス様のみこころが何であるかを、良く知っているなら、大きな喜びをもって、信仰生活を前に進めることができます。

簡単にまとめてみますと、ベタニヤは、主に対する分かたれざる愛が満ちているところでした。また、主に対するご奉仕、忠実な奉仕がなされたところでした。そして、イエス様のよみがえりの力が表されたところでした。

私たちは深い聖い分裂のない愛をもって、イエス様を愛し、主のみこころにかなうようにと心を用いて、主に奉仕し、暗黒と死と墓を通り過ぎ、よみがえりの力を経験した者として、その力を証しする者となりたいものです。また、レビ人のように、主に礼拝し人に仕え、悪霊と戦う者となりたいものです。そして、主のご臨在をあらわしていきたいものです。

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