2013年12月30日月曜日

あなたのみことばを喜びます(詩篇119篇161~168節より)

あなたのみことばを喜びます(詩篇119篇161~168節より)
2013年12月30日、御代田喜びの集い
ゴットホルド・ベック兄

詩篇
119:161 君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。
119:162 私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。
119:163 私は偽りを憎み、忌みきらい、あなたのみおしえを愛しています。
119:164 あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。
119:165 あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。
119:166 私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行なっています。
119:167 私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。
119:168 私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。

昨夜の兄弟も、よろこぶ大切さについて話してくれました。

絶えず、よろこべという提案というよりも、主の命令は、もちろん、時代遅れではない。確かに、多くの人々から、『たいへんだよ!けど、うれしい。』そういう手紙、あるいは、電話をもらいますとありがたい。たいへんですけど、うれしい。悩みながらも喜ぶことが、この世の中で、いちばん大切な証しなのではないでしょうか?

もちろん、今年を振り返ってみると、『私は今年、いい子だった』とは、誰も言えない。よほど、メクラにされていなければ。それにしても喜ぶことができるのは、奇蹟なのではないでしょうか。この喜びの源とはいったい、何なのでしょうか?

ある人々が初めて集会に来て、兄弟姉妹たちが非常に聖書に精通している様子や、また、みことばによって生かされ、みことばから力をいただいている様子を見ると、ショックを受けます。いったい、どうしてなのでしょうか?

それまでみことばなしでもやってきたし、また、やってこられると思っていたそのみことばこそが、多くの兄弟姉妹の光り輝く顔の秘訣であることを知りました。

詩篇の作者であるダビデは、主のことばを自分自身に語らせました。主よ、語ってください。この態度を取ることこそが、最も大切なのではないでしょうか。したがって、聞く耳を持つことです。ダビデは聞く耳を持っていました。

詩篇
119:162 私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

みことばのゆえに喜ぶことができたのです。

エレミヤという預言者も、全く同じ経験を持っていました。人間的に考えれば気の毒な男でした。主によって呼び出され、召されました。こういうふうに述べ伝えなさい。けど、がっかりしないで。聞く耳を持つは多くはない。あなたは誤解されます。憎まれるようになります。けど、わたしの言うようにしなさい。エレミヤはそうしました。

主の言われたとおりになったんです。憎まれただけではなくて、刑務所に入るようになりました。この気の毒な男は、けど、やはりみ言葉によって元気でした。皆、よく知っている箇所です。

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し(・・・・探したから、聞く耳を持っていたから・・・・)、それを食べました。

わかったのではないし、理解したのでもない。暗記したのでもない。食べました。意味は、自分のものにしたのです。結果はすごい!

エレミヤ
15:16 ・・・・あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。

まさにこのことは、いずれにしても、私たち自身の経験ともならなければならないのではないでしょうか。

実際に父なる神が、ご自身の永遠の愛のうちに、私たちに対して、ただ単に、肉の形をとったみことば、すなわち、イエス様をお与えになっただけではなく、書かれたみことばである聖書をも、お与えになっててくださったとは何という恵みでしょうか。この書かれたみことばにおいて、測り知れないほどの冨が明らかにされています。

パウロは、愛弟子であるテモテに、次のように書いたのであります。

第二テモテ
3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

この個所を見ると、はっきり約束されています。すなわち、聖書は、私たちに知恵を与え、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる。また、みことばは、神の人がすべての良い働きのためにふさわしい、十分に整えられた者となるためです。

この詩篇119篇は、詩篇の中で、ご存じのようにいちばん長いところです。ダビデは176の節のどのみことばにおいても、主のみことばにふれています。すなわち、ダビデは神の道について、神の律法、証し、命令、戒め、さばき、神の義、あるいは、神の真理について語っています。

このことから見ましても、この詩篇119篇は、比類なき傑作、主なる神の知恵の作品そのものなのではないでしょうか。ダビデ王が、主の前に、あるいは、主のことばの前に静まったとき、そして、みことばに語らせたとき、次のように喜んで叫ばざるを得なかったのです。

詩篇
119:162 私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

喜ぶ秘訣とは主の言葉です。

主なる神のみことばは、測り知れない宝庫、すなわち、宝の蔵のようなものです。ダビデは、その宝の蔵の中を探し、掘り出しました。そして、宝を見つけると、さらにまた、掘る気持ちを引き起こされました。ダビデは決して、失望させられなかったのです。彼は、探したものを見つけました。彼の飢え渇きは、満たされたのです。ダビデのあふれるばかりの喜びは、私たちにも伝わってくるはずです。

私たちは、心から主を愛しているのでしょうか。イエス様をさらに一層、よりよく知りたいという願いは、我々の切なる願いなのでしょうか。イエス様に対する我々の献身が、本物であるかどうかということが、主のみことばに対する我々の切なる求めによってわかります。

それでは、いくつかの点について考えたいと思います。

第一番目、測り知れない宝庫としての神のみことばについてです。

ダビデは、この詩篇119篇の中で、何度も繰り返して、「聖書は神のことばです」と、言っています。それから、「私はあなたのみことばを喜びます」と告白しています。

詩篇
119:161 君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。
119:162 私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。
119:163 私は偽りを憎み、忌みきらい、あなたのみおしえを愛しています。
119:164 あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。
119:165 あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。
119:166 私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行なっています。
119:167 私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。
119:168 私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。

この161節から168節の間だけでも、ダビデは八回も、神の律法、神のあかし、神の戒め、神のみことばが大切であると言っています。もちろん、ダビデは三千年前に、聖書のほんの一部分だけしか持っていなかったのです。けれども、私たちには、神のみことばを完全な形で持っています。

こんにち、聖書は六十六巻が神の言葉としてとして我々に与えられています。この六十六巻は、四十人の男の人たちによって書かれました。この人たちの背景は、いろいろと違っていました。それはちょうど、その人たちの経験や能力が違うように違っていたのです。そしてまた、彼らは同じ時代に生きていたわけではない。したがって、彼らは何が書かれるべきであるかを相談するために、一緒になることはできなかったのです。彼らは、だいたい千六百年という期間の中で生きていた人々です。けれども、私たちはそれぞれの書かれたもの中に、完全な一致を見い出します。

誰でも認めなければならないことは、これら四十人の男の人々が、文字通り神の御手のうちにある器だったということであり、本当の作者は、生けるまことの神ご自身であるということです。

第二テモテ
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと強制と義の訓練とのために有益です。

ペテロという男は、別に学者ではなかったのです。魚をとる漁師でした。けども、彼は、もちろん、心の目が開かれたから、主のことばについて、次のように言ったのであります。

第二ペテロ
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

非常に大切な箇所です。ですから、聖書はまさしく、神のことばと呼ばれるのです。主なる神が我々に与えてくださったご自分のみことばには、ただ一つの過ちもありません。主なる神のみことばは、完全に信頼できるものです。私たちは、このみことばに完全に拠り頼むことができます。

主のことばに疑問を持つ人もいます。その人たちは、羊飼いのない羊のように、放浪しながら自分勝手にやっています。そして、もっとも恐ろしいことは、羊飼いを持たないことです。神のみことばを正しく認めている人は、ただ単に明確な基準を持っているだけでなく、よい羊飼いを持っています。                                   

神のみ言葉である聖書は、今、話したように、測り知れない宝庫であります。

二番目、大いなる提供としての神のみことばについて考えたいと思います。ここでもう一度、申し上げたいことがあります。それは、聖書の中に、私たちが救われるため、聖められるため、従うため、奉仕するために必要なすべてのものが、我々に提供されているということです。

パウロは、テモテに次のように書いたのであります。

第二テモテ
3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与え、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

神のみことばは、知恵を与え、救いを受けさせる力であること、しかし、また、神のみことばは、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益であるということが我々に語られてます。ダビデはそのことを体験しました。それですから、彼は大いなる獲物として、主のみことばについて語っています。主のみことばは、ダビデにとって、あらゆる富以上のものでした。

このこととの関係で、いくつかの真理を話したいと思います。すなわち、謙遜をもたらす神のことばです。神のみことばが、結局、謙遜をもたらすものであると聖書は言っています。

詩篇
119:161 君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。

ダビデだけではなく、モーセもまた、主のみことばを体験し、その力について、次のように書かれています。

出エジプト記
3:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

預言者イザヤも、また主のみことばを体験し、次のように書かれています。

イザヤ
66:2 わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

主なる神のみことばは、砕かれた霊とまことの謙遜を与えることができます。それですから、私たちは主なる神のみことばをどれほど必要としていることでしょうか。

第二番目の真理は、神のみことばが誠実さをもたらすということです。

詩篇
119:163 私は偽りを憎み、忌みきらい、あなたのみおしえを愛しています。

ダビデはこう告白しました。100パーセント、真実で、正直で、透き通った性質を持ちたいという切なる願いがあるときには、それは何と大いなることでしょうか。ダビデは、詩篇の中で証ししたのであります。

詩篇
34:13 あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。
34:14 悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。

詩篇
101:3 私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。
101:4 曲がった心は私から離れて行きます。私は悪を知ろうともしません。
101:5 陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。高ぶる目と誇る心の者に、私は耐えられません。
101:6 私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。
101:7 欺く者は、私の家の中には住みえず、偽りを語る者は、私の目の前に堅く立つことができません。

こうダビデは告白したのであります。聖書は我々に真実であることの必要性を示しています。そして、主のみことばの中には、主が光の中にいらっしゃると同じように、光の内を歩む力が、我々に提供されています。

第三番目の真理は、主なる神のみことばが、礼拝をもたらすということです。

詩篇
119:164 あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。

七とは完全な数字でありますから、結局、『いつも』という意味です。

ダビデは、自分自身を大切にしないで、主だけを大切にした男です。ですから、彼は感謝でいっぱいでした。主が内住していらっしゃる人たちは、三千年前のダビデより、感謝が少なくてよいものでしょうか。もし、私たちが主のことを深く考えるならば、詩篇の作者と共に言うに違いありません。

詩篇
92:2 朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。
92:3 十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。
92:4 主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。
92:5 主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。
92:6 まぬけ者は知らず、愚か者にはこれがわかりません。

主なる神のみことばを愛し、主に対する愛の証明として、主のみことばを自分の内に受け入れる人の生涯は変えられます。すなわち、嬉しい告白ができています。主の恵みは喜んで、賛美と感謝を授けてくれます。そのとき、人は主を礼拝せざるをえません。

第四の真理は、神のことばが「平和」をもたらすということです。

詩篇
119:165 あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。

私たちは皆、つまずいたり、平安がなくなったりする十分な理由を持っています。主のみことばによって立てられ、勇気付けられない人は、そのために裁かれています。しかし、主のみことばに拠り頼む者は、大いなる平安で満たされます。

私たちは、主のみことばの権威のもとに身をかがめ、すなわち、謙遜にさせられ、主のくびきを自ら担い、主から学ぶことによって、たましいの安らぎを見出します。

肉のかたちを取られたイエス様の呼びかけはすばらしいものです。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば(・・・・結果として・・・・)たましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

イザヤという預言者の体験は、また日々、我々の体験でもあるべきでしょう。

イザヤ
30:15 「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

第五番目の真理は、神のみことばが信頼をもたらすということです。

詩篇
119:168 私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。

詩篇の作者は、このことをまた、別のことばで言い表わしています。すなわち、我々の全生涯は、あなたの御前に広げられています。

詩篇
31:15 私の時は、御手の中にあります。

主なる神のみことばに基づいて信頼できる人、そして、不安も心配も持たない人は、本当に幸いです。

私たちは、手短に、五つの事実を述べて来ました。すなわち、神のみことばは、謙遜、誠実、礼拝、平和、信頼をもたらすということです。すなわち、測り知れない、言い表わせない富が、我々に提供されています。すなわち、心から誇り、高ぶる私たちに、イエス様の謙遜が提供され、徹頭徹尾、不真実な私たちに、まことの主イエス様の真実が約束され、非常にしばしば、自分本位の人間である私たちに、主ご自身を礼拝する可能性が与えられ、そして、非常に忙し過ぎて平安のない私たちに、主ご自身の平和が与えられ、ちょっとしたことでもすぐに諦めてしまう私たちに、幼子のような、主だけを信頼し、すべてを主にゆだねる勇気が与えられます。これは、考えられない恵みなのではないでしょうか。

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