2013年12月10日火曜日

信じる者の幸せ

信じる者の幸せ
2013年12月10日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック


第一ヨハネ

3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

今日の題名は、「信じる者の幸せ」です。理解するものではない。信じる者の幸せです。

信じることとは、幸せなのではないでしょうか。なぜならば、人間だって信じようと思っても、できるものではない。けれども、イエス様のひとつの名前は、信仰の創始者であります。信じられないけど、『信仰をお与えになってください』という態度を取ると、主は必ず与えてくださるのです。本当の幸せを知っている者は、信じる者だけなのではないでしょうか。


イエス様の他の弟子たちは、もう皆、迫害され、殺されてしまったし、ヨハネだけが 残されたのです。どうしてであるかと言いますと結局、手紙を書くため、黙示録を書くために、必要だったからです。彼が何歳の時、この手紙を書いたか、わかりません。けども、当時の兄弟姉妹を励ますために書いたに違いない。ヨハネ、当時の兄弟姉妹を励ますためにこの節を書いたのですけど、もし、私たち一人ひとりも、同じように言うことができれば、幸いなのではないでしょうか。

だから、もう一回読みます。今度は聖書の言っているとおりにではなくて――複数形ではなくて――単数形で読みます。

第一ヨハネ
3:1 【私】が神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま【私】は神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が【私】を知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。【私】は、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、【私】はキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、【私】はキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

ヨハネは、当時の信じる者に書いたのです。すなわち、私たちは解かっています。望んでいるのではない。はっきり、確信しています。この確信こそが、信じる者の幸せです。このところを三つに分けようと思えばできるでしょう。第一番目、私たちは、今、すでに神の子供である。二番目、私たちは、キリストに似た者となり、そして、三番目、私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになる。

現在について、ひとつの事実が述べられています。すなわち、私たちは、今すでに、神の子供です。そして、将来について、二つの事実が述べられています。すなわち、私たちは、キリストに似た者となり、そして、二番目、私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになる。現在について、一つの事実、そして、将来について、二つの事実が述べられています。現在よりも、将来は大切であると、はっきり書き記されています。今、述べた事実について、少しだけご一緒に考えてみたいと思います。

信じる者の幸せの根拠は、第一番目に、私たちは、今すでに神の子供ですと。神の子供となる事こそ、いちばん大切です。唯一の生けるまことの神は、天地万物をお造りになられたお方です。そして、この主なる神は、主イエス様を通して、救いの道を開いてくださいました。

我々、信じる者は、自分の過去を振り返ってみると必ず、次のように言わざるを得ないでしょう。『すなわち、私は主なる神を知らなかったし、もちろん、主なる神を怖れなかったし、また、あがめようとしなかった。真理を信じるよりも、真理に逆らった者でした。けども、主なる神の働きの結果として、次のことを知るようになりました。つまり、私は、主なる神の前に罪がある。私は、神の怒りのもとにいる。私は、主なる神から遠ざかっているのであるから望みのない者です』と。

そして、神なき人生の無意味さ、また、空しさを認識するようになり、また、いかなる尽力も努力も、自分の罪の問題を解決することができないと、認識したのです。そして、上からの光に照らされた者として、破産を宣告し、自分の債務、また、自分の我がままを、イエス様に告白する恵みにあずかるようになりました。

結果として、私たちは、イエス様の流された血によって贖われ、主なる神の子供とされたことを確信するようになったのです。

我々の信仰生活の初めとは何だったでしょう。私たちは、十字架につけられたイエス様を、心の目で見たのです。

聖書は次のように言っています。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」信じるとは、十字架につけられたイエス様を、自分のために死なれたお方として見ることです。十字架につけられた主イエス様は、我々の罪のために、ちょうど避雷針のように、私たちの罪の上にくだるべき聖なる神の怒りを受けてくださり、尊い贖いの代価を支払ってくださり、借用証書を無効にしてくださいました。十字架につけられたイエス様を、心の目で見て、イエス様のなされた救いの御業のために感謝をする者は、永遠のいのちを持つことができます。

イザヤ
45:22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

十字架につけられたイエス様こそ、私たちが仰ぎ見なければならないお方です。仰ぎ見ることとは、すなわち、受け入れることです。だから、ヨハネは、その福音書に書いたのです。『しかし、この方を受け入れた人々、』理解した人々ではない。

ヨハネ
1:12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

信じる者は、私たちは、今すでに、神の子供ですと、喜びをもって告白することができます。生けるまことの唯一の神の子供となることは、最大の喜びです。全能なるお方は、私たちを神の子供としてくださいました。主なる神は、イエス様のゆえに、あなた方の父となってくださった。私たちは、もはや、決して一人ぼっちではない。この偉大なる主が、常に共にいてくださると考えると、大いに喜ぶことができるのではないでしょうか。

沖縄だったと思うのですけど、ある姉妹、トヨサト・ミツコ姉妹だったんですけども、大学の教授でもあったし、けれども、事故で体はめちゃくちゃになってしまったのですけど、結果として、『よかった』と言えるようになったのです。その前にやはり、自分の名誉、自分、自分、自分のことしか考えなかった。けれども、不幸になることによって、幸せになったと言うようになりました。

信じる者は、いったいどうして、主なる神の子供となったのでしょうか。主があわれんでくださったからです。新しく生まれ変わることによって、私たちは、神の子供となったのです。そして、ちょうどこの世に生まれてきたことが、一回限りのことであるのと同じように、新しく造り変えられるということも、一回だけの事柄です。改心の種は、聖書に書かれている神のことばであり、また、神の霊の働きの結果です。しかし、この世に生まれてきたことが、人生の始まりであるのと同じように、改心も、ひとつの始まりを意味しています。

赤ちゃんは、両親にとって、最初は喜びの種でありますけど、生まれてから成長しなければ、大変なことです。かえって、悲しみの種になってしまうのではないでしょうか。改心しても、成長しなければなりません。改心は、新しく造り変えられることの始まりですが、この変化と成長は、全生涯を通じて、絶えず行なわなければならないのです。

初代教会の救われた人々は、確かに喜びをもって、また。確信をもって告白することができたのです。すなわち、私たちは今、現在、もうすでに神の子供ですと。現在、どうして、大いに喜ぶことができるかと言いますと、自分の汚い過去が清算され、自分の過ち、また、我がままは、流された血潮によって、洗い消されたからです。将来について、すなわち、今からの成長について、次のように、書かれています。第二番目の点になりますが、私たちは、キリストに似た者となります。

今まで言いましたように、救われるために、すなわち、神の子供となるために、私たちはイエス様を自分の救い主として、見上げることです。地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。見よ。あなたの罪を取り除かれた約束されている主イエスよ。イエス様は、次のように約束してくださいました。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て(・・・・結局、わたしを見て・・・・)信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

救われた人々について、ここで、私たちはキリストに似た者になりますとあります。どういうふうに、キリストに似た者となるのでしょうか。パウロは、コリント第二の手紙の中で答えました。

第二コリント
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

イエス様と同じ姿に変えられる秘訣は、高く引き上げられたイエス様を見上げることです。イエス様を仰ぎ見ると、知らないうちに、変えられるようになり、勝利が与えられ、大いに祝福されます。人間は、その人が見るものの姿に変えられます。ダビデは、詩篇三十四篇に次のように言ったのです。

詩篇
34:5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

あなたの目が探し求めているものは、あなたの人生を反映するでしょう。あなたの目が向けられているものに、あなたはついて行き、その姿に変えられます。イエス様を見上げない限り、私たちは目に見えるものだけを見ても、決して、満足することはできません。イエス様を仰ぎ見なければ、私たちを導き、支えてくれるものは、何一つありません。悪魔の誘惑の目的は、知らず知らずのうちに、イエス様を見上げることから、自分自身だけを見つめるようにと、私たちをいざなうことです。

イエス様を見上げることをしないで、自分だけを見つめる者は、傲慢や憂鬱に人間を導きます。イエス様を見上げない限り、人間は、本当にみじめな自己中心に陥ってしまいます。私たちは、イエス様の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。

私たちは、いったいどこを見ているのでしょうか。いったい、何に目を留めているのでしょうか。自分自身を見たり、他人を見たりすることは、劣等感や卑屈な気持ちをもたらしたり、反対に、優越感や傲慢な気持ちをもたらしたりするのです。そのような状態にある人々を、イエス様は、用いことも、祝福することもできない。むしろ、悪魔の道具にされてしまいます。

自分自身を見たり、他人を見たり、周囲を見たりしないで、ただ、高く引き上げられたイエス様だけを見上げることが、主と同じ姿に変えられて行く秘訣です。信じる者の幸せの土台は、次の確信です。今、話したように、私たちは、今、すでに神の子供です。私たちは、キリストに似た者となります。そして、私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになると。

何十年前だったか忘れました。病院に行って、山川千秋兄に会ったのですが、状態は決して良くないし、意識不明だったらしいのですけど、祈った後で、涙が出たから、間違いなく聞いたに違いない。その時、奥様である穆子(きよこ)姉は、何回も何回も、「もう少しだよ。イエス様といっしょになるよ。もうすぐイエス様といっしょになるよ」と、ご主人に言ったのです。

もう少しで、私たちもイエス様を、ありのままの姿で見ることができます。これは、考えられないほどすばらしい事実です。私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになると、約束されています。その時、想像もできず、説明することもできませんが、私たちは、主に似た者となります。もちろん、私たちが主の御姿に似た者とされることは、我々の手柄ではない。ただ、主なる神の恵みによるのであることを知るようになり、主を崇拝せざるを得ないでしょう。

私たちが、造り変えられるために、私たちがすることのできることと言えば、ただ、意識的に自分自身から目をそらし、周囲の人々からも目をそらし、イエス様お一人だけを見上げること。そして、主のみことばと主の霊が我々の心に働くことができることを妨げないことです。

私たちはみな、次のように告白すべきではないでしょうか。多くの不十分さ、未熟さ、欠点、不完全さを持った惨めな、あわれな自分の姿を見て、日々、痛いほどにその自分自身の姿を示される時、その自分が主の御姿に似た者とされるなどということは、どんなに考えても考えられないことであり、自分の内には、そのような可能性がひとつもないと言わざるを得ません。

けれども、聖書は、主のご計画と約束として、次のことをはっきり書いてあります。私たちは、主を見つめながら、主と同じ姿に変えられて行きます。私たちは、キリストに似た者となることが解かっています。なぜなら、私たちはその時、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。望んでる、希望しているのではない。わかっている。確信している。この確信の土台とは、もちろん、自分の気持ちとは関係ない。聖書がそう言っているからです。

大切なことは、私たち自身の考えではない。考えられるかどうかでもない。また、主のみことばは、そう語っておられますから、私たちはそれを、安心して信じることが許されています。私たちでさえも、イエス様と全く同じ姿に変えられます。ローマ書、八章の二十八節は、よく読まれる箇所ですけど、その次の二十九節をちょっと引用します。

ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

我々の人生においては、いろいろ、我々の重荷となるもの、我々の力を無力にするものがあります。その結果、私たちはすべてを投げ出して、あきらめてしまいたいと思うような気持ちになることもあるでしょう。けれども、イエス様が我々の内に働くべき、形造られるべきであるという、切なる願いを持って、主の前に立つ者は、引き続き導かれ、いかなる困難をも通り抜け、新しく形造られるようになります。私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになります。

有名な箇所ですが、もう一回、読みます。将来について考えると、いつもこの箇所を思い出すべきなのではないでしょうか。

第一テサロニケ
4:13 眠った人々(・・・・もうすでに死んだ人々・・・・)のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

もう何年も前に召されました方、テラカド・セツコ姉妹です。娘は、マルヤマ・ノブヨ姉妹なんですけど、お母さんは本当に重病になりましたし、手足も使うことができなかったし、良い日と悪い日が、もちろん、ありました。良い日の時、彼女は、指一本だけ、一ミリくらい動かすことができたんです。それで、コンピューターとつながって、彼女は自分の言いたいことを明らかにすることができた。もちろん、見舞いに行くと、いつもやっぱりね、何日前に知らせて、そして、その時、もし指をちょっとだけ動かすことができたら、何か書くようになったのです。見舞いに行った時、彼女は何を書いたかと言いますと、『痛みのかたまりです。だから、いつも祈っています。耳も聞こえないし、食べることもできず、ラッパの音を待つばかり。早く駆け足で迎えに来てください。再臨が近いものと、首を長くして待っております。』すばらしい信仰の告白ですね、博士論文よりも。

パウロは、いわゆるよみがえりの書、コリント第一の手紙、十五章の中で、この再臨のことについて、次のように書いたのであります。

第一コリント
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

ヨハネは、前に話したように、当時の信じる者を励ますために書いたのです。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

「私たちはいつまでも主とともにいることになる」と、毎日、考えるべきなのではないでしょうか。再臨を待ち望む者は、必ずイエス様のために生きたいという目標を持っています。

もう一箇所、読んで終わります。パウロが、コロサイにいる兄弟姉妹に書いたことばです。

コロサイ
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

『私たちのいのちであるキリスト。』これは。当時の信じる者の喜びの根拠でした。ヘブル書の著者は、また、書いたのです。

ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

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