2013年12月7日土曜日

豊かに赦してくださる方

豊かに赦してくださる方
――クリスマスのメッセージ――
2013年12月7日、クリスマス家庭集会
ゴットホルド・ベック

イザヤ
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

『豊かに赦してくださる』お方を知ることこそが、もっとも大切なのではないかと思います。

今日は、クリスマス会らしいけど、日にちは、ちょっと違っている。イエス・キリストは、決して十二月に生まれていない。これは証明されてます。多分、四月ではないかということですが、いつであっても別にどうでもいい。集会の一人の兄弟、ノダ兄弟は、いつも何と言っているかといいますと、『俺にとって、毎日がクリスマスです。』

結局、毎日、『イエス・キリストは、この世に来られただけではなく、代わりに死なれたお方です。このイエス様だけが私を理解できる。私はいくらみじめであっても愛されている』と考えると、やはり、見方が変わる。安心して、知られていない将来に向かうことができるのです。

ですから、今日の集いは、このイエス・キリストを紹介するための集いです。それは、キリスト教という宗教のための宣伝ではない。なぜならば、本物のキリストは無宗教です。イエス・キリストとは、人間によって作られたキリスト教という宗教と、全く関係のない方です。

キリスト教に入って、がっかりして離れた人はいっぱいいます。キリスト教に入らないで、ただ、聖書に紹介されたイエス様に頼って、後で後悔する人間はいません。世界中、どこへ行ってもいない。なぜならば、本物だからです。

本物があれば、偽物もあるでしょう?本物がなければ、誰も偽物を作りません。けど、偽物を知るために、得るためには、ちょっと大変だよ。勉強しなくてはいけない。聖書を分からないとだめなんですって。偽物を得るためには、努力して、完璧にならないとだめなんですって。人間は完璧になれるものではないよ。おかしい。

そして、偽物のために、金までも要求されます。一円でも要求されれば、何があっても断るべきです。それは、商売ではないか!真の神は人間の金を欲しくないし、聖書の知識も別に要求されていないし、立派になることも(要求されない)。したがって、喜びの訪れです。

今、読みました箇所を見ると、『我々の神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』罪滅ぼしのために、人間は何もできません。何もしなくてもいい。ただ、へりくだれば、頭を下げれば、それだけで充分です。ですから、この神の言葉である箇所は、すばらしい。『主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。』

キリスト教に入るのではない。教会の会員になるのでもないし、洗礼を受けるのでもない。『主に帰れ。そうすれば、主は赦してくださる。』適当にではなく、豊かに赦してくださるということです。

ご存知のように、今の世界は、たいへんな世界になっちゃった。今の世界は、大きな病院です。悩んでいない人はいない。人間は悩むものです。重荷を負うものです。失望、また、絶望しているものです。どうしたらいいかと、全く分からないのが人間です。人間は孤独であり、さまよう羊のようなものです。さまよう羊の救いとなるのは、何でしょうか?すなわち、羊飼いの近くに居ることです。

三千前に当時の世界を治めたダビデという男は言ったんです。主は、私の牧者であるから、私には乏しいことがない。喜ぶことができる。心配から解放されているということができたのです。彼は、『私そのものは確かに、助けのない愚かな無力な羊であるから、どうしても羊飼いを必要とする』と告白しました。

自分自身のみじめさを、よく知ってる者は、よき羊飼いのところに来て、すべてをその羊飼いにゆだねます。本当の救いというのは、それなんです。良き牧者である主イエス様は徹頭徹尾、自分を無にし、羊たちのために、一人一人の世話だけを考えます。

二千五百年前に書かれた約束は、本当にすばらしい約束です。

エゼキエル
34:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。

あまりおもしろくない知らせとして、聖書は言ってます。私たちは、皆、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かっていった。しかし、それだけではなく、よろこびの訪れも聖書の中で、何回も何回も書き記されています。

これはいったい、何なのでしょうか?すなわち、人間がいくらみじめであっても、悩んでも、何も知らなくても、自分の無力さを認めても希望がある。すなわち、父なる神は、人間の全ての咎を十字架につけられた主イエス様に負わせたということです。

イエス様の弟子であるペテロという男は、次のように告白しました。

第一ペテロ
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

イエス様は、ご自分のいのちを与えてくださったよき牧者であるだけではなく、今日もなお、目には見えませんけども、どこにでも臨在しておられ、人間ひとりひとりのために生きておられ、ひとりひとりのことを考えてくださり、人間のことを配慮していてくださるのです。

イエス様は、赦してくださり、解放してくださり、本当に新しくしてくださいます。唯一の救い、すなわち、罪の赦し、主なる神との平和、また、永遠のいのちを与えようと望んでおられるイエス様は、宗教と全く関係のないお方です。

聖書の中で、宗教という言葉は一回も出てきません。したがって、聖書も宗教と関係のないものです。非常に残念なこと、困ったことは、キリスト教という宗教は聖書を使うようになっちゃった。聖書を使っているけど、違うことを教えているのです。本当に困ります。真の神は、キリスト教と関係のないお方です。

宗教は人を惑わし、間違ったやり方で安らぎを与え、人を惑わして、お金を取るものです。宗教は、うまくいく商売に過ぎません。人間が騙されやすいから、宗教は存在しています。イエス様とは、宗教家ではない。変わらない喜びを与える唯一のお方です。

イエス様は今、話したように、無宗教です。このお方は、人間から何にも要求なさいません。いわゆる頭の知識も、立派になることも、もちろん、お金も要求されていない。主なる神の呼びかけとは、いつも同じ呼びかけです。すごい呼びかけです。すなわち、私はあなたを愛してる――ありのままで。

十字架の上に、イエス様は、もちろん、代わりに死にました。イエス様の死とは、多くの人々の考えてるようなものではない。多くの人々は、キリストの死とは、いわゆる殉教者の死でした(と考えます)。違う。人間ひとりひとりの受けるべき天罰でした。キリストが罰せられたから、人間を罰する神はいない。これこそ、考えられないけど、すばらしい事実です。

万物は、主なる神によって造られ、この偉大なる主は、ご自分の被造物のことを配慮しておられます。そして、この主は今日、来られたおひとりおひとりに対しても、関心を持っておられます。多くの人は、『いや、私なんて、いてもいなくても・・・・』と考えます。とんでもない間違いです。人間ひとりひとりの魂は、創造主なる神にとって、全宇宙の財産よりも尊いものです。考えられない。どうしてか、なぜか、わからない。けど、聖書がそう言っているから、間違いない事実です。

いろいろなことについて、考えたらいいかもしれない。どうですかね。皆さん、幸せなのでしょうか?家族のひとりひとりと、平安に過ごしているのでしょうか?自分の家には、心からの一致があるのでしょうか?仕事の同僚などとの関係は、うまくいっているのでしょうか?自分の人生は、ひとつの意味を持っているのでしょうか?死に対して、これを心やすらかに迎え入れることができるのでしょうか?

聖書を見ると、はっきり言えるのは、悩んでる人間は絶望しなくてもいい。なぜならば、孤独から解放される可能性があるから、あらゆる重荷から解放される可能性も存在しているからです。そして、債務からの解放も提供されるているのであり、主なる神は全ての罪、過ち、わがままを赦そうと――できるだけではなくて――、望んでおられます。

今日の集いは、何千年も前に約束され、そして、預言どおりにこの世に来られ、そして、人間の代わりに十字架の上で、我々が本来、受けるべき、天罰をお受けになり、復活し、救いの道をお選びになり、昇天なさり、そして、再びまた、おいでになるイエス様を紹介するための集いです。

我々にとって、もっとも大切なのは、いったい何なのでしょうか?肉体上の健康でもなければ、たくさんのお金を持つことでもない。また、多くの友だちを持ったり、権力や名誉を持つことでもありません。大切なことは、人間が債務の重荷から解放されることです。そして、救い主なる神が自分のわがままを赦してくださり、自分に永遠のいのちを与えてくださったという確信を持つことです。

イエス様を受け入れて、そして、その後で後悔した人は、この世に一人もいません。なぜならば、イエス様は限りなく豊かに恵んでくださるお方であるからです。

本当の救いとは、何でしょうかね?本当の救いとは、あらゆる心配、恐れ、思い煩いからの解放です。そして、救われるということとは、主の神の愛を体験することです。人間によって作られた宗教に入ることによって、あるいは、人間に作られた神々を拝むことによっては、何の愛も体験できず、何らの救いも与えれません。

傷ついた心は解放され、癒されるべきです。かたくなになった心はイエス様の愛によって克服され、新しくされるべきです。満たされない心は、この世に来られたイエス様によって満たされるべきです。

今日の集いもきっかけになって、出席してくださった愛する皆様お一人お一人が、イエス様を知ることによって、変えられ、すなわち、悩みながら喜ぶことができ、問題を持ちながら平安に満たされ、そして、生き生きとした希望を持って、将来に向かうことができるように!

だいたい二千年前に、地震を通して、本当の救いを得た事実について、聖書は次のように言っています。

使徒行伝
16:19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

このピリピの獄吏は、『救われるためには何をしなければならないの?』と、きいたのです。この疑問の叫びから、ひとつの言葉を取り出して、観察しましょうか?すなわち、『私』という言葉です。私は救われるために何をすべきなの?

ここで言っている『私』とは、誰でしょう?この私とは、失われている人であり、罪、悪魔、自己の奴隷です。彼は、主なる神を見ることのできないメクラでした。霊的に死んだ者でした。主なる神から出るいのちから、遠く離れている者でした。

聖書が言っている霊的な死とは何でしょうか?霊的な死とは、生まれながらの命を持っていることです。この刑務所の責任者は、霊的に死んでいたのです。なぜなら、救い主を知らなかったからです。ピリピの獄吏が救われた時、彼は、自分が過ちを犯すものであることを認めました。もし救われたいと思えば、自分がまだ救われていない者であり、また、失われた者であるということを、もちろん、認めなければならない。

次の言葉は、『救われる』という言葉です。救われるためにどうしましょうか?どうしたらいいのでしょうか?

獄吏は、自分は良い人間になるために、何をすべきかときいたわけではない。自分は、救われるために何をしたらいいかと叫んだのです。彼は、『私はいかにしたら奴隷の身から解放されるのでしょうか?私はメクラの身から、メアキの身になるのでしょうか?私は死の様から生きることができるのでしょうか』と、ただきいたのではなく、叫んだのです。

三番目の言葉は、『なす』という言葉です。『する』という言葉です。私は、救われるをために何をなすべきでしょうか?死人が、自分で生きることがどうしてできましょう?絶対に何もできません。

最後に、大切な質問について、考えてみたいと思います。本当の救いの本質は何でしょうかね?三つのことが言えます。

第一番目、真の救いは、主なる神に満足される十分なる救いでなければならない。人間がいかにして、誰によって救われるかは、主なる神のみが知っているのです。

獄吏は、自分の身を救うために、自分の道を行くことは許されなかったのです。ただ、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』獄吏は、この言葉によって導かれ、救われました。自分を救うために、自分勝手な道を選ぶことはできません。我々の救いの道は、十字架――イエス様の代わりの死であり、十字架の上で代わりに犠牲になられたイエス様だけです。

二番目、救いは、罪とともに罪の結果も消滅してしまうような完全な救いでなければなりません。救いは、人の罪を消し去り、その人に新しいいのちを与えるものでなければいけません。獄吏の場合も、獄吏の罪が赦され、獄吏のうちに新しい創造が信仰によってなされなければなりませんでした。我々の罪も、十字架で贖われ、我々の内に新しい創造が始められなければなりません。

そして、三番目、救いとは、罪に対してなされた死刑の執行でなければなりません。主なる神は、一度、罪を犯した魂は必ず死ぬと言っておられます。罪の刑罰を受けなければいけません。刑罰は、執行されなければいけません。獄吏は、イエス様の身代わりの死を信じました。もし、私たちが、主の救いを自分のものにしようと思うならば、十字架の上で代わりに死なれたイエス様の元に来なければいけません。

イエス様は、約束しておられるお方です。すなわち、私たちが自分の債務、わがままを告白する時に、完全にきよめてくださると。したがって、罪の赦しを自分のものにすることは、簡単なことです。

イエス様は、自分の債務を正直に告白すること以外には、何も望んでおられません。すなわち、正直に自分自身のダメな状態を認め、打ち砕かれる備えを持つことが要求されています。聖書の中のもっともすばらしい約束の一つは、『もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私たちをきよめてくださいます。』

私たちは、この約束を心からよろこぼうではありませんか。主は、本当に確約してくださるお方です。すなわち、私たちが、もう罪を犯さなくてもよいように、すべてを成してくださったのです。

イエス様は、ただ単に罪の債務からだけではなくて、罪の力からも、あがなってくださいました。イエス様は、生きておられ、私たちはこのイエス様に心配され、愛されていることを考えると、本当に喜びたくなるのではないでしょうか。

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