2013年12月8日日曜日

イエス様はご自分の栄光を現わされた

イエス様はご自分の栄光を現わされた
2013年12月8日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

今、読んできたくださった箇所を見ると、イエス様のなさったことについて、数えられないほど多くの奇蹟について、読んでもらいました。イエス様が初めて行われた奇蹟について、ヨハネ伝二章に書かれています。

ヨハネ
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方(・・・・『お母さん』ではなくて、女の方・・・・)。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

聖書を読むと、多くの人々は、水がぶどう酒になるなんてことは不可能ではないかと言います。けれども、それは、聖書に書いてありますから、疑うことのできない事実です。しかし、多くの人は、この奇蹟が、考えられないほど大切であると思っています。けど、水がぶどう酒になったことがそんなに大切なのではないと思います。十一節に大切なことが書かれていますね。「イエスはその栄光を現された。」これが問題です。イエス様が栄光を現されることが問題です。私たちの生活が、イエス様の栄光を現しているかどうかが問題です。

生きておられる主なる神が、我々の暗い生活の内に入ってこなければならない。イエス様が水をぶどう酒に変えることができる。それを見る必要はないでしょう。ただ、イエス様だけを見るべきです。すなわち、私たちの生活が、イエス様の栄光を現さなければなりません。我々の生活は、鏡のように主の栄光を受け入れ、また、外に現していなければいけません。イエス様の栄光を、鏡のように反射していなければなりません。

第二コリント
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

今、話したように、我々の生活がイエス様の栄光を現しているかどうかが問題です。

イエス様は、ご自分の栄光を現された。三つの問いについて、考えてみたいと思います。第一番目、イエス様は、今日も、ご自身の栄光を現されるのでしょうか。二番目、どうしたら、イエス様は自分のご栄光を現すことができるのでしょうか。三番目、どうして、イエス様はご自分の栄光を現されるのでしょうか。

まず、イエス様は、今日、この時代にも、ご自身の栄光をあらわすでしょうか?どうでしょうか。いいえ、イエス様はご自身の栄光を私たちに、また、私たちを通して、現されなければならないのではないでしょうか。初代教会においては、イエス様はご自分のご栄光を現されました。それは確かです。なぜなら、土台が必要だったのであり、また、その上に築き上げる必要があり、福音を全世界に宣べ伝える必要があったからです。ところが、今のこの終わりの時に臨んではどうでしょうか。

二番目、そうしたなら、どうしたら私たちは、主の栄光を現すことができるのでしょうか。

三番目、イエス様は、どうしてご自分の栄光を現されるのでしょうか。それは、私たちのためではなく、主ご自身のためです。それは、計り知れない愛そのものなのではないでしょうか。

はじめの問いは、イエス様は今日でもご自身のご栄光を現されるのでしょうか。ある人は、今日ではイエス様は、ご自分のご栄光を現さない、奇蹟を行なわないと言います。また、ある人は、イエス様の生きておられる時も、イエス様は実際には、奇蹟を行なわなかった。あれはただの童話にすぎないと言う人もいます。

けども、今日でもイエス様は、奇蹟を行ったのだ――今も、イエス様の奇跡を見たい、経験したいと思っている人も、もちろん、います。我々の主は、今日でも奇蹟を行なうお方です。救われた人々を見ると、それが解かります。どんな信者も、「私は、今まで罪のうちに死んだ者だったが、今は悔い改めて、信仰と主とのあわれみにより、新しく生まれ変わった」と言えます。これは、奇蹟です。この奇蹟は、もちろん、説明できません。けど、事実です。

ところが、今日、イエス様は信者たちの生活のうちに奇蹟を行なっておられるのでしょうか。この問いに答える前に、違う問いを設けましょうか。すなわち、イエス様は、いかにして、ご自身のご栄光を現すのでしょうか・・・・という問いを設けましょう。イエス様は、人間を通して、ご自身の栄光を現します。問題は、イエス様が我々を使うことができるかどうかです。

悪魔は、自分に賛成する者は、それがどんな人であれ全部、用います。今日、問題となるのは、主イエス様が栄光を現すかどうかということです。今日、来られた一人一人を通して、ご自身の栄光を現すことができるかどうかです。

イエス様は、今日でも奇蹟を行なうのでしょうか。はい、行ないます。イエス様は、どこでご自分の栄光を現されるのでしょうか。イエス様は、我々の生活の困難のさなかにおいて、ご自身の栄光を現します。

今日でも、天は開かれています。イエス様の洗礼、変貌、よみがえり、昇天、五旬節――これらは皆、今日でも、天が開かれているという証拠です。天は、もうすでに開かれていますから、私たちの祈り、熱情、献身などが天を開くのではありません。高められている我々の救い主は、あらゆる力をお持ちですから、私たちは開かれた天を持っていることになります。したがって、我々の生活を通して、私たちはイエス様の栄光を現すことができるわけです。

ですから、私たちは、申し訳を言うことはできません。私たちの荷は重すぎる。私の状態は希望がない。私の家は暗い。私の職場はダメだ・・・・などという申し訳はできないはずです。主は支配しておられます。主が許さなければ何も起こらない。もし、イエス様が一言、語りかけるなら、我々の暗い生活に光が差し込みます。イエス様は今日でも、「光よあれ!」と言えるのです。イエス様がそう言われれば、我々の生活は、主の栄光を現します。

今日のテーマは、「イエス様はご自分の栄光を現された。」三つの問いをいっしょに、考えてみようと言いましたね。第一番目、イエス様は今日でも、ご自分のご栄光を現されるのでしょうか。『はい』と言うことができるのは、本当にありがたい。

二番目の質問は、どうしたら、私たちはイエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。大小にかかわらず、奇蹟が問題ではなく、イエス様の栄光が問題です。

ところで、イエス様は、いかにして、ご自分の栄光を現されるのでしょうか。このカナの婚礼は、確かに奇妙な婚礼でした。普通の結婚式では、花嫁、花婿が大切でしょう。けど、ここでは、あまり重要視していません。イエス様が知らないうちに中心人物になりました。もしイエス様が、我々の生活の中心になければ、それは、我々の困難の原因となってしまいます。

もしイエス様が、我々の内に住み、私たちと一つになるなら、イエス様は我々の生活の中心点となります。そうなれば当然、我々の生活は主の栄光を現すことになります。

イエス様は、この婚礼に招かれたのでした。イエス様は、単なる客ではなく、婚礼の中心になってしまいました。イエス様が、我々の生活の中心におられなければならない。イエス様は、我々とひとつになろうと望んでおられます。私たちがイエス様とひとつになったら、我々の生活に奇蹟が行なわれます。これは恵みの奇蹟です。

もしイエス様が、我々の生活の中心になければ、それは、我々の困難の原因そのものです。もしイエス様が、我々の内に住み、我々とひとつになるなら、イエス様は我々の生活の中心点となります。そうなれば当然、我々の生活は、イエス様の栄光を現すことになります。

いかにして、イエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。イエス様が、我々の生活の中心になると、ひとつの兆候が現れます。すなわち、我々の欠乏が見えてきます。ぶどう酒はなくなってしまいました。

人間は、いつも何か役割を演じようとします。イエス様の前でさえ、そうです。自分を空しくすれば、イエス様が何か行なうことができます。逆に自分で何かをやろうとすれば、イエス様は、遠のいてしまいます。イエス様のご臨在に伴い、我々の欠乏が現れます。私たちが自分の生活を富んだものと思っている限り、主は栄光を現すことができません。

私たちは、いったい、どうしたらイエス様の奇蹟の力を経験できるのでしょうか。イエス様が、我々の毎日の実際生活の中心点となったら、私たちはそれを経験します。

私たちは、困難のさなかで、カナの婚礼の時のイエス様の母のようにふるまいますかね?彼女は、花婿や料理頭に困ったことを告げずに、すぐに、イエス様のところへ行きました。彼女はゆるぎない確信を持って、イエス様のところへ行きました。それは、『イエス様はできる』、また、『イエス様はそれをやってくれる』という確信でした。

私たちは同じように、この確信を持って、主に近づくのでしょうか。私たちは、主はできる!という確信とともに、イエス様はやってくださるという確信も、持っているのでしょうか。どうか、イエス様が十字架でなされたことに対し、もう一度、目を開いてください。イエス様が十字架にかけられる前になされたことは、全部、十字架を見て行なわれたのであり、十字架の後で成されたことは、十字架の結果、成されたのです。

いかにして、イエス様の栄光を現すことができるのでしょうか?

イエス様の母の是認(ぜにん)されたことを、私たちも是認しなければいけません。イエス様の母は、イエス様の愛のないように思われる答えを是認しました。「婦人よ、あなたはわたしと何のかかわりがありますか。」これは、あなたとわたしの考えは全然、違うという意味です。結局、イエス様の母は自分で考えて、ああしてもらいたい、こうしてもらいたいと思ったんです。イエス様は自分で考えようとしないで、お父様、どうしたらいいの?教えてくださいと言い続けたのです。

イエス様は絶えず、この態度をとられたから、多くの人々に誤解されてしまいました。けども、イエス様は、我々と違いまして、自分は大切ではない。お父様、あなたの御心だけが行われますようにと祈り続けました。

イエス様は、ご自身の母とのあいだに分ける線を、はっきりと引かねばなりませんでした。「あなたはわたしのお母さんだから、そうしましょう」とは、イエス様は思わなかったのです。

ルカ
14:26 わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

これは、イエス様の提案ではなく、イエス様のご命令です。このカナの婚礼で、イエス様はご自分のこのことばを証明させたのです。わたしとあなたの自然の関係は大切ではないと、イエス様は母に言われたのです。

イエス様は決して、私たちのために栄光を現されません。ご自身のためにのみ、栄光を現されます。イエス様とイエス様のお母さんの自然関係のゆえに、イエス様は栄光を現しませんでした。同じように、イエス様は私たちの困難、苦しみ、祈りのゆえに栄光を現しません。イエス様は、主であられますから、ご自分のために栄光を現されるのです。

私たちは、どうしたら主の栄光を経験することができるのでしょうか。主が我々の生活に入ることによって、主の栄光を経験することができます。イエス様は、私たちを矯正しなければいけません。自分は大丈夫だと思っている人は、本当に災いです。「わたしの時は、まだ来ていません。」「忍耐しなさい」と、主は言われました。忍耐を学ぶことが問題ではなく、忍耐を持つことが問題です。なぜなら、忍耐は決して、学ぶことができません。忍耐とは、主の下に仕えることです。イエス様の母は、それをしました。私たちは、忍耐を持っているのでしょうか。私たちは、主の下に仕えているのでしょうか。「あなたがたに必要なのは忍耐である」と、ヘブル書の著者は書いたのであります。

【参考】ヘブル
10:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

最後まで耐え忍ぶ者は、主の栄光を経験するのです。「わたしの時は、まだ、来ていません。」イエス様のときは来ます。私たちは、待たねばならないかもしれない。けども、イエス様のときは、必ず来ます。イエス様は、ご自分の栄光を必ず現します。いかにして、イエス様の栄光を経験することができるのでしょうか。私たちが、信仰の従順を学べば、イエス様の栄光を経験することができます。イエス様でさえも、従順を学んだと、聖書は言っています。

ヘブル
5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者とな(られたのです。)

イエス様の母であるマリヤは言ったのです。「この方があなたがたに言いつけることは何でもしてください。」ここでは、使徒信条や教義が大切なのではなく、生きていることばが大切です。「あなたがたに言いつけることは・・・・」という、イエス様のことばこそ、大切です。

祈りながら聖書を読み、イエス様のことばを聞き、それを我々の行為に移さなければなりません。「この方が、あなたがたに言いつけることは、何でもしてください。」また、イエス様は言われました。「かめに水をいっぱいに入れなさい。」この命令に従うことは、別に難しくなかったでしょう。もうひとつの、「さあ、くんで料理頭のところへ持って行きなさい、ぶどう酒として」というイエス様のご命令を実行するのは、ちょっと考えられないほど難しかった。これは、我々にも言えることです。一方の命令は簡単ですが、もう一つの命令には、しり込みします。

かめに水を入れることは考えられることです。当たり前のことです。けども、それを料理頭のところへ持って行くのは、ちょっと馬鹿らしいことなのではないでしょうか。ぶどう酒ではないから。けども、彼らは、その水を料理頭のところへ持っていきました。そこで、イエス様は、ご自身の栄光を現すことができたのです。この栄光を現す秘密は、イエス様のことばに対する従順にあったのです。

今日のテーマは、「イエス様は、ご自分の栄光を現された。」二つの問いについて今、考えてまいりましたね。第一番目、イエス様は、今日でも、ご自分の栄光を現されるのでしょうか。もちろん、そうです。二番目、どうしたら、私たちはイエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。期待をもって、主だけを仰ぎ見ると、間違いなく経験します。

三番目、なんのために、イエス様はご自分の栄光を現されるのでしょうか。答えは、私たちがイエス様に似る者となるためです。イエス様は我々のためには、栄光を現しませんでした。ご自身のために、栄光を現しました。けども、イエス様の御心は、私たちが、イエス様の姿に似た者となることです。ですから、イエス様は栄光を現しました。私たちは栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていかなければいけません。

何のために、イエス様はご自身の栄光を現されたのでしょう。弟子たちの信仰を強めるために。ですから、最後に書いてあるね。「弟子たちはイエスを信じた」と書いてあります、結果として。弟子たちが、新しく献身するために、イエス様はご自分のご栄光を現したのであります。

弟子たちが、新しくイエス様を礼拝するために、「自分のからだを持って、神の栄光を現しなさい」と、パウロは書いたのであります。我々も、自分の全生涯を今日、あらためて主に捧げようと思いませんでしょうか。我々の生涯を通して、イエス様がご自身のご栄光を現されたら、本当に幸いと思います。

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