2013年12月17日火曜日

待つために救われた

待つために救われた

2013年12月17日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一コリント
16:21 パウロが、自分の手であいさつを書きます。
16:22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。

今、読んでもらいました箇所は、非常に大切な箇所なのではないかと思います。

パウロは、コリントへの手紙を、自分自身で書くことができなかったようです。この手紙は、口述筆記されました。けども、手紙の結びの言葉は、パウロ自身が手ずから記しました。おそらく、パウロは、大きな字で結びの言葉を記したのではないかと思います。なぜなら、パウロは、たいへん視力が弱かったからです。彼は、最後にどうしても言いたかった事柄を記しました。彼は、イエス様を心から愛していました。そして、パウロの切なる願いは、コリントにいる兄弟姉妹も、同じように、イエス様を大好きになってもらいたいと、心から願ったのです。


パウロは、胸の中に燃えさかる望みを持っていました。それは、イエス様が再びこの世に来てくださるという望みでした。そして、パウロは、コリントの信者たちに、同じような燃える望みを持つことを望んでいました。「マラナタ(Maranatha)」という言葉の意味は、「主よ、来てください」という意味です。

黙示録
22:20 「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

また、パウロは、ローマの刑務所の中で、ピリピに住んでいる兄弟姉妹に書いたのです。短い文章です。

ピリピ
4:5 主は近いのです。

イエス様が来られることは、未信者にとっては、恐れとおののきに満ちた言葉でしょう。けど、イエス様を信じる者にとっては、この上もないほどの大きな喜びです。イエス様を体験的に知らない人々の心には、生ける望みも希望もありません。エペソにいる人々に、パウロは書いたことがあります。

エペソ
2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

第一テサロニケ
4:13 あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。

イエス様を信じない人々は、来るべき将来の事柄に関して、確信を持つことができないし、漠然とした不安を持っています。イエス様を信じる者は、次のように告白することができます。「我々の望みは、イエス様が、再び来られることであり、その時、イエス様は、本当の正義と平和とをもたらすということを確信することができます。」イエス様を信じない人々にとって、主が来られることは、おもしろくないことでしょうし、裁きを意味します。

ユダ
1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。
1:15 すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」

こういうふうに裁きが来るぞと、もうすでに、エノクは預言したのであります。けども、エノクだけではなく、当然ですけど、イエス様も、裁きについて語っています。

マタイ
25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。』

25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。

エノクだけではなく、イエス様も、それから、パウロも裁きについて語っています。

第二テサロニケ
1:6 ・・・・あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。

罪と債務の問題が解決されていないならば、必ず裁かれるようになります。

罪の中でも、最大の罪は、イエス様を信じないことです。この罪のゆえに、人間は滅ぶべく定められています。イエス様を信じるとは、聖書に書かれている事柄を信じることよりも、イエス様に導かれ、イエス様に従い、イエス様に自分の支配者となっていただくことです。

信じる者は、裁きの日にあたって、不安を持つことはなく、喜びをもって、その日を待ち望むことができます。イエス様なしには、恐れおののいて裁きの日を迎えなければなりません。ヨハネは三章十八節に、「御子を信じる者はさばかれない。」これこそが、福音そのものなのではないでしょうか。マラナタ。主よ、来てください。このような願いを持つ者は、三つの事柄を語ることができます。第一番目、喜びに満たされており、二番目、目覚めて祈る者であり、そして、三番目、自分自身を清めます。

この三つの事柄について、簡単に考えてみましょうか。

第二コリント
3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。

イエス様を信じる者は、不安や思い煩いによって、打ちのめされることはありません。イエス様を待ち望む者は、真に自由な者であり、人々の評価からは免れています。この希望を持つ人は、喜びに満たされて、大胆にイエス様を証しする者となります。なぜなら、心に満たされていることが、自ずと言葉になって、口にのぼるからです。マタイ伝を見ると次のように書いてあります。イエス様が、当時の聖書学者に言われたことばです。

マタイ
12:34 まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
12:35 良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

また、イエス様を待ち望む者は、目を覚まして祈る者です。祈りの人について、聖書は、七つの特長を挙げています。祈りの人は、第一番目、目覚めている者であります。二番目、待ち望む者であり、三番目、身づくろいを整えている者です。第一テサロニケを見ると、全部まとめられています。

第一テサロニケ
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。

5:8 私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。

また、祈りの人は、四番目、主のために迫害を受ける用意のある人であり、五番目、人々に対して、主を証しする用意のある人です。

第二テモテ
2:5 あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを充分に果たしなさい。

また、祈りの人は、恵みを待ち望む者です。すなわち、このような人は、自分自身の不確かさというものをわきまえて知っている者であり、イエス様に徹底的に拠り頼む者です。

第一ペテロ
1:13 あなたがたは、心を引き締め、身を慎んでイエス・キリストの現れの時、あなたがたにもたらされる恵みをひたすら待ち望みなさい。

また、祈りの人は、七番目ですけど、自覚的に悪魔と戦っている人です。ペテロは、当時の信じる者に、次のように書いたのであります。

第一ペテロ
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。

イエス様を待ち望む者なら、今、話したように喜びに満たされている者であり、二番目、目覚めて祈り、そして、三番目、自分自身を清めます。よく知られている箇所です。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

イエス様を待ち望む者は、イエス様が今日にでも来られるかもしれないという期待を持っています。すなわち、そのような人は、自分自身のことだけに目を奪われるようなことがなく、来るべきお方に対して、心を向けています。イエス様を待ち望む者は、イエス様の血とみことばによって、日々、自分自身を新たに清めます。パウロは、コリントの人々に書いたのです。

第二コリント
7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

テサロニケ第一の手紙の終わりの方にも同じように書かれています。

第一テサロニケ
5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

これまでのことを簡単に要約しますと、個人的なイエス様との親しい交わりと愛がなければ、希望も、喜びも、主を証しすることも、自由も、真の祈りも、自分を清めることも、聖なる者と変えられることもあり得ません。

イエス様を愛する者の切なる願いは、イエス様が早く来られることです。マラナタ。主イエスよ、来てください。けれども、イエス様が来られるまで、次のようなことを心がけるべきです。まず、イエス様に対する恐れの念を持って歩むべきです。イエス様の目の前に隠れおおせることは、何ひとつとしてありません。イエス様の光の中を歩みましょう。お互いに対して何一つ、隠し事があってはなりません。聖書を共に読み、祈りを共にしましょう。常に、イエス様がおられるということを覚えましょう。そうすれば、必ず、祝福と助けと守りが、主から与えられます。

それから、我々の体は、聖霊の宮であることを、絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。御霊は、我々を器として用いようと望んでおられます。いかなる罪も、主から私たちを引き離し、主との交わりを絶ちます。その結果は、自分自身の身を不幸に招き、喜びと平安から遠ざかってしまいます。自分は、自分のものではない。御霊の宮であるということを、心して銘記すべきです。なぜならば、これもまた、祝福と助けと守りを受ける秘訣であるからです。

そして、三番目、日々を主の証し人として生活すべきです。たとえば、一人だけの世界に閉じこもってしまい、他の兄弟姉妹との交わりを持たないことは、主の御心にそぐわないことです。すべての事柄を、主に対する証しのために行なうべきです。パウロは、愛弟子であるテモテに書いたのです。

第一テモテ
4:12 年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。

ドイツで有名な大学の教授がいまして――ワイゼッカ―教授です――総理大臣の親戚だったんですけども、彼はあるとき、学生たちに聞いたのです。「確かなことは何?皆さん考えてくださいよ。」それに対して学生たちは、一人ひとり、思い思いの事を言いましたけど、いつまで経っても埒が明かない状態だったので、一人の学生が勇気を持ってきいたんです。「先生はいったい、何だと思われますか」ときいた時、ワイゼッカー教授は何と言ったかといいますと、「イエス・キリストが来られることです」と。

確実なのは、それなのです。イエス様が近いうちにまた来られるという確信こそ、光、喜び、希望、力です。パウロは、テサロニケにいる兄弟姉妹たちに手紙を書いたのです。何を強調したかと言いますと、私たちは、イエス様を待つために救われたと言っています。けど、私たちはどうでしょうか。本当に、イエス様を待ち望んでいるのでしょうか。なぜ、イエス様を待ち望む生活が、そんなに大切なのでしょうか。四つの理由が挙げられます。

第一番目、イエス様を待ち望む生涯は、本当の意味を持っています。それに対して、イエス様を待ち望むことのない生活には、本当の意味がありません。なぜ、私たちは、あれこれをしなければならないのでしょう。すべては無駄ではないかと、このような問いを抱いている人は、いっぱいいます。もしも、何かを待ち望む心が失われてしまったならば、人生は本当に、退屈でどうしようもないものになってしまうはずです。この待ち望み、あるいは、期待を失ってしまった場合には、無関心になって何もしないか、あるいは、何十年前の三島由紀夫のように、自殺してしまうでしょう。けれども、私たちはイエス様を待ち望んでいます。イエス様は、必ず、お出でになります。

二番目。待ち望みの生活は、目を覚ましている生活であるとも言えます。期待は目覚めさせます。とりわけ、永遠のいのちを提供されているということに、目を開かなければなりません。眠っている者は、聞くこともできません。イエス様を待ち望んでいる者は、自分自身の本当の状態に対して、メクラではありません。イエス様を待ち望んでいる者は、イエス様を悲しませないようにと、絶えず、心を使っています。しかし、イエス様を待ち望まない者は、メクラであり、主の御声に対して、難聴のため、聞き取ることができません。

三番目。待ち望みの生活は、責任ある生活でもあります。私たち、一人ひとりは、誰でも他の人に対して責任を持っています。また、イエス様を待ち望む生活は、消極的ではなく、積極的で行動的です。イエス様を待ち望んでいる者は、機会を充分に生かして用いています。また、待ち望んでいる人は、自分のことを忘れ、まず第一に、イエス様のことを考える人です。また、イエス様を待ち望んで生活を送っている兄弟姉妹は、絶えず、イエス様のまなざしを意識している者です。イエス様を待ち望んでいる人々は、イエス様を愛しています。本当にイエス様を毎日意識して、イエス様を待ち望んでいない人は、イエス様を愛していない。自分中心的な生活をしている人です。

そして、四番目、待ち望みの生活は、喜びの生活です。本当に主を待ち望んでいる兄弟姉妹のために、今日、主は来られるかもしれない。このような、生き生きとした待ち望みの信仰が、人間を全く変えてしまうのです。あらゆる思い煩いや苦しみ悩みなど、イエス様の再臨を思う時、消え去ってしまいます。そして、待ち望みと喜びの生活を送る源(みなもと)は、私たちの過ち、罪が赦されているという事実に他なりません。この確信を持っていない人でも、持つことを真に望むならば、もちろん、得られます。

今日、恐るべき混乱と動乱、失望と闇の中にあって、イエス様は来られるという真理こそが、我々に、本当の喜びと平安を与えてくれます。

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