2014年1月5日日曜日

大いなる目標に向かって、まだ旅の途中ある寄留者

大いなる目標に向かって、まだ旅の途中ある寄留者
2014年1月5日、御代田日曜礼拝
ゴットホルド・ベック

ヘブル
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

何年か前に、ドイツの大使館に行きまして、大きな字でかけてありました。何が書いてあったかと言いますと、「人間は、みな外人です。」確かにそうだね。おそらく、今年の正月も多くの日本人が外人になった。外国に行ったから。自分の国から出ると、知らないうちに外人になるのではないでしょうか。

今日の題名は、「大いなる目標を目指して、旅の途中ある寄留者」であります。三つの点について、見てみたいと思いますが、それは次のようなものです。第一番目、旧約時代における神の民、とくにアブラハムとダビデという二人の代表者について考えてみたいと思います。第二番目、新約時代における救いにあずかった人々、とくにヘブル書の作者、そして、ペテロについてです。第三番目、真面目な忠告について、一緒に考えてみたいと思います。

まず、第一番目、旅の途中にある旧約時代における神の民についてです。イスラエルの民は、常いつも旅の途中にある民でした。すなわち、故郷を離れた寄留者だったのです。約束されたカナンの地ですらも、寄留者の土地としてカナンの地に住んでおりました。

出エジプト記
6:4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。

そこで、とくに二人の代表的な人物を中心に、この消息を見てみることにしましょう。けども、みことばは、この二人だけでなく、すべての信者を含めて、次のように言っております。

ヘブル
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

アブラハムという男は――皆さんもご存じでしょう――、信仰の父と呼ばれた者となっただけではなく、主なる神の友とも呼ばれました。

創世記
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。

内容的には全く同じです。へブル11章にこうあります。アブラハムは都を待ち望んでいたため、約束された地においても、他国人のようにして住み、永住ではなく、仮の生活を送ったのです。

アブラハムはついに、約束されたものを受けることなく死にました。けど、決して絶望することなく、信仰を持って死にましたどうしてでしょうか?へブルの11章13節によりますと、約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て、よろこび迎えたことが分かります。このことについて、イエス様ご自身が説明してくださいました。

ヨハネ
8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。

紀元前二千年に、アブラハムはすでに啓示によって、イエス様による救いという神の大いなる御業を知っていました。この啓示を見てアブラハムは、本当に喜び、次のように告白することができたのです。「私は、地上では旅人であり、寄留者である。」

第二の代表者はダビデです。ダビデは、聖書によると、主の御心にかなった人と呼ばれました。彼は、アブラハムよりも千年あとに生きた男でした。

第一歴代誌
29:10 ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。
29:11 主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
29:12 富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
29:13 今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。
29:14 まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。
29:15 私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。

こういうふうに当時の世界を収めた大王であるダビデの告白でした。一節から十五節までを見ると、ダビデという王様は、彼の神に全く圧倒され、心を奪われて、主を褒め称えた人であったことがわかります。私たちも、ダビデのように主に圧倒されることを確認することができるのでしょうか。

ダビデは、この地上では、異国人であり、寄留者であって、だた主だけが本当の望みであり、喜びであることを体験的に知っていたのであります。ダビデは、イスラエルの中でもっとも偉大なる王であり、十二部族を統治することのできた王であり、敵対する異邦の民を完全に打ち負かすことのできた王でありました。けども彼は、偉大なる力、大いなる富にもかかわらず、常に寄留者だったのです。

詩篇
39:12 私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。

アブラハムと同じように、ダビデもまた、主の日をはるかに見ていたのであります。使徒行伝を見ると、それがはっきり書き記されています。

使徒行伝
2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。

2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。

ダビデが、もうすでにキリストの復活のことをわかっていたのです。ダビデが、イエス様の復活のことを前もって知っていたことが分かります。

旧約時代における主なる神の民は、信仰によって歩み、信仰によって死にました。すなわち、彼らは目に見えないものを見、この地上は仮のものであって、本当に満たされることはないと告白したのであります。

今度は、第二番目ですけど、新約時代におけるまことの教会について考えてみたいと思います。

ヘブル
13:14 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

イエス様に出会って、受け入れられた者はみな、永遠の都に旅する途上にある者であって、したがって、この地上では異国人であり、寄留者です。私たちは、永遠の都を切に望んでいます。この地上のものは、すべて過ぎ行くものであるため、私たちは、この世のものによって完全に満たされるということは、決してありません。

ペテロは、当時の信じるものを励ますために、次のように書き記したのであります。

第一ペテロ
2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
2:12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。

イエス様は、あの有名な祈りの中で言いました。

ヨハネ
17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

私たちの目標が、この世の過ぎ行くものであるような、そういう人々は災いです。この地上にあって本当に、気持ちよく感じている者も気の毒なのではないでしょうか。ドイツ人の詩人、ユング・シュティリングは次のように言いました。「天にある故郷を待ち望む者は、幸いである。彼らは必ず故郷に帰る。」

私たちが、この地上に永遠の都を持っていないがゆえに、また、主イエス様の尊い血潮によって買い取られ、この世には属しておらず、したがって、この地上にあっては異国人であり、寄留者であるゆえに、第三番目の真面目な忠告というものが意味を持つのです。私たちは、我々のかしらなるイエス様と同じように、この世の者ではないから、パウロとペテロが次のように書き送ったのです。

パウロは、有名なローマ書12章に、次のように書いたのであり、まじめな忠告そのものです。

ローマ
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

パウロだけではなく、ペテロも全く同じようなまじめな忠告を書き記したのです。

第一ペテロ
2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

なぜ、このまじめな忠告が必要なのでしょうか。三つの実例が、その答えを与えてくれます。その三つの例とは、第一にロト、第二にサウル、第三にデマスであります。

ロトという男も、アブラハムと同じように、自分の故郷を離れました。しかし、彼の生涯は、決して、良い証しとはならなかったのです。彼は、良い土地を選びました。自分のことしか考えなかった。『主よ、どうしたらいいの』とは思わなかったのです。結局、彼の生涯の特長は、物質欲以外の何ものでもなかった。彼は、いつもただ、自分、自分、自分のことばかりを考えていたのです。後に彼は、非常に富んだ豊かな都であるソドムで、神に対して全く無関心な人々と一緒に生活するようになりました。彼は確かに、ソドムの滅びから救われました。主の者だったからです。けど、召しにふさわしくない歩みをしてしまったのです。

次にサウルという王様ですね。彼は、ダビデと同じように、主なる神の民に属していました。また、ダビデと同じように、王となった者でしたが、この二人は根本的な点において、全く違っていたのです。サウルは、名誉を求め、人の前に良く見られたいと思っていました。彼は、不従順であって、その最後は自殺でした。

第三に、デマスであります。彼は、信者であり、パウロの同労者として、主に仕えた者でした。彼は、本来、この世の者ではなく、この世にあっては寄留者であるべきだったのに、ただこの世を愛し、この世が気持ちの良いものとなり、それに満足するようになってしまったのです。彼は、この世と調子を合わせてしまいました。実を結ばない生活になってしまいました。

私たちも、この世にあっては、本来、寄留者であります。それにもかかわらず、常にロトやサウルやデマスのようになってしまう危険に瀕しているのです。だからこそ、この真面目な忠告が、我々にとってもどうしても大切です。

ローマ
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

パウロはこう書いたのであり、ペテロも全く同じ思いでいっぱいでした。

第一ペテロ
2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

『肉の欲を遠ざけなさい。』これは、いったい何を意味しているのでしょうか。自分自身の欲、すなわち、エゴを死に明け渡すことです。肉から生じるもの、自分の考え、自分の意思、自分の感情を否定することがそれに他なりません。これは、戦いを意味しています。ですから、ペテロは次のように言わざるを得なかったのです。「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」

つまり、たましいに対する戦いです。言うまでもなく、たましいの働きとは、自分で考えること、自分で欲すること、そして、自分で感じることです。別の言葉を使うならば、たましいと霊との分離が必要です。したがって、自分の考え、自分の意思、自分の感情を否定することができない者は、ロトやサウロ、あるいは、デマスと同じようにだめになってしまう危険に陥ってしまうのです。イエス様はかつて、ペテロに次のように言われたことがあります。よく知られている非常に大切な箇所です。

ルカ
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

悪魔は、必死になって我々を攻撃します。けど、イエス様は完全なる勝利者であり、いつも、我々ひとりひとりのために祈っておられ、我々ひとりひとりのために生きておられるお方です。イエス様は、私たちの生涯が、良き証しの生涯となり、それを通して、多くの人々が祝福されることを望んでおられます。

イエス様は、ペテロに言ったのです。「兄弟たちを力づけてやりなさい。」私たちは、寄留者です。我々の切に求めるのは、永遠なる都です。自分のことを全く忘れ、上にあるものを求めなさい。また、兄弟姉妹を力づけてやりなさいと主は、呼びかけておられます。イエス様ご自身が寄留者だったのではないでしょうか。

ルカ
9:58 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(・・・であるわたしには・・・)には枕する所もありません。」

すなわち、イエス様は文字通り、ホームレスでした。けども、主に従うのは、確かに簡単ではないけど、喜びに満ちている道です。初代教会の兄弟姉妹は、次のように、正直に告白しました。コリント第二の手紙を見てみましょうか。皆さんも、何度もお読みになった励ましの言葉です。

第二コリント
5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
5:6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
5:8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

また、コロサイにいる兄弟姉妹に、パウロは同じようなことを書いたのであり、結局、これは彼らを励ますためでした。

コロサイ
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

イエス様は、いわゆるお別れの言葉の中で、また、次のように言いました。

ヨハネ
14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

考えられないほど、栄光に満ちた将来なのではないでしょうか。

ユダ
1:24 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
1:25 すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

我々の将来とは、確かに考えられない将来です。聖書はひとことで言っています、私はいつまでも主とともにいる。(私たちは、)本当は地獄に行くべきだったね。天国に入る資格のある者は一人もいない。けど、主は愛することしかできないから、赦したくて赦したくてしかたがないお方であるから、私たちは安心して、前向きな生活をすることができます。

0 件のコメント:

コメントを投稿