2013年12月23日月曜日

わたしは来て、あなたのただ中に住む――ゼカリヤ2章10節より

わたしは来て、あなたのただ中に住む――ゼカリヤ2章10節より
2013年12月23日、北長野家庭集会
ゴットホルド・ベック

ゼカリヤ
2:10 シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ。――

九州に住んでいる姉妹がいまして、もうずっと病気なんです。四十何回目かに入院されたとき、短い手紙をもらいました。内容は、『私の左の目の視力が戻らず、足も萎えていますが、どんなところにいても、楽しくよろこばれるようになりました。』ちょっと考えられない。けども、なんでもイエス様の御手から受け取れば、イエス様のせいにすれば、また、イエス様に頼れば、こういうふうになります。

今日は、M兄姉の家でまた、家庭集会ができるようになったから、ありがたい。彼らの許可はとってないけど、十一年前に、お二人から手紙をもらいました。なかなか良い手紙でした。

『五月五日、御代田福音センターで結婚へと導かれました。アキフミとタマキです。お忙しい中、私たち、そして、家族親族のためにお時間を割いていただいて、本当にありがとうございます。私たちの結婚指輪に刻んだみ言葉は、黙示録二十二章の二十節です。『これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。』これは、これから二人で、間近に迫る主イエス様の再臨を待ち望む生活をして行きたいと思ったからです。聖書のいちばん最後にあるので、わかりやすいということもあります。また、式次第には、次のみことばも書くことにいたしました。黙示録二十二章十七節、『御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。』これは、招いておられるイエス様を、式に来られるひとりおひとりに知ってもらいたいからです。

私はある時、姉妹にききました。結婚式と再臨とどちらがいいの?姉妹は迷わず、『もちろん、再臨です』と答えました。僕自身は、どちらが先でもすばらしいと思っていたのですが、そうはっきり言われると、正直びっくりしました。この人は、本当に主を愛してる、尊敬できる人だと思いました。結婚式当日は、何十年ぶりかの再会となる親族や友人が来てくださることになっています。その方々にも、ぜひイエス様と再臨を知っていただきたいと思います。イエス様だけがこの暗い不安な時代にあって、本当の希望なのですから。そして、イエス様の再臨を待ち望むことこそ、本当の勤勉さと豊かな報いをもたらすのですから。

当日、集う多くの人々の心に、今このときも、主は豊かに働いてくださり、み言葉を聞く備えがなされますように、おひとりおひとりが飢え渇きを持って、式に臨むことができますように、ぜひお祈りください。最後に主に喜ばれる家庭が築かれるよう、私たちのためにもお祈りください。』

十一年前に願った通りになったね!主は・・・・そう、イエス様は哀れみ深いお方だからです。

何があろうと、イエス様にできないことは、いっぱいある。嘘をつくことができない。ダメなものを捨てることもできない。イエス様は、愛することしかできないお方です。人間がどういう態度をとっても、イエス様は愛し続けます。だから、ゼカリヤという預言者は書くことができたね。『喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ。――』

このことばは同時に、クリスマスのメッセージでもあるのではないかと思います。どのような状況に置かれても、そう容易(たやす)くすることはできないようなこと、すなわち、喜び、歌い、楽しむということに対する命令がなされています。

主が、『喜び歌え、楽しめ』と命じておられ、かつ、そのような勧めがなされているということは、誰でも理解することができ、誤解することは、まずありません。主の言われることは、すなわち、主の思いであり、主が望んでおられることです。悲しみ、落胆、敗北感は禁じられています。主は、私たちが喜び歌うべきであると、強く言っておられます。このような主の命令に対して、不従順な態度を取ることは罪です。確かに多くの人々が言うでしょう。そういうこと言うのは簡単ですけど、実際に、そのとおり喜ぶことはできない。無理だよ!と。

確かに、私たちは自分自身の状態、また、状況をみると本当に喜ぶことができない場合が数多くあるのではないでしょうか?パウロは、主の恵みによって救われた後で、正直に、何と言ったかと言いますと、有名なローマ書7章、『私は何と言うみじめな人間なのだろうか』と、彼は叫んだのです。これは決して、よろこびの叫びではない。私たちが自分自身の内側を見るとき、そこには、喜ぶべき根拠が何一つないことを認めざるを得ません。

けど、その当時、主なる神は、ゼカリヤを通して、イスラエルの民に、『喜び歌え、楽しめ』と命じ、言われましたが、もちろん、今日も主は、人間ひとりひとりに向かって全く同じように言われます。主は、昨日も今日も、いつまでも変わらないお方であるから、このゼカリヤ書のみことばも、もちろん、今日の人間に当てはまるものです。

現代人にとって、我々にとって、もっとも大切なのは、いったい何なのでしょうか?いうまでもなく、静まることとです。主の大いなる愛を見つめるため、主の愛を新しく体験するために静まることが大切です。

私たちは、いろいろなことについて考えたり、心配したりします。また、どうしてもしなければならないことが、あまりに多いので、どうしたらいいのかさっぱりわからない。けど大切なのは、静まることです。主によって愛されているとつかむこと、新しく知ること、この愛を新しく受けることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか?

主に心配され、主に愛されているとは、確かに理性でもってつかめない事実です。けども、本当なんです?もっともすばらしい奇蹟なのではないでしょうか?イザヤ書の9章の中で、必ずクリスマスの時、開く言葉なのではないかと思います。

イザヤ
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

もちろん、ここで複数形で、私たち、私たちと書いてあるんですけど、自分勝手に変えて、単数形で読んだらいいんじゃないの?『ひとりのみどりごが、私のために生まれる。ひとりの男の子が、私に与えられる。』考えられない事実です。パウロは、それを体験的に知るようになりましたから、言ったのです。

第二コリント
9:15 ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

感謝するとこそが、考えられないほど大切です。礼拝のないクリスマスはありえない。私のために来られたと考えると、礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。ですから、イエス様がお生まれになった時、次のようなことが、事実になった。

ルカ
2:9 主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために(・・・・人間ひとりひとりのために・・・・)、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

期待された、約束された救い主です。

ルカ
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

ある人々は、どうしてそんなこと考えるのか、ピンと来ないけど、死んでから神になるんですって?生きているあいだにわがままそのものである者が、どうして死んでから神になるの?ひどい考え方です。逆だよ!神が人間になった。それも、確かにつかめないし、想像できない。けども、パウロは、ピリピに住んでいる人々に書いたのです。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

パウロは、このすばらしい事実について考えた時、ローマ書に書いたのです。

ローマ
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

人間の悩み、人間の罪、孤独に対する父なる神の答えはイエス様です。イエス様が与えられた。ですから、いちばんよく知られている聖書の箇所は、ヨハネ伝3章16節でしょう。全部が含まれるからです。

ヨハネ(口語訳)
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

この世でいちばん幸せな人間とは、どういうものでしょうか?死んでも天国だと確信を持つことなのではないでしょうか?永遠のいのちとは、すごいものです。初めての造られた人間は、永遠のいのちを持っていなかったよ。主によって造られたいのちしかなかった。けど、神はそれだけでは十分ではないと、もちろん、思われたから、エデンの園の中に、いのちの木も植えたんです。もし初めての人間がこの命の木の実を食べたならば、永遠のいのちを持つようになっていた。初めての人間は、そうしなかったから、たいへんなことになったね。神は恐ろしい・・・・と人間は思うようになった。これこそ最大の嘘です。

真の神は恐ろしいお方ではない。人間ひとりひとりを大切にするお方です。この偉大なる方によって心配されている、愛されていると考えると確かに恥ずかしくなる。どうしてか分からないから。けれども、本当なんです。

イエス様ご自身がもっともすばらしい贈り物であり、主なる神の現れ、愛のあらわれそのものです。この救いの神を経験した人は、確かにうれしくなる。自由になり、告白できます。ダビデが言ったように・・・・。

詩篇
118:14 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

救いとはものではない。主ご自身です。イザヤも同じことを書いたのです。二千六百~七百年前です。

イザヤ
12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

この二千七百年前の告白が現代人の告白になれば、見方が変わる。安心して将来に向かうことができる。この救いにあずかるようになったのは、間違いなく、イエス様を生んだマリヤです。

ルカ
1:45 「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」

もう何年前だったか、ちょっと忘れました。千葉県だったんですけども、一人の奥さんが、あまりに悩んでいて、どうして悩んだかと言えば、結局、愛されたかったからです。ご主人に無視されてしまって、死んだ方がいいと思ってしまって、十一階のビルから飛び降り自殺をしようと思ったけど、うまくいかなかった。死ぬことができなかった。

医者は確かに、もう一生涯、車椅子です。もうだめ、あきらめなさい。けども、車椅子なしで歩くようになったんです。ちょうど、クリスマスの頃だったんですけど、大きな病院だったから、その病院の中に、コーヒー・ショップがあった。ですから、このコーヒー・ショップの責任者に頼んで、この店全体をちょっと一時間だけでも、借りたい。いいでしょう?まあ、いいよと。値段は、これとこれと・・・・云々と。ですから、そこでクリスマス・パーティーをやるようになっちゃったんですけれども、その時、死のうと思った人も証ししました。死のうと思った。けど、死ぬことができなかったのはよかった。イエス様は私のために代わりに死なれたから嬉しい。今から、このイエス様に頼ろう。イエス様に導いてもらいたいと、証ししてくださいました。

イエス様は、悲しみの人となりました。いちばん誤解され、憎まれた方とは、イエス様だったんです。イエス様の態度は――とても考えられないことです――、イエス様は弁護しないで、口を開かなかった。黙って、苦しんだのです。

このイエス様とは、生きておられるお方です。イエス様を通して富むものとなったものは、喜ぶことができるのです。主なる神は、私たちがどうであるか、どのような状態であるかにはお構いなく、『喜び歌え、楽しめ』と命令しておられます。このことを証明するみ言葉を、もう一つ読みましょうか。

ハバクク
3:17 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

もうめちゃくちゃ!大変。『しかし・・・・』となっているんですね。

ハバクク
3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

彼は何を言ったのか。たとえ、私がなんの実も見なくても、また、それが一見むなしいように思われるときでさえも、喜び、歌え、楽しめと、主は言っておられます。『私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。』これが、預言者ハバククの断固たる決断でした。どうして?目に見える現実を見ようとしなかったからです。目に見えない主が、支配者です。偶然はない。運命もありえない。人間が天罰だと言っても、それは違う。愛されている証拠であると、彼は固く信じたのです。

自分の魂を失うことがどうしても必要であると、イエス様はよく言われました。ハバククという預言者は、それを経験しました。もし彼が、自分の感情や、自分の思いや意思によって支配されたならば、決して喜ぶことができなかったでしょう。なぜならば、その時の状況は、ひとつの実も結ぶように思われず、人間的にはすべてが、むなしいように見えたからです。

使徒行伝
5:41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。

泣きながらではない。がっかりして帰ったのではない。喜びながら。イエス様に従う者にとって、それが犠牲を払わなければならないような時、使徒たちと同じように、信仰のために、甘んじて迫害を受けるということは、それほど簡単なことではありません。それはただ、目に見えるものから目を離し、ただ、イエス様を見上げることによってのみ可能となります。

最後に、もう一箇所、読みます。使徒行伝の16章、二人の男が、当時のローマ帝国のいわゆる王の命令の前に頭を下げようとしなかったから、迫害されただけではなくて、刑務所に入れられたのです。刑務所の中でやはり、あまり、おもしろくなかったのでしょう。23節を読むとわかります。

使徒行伝
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

二人は無実の罪で、不当に牢獄に入れられてしまったんです。むちで打たれたり、棒で殴られたり、いろいろな拷問を受けました。それによって彼らは、確かに肉体的には大きな苦痛を受けなければならなかったのです。それにもかかわらず――『真夜中ごろ』と書いていますね――、真っ暗で逃れ道もなく、何の希望もないように思われるとき、ふたりは神に祈りつつ、賛美の歌を歌った。ちょっと考えられない態度です。けれど、主は許しちゃった。主は最善だけしか考えられないお方であるからもう任せます・・・・という態度を取ったから、喜ぶことができたのです。

『喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。』どのような状況に置かれても、そう容易くはできないようなこと、すなわち、喜び歌い、楽しむということに対する命令がなされています。人間にはがんばっても無理。けど、主に頼れば不可能なことが可能になります。

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