2013年12月4日水曜日

主の再臨と私たち

主の再臨と私たち

2013年12月4日、春日部家庭集会
ゴットホルド・ベック

マタイ
25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

今日のテーマ、題名は、すなわち、『主の再臨と私たち。』他の題名をつけようと思えばできます。『用意ができているの?』、あるいは、『備えあれば憂いなし』、また、『おろかか、賢いかのどちらかなのでしょうか。』


今の最後の十三節、『目を覚ましていなさい。』これこそが単なる提案ではなく、命令です。そして、われわれが、結局毎日覚えるべきなのは、『もうちょっとで、イエス様が来られる』ことではないでしょうか。

ヘブル
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

10:37 もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。

『頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです』と、ルカ伝の中でも言っています。

イエス様を知るようになった人々は確かに輝くすばらしい将来を持っています。イエス様は彼らにとって道であり、真理であり、また、いのちであるからです。イエス様なしの将来は真っ暗闇です。イエス様を知るようになった者は悩みながら、喜ぶことができます。なぜなら、彼らは知って、確信しているからです。すなわち、もうちょっとでイエス様はお出でになります。そして、今日かも知れないと考えると嬉しくなります。どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、私たちは希望を持って、将来に向かうことができるのです。

今の世を見ても、はっきり言えることとは、今は、世界の歴史の夜の時と言えるのでないでしょうか。真っ暗な夜の時に向かって歩いています。毎日のニュースを聞くと、今の世界を見ると、結局、良くなる可能性はないと、誰でも認めざるを得ません。

けれども、次の世界の大きな出来事は、『再臨』です。すなわち、イエス様の日です。イエス様が雲に乗って再びお出でになり、そして、主の恵みによって救われた人々をご自身のもとに引き寄せ、空で彼らにお会いになる、その日のできごとです。聖書は、この将来のこの偉大なる出来事について多くのことを言っています。いわゆる『空中再臨』のことを考えると、恐らく誰でもテサロニケ第一の手紙、四章を覚えるのではないでしょうか。

テサロニケの第一の手紙四章から。パウロはどうしてテサロニケの兄弟姉妹にこの箇所を書いたか。必要だったからです。彼らも、いろんなことで悩んだり、どうして、なぜ、なんのため・・・・と考えた人々がいます。その答えとしてパウロは書いたのです。

第一テサロニケ
4:13 眠った(・・・・すでに死んだ、イエス様を信じる・・・)人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

この箇所に、三つの事実が明らかにされていますね。第一番目、イエス様ご自身が天から再びお出でになるということです。二番目、イエス様にあって死んだ人々のからだがよみがえるということです。三番目、それから、生き残っている主の恵みによって救われた一人一人が変えられ、よみがえった主のものになった人々とともに、雲の中で主イエス様に会うということです。

イエス様は、お出になります。私たちも準備をしなければなりません。もし準備がなければ、あとで後悔します。将来に備えるために、私たちは将来のことを、もちろん、知らなければなりません。イエス様の再臨の日は、大きな啓示の日です。すなわち、第一番目、イエス様が信ずる者の前に姿を現される日です。二番目、イエス様に属する者がイエス様の前に姿を現わす日です。私たちは、イエス様のまことの姿を見るのです。それは想像できないほど、すばらしい瞬間です。イエス様のまことの姿を見るということは、考えられないことでしょう。目に見えない方が、その覆いを脱ぎ捨て、イエス様はわれわれの目の前に、深い愛と聖さに包まれて、また、この上もなく力強い神聖さと栄光に包まれて立たれるのです。

マタイ伝十七章に、三人の弟子が主の栄光を見たのである、とあります。

マタイ
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

この山の上におけるイエス様の変容は、来たるべき日に、私たちが見るであろうところのものの、単なる予感に過ぎません。イエス様が昇天なさったとき、弟子たちはすばらしい約束を聞くようになりました。

使徒行伝
1:11 ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。

イエス様が、再び来られます。この日は、主が昇天された日と全く同様に確かであり、事実であり、歴史的な真実です。イエス様はあのとき、信者たちの目の前で消えたと同じように現われます。

けれども、『再臨』の日は、信者たちの前にイエス様が姿を現す日だけではなく、今、話したように、二番目、イエス様の前に信ずる者が現われる日でもあります。その日には、本当に信じていた人々、すなわち、イエス様との有機的な結びつきを持っていた者が明らかにされます。ただ口で『主よ、主よ』と言っているだけなのか、あるいは、本当にイエス様の恵みによって救われ、永遠のいのちを持つようになったかが明らかになります。次の二ヵ所を読むと分かります。両方とも厳しい箇所です。

マタイ
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

本当にすばらしい褒め言葉なのでないでしょうか。今度はね、マタイ伝七章。全く逆のことが書いています。

マタイ
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

マタイ伝二十五章に出てくる、五人の愚かなおとめと五人の思慮深いおとめの二つに分けられる、この大きな決定が行なわれるのです。この愚かなおとめたちはランプ――形式、外部の容れ物――を持っていますが、彼女たちは、油と中味と真のいのちを持っていなかったのです。すなわち、彼女たちはみことばを聞き、祈り、聖書も読みますけど、かたちだけだったのです。しかし、思慮深いおとめたちは、油、すなわち、聖霊とまことのいのちそのものを、かたちもふくめて持っていました。その日は、愚か者と思慮深い者を分かち、その一方は、『わたしはおまえたちを知らない』と言われ、もう一方は『お入りなさい』と言われるのです。

イエス様のからだの肢体である者が、確実に明らかになります。パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。ひと文章だけです。

エペソ
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。

有機的に主と結びついているのです。

イエス様は、信者たちを呼び、そして、彼らはイエス様の方に向かって急ぎます。すなわち、墓場から、海から、または、信ずる者のからだのある所、どこからも、信ずる者のからだはこの偉大な第一の復活の日を、ともに祝うためによみがえるようになります。また、その日にこの地上に永遠のいのちを持っている救われた人々は、特別な特権を持っています。すなわち、彼らは死を見ず、墓を知らないのです。すなわち、彼らは一瞬にして変えられ、一瞬にしてよみがえりのからだを得るのです。

すべての本当に救われた人々のために、その救われた人々が、その日に死んだにしろ、生きる者に数えられるにしろ、この日は死に対する勝利です。救われた人々は、新しいからだをもって、イエス様に会うようになります。このからだとは、イエス様がよみがえりの日に身につけたと全く同じよみがえりのからだです。この事実について、いわゆるよみがえりの書に書かれています。よみがえりの書とは、コリント第一の手紙、十五章なのではないかと思います。

第一コリント
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

その日には、また多くのことが起こります。私たちがキリストにあったということが明らかになります。そして、キリストにおいて新しく造られた者は、一瞬にして完全になると聖書は言っています。よく引用される箇所です。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

なお、私たちの身についている全ての汚いものは、清めをし、私たちのうちにあるイエス様は、すばらしき形のうちに姿を現されるのです。その時、次のことばが、全く完成されます。すなわち、『古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった(第二コリント5:17)。』蝶々が、さなぎを脱ぎ捨て、つばさを広げると同様に、古きものは、われわれの中から取り去られ、そこにはただ新しいものがあるのです。この瞬間に、すなわち、この世でもっとも大きな悩みであった、我々のうちにある罪がもはやなくなるとき、そして、罪の元、すなわち、われわれの生活の最も深い悩みであるその源がなくなるとき、すべてが新しく成り変わり、われわれの願いは完全に満たされるのです。

しかし、その偉大な日には、私たちの全生活もまた、イエス様の光の前に現われるのです。心の中にイエス様の姿を宿している、救われた一人一人は、主の恵みの座の前に立つようになります。パウロは、この事実についてコリント第二の手紙の中で次のように書いたのであります。

第二コリント
5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

聖書には二つのさばきがありますが、これは栄光か、または、破滅かを決定するさばきではありません。その日、この世における一人一人の救われた者の生活、働きが主の火によって試されるのです。すなわち、信ずる者が行なったことによってイエス様は救われた人々に報酬、報償、王冠を分け与えるのです。コリント第一の手紙の中で、パウロはこの区別について、次のように書いたのです。結局、二種類の信ずる者がある。

第一コリント
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

その火が、われわれの生活を明らかにします。すなわち、聖い火が、金、銀、宝石と木、枯れ草、わら、すなわち、イエス様から出たものか、または、自分から出たものかを明らかにするのです。

失われるいのちは、何と悔やまれることか、それは、取り返すことができません。永遠の実を結んだいのち、これは、大きな喜びであり、勝利です。もし、そのとき、主がわれわれに次のように言うことができれば、本当に幸いと思います。

マタイ
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

世の中の人々の目に大きく映り、そして、多分、信ずる者たちの前にも、大きく見られる多くの人々は、彼らの生活は、木や枯れ草やわらのように火の中に消えるでしょう。それとは反対に、人々から忘れられ、隠れた生活をした人々、そして、信ずる者どおしに語られなかった多くの人々は、金を与えられるでしょう。

われわれの生活には、何が残るのでしょうか。私たちは、本当にイエス様から出て、イエス様のために生活したか、それとも、自分から、自分のために生活したか、どちらでしょう。その火がそれを明らかにします。

その火は、真の救われた人々にとってすばらしい火です。聖書は、そのすばらしさを表現するために、ただひとつのことばで表現しています。すなわち、『栄光』ということばです。コリント第一の手紙を見ると次のように書かれています。

第一コリント
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

『栄光』ということばは、ローマ書、八章に出てきます。

ローマ
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

大いに悩んだ、何回も刑務所に入れられたパウロの告白です。今の時のわれわれの悩みは、いかに重く深いことでしょう。しかし、この栄光は、それに比べると限りなく大きなものであり、この世の苦しみは、将来の栄光に比べると、言うに足りないとパウロは経験したから、当時の信じる者を励ましたのでしょう。また、ローマ書十三章、パウロは結局、今覚めるべき時刻だよと書いたのであります。

ローマ
13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

イエス様の『再臨』の日のカーテンの後ろに、われわれの信仰の現われがあります。イエス様は、われわれに見えるようになるのです。私たちは、イエス様はすべてのもののすべてであるという目標を持っています。

イエス様のこの『再臨』の日は、われわれの生活におけるもっとも大きな、大切な日です。ですから、私たちの生活にとって、この日が力強い原動力となるべきです。イエス様の『再臨』は、われわれに道を示してくれます。この目標の偉大さが、考えられないほど重要なのであります。私たちがあらゆる認識を、信仰の中に、はっきりと自分のものとすれば、その認識がわれわれの生活に意味を持ち、役に立ちます。すなわち、イエス様の将来、私たちのイエスと会う日、信仰によって自分のものとならなければならない。『再臨』の日が、自分にとって事実とならなければなりません。そして、この事実がわれわれの日ごとの生活に役割を演ずるのです。

もしも、イエス様と会うことに向かって急ぎたいならば、私たちはイエス様のものとならなければならない。なぜならば、イエスに属する者だけが、その日に空で主と会うようになるからです。パウロは書きました。

ローマ
8:9 ・・・・キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

ですから、キリスト教に入ることによって、ある教会の会員になることによって、救われるのではない。キリストの御霊を持たない者は、キリストのものではない。結局、聖霊の宿になることが、まことの救い、そのものである・・・・と、パウロは書いたのであります。

ローマ
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

『私たちに与えられた聖霊。』これこそ、もっとも大切なのではないでしょうか。

コリント第一の手紙の十二章・・・・主な内容とは、結局、教会とは、人間の造ったものではなく、イエス様のからだのものです。イエス様はかしらであり、このかしらとつながっている者が本当の教会です。

第一コリント
12:13 私たちはみな、・・・・一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

イエス様の『再臨』は、イエス様の死と復活と五旬節と、実に密接なつながりがあります。私たちが、これらすべての救いのための事実を自分のものとすれば、私たちは、『再臨』の日に、燃えることのない金や銀となって、耐え通すことができます。イエス様の十字架において、イエス様とともに変えられた者が、イエス様に属するのです。私たちはイエス様に、われわれ自身より、われわれの持てるものすべてを、われわれの罪、悩み、病、困難などすべてを捧げるのです。すると、イエス様はそれらすべてを受け取り、われわれの罪の結果を担ってくださるのです。すなわち、その現われは十字架の死です。

けども、私たちがイエス様を、主のいのちを、そして、イエス様が持っておられるすべてのものを、すなわち、罪の赦し、イエス様の義、また、主のいのちを受け取るのです。いのちのやりとり、それは、完全にお互いに与え合うことです。イエス様は、われわれの罪の罰を十字架で担い、そして、イエス様のよみがえりのゆえに、主のいのちはわれわれのうちによみがえっているのです。これが、信ずる者のいちばん大切な経験です。すなわち、イエス様がわれわれの救い主となり、私たちがイエス様のからだの肢体となるのです。

イエス様は、信ずる者すべてに与える聖霊によって、われわれのうちに生きておられます。私たちは、この最初の経験を体験的に知っているでしょうか。イエス様の『再臨』の日を考えると、もっとも大切な、そして、個人的な質問がそこにあります。すなわち、私はほんとうに永遠のいのちを持っているのでしょうか。私たちは、イエス様をわれわれの救い主として、ほんとうの意味で経験しているのでしょうか。

もし、誰かが、ある若い娘さんに、『あなたは結納を済ませましたか』と尋ねれば、その娘さんは、『はい』、または、『いいえ』と答えることができます。けど、彼女があなたに、『そんなことがどうして分かりましょうか』と答えたら、あなたは何かおかしいと思うのではないかと思います。

これと同じように主のものであるかどうか、または、今日からイエス様のものになりたいのかどうか、人々は本当に、はっきりと確かに知ることができます。この決定をする者がイエス様に属し、その時からイエス様とともに歩むのであり、その人のいのちは全く新しい内容、すなわち、イエス様は私たちのいのちであるということを知るのです。もし、私たちがこの最初の経験をしたのならば、イエス様は、われわれに新しい歩みのために奉仕するために、必要な力を必ず与えてくださいます。

イエス様は、五旬節の時、弟子たちに与えられた力、また、装備をわれわれにも与えたいのです。聖書は、簡単に言っています、『一同は聖霊に満たされた』と。この装備なしには、私たちはその『再臨』の日に主の前に耐えることができるような生活をすることは、もちろん、できません。聖霊の力なしには、だれも聖霊による生活を送ることはできない。すなわち、イエス様の光に耐えたいと思う者は、聖霊に満たされなければなりません。

私たちが自分の生活に聖霊がつく経験をいかに十分持っているか、また、私たちが聖霊は主であると、どれだけ良く知っているか、否かはわれわれの意志の決定にかかっています。もし、私たちが聖霊にわれわれのすべてを捧げるならば、聖霊はすべてを受け取り、そして、私たちを完全に満たします。もし、私たちが本当に、主イエス様のものであるならば、聖霊は、私たちのうちに宿っているはずです。その私たちのうちに住まれる聖霊の第一の働きの結果は、聖霊が私たちをイエス様とのより深い交わりに導くということです。

聖霊は、われわれを祈りに追いやります。聖霊は、私たちに主の前にあって、正しい道を指し示すのです。聖霊はただ一つの願い、すなわち、私たちがより良く、より深く、イエス様を知るという要求を持っています。聖霊に満たされている人々は、平安を好む人々であり、祈りの人です。聖霊が、信者をイエス様の姿に立ち帰らせるという大きな使命を成し遂げるために、主の前に過ごす時間が、(私たちには)何と必要なことでありましょうか。ヨハネは簡単に当時の信ずる者を励ましたのです。

第一ヨハネ
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

もう一ヵ所、読んで終わります。

コロサイ
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

イエス様は近く、来られます。このことばこそ、初代教会にとって、考えられないほど大切でした。『イエス様はすぐ来る。』このことばは、口から口へ語り伝えられ、そして、このことばは、当時の証し人たちに迫害の最中において、絶えず力を与え、喜んで死の旅路につかせたのでした。

彼らは欺かれたのでしょうか?それとも、彼らは空しく待っていたのでしょうか?イエス様は、『わたしは再び来る、しかし、その時と場合は、父が定めておられる』と語られましたから。と言うのも、このことばは生き生きとした信仰の本質をなすものであり、イエス様の『再臨』の事実が、目の前に生き生きと認められるのです。すなわち、多分、今日かも知れない。

『再臨』を待ち望むことこそが、考えられないほど大切なのではないでしょうか。思い煩い、心配、恐怖、孤独から解放されるからです。『その時は近い』と、主は呼びかけておられます。イエス様はすぐ来られるという事実を信じましょう。

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