2013年12月13日金曜日

ひとりのみどり子が私のために生まれる

ひとりのみどり子が私のために生まれる
2013年12月13日、田無家庭集会
ゴットホルド・ベック

イザヤ
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

ルカ
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

主なる神は、大いなる贈与者です。与えたくて与えたくてしかたがない。言うまでもなく、偽物ではなく、本物を与えようと望んでおられるお方です。

創世記
2:8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

『エデン』という言葉を訳しますと、『好ましい喜びの国』ということになります。エデンの園には、人間の霊、人間の魂、人間の肉体を完全に満足させるものが備わっていました。このすばらしい環境の中で、アダムは、主なる神との完全な交わりを持っていたのです。初めての人間は、主なる神を完全に信頼し、完全に服従しました。ダビデという詩篇の作者は、次のように言ったのです。

詩篇
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

これこそ、エデンの園に置かれていたアダムの告白でもあったでしょう。

詩篇
73:28 私にとっては、神の近くにいることが、しあわせです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

主との交わりは、もっともすばらしく、もっとも尊いものです。もし、本当にすばらしい贈り物をもらうと、なんとするのでしょうか。もちろん、与えられた贈り物を大事にします。大切に保存します。けれども、初めての人間は、このすばらしい贈り物、すなわち、主なる神との交わりを大切にしませんでしたから、罪を犯すようになり、与えられた贈り物である主との交わりという贈り物を、結果として、なくしてしまいました。人間は、エデンの園から追放されました。この初めての人間の堕罪は、結局、全人類に影響を及ぼしたのです。

創世記
1:21 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

1:24 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。

ここで二回も、「種類にしたがって」と書いてありますが、どんな植物でも動物でも、各々の種類にしたがって繁殖します。植物はいつも、植物の生命を持ち、動物はいつも、動物の生命を持っています。人間はいつも、人間の生命を持っています。

したがって、植物が動物になることは絶対にありませんし、動物が人間になることもありません。ゆりの種は、いつもゆりを生じ、鳥を生み出すなどということは考えられません。すずめはすずめです。すずめが人間を生み出すことはできません。同じように、人間は人間の生命だけを生み出します。ゆりがすずめを生み出すことができないのと同じように、人間は神の永遠のいのちを造り出すことはできません。これは、はっきりと定められている、いわゆる遺伝法則です。

初めての人間は、罪を犯すことによって、罪の性質を持つにいたりました。ですから、アダムとエバの子供も、罪にまみれた、単なる罪の性質しか持っていなかったのです。初めての人間の子孫は全部、これと同じ性質、すなわち、罪の性質、罪にまみれた性質を持つようになりました。これもはっきりと定められている遺伝法則です。ですから、全人類は、すべて罪だらけの性質を持っています。

ローマ
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

ここでは、次の三つのことは確かです。

第一番目、罪があるということは事実です。人間は、罪人です。聖書だけではなく、どの人間の生活を見ても、それが立証されています。

二番目、どんな人間でも罪人です。「義人はいない。一人もいない」と、聖書は言っています。すべての人は迷い出て、ことごとく無益な者となっている。善を行なう人はいない。ひとりもいないと、聖書は言っています。

【参考】ローマ
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

三番目、どんな人間でも、罪を犯す前に、もう既に罪人です。罪とは、行ないだけではなく、状態です。人の心の内にある誤った方向を言います。人間は、罪の本質を受け入れています。主にヨブ記の中で、このことが次のように表現されています。

ヨブ
14:4 だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。

ヨハネ
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

聖書のいちばん有名な箇所です。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

初めての人間であるアダムの持っている本質は、罪を犯したことによって汚れました。また、彼は、自分の形のような子供を生みました。この子供たちは、父、アダムの罪の本質を受け継いでいます。このようにして、罪の毒が全人類に入り込みました。しかし、主なる神が、人間にエデンという好ましい喜びの国をお与えになっただけではなく、次の第二番目の大きな贈り物を与えました。この贈り物とは、いったい何なのでしょうか。今、読みました箇所です。ヨハネ伝3章16節です。聖書全体の言わんとしていることが結局、ここに言われています。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子(・・・・であるイエス様・・・・)をお与えになったほどに、世を(・・・・自分を・・・・)愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

確かに、初めての人間は造られたいのちしか持っていなかったのです。今日、イエス様に頼るもの、自分のわがままを告白するものは、造られたいのちだけではなくて、永遠のいのちを持つようになります。

主なる神の御心は、堕落した人間を救うことでした。救いとは、主なる神との交わりをもたらすことです。救いとは、いのちの泉との交わりを持つことです。

人間は、このいのちの泉との交わりを持つならば、生き返り、救われます。けど、誰が人間を救い得るのでしょうか。死人は、決して、神のいのちとの交わりをもたらしません。すべての人は、罪の本質を持っており、霊的に死んでいますから、人間を救うことはできません。人間は自分で、いのちの泉への道を見いだすことはできません。どんな宗教も、主なる神との交わりへの道を見つけ出そうと試みています。また、それを人間の力で成そうと試みています。けど、それは全く無駄なことです。

ルカ伝を見ると、いわゆる『良きサマリヤ人』について書き記されています。

ルカ
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

よく聞く話ですね。良きサマリヤ人の場合、反殺しにされた旅人は、自分で自分を救うことはできませんでした。この旅人を救ったのは、他国の人でした。同じ国の人、また、いかなる宗教も、旅人の絶望的な状態を結局、救うことはできませんでした。人間は決して、同じ人間を救うことはできません。主なる神の側からの働きかけがなければいけません。主は、自分から離れ、罪人となった人間を探しておられます。

主なる神は、人間一人ひとりを救うために、ご自分の持っておられたいちばん尊いもの、いちばん愛されているもの、すなわち、ご自分の御子であるイエス様をお与えになったのです。どうして、これが必要だったのでしょうか?

聖書のどこを見ても解かりますが、主なる神は、全く聖なるお方であると、はっきり記されています。聖さは、罪との交わりを持つことができません。主なる神は、罪と妥協することのおできにならないお方です。主なる神は、したがって、罪を罰し、罪人を追放せずにはおられないお方です。もし、主なる神が、罪を罰しないなら、罪と妥協することになります。これは考えることのできないことです。

主なる神は初めは、人間の親しい友であり、人間を愛しておられた創造主でしたが、罪によって、人間の審判者となりました。主なる神は、非常に人間を愛しておられるから、人間を罰しないと言っている人もいますが、これは全くの誤りです。主なる神は、全く聖なる方ですから、罪を裁かずにはおられないのであります。主なる神は、全く聖なるお方であると同時に、全き愛の持ち主です。主なる神は、全く聖なるお方ですから、人間の審判者になりました。けれども、主なる神は、全く愛の持ち主であるから、救い主ともなったのです。

ところで、どうしたら主の聖さと、主の愛が両立するのでしょうか?

ある男が、親しい友だちを持っていました。この人は、この友を非常に愛し、お互いに会い、たいへんによい交わりを持っていました。けど、ある時、その友は悪い行ないをして、多額の負債を作ってしまいました。この人は、負債を負った友を非常に怒りましたけど、一方、この友を非常に愛していました。ところで、この人の愛と、この人の正しさは、どうしたら調和することができるのでしょう?この人は、友を叱るとともに、その友の負債を全部、支払ってやりました。ここに、この人の正しさと愛が始めて調和したわけです。

ここには、ただひとつの道がありました。それは捧げることです。この捧げることにより、その友は、悔い改めに至ったのです。

主なる神は、堕落した人間を愛すると同じように、堕落した人間の罪を憎みます。主なる神は、堕落した人間の審判者であるばかりでなく、救い主にもなってくださいました。ご自分の御子をお与えになることによって、救いの道を開かれたのです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。人間一人一人を愛したのです。これがクリスマスです。もし、主なる神がそのひとり子をお与えにならなかったならば、救いは訪れなかったでしょう。御子、主イエス様は、天にある全ての栄光を捨てて、我々と同じ人間になりました。

御子、主イエス様は、神の性質を持ってはおられましたが、けども、神の力、神の栄光を捨てて、人間になられました。これは何という人間のわがまま、人間の過ちに対する主の答えなのでしょうか。私たちがどんな悩みにある時にも、どんな難しい問題にある時でも、それに対する主なる神の答えは、いつでもイエス様です。イエス様は、我々の身代わりになって、永遠の贖いのわざを成し遂げられました。

主なる神が、御子、主イエス様の血は、人間のすべての罪を取り除くのに十分であると言っておられます。主なる神は、第一の人に好ましい喜びの国、また、ご自分との交わりをお与えになりました。しかし、初めの人間は、この贈り物を大切にしませんでした。主なる神は、しかし、救うために、ご自分の持っておられたいちばん尊いもの、いちばん愛されているもの、すなわち、イエス様をお与えになったのです。私たちは、この贈り物を受け入れたのでしょうか。イエス様を生んだマリヤは、告白しました。すなわち、「私のたましいは主をあがめ、私の霊は、救い主なる神をたたえます。」

私たちは、いかにして、この大いなる贈り物を受け入れることができるのでしょうか。まず、感謝することによってです。イエス様は、私たちがまだ罪人だった時、私たちの罪のために人間になり、ご自分のいのちを捨ててくださいました。私たちはこの主に対し、心からなる感謝を捧げているのでしょうか。感謝しないことは罪であり、感謝をしない生活は、天の窓を閉じてしまいます。

詩篇
50:23 感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。

このみことばを逆に考えるなら、感謝のいけにえをささげない者は、わたしを侮り、自分の行ないを慎まない者には、神の救いが示されないということになります。主に感謝のいけにえを捧げないものは、生かされない。元気になりません。

私たちは、主に感謝しない罪を言いあらわし、主におわびしたいものです。主は、我々が心をもって、くちびるをもって、感謝のいけにえを捧げることを待っておられます。

第二コリント
9:15 ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

ヨハン・セバスチャン・バッハという音楽家は、いろいろなカンタータを作ったんですけど、ひとつのカンタータの文章は次のようなものです。「私は、私の生活を見ると、私の口から、次の言葉が出てきます。主よ、私の神よ、あなたは私のために何をなされたのでしょうか。たとえ私の舌が千枚あっても、あなたのなされたことを言い表すことができません。あなたは何と善良なのでしょうか。あなたの愛は、何と豊かでしょう。だからあなたに、賛美と栄光の歌を歌います。」

私たちは主に対して、心からなる感謝を捧げているのでしょうか。私たちは、いかにして提供された贈り物を、自分のものにすることができるのでしょうか。今、話したように、感謝することによって。二番目、主を礼拝することによってです。

イエス様は、我々のために人間になり、我々の代わりに罰を受けました。主なる神は、我々の罪のために、イエス様を罪のかたまりとされました。これに対して心からなる礼拝を捧げようと思いませんでしょうか。御子イエス様のものすごい苦しみを考えると、自分の罪を嫌いませんでしょうか。問題は、全くはっきりしています。それは、自分とイエス様のあいだの問題です。イエス様を受け入れたいのか、それとも、拒みたいのかのどちらかです。

クリスマスの呼びかけとは、『イエス様を受け入れなさい。全部、イエス様に任せなさい』という呼びかけであります。そうすると、いのち、永遠のいのちが自分のものになります。考えられない贈り物です。何という救いの計画でしょう。ですから、自分自身をイエス様に明け渡しましょうと願うようになれば、絶対に後悔しません。

クリスマスの喜ばしい知らせとは、いったい何なのでしょうか。イエス様は、私たち一人ひとりのために、ベツレヘムでお生まれになりました。けど、もしイエス様が千回もベツレヘムでお生まれになったとしても、自分の内に生まれなければ、自分にとって何の価値にもなりません。主なる神は、人間一人ひとりにイエス様の内にある永遠のいのちを差し出しておられます。

イエス様の弟子たちは、イエス様を見て、彼のうちにいのちがあると証ししました。本当にそうです。イエス様は、人間に永遠のいのちを与えるために来られました。イエス様は、よく言われました。すなわち、「わたしはいのちそのものです」と。ことばに表わせないほどの賜物を受け入れるか、拒むかのどちらかです。

イエス様は、すでに十字架でご自身のいのちを捧げました。イエス様は、こうして悪魔に打ち勝ちました。ですから人間は、もはや悪魔の奴隷でいる必要はありません。ですから、主が、全てなさったから、人間は、提供されたものを受け取れば十分です。イエス様は全人類の債務を担われました。ですから、誰でも、聖なる神に近づくことができます。イエス様の完全な救いのために感謝しようではありませんか。

提供されている救いを得る道とはなんでしょうか?すなわち、信仰です。

ヨハネ
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

申命記
30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生きるようになるために。

第一の人、アダムは死を選びました。私たちはどちらを選ぶのでしょうか。

主なる神の贈り物を、いかにして受け入れることができるのでしょうか。今、返事として言ったのは、第一番目、感謝することによってです。二番目、主を礼拝することによってです。

最後に、三番目になりますけども、イエス様を愛することによってです。イエス様を愛する者は、必ずみことばを愛する者です。私たちは、飢え渇きをもって、聖書を読むのでしょうか。

御言葉を読まない怠慢は確かに罪です。私たちは、日々、また、何週間も喜びを持たないで、聖書を読んでいる時がないでしょうか。もし私たちが、飢え渇きをもって聖書に接しなければ、また、みことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないからといって、不思議はありません。イエス様に対する愛の欠乏は罪です。イエス様は、私たちが心を尽くし、精神を尽くして、ご自分を愛することを願って、待ち望んでおられます。単一な心をもって、主を愛することを願っておられます。

聖書の中に、主はねたむ神であると書かれています。妻が夫を、夫が妻を半分だけしか愛さなかったら、他の人を愛したら、ねたむでしょう。もし私たちが、心を尽くして主を愛さなければ、主は悲しまれます。私たちは、イエス様の血によって贖われた者であり、私たちのすべては主のものです。私たちの愛も、ひたすら、主に注がれなければなりません。我々は、仕事や両親、また、自らの思いに忠実であり、主よりもこれらにより忠実に歩んでいるのでしょうか。イエス様に対する愛の欠乏は罪です。愛の欠乏を主に言い表しましょう。

また、主に頼らないことも罪です。主は、今日、ご自分に頼る人々を望んでおられます。私たちがイエス様に頼ることが、主のご栄光を現す唯一の道なのではないでしょうか。もし私たちがイエス様をのけ者にして、一人で何かをやるなら、それはイエス様の恥となります。私たちは本当に、主に頼っているのでしょうか。もしそうなら、私たちは、自分で何か役割を演じることはできないでしょう。けれども、イエス様は、ご自身の栄光を現されるでしょう。

イエス様のご栄光が現れること、これがいちばん大切です。もしイエス様のご栄光が現れたら、自分は変わることのない喜びを自分のものにすることができます。

ルカ
2:10 ・・・・「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

恐れるな。大きな喜びをあなたに。あなたのために、救い主がお生まれになったと。

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