2023年4月1日土曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】24.悪魔の権力と誘惑のなかのなぐさめ

24.悪魔の権力と誘惑のなかのなぐさめ

黙示録14章1節から5節まで

1.守られた神の民
[1]四つの試練
[2]四つのなぐさめ
2.神の民の勝利の歌
3.神の民の生活における救いの実
[1]しみのないこと
[2]小羊に従うこと
[3]神の初穂とされたこと
[4]批難されるところがないこと

(1)また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。(2)私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。(3)彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。(4)彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。(5)彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。(黙示14・1~5)

私たちは、黙示録第13章で、終わりの時代における悪魔の二つの道具について学んできました。海から来た第一の獣は反キリストであり、地から来た第二の獣はにせ預言者でした。この二人は、終わりの時代における国家と宗教との指導者です。反キリストは悪魔の権力の道具であり、にせ預言者は悪魔の誘惑の道具です。

これから学ぶ14章1節から5節までのテーマは、「悪魔の権力と誘惑のなかのなぐさめ」です。

私たちは、黙示録12章から13章で、悪魔の目的が何であるかを学んできました。そして、悪魔のわざは「神の沈黙」の中で行なわれます。しかし主なる神は、たとえ沈黙しておられても全能の支配者です。この14章で、私たちは主なる神がご自身の目的を達成されていかれる手順を見ることができます。そして悪魔のすべての計画は失敗せざるをえないのです。

また14章は、終わりの時代に起こることの概観です。この章では、終わりの時代に起こるできごとが、きわめて簡潔に記されています。そしてこのできごとは、15章以下でさらに詳しく見ることができます。つまり14章は、15章以下の要約なのです。

黙示録第14章のテーマとしては、ほかにも次のように言うことができるでしょう。「イスラエルの民の中心に立つイエス様」、「小羊と小羊に属する人々」、「小羊のもとに隠されている十四万四千人」、「目的への到達」、「近づいたイエス様の勝利」、「残りの信ずる者たちに対する励まし」、「シオンの山に立つ小羊と残りの者たち」。

まず1節から5節までを、三つに分けて見ていきましょう。まず1節にある「守られた神の民」、次に2節と3節の「神の民の勝利の歌」、そして4節と5節の「神の民の生活における救いの実」です。

1.守られた神の民


14章1節で、ヨハネは、13章のように獣について見るのではなく、小羊を見ています。「私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。」とあります。これは、今から未来において、もっとも感動的ですばらしい光景です。

ヨハネは、13章では恐るべきものを見なければなりませんでした。このためヨハネの心はふさがれました。しかし14章でこの小羊を見たとき、どれほど大きな安らぎをおぼえたことでしょう。

かつて荒野にいた洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1・29)と言いました。

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(ヨハネ6・40)

あなたはもうすでに、神の小羊であるイエス様を知っておられるでしょうか。「小羊」という言葉は、私たちの罪に対する神の怒りとさばきとを、身代わりとなって受けてくださったイエス様の十字架の犠牲を意味しています。ヨハネもまた、小羊イエス様を見上げ、罪の赦しを体験した一人でした。

わたしたちの目は、何に向けられているでしょうか。

彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。(詩篇34・5)

もしあなたの目が、自分自身、あるいは自分の高慢な心に向けられるなら、あなたは劣等感におそわれます。もしあなたの目が、自分の周囲の状態に向けられるなら、平安が失われ、心に不安が起こります。しかし小羊イエス様に目が向けられているときには、私たちは確信と喜びと平安とに満たされるのです。

シオンの山に小羊が立っておられるということは、イエス様が反キリストとにせ預言者の二つの獣に打ち勝たれたことを意味しています。シオンの山は主が住まわれご支配なさる場所です。シオンの山は小羊イエス様とイエス様に従う人々の住む場所であり、救いと安全の場所です。

あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、わたしの聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり、他国人はもう、そこを通らない。(ヨエル3・17)

私たちはこれまで、神が終わりの時代にイスラエルの民を、印と測りざおとをもって守られることを学んできました。

「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」(黙示7・3)

それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。」(黙示11・1)

女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。・・・・しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。(黙示12・6、14)

シオンの山は、小羊イエス様による守りの場所です。そしてシオンの山は、神の救いにあずかる恵みをも意味しています。

その昔、神の箱をペリシテ人に奪われた大祭司エリの時代、サウルが王となった後の困難な時代の後、主はダビデを起こされました。ダビデはシオンの山に城を設け、そこからイスラエルの民とともに下っていき、勝利につぐ勝利をおさめました。黙示録の14章に示されているように、真のイスラエルの王である主イエス様も、シオンの山でイスラエルの民を守られ、お救いになります。そのときに千年王国が始まるのです。

シオンの山はあらゆる時代を通してイスラエルの民のあこがれの的でした。多くのイスラエルの民がシオンの山に登り、そこで主なる神をたたえ、そして礼拝をささげました。

神が臨在なさるところには、守りと安全があります。シオンは、イエス様が千年王国を支配する場所を置かれるところです。

主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。」(詩篇132・13、14)

この14章1節に書かれている「十四万四千人」は、すでに7章1節から8節で学んだ「イスラエルの残りの者たち」です。7章において、大きな苦難の時に守られるために十四万四千人に印が与えられました。この印は、彼らが主の所有物であることを示す目印として与えられたのです。私たちは、黙示録14章で主が約束を守られることを見出します。なぜなら、神は反キリストの時代を通して彼らを守られたからです。

黙示録14章には、「大きな苦難の時」に続いて起こることが記されています。ヨハネは、大きな苦難の時のできごとひとつひとつが実際に起こる前に、見ることができたのです。

ヨハネは、十四万四千人が小羊イエス様のもとで守られているのを見ました。彼らの額には小羊の名と小羊の父の名とが記されていました。彼らはもっとも暗い、きびしい時代に、イエス様と主とを告白していたのです。

小羊と主の名が記されていることは、13章16節に書かれている「獣を拝む者に獣の名が刻印される」ことと対立するものです。刻印は単に外見だけではなくそのものの本質も表わします。神の刻印を押された者はイエス様の本質を持つのです。彼らはイエス様と同じ姿に変えられて行くのです。

私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ4・19)

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3・18)

これに対して獣の刻印を持つことは、意識的に獣を受け入れている者であり、獣の所有物であり、悪魔の本質を持つことを表わしています。

十四万四千人は、大きな苦難の時に、生けるまことの神への真実を守り、神の証し人となったのです。そして何者も、苦難の時に彼らに害を加え、損なうことができません。

そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。(黙示9・4)

主は三年半の試練の時に、ちょうど火の中のダニエルと三人の友達とを守られたように、彼らを守られます。このことは、私たちに何を語りかけているのでしょう。

[1]四つの試練


終わりの時代に、十四万四千人のユダヤ人が試練に出会うように、私たちも四つの試練に出会います。

一つめの試練として、悪魔や悪魔の道具が単なるまぼろしではなく現実に現われ、苦しみと悩みが襲ってきます。こういう場合には、イエス様をとおして、神が光と平安のうちに天におられることを知っていたとしても、自分自身の状態はどこまでも変わらず、みじめで絶望的だと思われることがしばしば起こります。これが試練であり、こういう時こそ闇と暗黒の中にあってもしっかりとイエス様につかまっていることが大切です。人々はイエス様にまったく見捨てられたように感じるかもしれません。しかし、決して見捨てられてはいないのです。

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」(ヘブル13・5、6)

二つめに、人々に時に主に守られていないという考えが襲うかも知れません。しかし主は、いかなる困難にあってもイスラエルの民を守り、導くと約束なさっておられます。この約束は、もちろん私たちにも与えられています。

川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。(詩篇46・4、5)

しかし実際には、神の助けが見えず、あごが水に沈むように思われることがしばしば起こります。このようなとき、人は誰からも助けてもらえないと思うかもしれません。しかし、これも試練の一つです。

三つめに、人はまったく孤独であると感じることがあるかも知れません。これも、大きな試練です。人はしばしば、信者や未信者から失望させられます。そしてそれによって、深い孤独感を味わうことがあるかもしれません。またあるとき、人は聖徒たちの交わりによって強められることがなく、逆に彼らの愛のない態度によってつまずくことがあるかもしれません。このようなとき、私たちは心の平安を失ってしまうかもしれません。これもまた、悪魔によって与えられる試練の一つです。

四つめに、私たちは目の前の困難を見て、自分は無力で、弱く、もはや前進することができない、と思いこむかもしれません。私たちは自己の無力さを感じ、諦めてしまうかもしれません。私たちは何をやっても無駄であり、すべてが駄目になると思うかもしれません。このようなとき、悪魔は私たちから平安と喜びを奪い取るのです。

このように私たちは、見捨てられ、助けが得られず、孤独で、無力だ、としばしば感じます。このような試練に出会って駄目になってしまう人々が何と多いことでしょうか。

[2]四つのなぐさめ


しかしヨハネは、このようなときにまったく違ったものを見ることを許されました。ヨハネは、「四つのなぐさめ」を見出したのです。

まず、一つめに、主は小羊をとおして、自分の民のそば近くにおいでになります。主はその民のまん中におられます。それは目には見えないが、真実であり、現実です。目に見える世界では試練がおそってきて、みこころとは逆のことが行なわれているように見えるときでも、この真実と現実はゆるぎません。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)とイエス様ご自身が言われたとおりなのです。

イエス様は、小羊として私たちの罪を一身に負われました。十字架のみわざによって、神の怒りは私たちから永遠に取り去られたのです。イエス様を救い主とし、また主として受け入れた人は、もはやイエス様に捨てられることはありません。またイエス様の守りから外れることも、ひとりぼっちになることもありません。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)

二つめに、イエス様はご自身に属する者をよくご存知です。その額に主の聖霊の証印を押された人々は、主のすばらしい救いを体験します。エリアはかつて、イゼベルの怒りの前に、誰も助けてくれる者はいないと思いこみました。しかし主は、バアルの前にひざをかがめない七千人の人々が残されていることをはっきりと示されました。黙示録にある十四万四千人のユダヤ人たちもまた、大きな苦しみの日にも、絶望におちいる寸前にそこから救い出されるのです。

三つめに、イエス様は、十四万四千人の人たちとともにシオンの山に立たれます。それは、堅い基礎の上に立つことを意味しています。つまりどのような場合でも、イエス様の完全な守りが与えられるのです。時に人は、堅い基礎を見出すことができず、悪魔がその基礎を打ち壊してしまったかのように思うことがあるでしょう。しかしイエス様は、「わたしはわたしの教会を建てよう」と約束してくださっています。

わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16・18)

四つめに、神とイエス様の名とが、人々の額にしるされます。人間の知恵や力は試みの前には何の役にもたちませんが、イエス様はご自身の民をご自身のものとして守ってくださいます。イエス様がみ手を伸ばして守ってくださるとき、悪魔は何の力も持ちえません。イエス様に属する者は、神の全能の守りの下に置かれているのです。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネ10・28)

2.神の民の勝利の歌


「神の民」とは、ユダヤ人の残りの者のことです。ヨハネは黙示録7章で、十四万四千人のユダヤ人たちの額に証印が押されることによって、戦いに対しての備えがされることを見ました。

そして黙示録14章で、ヨハネは彼らが戦いの後に勝利者となっているのを見るのです。6節に「あらゆる国民、部族、国語、民族」とありますが、これはその時に、ユダヤ人たちがそれぞれの国から自分の国へ帰って来ることを意味しています。

わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。(エゼキエル36・24~28)

黙示録の14章1節から3節に出てくる、勝利者たちがシオンの山の上で新しい歌を歌う、ということは、彼らがこの地上で「新しい歌を歌う」ということです。イエス様は、エルサレムで十四万四千人の人々とともに千年王国を建設するために再びこの地上に来られ、エルサレムのシオンの山に立たれるのです。また、聖書の別の箇所では、主の足がオリーブ山の上に立つ、とあります。オリーブ山は、シオンの山の近く、その向かい側にあります。

主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。(ゼカリヤ14・3、4)

ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主が、とりこになった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。(詩篇14・7)

まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。(詩篇1・6)

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。(イザヤ2・2~5)

2節から3節で、力強い歌声が天から響いてきます。その歌は、大きな苦難の日に命を捧げた殉教者たちが御座のまわりで神に捧げている歌です。13章で、ヨハネは獣の像が拝まれているのを見ました。しかしここで殉教者たちが神に捧げる礼拝は、純粋で、清く、敬虔な礼拝です。この歌声は大水が響くように、あるいは多くの稲妻が轟くように力強いものです。

この歌はイエス様の勝利の偉大さと、イエス様の真実の偉大さへの力強い賛美です。なぜなら彼らに、悩み、苦しみ、悲しみをとおして、イエス様の限りない守りが与えられていたからです。

人は苦難をとおして、心をかたくなにするか、心を平安にしイエスの勝利をほめたたえるようになるかのいずれかになります。「悩みこそ祈りを教える」ということわざがありますが、苦難の中で心から祈る人は祈りが必ず聞き届けられることを体験し、イエス様の勝利とすばらしさをほめたたえるようになります。

十四万四千人の人々は、声を合わせて歌っています。彼らもまた、苦難をとおして新しい歌を学んだからです。彼らも、御座の周りにいる殉教者と同じように、苦難を通ってきたのです。

彼らの心は、主の愛と誠実さに驚き、そして礼拝せざるをえないのです。彼らの礼拝の中に、主に対する喜びがいきいきとしています。彼らは、主への礼拝が困難となった時代の背後にも、誠実な神の愛が働いていたことがわかったのです。

この新しい歌は、苦難をとおして小羊と一つにされたことから起こります。新しい歌は、神の新しいみわざに対して捧げられたものです。この新しい歌の土台は、イエス様が流された血です。

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3・24)

苦難の時、闇の時こそが、新しい歌を生み出します。

私たちの人生で、何がいったい「新しい歌」を生み出すもとになるのでしょう。それは罪と咎の赦し、罪の鎖からの解放であり、病いや悩みや老弱の時にイエス様に担われ、運ばれたことの体験であり、仕事であらゆる困難に出会ったときにイエス様に守られたことの体験であり、そして信仰への迫害の時に守られたことの体験です。罪が赦され、新たにされることによって、「新しい歌」が歌われるのです。

イエス様は十字架につけられて「すべてが完了した。」と叫ばれました。そして復活なさったイエス様は「すべてが新しくされる。わたしがすべてを新しくする。」と言っておられます。新しくするとは、神の怒りから救い出し、神との交わりに入れてくださることです。これはただ罪の赦しをとおしてのみ可能であり、罪の赦しはイエス様をとおしてのみなしとげられます。

イエス様は、十字架によって罪の赦しを完成され、それをすべての人に提供しておられます。イエス様は今もあなたのために取りなしをしておられ、誰でもイエス様を受け入れる者は新しくされるのです。どうかイエス様をあなたの救い主として受け入れてください。そしてイエス様を礼拝する人になってください。

3.神の民の生活における救いの実


イエス様の勝利が隠されている、ということはありえないことです。イエス様の民は必ずそのことを体験します。私たちは、残されたユダヤ人たちがイエス様に対して忠節をつくしたことをすでに見てきました。彼らの額にしるされたまことの神の名を、すべての人が見ることできました。彼らは獣を拝まないで、イエス様を礼拝したのです。

もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。(ヨシュア24・15)

私たちは、主に対して忠実な日常生活を送っているでしょうか。私たちは新しい歌の実を持っているでしょうか。この黙示録の4節と5節では、新しい歌を歌う人々の四つの特徴が表わされています。

[1]しみのないこと


まず彼らは、女性によって汚されたことのない人々です。同じことを、以下の聖句にみることができます。

というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(第二コリント11・2、3)

きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。(第一テモテ3・9)

あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。(第一ペテロ1・22)

そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。(第二ペテロ3・14)

父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(ヤコブ1・27)

聖書において「姦淫」や「不品行」は、主に対する不忠実のしるしです。ギリシャ語やラテン語では、この反対が「おとめ」という言葉です。この言葉は男性、女性両方に用いられるので、日本語の「童貞」という意味も持っています。アベルやヨセフやメルキゼデクやヨハネについても、この言葉が用いられています。すなわち「おとめ、童貞」は、神に対する忠実さ、礼拝における純粋さを表わしているのです。

十四万四千人の人々は、守られていると同時に、一方では汚れから自分自身の身を守っている人々です。詩篇の16篇1、2節は、ダビデのこのような態度を示しています。

神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩篇16・1、2)

おとめが花婿以外の者に愛を捧げることがないように、十四万四千人の人々もイエス様以外に彼らの愛を捧げることはありません。誘惑と試練のなかで、彼らはつねにイエス様だけを待ち望みました。困難の中で、彼らはイエス様だけに勇気と守りを求めていたのです。

[2]小羊に従うこと


まことのキリスト者を簡単に定義すると、「小羊イエス様に従う者」です。

門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(ヨハネ10・3、4)

小羊イエス様に従う者とは、闇の中でも、迷い道でも、イエス様だけに忠実に従う者をさします。小羊イエス様の道は、力や権力や自己主張の道ではありません。小羊イエス様の道は、従順と献身との道です。

イエス様に対する愛は、感情的な愛ではなく、私たちの生活を根本から定め、支える愛でなければなりません。イエス様に対する愛とは、あらゆる障害にもかかわらずイエス様に従い通す愛です。そしてイエス様に従う者は、つねにイエス様の指し示すところに従う備えができています。

4節に見られる彼らの態度は、イエス様のお導きに完全に従っていくことでした。今の時代で言えば、たとえ結婚しようとしまいと、イエス様のご用のために自らを捧げることです。私たちは徹頭徹尾、イエス様の導きに従っているでしょうか。小羊イエス様の道は苦難と犠牲の道ですが、それはイエス様の栄光に至る道なのです。

[3]神の初穂とされたこと


彼らは小羊にささげられる「初穂」として、人々の中から贖われました。十四万四千人は初穂、つまり刈り入れの初めとして、来るべき千年王国のためにイスラエル人の中から選ばれ、備えられた人々です。しかし千年王国は、さらにすべてのイスラエル人によって満たされるはずです。ローマ人への手紙には次のようにあります。

こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。(ローマ11・26)

十四万四千人は新しい国の初穂であり、イエス様とともにこの地上を支配します。十四万四千人の人々は、イスラエル民族の千年王国の初穂であり、彼らの使命は「地上的」なものです。

これに対し私たちは、イエス様のからだである教会の初穂であり、イエス様のからだである教会の使命は「天上的」なものです。

つまり、私たちが救われたのは、この地上での祝福を受けるためではありません。イエス様のからだである教会は主ご自身のために救われたのです。確かに教会はこの地上にありますが、この地上のものではありません。教会の心は主に結びついていますから、私たちはこの世から離れて天上の主に結びつくことが必要です。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6・19、20)

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(第一ペテロ1・18、19)

[4]批難されることがないこと


イエス様は十四万四千人の人々の真実さを誉めておられます。彼らの口には偽りがなかったからです。終わりの時代には、人々は獣の偽りの奇跡によって惑わされます。しかしこの十四万四千人の人々は、ナタナエルのように偽りのない人々なのです。

イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」(ヨハネ1・47)

また、彼らの中には欺きがありません。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32・1、2)

イスラエルの残りの者たちはまた、忠実です。

イスラエルの残りの者は不正を行なわず、偽りを言わない。彼らの口の中には欺きの舌はない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない。(ゼパニヤ3・13)

その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。(イザヤ10・20)

イエス様こそが、彼らにとって唯一真実なお方です。十四万四千人の群れは、獣にではなく、イエス様にすべての栄光を帰します。彼らは神と人の前に誠実です。彼らの生活の基礎は罪の赦しの上に立っています。イエス様の血とイエス様の御名が彼らの誉れです。それゆえに、彼らには批難されるべきところがありません。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1•4)

ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5・27)

今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。(コロサイ1・22)

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、(ピリピ2・15)

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、・・・・(ユダ24)

すべてのものが汚され、獣によって支配され、にせ預言者によって惑わされる時代に、イエス様に対する彼らの愛だけが誠実を守りとおすのです。

すべての人々が獣を喜んでいる時代に、彼らは神の小羊イエス様だけに従うのです。

すべての人々が獣の魔力に支配されている時代に、彼らはイエス様によってその魔力から解放されているのです。彼らは、外面的にはそのような魔力に影響を受けるかもしれませんが、心の中は自由なのです。

すべての人々が偽りを語り、獣を喜んでいる時代にあって、彼らは、イエス様だけに従っています。

イエス様が私たちをご覧になるとき、私たちをどのように判断されるでしょうか。

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