2023年4月11日火曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】27.さばきの中で守り通される者たち

27.さばきの中で守り通される者たち

黙示録15章1節から8節まで

1.巨大な驚くべきしるし
2.勝利をかちえる殉教者たち
[1]殉教者のいる場所はどこか
[2]殉教者は誰か
[3]殉教者は何をしているのか
3.神の怒りの奉仕者

黙示録の15章は、ヨハネが「巨大な驚くべきしるし」を見たところから始まっています。

(1)また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。(2)私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。(3)彼らは、神のしもべモーセの歌と子羊の歌とを歌って言った。
「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。(4)主よ。だれがあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」
(5)その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。(6)そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。(7)また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその(8)聖所に、はいることができなかった。(黙示15・1~8)

この15章と次の16章とは続いていて、その内容は「七つの怒りの鉢」、「最後のさばきに続くイエス様の支配」、「反キリスト的な支配に対する最後のさばき」、そして「七人の御使いを通しての七つの鉢の注ぎ」です。

またこの15章の題名は「さばきの中で守り通される者たち」です。それは同時に「最後の苦しみに対する備え」を示しています。この章を三つの部分に分けて考えてみましょう。その三つの部分とは、「巨大な驚くべきしるし」、「勝利をおさめた殉教者たち」(2節から4節)、「神の怒りの奉仕者」(5節から8節)です。

1.「巨大な驚くべきしるし」


「巨大な驚くべきしるし」が現れるのは、福音が宣べ伝えられた後のことです。主はこの15章と16章で、ご自身に対立している人々に対して、さばきの内容を前もって知らせようとなさっておられます。

前に学んだように、「七つの封印のさばき」は地上の四分の一にもたらされ、「ラッパのさばき」は地上の三分の一にもたらされ、ここに見る「鉢のさばき」は、地上の全体にもたらされます。黙示録のこの部分には「巨大な驚くべきしるし」が記されています。これまでにも私たちは、黙示録の他の部分で「しるし」を見てきました。最初のしるしは12章の1節に記されていました。

また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。(黙示12・1)

この「太陽を着た女」は、すでに学んだように、イスラエルの民を表わしています。イスラエルは将来、世界に光をもたらす民族になるのです。

第二のしるしも、12章3節に出てきます。

また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。(黙示12・3)

この竜は、年老いた蛇の悪魔です。悪魔は反キリストを通して、特にイスラエルの民を迫害するのです。

そして第三のしるしは、この15章の1節に出てきます。

また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。(黙示15・1)

ここに出てくる「しるし」は、「七つの災いをもった七人の御使い」です。これをもって、神の最後のさばきはすべて終わるのです。そしてこの最後のさばきについては、黙示録の16章から19章までにくわしく記されています。

「七つの封印のさばき」と、「ラッパのさばき」は、終わりの時代のすべてを通して継続されます。しかし、「鉢のさばき」は、イエス様が神の御国を建設される直前の時代においてのみ行なわれます。そのとき、主はその怒りを決定的に注ぎだされるのです。

黙示録11章で、二十四人の長老たちは御座の前にひれ伏して「いまやあなたのさばきの時が来ました」と言っています。

・・・・あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。(黙示11・18)

旧約聖書では「さばき主としての神」は、「エロヒム・イェホヴァ・シャダイ」という言葉で示されています。この同じ言葉が黙示録11章17節、また15章3節の「万物の支配者である神」というところで使われています。

そして、この黙示録11章1節において「御怒りの日が来ました」と予告されていた主の怒りが、いま学んでいる15章以下で実現されます。そしてこの御怒りの日には、七人の御使いたちが主のためにさばきを行ないます。この御使いたちははっきりと目に見える姿を持っています。だからヨハネは「巨大な驚くべきしるしを見た」と記したのです。同じ意味のことを、パウロはテサロニケ人への手紙第2で述べています。

・・・・そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。このとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。(第二テサロニケ1・7~8)

イエラエルの歴史を思い出してみましょう。その昔、主はエジプトの圧制からイスラエルの民を解放しようとなさいました。そして苦難の終りのときにさばきの御使いがエジプトに遣わされ、エジプトの初子の男児がすべて殺されました。このさばきの後で解放が行なわれたのです。それと同じように、黙示録のこの箇所においても、「七つの怒りの鉢」が注ぎ出されたあとで、千年王国が立てられるのです。

このことによって私たちは、神の究極の目的がさばきにあるのではなく、ご自身のご栄光を現わされるためであることがわかります。さばきは、神に従わず、神に対して反抗的な民族を滅ぼすための手段にすぎません。このような「純化」を通さなければ、神の新しい創造は行なわれえないのです。

また、さばきとは、その人が運がわるいから、宿命だからそれを受けるというようなものではなく、主が神の使いを通して全人類に与えられるものです。「世界の破局」は、主を恐れない政治家や技術者、科学者などによる、人間の悪魔的な征服欲、破壊欲によってもたらされるものばかりではないのです。

さらにさばきは、罪に対する神の怒りです。すべてのさばきは、一度に襲ってきます。私たちは「神の怒り」がどのようなものかを知ることはできません。ただ、「神の怒り」が想像を絶した恐ろしいものであることを知るだけです。「神の怒り」は、人々が恐れている核爆発などよりも、はるかに恐ろしいものです。

このさばきでは、いかなる罪も必ず罰せられます。愛において、神は神らしくあられたように、怒りにおいても、神は神らしくあられます。しかしヨハネは、この恐るべきさばきを見る前に、これとは違ったすばらしいものを見たのでした。

2.勝利をかちえる殉教者たち


ヨハネが見たすばらしいものとは何でしょうか。ヨハネは「勝利をかちえる殉教者たち」を見ることが許されたのです。もう一度その部分を、15章2節から4節で見てみましょう。

私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。彼らは、神のしもべモーセの歌と子羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」(黙示15・2~4)

この部分で、私たちは三つのことを知ります。まず「殉教者のいる場所はどこか」、次いで「殉教者は誰か」、そして「殉教者は何をしているのか」です。

[1]殉教者のいる場所はどこか


「殉教者のいる場所」は「ガラスの海」のある場所です。ガラスの海はどこにあるのでしょうか。それは神の御座の前にあります。神の御座は天にあります。したがってこれらの殉教者たちは天にいるのです。ヨハネは、この記述に続く5節で「また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。」と書いています。神の御座は天の聖所にあるのです。

私たちはすでに、黙示録4章6節において「ガラスの海」について見てきました。

御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。(黙示4・6)

また、旧約聖書にも、このガラスの海は、祭司たちが身を清めるための水が入っていた青銅の鉢として記されています。

それから、鋳物の海を作った。・・・・海は、祭司たちがその中で身を洗うためのものであった。(第二歴代4・2、6)

しかし天にいる殉教者たちは、もはや身を清める必要はありません。彼らはすでに救われて聖められているからです。したがって「ガラスの海」は、水ではなく、水晶という固いものになっています。「火のような海」は、殉教者たちがたどった苦難の道を思わせます。またこの「水」は、主なる神とイエス様のもとから流れ出す「いのちの水」をも表わしています。

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。(黙示22・1)

2節で、彼らは「火の混じった、ガラスの海」のそばにいます。この部分から私たちは、紅海のほとりに立つ勝利者の群れ、イスラエルの民のことを思い出します。人間的に見れば、彼らは紅海によって前をはばまれ、エジプトの軍勢によって後ろから攻められ、絶望的な状態におちいっていました。しかし、主の奇蹟の御手に救われて、彼らは紅海の向こう岸に渡ることができて喜んだのです。絶望的な状態の中から、主は彼らを助け出してくださったのです。

あなたは私の力の神であられるからです。(詩篇43・2)

[2]殉教者はだれか


ついで私たちは、黙示録13章2節にある、「打ち勝った人々」が誰であるかを考えてみましょう。彼らは、「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々」、つまり「勝利者」として記されています。ここに書かれているとおり、彼らは三つの点において勝利者なのです。

まず彼らは、反キリストに従ったり、反キリストを拝むことを拒みました。その拒み方は断固としたものでした。

次に彼らは、にせ預言者によってだまされることがありませんでした。彼らは獣のしるしを受けませんでした。そして彼らは、そのようなゆるぎない態度のゆえに、その生命を犠牲にしたのです。すでに学んだように、黙示録13章17節には、「その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも売ることもできないようにした。」とあります。生きていくための糧が買えなくなり、それを絶たれることは死を選ぶことを意味します。それでも彼らは獣の刻印を拒否し、妥協よりも苦難と死を選んだのです。

彼らは死にいたるまでイエス様に忠実だったのです。彼らはイエス様が預言なさったように、憎まれ、迫害され、そして殺されたのです。

そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。(マタイ24・9)

表面的には、彼らは殺されることによって敗北したかのように見えますが、彼らの死は、実は勝利を意味しています。ですから彼らは、神の御座の近くにいるのです。一方、反キリストに従った者たちは、14章10節にあるとおり「神の怒りのぶどう酒を飲まされた」のです。

主に対する忠実さを、死をもってまっとうした人々こそ打ち勝った人々です。そして主は彼らを復活させられたのです。彼らは第一の復活にあずかる人々です。

・・・・彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。(黙示20・4)

これらの殉教者たちは、イエス様のためにいのちを捨て、いまや御座のまわりにいて、神をたたえる者になったのです。

[3]殉教者は何をしているのか


黙示録13章3節で、これらの殉教者たちは、「神のしもべモーセの歌と子羊の歌とを歌って」いるとあります。つまり彼らは「賛め歌を歌う者」として、「礼拝を捧げる者」として、「証しをする者」として、歌いながら神の御座に近づこうとしています。

まず、「モーセの歌」とは何を意味するのでしょうか。旧約聖書の出エジプト記を見ると、イスラエルの民を追うエジプトのパロの軍勢が、主によって海の中に投げ込まれ、全滅したとき、モーセが神に向かって歌った歌が記されています。

「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。・・・・主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。・・・・主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なうことができましょうか。・・・・主はとこしえまでも統べ治められる。」(出エジプト15・1、6、11、18)

イスラエルを滅ぼそうとしたパロは、反キリストの雛形です。エジプトの力は、主なる神によって打ちやぶられたのです。

こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(出エジプト14・30、11)

大きな迫害と不安から解放されて、モーセとイスラエルの民は主をたたえる歌を歌いました。モーセの歌は「主の栄光をたたえ、主が悪魔に打ち勝たれたことに対する勝利の歌」でした。そしてそれはもちろん、モーセ個人をたたえた歌ではありません。このようにして神の力は、紅海のみわざの中にさばきとして示されたのです。

黙示録15章3節に戻りましょう。次に、ここでの歌は「子羊であるイエス様」をたたえて歌われています。「小羊の歌」とは、十字架の上で子羊として救いを完成してくださった神の御子イエス様をほめたたえる歌です。

終りの時代には、人々はイエス様を土台にしてのみ堅く立つことができます。子羊がすべてにまさって力あるお方です。これこそが彼らが体験したことです。彼らは子羊の獣に対する勝利が完成されたがゆえに、この歌を歌っているのです。

黙示録の13章7節には、一見「獣」が勝利を得たかのように思われるところが出てきます。

彼(獣)はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。(黙示13・7)

この部分だけを読むと、獣は勝利したように見えます。しかしその勝利は、人間の目から見てそう見えるだけの偽りの勝利です。神の目から見たとき、打ち負かされた人々こそが真の勝利者なのです。

同じように人間的に見れば、イエス様は、十字架で敗北なさったように見えます。しかし、神の目から見れば、イエス様は十字架上の死によって勝利を得られたのです。

「モーセの歌と子羊の歌」はまた、賛美や礼拝の歌だけでなく、大きな「証し」でもあります。それは、旧約聖書における主の言葉の真実がここで証しされているからです。そして、3節後半から始まる「歌」は、七つの証しからなりたっていることがわかります。

・「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。」

第一の証し、「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。」を学ぶに先立って、聖書からいくつかの箇所を見てみましょう。

主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。(詩篇92・5)

主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。(詩篇111・2)

新しい歌を主に歌え。主は奇しいわざをなさった。(詩篇98・1)

また次の箇所では、主は万物を支配なさるお方として証しされています。

見よ。山々を造り、風を造りだし、人にその思いが何であるかを告げ、暁と暗やみを造り、地の高い所を歩まれる方、その名は万軍の主。(アモス4・13)

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」(黙示4・8)

「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」(黙示16・7)

私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。(黙示21・22)

私たちは、主のみわざの偉大さを、宇宙の秩序の中に、地球や月の運行の中に、季節の変化の中に、原子の配列の中に、また動植物の神秘の中に、まざまざと見ることができます。

私たちは、神のみわざの偉大さを、植物の種から実になるまでの成長と繁殖の中に、見ることができます。私たちは、神のみわざの偉大さを、海と陸とのかかわりの中に、天体間の距離のバランスの中に、人間の生活に適した気温の状態の中に、見ることができます。さらに私たちは、神のみわざの偉大さを、三十万種類以上の植物において、また百万種類以上の動物の種類において、見ることができます。

すべてのものの主であられる神のこのような偉大なみわざの記述は、旧約の時代にも、新約の時代にも、ひとしくこれを見ることができます。黙示録15章の歌の部分は、まず第一に、「イェホヴァ・エロヒム・シャダイ、万物の支配者としての神」への呼びかけと賛美に始まっています。

・「あなたの道は正しく、真実です。」

第二の証しは、すべての王である神のみわざは、正しく、真実であるということです。

主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。(申命記32・4)

主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。(詩篇145・17)

苦難の時代には、必ず主を証しする人々がいます。彼らは普通の人々が理解できないような方法で、主の真実を知っているのです。

天が地よりも高いように、わたし(主)の道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55・9)

主が人を導かれる道は、常に正しく真実です。さばきにおいて私たちは、主の正しさを受け入れ、そのさばきが非情なものでないことを受け入れます。そして主の道は、同時に「恵みの道」でもあります。これらの道を通して、信者は、主が自分を正しい道へと導かれること、すなわち栄光の道へと導かれることを知るのです。私たちが、正しく真実な生活へと導かれるためには、偽りが除かれなければなりません。

・「だれかあなたを恐れない者があるでしょうか。」

第三の証しは、「だれが神を恐れないでいられようか」ということです。

諸国の民の王よ。だれがあなたを恐れない者がありましょうか。それは、あなたに対して当然なことです。諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです。(エレミヤ10・7)

「神をおそれよ」ということは、聖書の全巻をとおして一貫している命令です。

神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者12・13)

すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(第一ペテロ2・17)

神を恐れるということが、すべての信者の特徴です。聖書には、神を恐れる者が唯一の知恵ある者だと記されています。

私は神を恐れる者です。(詩篇96・2)

主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。(詩篇86・11)

アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持ってきた。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。(創世記4・4)
·
ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。(ヨプ1•1)

・「御名をほめたたえないものがあるでしょうか。」

第四の証しは、「すべての人々が主の御名をほめたたえる」ということです。

ダニエルはこう言った。「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。」(ダニエル2・20)

かつて反キリストは、すべての誉れを自分のものにしようとし、自分を称えることを人々に強要しました。しかし殉教者たちは主ご自身を知り体験したがゆえに、主以外のなにものもほめたたえることができなかったのです。聖霊の目的は、主イエスにすべての栄光を帰させることです。私たちの目的は何でしょうか。私たちは心から主の御名をたたえることができるでしょうか。

・「ただあなただけが、聖なる方です。」

第五の証しは、「ただあなただけが聖なる方である」ということです。

私たちは罪に汚れていますが主だけは聖いお方です。そして主のもとには汚れを洗う泉が湧き出ています。主は神聖であられ、あらゆる悪から離れておられ、しかも恵みに満ちておられます。

主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。(第一サムエル2・2)

国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。(詩篇99・3)

主の御名は聖であり、おそれおおい。(詩篇111・9)

まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です。あなただけが神です。(詩篇86・10)

「あなただけが神です」と、主に向かって言うことこそが最も重要です。

反キリストと悪魔と、にせ預言者は、何でも欲することができたのですが、いま、終りの時において、主が侵すことのできない神聖さをもって、主ご自身を現わしておられるのです。この絶対的な支配と栄光こそが、主のご目的です。

「聖なる方、真実なる方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる物がなく、彼が閉じるとだれも開く物がない。その方がこう言われる。」(黙示3・7)

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」(黙示4・8)

「聖なる、真実な主よ。」(黙示6・10)

・「すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。」

第六の証しは「すべての国々の民が来て、神の前に礼拝を捧げるためにひれ伏す」ことです。

主よ。あなたが造られたすべての国々は、あなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。(詩篇86・9)

主だけが神ですから、礼拝を受けるにふさわしい方は主だけです。神の栄光に導かれて、すべての国民は神への礼拝のために集まるのです。すでに学んだ黙示録13章4節、8節、12節、15節では、獣が自分を礼拝するように求めていました。しかし、終りのときには、主だけが礼拝を受けるにふさわしいお方となられます。そして来たるべき千年王国においてそれが実現されます。神の目的は次のみことばどおり、平和の国の建設を通して明らかにされているのです。

「また、あなたの民イスラエルの者でない外国人についても、彼があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、彼らは、あなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕について聞きますから。――この宮に来て祈るとき、あなたご自身が、あなたの御住いの所である天でこれを聞き、その外国人があなたに向かって願うことをすべてかなえてください。そうすれば、この地のすべての民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じように、あなたを恐れるようになり、私の建てたこの宮では、御名が呼び求められなくてはならないことを知るようになるでしょう。」(第一列王記8・41~43)

・「あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」

第七の証しは、「主の正しいさばきが明らかにされた」ということです。

確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。(詩篇98・9)

私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。(イザヤ26・9)

天は神の義を告げ知らせる。まことに神こそは審判者である。(詩篇50・6)

正しい主のさばきによって、神の義が明らかにされます。これは、ただ主のさばきを通してのみ可能です。すべての悔い改めたくない者たちは、神の国の実現の前にさばかれなければならないのです。

黙示録15章3、4節と14章7節との比較は、意味深いものがあります。

「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」(黙示14・7)

終りの時代においては、「恵みの福音」ではなく、「御国と永遠の福音」が宣べ伝えられます。「御国と永遠の福音」が要求するところは、神の創造を認めることです。それを認めることを通して、神への恐れと礼拝とが生じてきます。15章3、4節で歌われる歌によって、この福音の要求が満たされるのです。「御国と永遠の福音」の結果、多くの国民が信仰に入ります。これらの信者たちは、主をもろもろの民の王、つまり諸国民の王と語りかけています。「御国と永遠の福音」の結果、ユダヤ人の殉教者たちが起こされ、彼らは、主を万物の支配者としての神(イェホヴァ・エロヒムシャダイ)と、呼びかけるのです。

黙示録7章と15章の比較もまた重要です。7章において、私たちはユダヤ人の群れ(1節から8節)と異邦人の群れ(9節から17節)との二つの群れを見てきました。二つの群れは、大きな苦難を通して救われた人々であり、千年王国において、重要な地位が与えられる人々です。

7章の二つの群れは、殺されませんでしたが、15章の二つの群れは、殉教によってその使命をまっとうしたのです。これらの群れは、神の御座の近くに置かれ、イエス様とともに、御国における支配者とされるのです。

3.神の怒りの奉仕者


黙示録15章1節のみことばは、この章全体の主題を表わしています。そして2節から4節までを見ると、殉教者たちが御座とガラスの海の前に座っています。ヨハネもまた、この殉教者たちのそばに座っています。

ところが5節になると、ヨハネは天の外に立っています。聖所の扉が開かれて主の怒りの奉仕者たちが出てくるのをヨハネは見ています。

11章19節で学んだように、主は神殿を開かれ、その中の契約の箱を見せられました。契約の箱は、主のイスラエルに対する忠実さの証しです。旧約の時代には、民を祝福するために聖所から祭司が出てきました。しかし15章6節では、聖所から裁きの御使いたちが「鉢」を持って出てくるのです。つまり、神の聖所から、神の裁きが行なわれるのです。聖所の中には契約の箱の中に十戒を刻んだ板があり、それによって祝福と呪い、いのちと死とが定められるのです。主のいましめを、主のみことばを守ろうとしなかった人々はさばきを受けるのです。

神の御国を建設するためには、それに先立って、さばきによって、主による聖めがなされなければなりません。外面的に見れば、それは暴力的で破壊的なさばきに見えますが、主の真意は聖めであり、そのための主のさばきなのです。

神のさばきを行なう御使いたちは、イエス様と同じような着物を着ています。

彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。(黙示15・6)

足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。(黙示1・13)

この衣は、汚れのない聖さを表わしています。金の帯は、来るべき御国における主の義の支配を意味しています。そして、イエス様と同じ衣を着た御使いたちは、きたるべき御国のためにさばきを行なうことを表わしています。私たちは、主に遣わされた御使いたちのさばきが、主に対する「礼拝」であることを知らなければなりません。私たちは困難の中において、常にこのことを忘れないようにし、誤りにおちいらないようにしなければなりません。

これらの御使いたちは、自然の力とか、悪魔的な力によってさばきを行なうのではなく、「神に遣わされて」さばきを行なうのです。この御使いたちは、神の「損なわれた栄光を回復するため」にやってくるのです。神に対するあらゆる悪魔的、人間的な反逆は、さばきによって静められなければなりません。

7節にある「神の御怒りの満ちた七つの金の鉢」の中には、天地創造以来のすべての人間の不正と罪とがあふれています。主はこれらの不正と罪とをさばかれます。さばきは、主なる神の感情的な怒りから行なわれるのではありません。主は、ほかに方法がまったくないときにのみ、さばきを行なわれるのです。この主なる神のさばきのご計画は、絶対的に正しく、誰も主のまちがいを指摘することはできません。主なる神のさばきと恵みのご計画には不正なところがありません。いつの時代にも、いかなるところでも、主は働いておられます。全能者として、主なる神は世界の歴史を導いておられます。

十七世紀以来、人類は自分たちの力によって世界を変えようと試みてきました。そしてそれがもたらした結果について深く反省しようとしませんでした。人類はどうしたら創造者である主の意にかなうかを問題にせず、ひたすら自分たちの判断に基づいて行動してきました。その結果の一つの例は、いわゆる環境汚染、公害に見られます。この環境汚染、公害は、現代人の意思や感情、思想の汚れを反映していると言えましょう。このような心の汚れ、反省と悔い改めのないこと、神に対しての反逆に対しては、ただ神のさばきが下されるだけです。

「金の鉢」は、本来は神へのいけにえを捧げるための鉢でした。人々が礼拝も、賛美も、感謝も、献身も、従順も、愛も、神に捧げない場合においては、この鉢は「さばきの鉢」に変えられるのです。そしてイエス様はこの「さばきの鉢」を、全世界のために欲されるのです。

イエス様の足元に、自らの罪を言い表わし、イエス様に身をゆだねる者を、イエス様は決して決してさばかれることはありません。

御子を信じる者はさばかれない。(ヨハネ3・18)

「わたし(イエス様)のことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5・24)

しかしイエス様を拒む者は、イエス様のさばきを受けなければなりません。彼らは、主の御手におちいることの恐ろしさを体験しなければなりません。

私たちは8節にあるように、「聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙りで満たされるのを見ることになります。同じ状況として、旧約聖書に、イザヤが汚れを清めていただくときに、宮が煙りで満たされたことが記されています。

その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙りで満たされた。(イザヤ6・4)

また、エジプトの地を出たイスラエルの民は、荒野において同じような体験をしました。

シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立上り、全山が激しく震えた。(出エジプト19・18)

そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。(出エジプト40・34)

聖所に立ちのぼる煙は、主のご臨在を表わすものです。しかし同時に、主はそのご臨在を隠されることもあります。人類の罪が熟したために、聖なる、義なる主は、さばきを行なわないではいられなくなるのです。そして愛なる主は、悪をさばかれるとき、食い尽くす火となられます。多くの人々は主に帰すべき栄光を反キリストに与えたのです。多くの人々は主の愛を足の下に踏みにじったのです。多くの人々は悔い改めを求める主の声を拒んだのです。多くの人々は主の寛容を軽んじたのです。そしてその結果、神の怒りがいまや明らかにされようとしているのです。さばきは最終的には主の御手から行なわれます。さばきそれ自体が主への奉仕であり、主のご栄光を明らかにするものだからです。さばきは時の権力者によって行なわれるのではなく、主の御使いによって行なわれます。つまり主がすべてを支配なさるのです。すべてのさばきは、主が定められた計画に従って行なわれます。さばきは、人間の罪によって呪いをうけた被造物の切なるうめきに対する答えとして行なわれます。

すべてのさばきにおいて、主ご自身が唯一の支配者です。

さばきのとき、人間の目から見れば、この世が地獄になったように見えるかもしれません。しかし、すべては主によってなされているのです。

人間の目から見れば、表面上は悪魔が暴れまわっているように見えるかもしれません。しかし、実は主の御使いがこれらを行っているのです。

人間の目から見れば、すべてが混乱しているように見えるかもしれませんが、主の目には、すべてが計画に従って行なわれているのです。

人間の目から見れば、地獄が勝利をえたように見えるかもしれませんが、主の目から見れば、すべてが神の栄光を現わすために用いられているのです。

人間の目から見れば、主がその民を捨てさられたように見えるかもしれませんが、主は常にその民を見守っておられるのです。

人々はこれらについて、まちがった考えを抱きがちです。多くの人々は、時に、自分の人生が混乱してしまい、私たちは悪魔の力にもてあそばれており、自分は主の臨在から遠ざけられているのではないかと思ってしまいます。

しかし、そのような時こそ、私たちは主のみことばを「目に見える現実よりもより確かなもの」として信じとおすことが大切です。そうすることによってのみ、主は私たちにみこころを現わしてくださり、平安と確信に満ちた信仰と生活へと再び導いてくださるのです。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたし(主)はあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押しながされない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ43・2)

まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。(イザヤ55・12)

主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ53・11)

恐れるな。わたし(主)はあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右手で、あなたを守る。(イザヤ41・10)

主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。(イザヤ52・10)

私たちは黙示録15章2節から4節で、大きな苦難を通りぬけてきた勝利者の群れを見てきました。そして私たちは、彼らの賛美と、礼拝と、証しの歌を見てきました。彼らの歌の中には、ほんのわずかな利己心も、復讐心も、犠牲と殉教を誇る心も見られません。ただ主のご栄光に対する願い、恐れと賛嘆と賛美、そして真の礼拝があるだけです。私たちも、主のご栄光のみを願い、心から賛美と礼拝をささげましょう。

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