2023年4月26日水曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】36.本物かどうかの吟味

36.本物かどうかの吟味

黙示録20章7節から10節まで

1.千年王国におけるイスラエルの位置
[1]世界の中心
[2]神の使者
[3]世界の首都としてのエルサレム
2.千年王国の期間中の諸国民
[1]メシヤから約束を与えられている
[2]福音を受け入れるようになる
[3]回心する
3.千年王国の暗い面
[1]死の可能性は続く
[2]主が鉄の杖をもって支配される
[3]サタンと人間の性質は変わらない
・サタンが解き放される理由
・さばかれる人間

(7)しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、(8)地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。(9)彼らの数は海べの砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。(10)そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示20・7~10)

この箇所の主題は「本物であるかどうかの吟味」です。千年王国の終わりにサタンがその牢から再び解き放たれます。そしてサタンに対する最後の審判がくだされ、それと同時に最後の戦いが始まります。

これから次の三つに分けてその内容を考えることにしましょう。第一に「千年王国におけるイスラエルの位置」、第二は「千年王国期間中の諸国の民」、そして最後に「千年王国の暗い面」です。

まず、「千年王国におけるイスラエルの位置」について見ることにしましょう。

1.千年王国におけるイスラエルの位置


[1]世界の中心


聖書はこの時、イスラエルが諸国民の中心に位置し、頂点に立つと言っています。申命記28章1節「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。」というみことばがこのとき成就されます。何千年もの間、ユダヤ人は迫害され、憎まれ、散らされてきました。しかし、この時状況は全く一変してしまいます。聖書はそのことをはっきりと約束しています。

時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。(イザヤ27・6)

外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ。あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。(イザヤ60・10、11)

しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。(イザヤ61・6)

主はこう仰せられる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。」(イザヤ66・12)

[2]神の使者


次にイスラエルは「神の使者」として、諸国に祝福を伝える役割を果たすようになります。イスラエルを通して、神の祝福は他の国々に届けられるのです。これこそがあらゆる時代を通して神が目標とされていたことでした。

シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。(イザヤ4・3)

わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、ルデ、メシェク、ロシュ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、驟馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る。」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。(イザヤ66・19、20)

万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。』と言う。」(ゼカリヤ8・23)

見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。(イザヤ60・2、3)

パウロが異邦人のための伝道者として福音を宣べ伝えたと同じように、千年王国の時には、イスラエルの民がこぞって救いの福音を宣べ伝えるようになります。

[3]世界の首都としてのエルサレム


第三に、この時、エルサレムが世界の首都となります。地理的に見るとイスラエルは世界の中心に位置しており、千年王国の時に主の光はエルサレムから出てきます。

主は、聖なる地で、ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる。(ゼカリヤ2・12)

主はこう仰せられる。「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。・・・・多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」(ゼカリヤ8・3、22)

エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。(ゼカリヤ14・16)

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。(ミカ4・1、2)

その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。」(エゼキエル43・7)

イスラエルの首都であるエルサレムはその時、全世界の首都となります。一言で言えば、千年王国においてイスラエルは全世界の中心に位置するようになるということです。

次に千年王国の期間中の諸国民について考えてみることにしましょう。

2.千年王国の期間中の諸国民


[1]メシヤから約束を与えられている


第一に言えることは、諸国民がメシヤからの約束を与えられているということです。それは旧約聖書に明らかにされています。

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」(イザヤ42・1)

「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。」(イザヤ42・6)

主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」(イザヤ49・6)

この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル7・14)

主イエス様は、イスラエルの国を建てるだけでなく、イエス様に諸国民が治められるようになることも約束しておられるのです。

今日、主イエス様はすでに異邦人の光となっておられますが、完全に主イエス様が支配なさっている国民というのは地上にまだ存在していません。その多くはサタンによって惑わされ、支配されているからです。イエス様は依然として拒まれ、イエス様の前に身をかがめることを潔しとしない人々が大勢います。

しかし千年王国の時には、個人だけでなく国々が主イエス様を信じ受け入れるようになります。主イエス様が諸国のメシヤになるという約束が、始めて成就するのです。

[2]福音を受け入れるようになる


第二に言えることは、その時、あらゆる国の人々が真の意味で「福音」を受け入れるようになるということです。

現在においても、聖書が多くの国々の国語や民族語に訳され、福音が広められている事実はありますが、イエス・キリストを救い主として受け入れていない未信者の数は、それ以上に増えています。しかし、次のような約束が、千年王国の時には成就されます。

「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、ルデ、メシェク、ロシュ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」(イザヤ66・18、19)

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。・・・・彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。」(イザヤ42・1、4)

「見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。」(イザヤ55・4、5)

[3]回心する


第三に言えることは、あらゆる国民がその時「回心する」ということです。イザヤ書17章7節に書かれているみことばがその時成就します。

その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、・・・・(イザヤ17・7)

「そのとき、わたしは、国々の民のくちびるを変えてきよくする。彼らはみな主の御名によって祈り、一つになって主に仕える。」(ゼパニヤ3・9)

その日、耳しいた者が書物のことばを聞き、盲人の目が暗黒とやみの中から物を見る。(イザヤ29・18)

見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。(イザヤ32・3、4)

「こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。・・・・わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。」(イザヤ42・7、16)

今の世の中は、真理に対して目をふさがれてしまった人々や、かたくなになっている人々によって占められ、それらの人々に支配されています。しかし、千年王国の時には、主イエス様とそのご支配を、すべての人々が認めるようになります。

また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ56・6、7)

「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。」と主は仰せられる。(イザヤ66・23)

その時、確かにすべての人々が全面的に「回心」するということは起こらないにしても、主イエス様に仕える人々の数はおびただしく増え、数え切れないほどになります。

そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。(エレミヤ3・17)

万軍の主はこう仰せられる。「再び、国々の民と多くの町々の住民がやって来る。一つの町の住民は他の町の住民のところへ行き、『さあ、行って、主の恵みを請い、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう。」と言う。多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。」と言う。」(ゼカリヤ8・20~23)

千年王国では諸国の代表者たちがエルサレムに来て、主イエス様を礼拝するようになります。

「わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある。』と言う。主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。」(イザヤ45・23、24)

これまで、千年王国の二つの中心的な事柄を見てきました。はじめに「千年王国でのイスラエルの位置」、そして「千年王国の期間中の諸国民」についてでした。最後に「千年王国の暗い面」について見ることにしましょう。

3.千年王国の暗い面


これから千年王国の暗い面に触れるのですが、三つの事柄について聖書から取り上げてみたいと思います。

[1]死の可能性は続く


第一は「千年王国」を迎えても、なお、人間の「罪を犯す傾向」はなくならないということです。ですから、「死」も当然の可能性として残っています。聖書には次のようにあります。

正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。(イザヤ11・4)

「わたしはあなた方を剣に渡す。それであなたがたはみな、虐殺されて倒れる。わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を選んだからだ。」(イザヤ66・12)

千年王国の期間中でも罪は罰せられます。そして、罪を悔い改めたくない人には、悔い改めをするために百年という長さの時間が与えられています。その間に悔い改められなかった人は「呪い」に投げ込まれます。その時の人間の寿命は、人類の創造の始めのときと同じように長いものとなります。例えば、アダムは九百三十歳、メトセラは九百六十九歳というような具合にです。しかも、多くの人は千年王国の全期間中、つまり千年間死なずに生き続けます。

[2]主が鉄の杖をもって支配される


第二は、イエス様のご支配が権威に満ちており、不法の者に対しては「鉄の杖」をふるわれるということです。人類はそれまで長い間与えられていた自由を、自分勝手に乱用していました。そのことが歴史によって証明され、それを認めざるを得なくなります。自由の乱用が不正と戦争を招くのです。

これらに対して、人類に「正義」と「平和」をもたらすために、主イエス様ご自身が答えられることになります。

「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、今にも燃えようとしている。」(詩篇2・8~12)

主イエス様を礼拝するためにエルサレムに来ない者は、罰せられます。その罰として雨が降らなくなると聖書は語っています。

地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。(ゼカリヤ14・17)

[3]サタンと人間の性質は変わらない


千年王国の暗い側面として第三にあげられることは、サタンが相変わらず神の敵対者として登場し、また人間の性質も相変わらず罪の性質を持ち続けるということです。黙示録20章3節の続きが7節にあります。千年が経過した後、サタンはその「牢から解き放され」ます。しかしサタンは自分の力で自由になるのではなく、神の命令を受けた御使いがサタンを解放するのです。ですからサタンは自由の身にされたとはいえ、自分の意志通りにやりたいことをすべて行なうことが出来るよう許されているわけではありません。つまり、サタンが行なっていることではあっても、それらは神の御心に従った範囲内にとどめられているにすぎないのです。

・サタンが解き放される理由

千年王国の間、人間を取り巻く周囲の環境は完全なものです。しかし、完全な環境によってさえも、人間はその心を変えることができません。ただ、全能なる神お一人だけが、人間を新しく造り変えることがおできになるのです。

イエス様のご支配に逆らう少数の反逆者は、千年王国の時に「死」を味わうことになります。そして大多数の人々は主イエス様の前に身をかがめますが、その人々の服従は上辺だけのものにすぎません。彼らはただ罰せられることが恐ろしく、それから逃れたいために従順を装っているのです。それは決してイエス様に対する「純粋な愛」からでているものではありません。

主イエス様は永遠なる真実の愛をもって全人類を愛してくださいましたが、それにもかかわらず、そのイエス様に対してまことの愛を捧げる者はごく少数の者たちにとどまります。

神に申し上げよ。「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します。」(詩篇66・3)

千年王国はまだ神の目標の完成した姿ではありません。完成の前に、すべての悪と、神に向かって反抗する心は取り除かれなければなりません。隠されているすべてのものが光の中に出されることがさばきの土台です。

サタンは千年の間牢につながれていた間もその本性を改めようとはせず、少しも悔いることをしません。牢から解き放たれるとすぐに、人間が戦争に向かうよう準備を始めます。それによって悪魔の正体がはっきりと暴かれます。この悪魔の恐ろしい正体は、永久にさばかれる前に明らかにされなければなりません。悪魔の本性は「悪のかたまり」以外のなにものでもありません。この神の判断が正しいということが証明されるために、サタンは牢から解き放たれてその本性をあらわにさせられるのです。

さらにサタンは諸国民を惑わすことも許されますが、それによって人間自身の内側に何が存在するかということもまたあらわにさせられます。本来、神にとっては、この世の何が本物であるか、また何が偽りであるかを試す必要はないはずです。神は全知全能の方であり、すべてを見通されているからです。しかし、人間は自分の内側に良いと言えるものは何一つないということを知りません。ですから、自分自身が救い主イエス・キリストを必要とすることを知らないのです。人間は最終的にさばかれる前に、人間の本性を正しく知る必要があります。つまり主なる神は、下されるさばきの正しさを全世界の前に明らかにお示しになるのです。そのためにサタンが使われるようになります。もちろん、サタンは主なる神に仕えたいとは毛頭思っていませんが、結果的には神の御心が実現されるために使われることになるのです。

・さばかれる人間

おそらく千年王国の始めには、ただ主を信じ、主を恐れる人々だけが、このご栄光を体験することでしょう。千年王国で行なわれる諸国民へのさばきを、次の聖書箇所から読みとることができます。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」そのとき、彼らも答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」(マタイ25・31~46)

主イエス様が公けにわかるかたちで再臨なさって、ご自身の国をお建てになるとき、地上にいる「異邦人」に対するさばきが行なわれます。

そのとき人々は、三種類のグループに分けられます。

第一のグループは「羊」、つまり救われた異邦人です。彼らは教会の携挙と主イエス様の二回目の再臨との間に救われた人々です。

第二は「山羊」、つまり救われていない異邦人です。

そして、最後のグループは「兄弟たち」と呼ばれる群れで、これはイスラエルの民を意味しています。

すべて私たち被造物にとっては、最後の時に「平和の国」、「主イエス・キリストの国」にあずかれるかどうかが大切な問題です。その際、イスラエルの民に対して、どのような態度をとるかが決定的な手がかりとなります。

では、キリストに逆らうように悪魔に惑わされる人々、その数が「海辺の砂のよう」(黙示20・8)に多いと言われる諸国の民とは、一体どこから来るのでしょうか。それは間違いなく信者たちの子どもとその子孫たちです。外側から見ると、共に行動しているように見えますが、実際は「新生」をまだ体験していない人々が大勢いるのです。これは聖書がはっきりと語っている事実です。

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ17・9)

すでに見てきたように、千年王国の時には荒地にも花が咲きます。そして地上の人口が驚くほど増加することも確かです。というのも、呪いは解かれ、死は滅多に見られなくなるために、人口は恐るべき勢いで増えるに違いありません。しかも食糧は十分にあり、数え切れないほどの人間のためにも十分用意されます。大部分の人々がしっかりと主イエス様につながっていることは確かですが、その一方で悪魔に惑わされる人の数も急激に増加することでしょう。

そこでサタンの反逆を通して、人々の愛が本物かどうか、見せかけだけの信仰であるかないかが試され明らかになります。悪魔は依然として「嘘つき」であり、「人殺し」の本性をもち、人間もまた完全な環境の中に生きているにも関わらず、生まれつきの「反逆者」としての性質を持ち続けています。ただ神がなしてくださる真の「新生」を通してのみ、霊的な死から「永遠のいのち」へ変えられると聖書は言っています。いつの時代でも救いの道は唯一です。神の霊と神のみことばによって回心する以外に、救いの道は存在しません。

私たちは、人間のどこかが「正常ではない」ことを知っています。心理学者や社会学者など多くの知識人や学者たちが、そのことを何とか理由づけようとして、いろいろな議論をします。しかし神は、本当の原因は「罪」であるとおっしゃっています。医者が診断を誤れば治療方法も当然間違ってしまいます。私たちも自分を含め人間を正しく診断しなければなりません。「罪」によって人間が神から離れてしまった、これこそが根本的な問題なのです。

黙示録20章8節には、ゴグとマゴクのことが述べられています。マゴグは創世記10章2節によると、ヤペテの二番目の息子であり、おそらくコーカサス地域に住んでいたと思われます。「ゴグ」というのは一つの名称であり、「君主」という意味を持っています。今日、ゴグとマゴグに相当するものとしてロシアが考えられます。

エゼキエル書38章、39章にも「メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、・・・・」とあり、それに続いて千年王国の前に戦争が起こることが語られていますが、これは北の国々がイスラエルの富を略奪するために起こす戦いです。しかし黙示録20章に示されているのは、世界的な規模で起こされる戦争であり、その火付け役としてロシアが介在していることが大いに考えられます。

ここで注意したいことは、ゴグとマゴグが引き起こす戦争が、エゼキエル書では「千年王国の前」であるのに対して、黙示録20章においては「千年王国の終り」にあるということです。二つの記述の間に時間的な相違があるのです。ただいずれにしても、結局ゴグとマゴグの起こした戦争は彼らの敗北に終わります。千年王国の前と後に大きな反乱が起こされるということは、千年王国の期間中も牢に閉じ込められていたサタンが少しも変わらないこと、そしてまた豊かに祝福され恵みを受けているにもかかからず、人間もその本性を改めようとしないことを明らかに示しています。

千年王国の終りに、霊的な新生を経験していない人は、すべて神を否定するようになります。そして神のさばきが突然下されます。その時は、あたかもソドムとゴモラの場合と同じように火と硫黄が天から降ってきます。これが最終的なさばきとなります。

サタンは極めて短い時間だけ自由にされ、サタンの誘惑により人間の心の最も奥底に潜んでいるものがあらわにされます。しかし、黙示録20章9、10節にあるように、神との戦いが生まれる前に、神はさばきをくだされます。この日は、新約聖書の他の箇所に記されている「さばきの日」に他なりません。

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3・10)

黙示録20章10節に記されている「火と硫黄の池に投げ込まれ」るとは、神から永久に分離されること(マタイ25・41)であり、絶え間ない苦しみを受けることを意味します。

悪魔が火と硫黄の池に投げ込まれた時、反キリストと偽預言者はすでに千年前に投げ込まれていたにもかかわらず、そのままの状態で苦しみ続けており、まだ焼き尽くされてはいません。「死にたい」と願っても死ぬことができません。「彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける」(黙示20・10)のです。これこそが「第二の死」です。「永遠に」という表現は黙示録の中に十三回出てきます。それは限りがない、終りがない、ということです。例えば神を言い表す時に使われています。

永遠に生きておられる、御座に着いている方に・・・・(黙示4・9)

二十四人の長老は御座についている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み・・・・(黙示4・10)

永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方・・・・(黙示10・6)

永遠に生きておられる神・・・・(黙示15・7)

また、神と小羊の栄光を賛美するのにも用いられています。

御座に座る方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。(黙示5・13)

アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。(黙示712)

キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン(黙示1・6)

また、神と小羊の支配も「永遠に」続くことが記されています。

この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。(黙示11・15)

そして、神のしもべたちが祭司として支配することも「永遠」です。

神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。(黙示22・3~5)

また、聖書の中に出てくる「永遠」ということばは、サタン、つまり悪魔、反キリスト、偽預言者、獣とその像を拝む者に対して、神が最終的に下されるさばきについても使われています。

彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。(黙示14・11)

神が永遠に生きておられるように、また神が永遠に支配しておられるように、そしてまた神のしもべたちによって神がとこしえにほめたたえられるように、彼らの火の池の中での苦しみは永遠に続くのです。聖書は語っています。三種類のグループがこの恐ろしい場所にやってくることを。第一のグループは、反キリストと偽預言者たちです。第二のグループは、サタンとそれに仕える者、つまり悪霊たちです。そして第三のグループは、救われていないすべての人間です。

最も恐ろしいことは、罪の中にとどまること、神の贖いを拒むことです。その結果、神の御手に落ちてさばかれることは何という悲劇でしょうか。

それとは反対に、最もすばらしいことは、悔い改めたいという心をもった罪人が、神の腕の中に、今、この時、自らを投げ出すことです。そうすれば、「罪の赦し」、「神との平和」、「永遠のいのち」が与えられます。

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