2023年4月21日金曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】32.開かれた天

32.開かれた天

黙示録19章11節から16節まで

1.イエス様の再臨
[1]ご降誕と再臨の違い
[2]「忠実また真実」な方
[3]さばき主として来られる
[4]すべてを見通す方
[5]王の王、主の主
[6]すでに成就した救い
[7]口の鋭い剣
2.イエス様につき従う軍勢
[1]花嫁
[2]約束の民
[3]大いなる苦しみの時代の殉教者
[4]天にある軍勢
3.イエス様の御名
[1]ご自身のほか誰も知らない名(イエス様の本質)
[2]神のことば(イエス様の権威)
[3]王の王、主の主(イエス様の使命)

(11)また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。(12)その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。(13)その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。(14)天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。(15)この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。(16)その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。


黙示録の11節から16節までを学んでいきましょう。この箇所では、次の三つのことが述べられています。「イエス様の現われ」、「さばき主として来られるイエス様」、「イエス様の地上への再臨」。

小羊の婚姻の後で、黙示録の筆者であるヨハネは開かれた天を見ました。

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。(黙示19・11)

聖書には、この他にも「開かれた天」について書かれた箇所があります。まず、イエス様が洗礼を受けられる時に、天が開けました。

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天から告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3•16)

また、ステパノも、開かれた天を見たのです。

しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(使徒7・55~56)

そして、黙示録19章11節にも「開かれた天」が出てきます。開かれた天に現われるイエス様は、10節までにあるような「花嫁を迎える花婿として」ではなく、天の軍勢を率いた「さばき主として」、御国を打ち建てるために来られるのです。

この時ヨハネは、開かれた天だけでなく、イエス様ご自身を見たのです。ヨハネにとって、「開かれた天」とは何を意味しているのでしょうか。イエス様がおられる場所です。イエス様ご自身を見ることによって、ヨハネは深い満足を得ました。

私たちもまた、目に見えないものを見る必要があります。生活の中で霊的な闘いにさらされるとき、天におられるイエス様を仰ぎ見る必要があります。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第二コリント417~18)

聖書の多くの箇所において、さばきの前に悔い改めるよう、神が警告しておられます。しかし、その結果はどうだったでしょう。人々は悔い改めることなく、心は頑なで、神への汚しごとが世にあふれました。人々はますます増長し、神なしに生きるだけでなく、意識的に神に逆らい、この世のことだけを思い煩うようになっていきます。このときに、次のみことばが成就します。

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。(第二テサロニケ1・7~10)

マタイの福音書には「花婿が賢い乙女たちを迎えた後で戸がしめられた」と記されています。

・・・・花婿が来た。用意できていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。(マタイ25・10)

しかし、小羊の婚姻の後、扉は再び開かれます。イエス様が天の軍勢を伴って、さばきを行なうため、また、御国を建てられるために来られるのです。

アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」(ユダ14~15)

「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出てくると、夏の近いことがわかります。」(マタイ24・31~32)


黙示録1章7~8節に記されていることが、黙示録19章において実現されるのです。

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示1・7~8)

では、黙示録19章11節から16節までを「イエス様の再臨」、「イエス様につき従う軍勢」、「イエス様の御名」の三つに分けて見ていきましょう。

1.イエス様の再臨


黙示録13章11節から16節には、再び来られるイエス様について七つのことが記されています。

[1]ご降誕と再臨の違い


黙示録1章11節によると、イエス様は「白い馬に乗って」来られます。

中東の人々にとっては、人が何の上に座っているかということは、大切な意味を持ちます。エゼキエル書に「君主たちは地面に座るようになる」と記されています。

海辺の君主たちはみな、その王座をおり、上着を脱ぎ、あや織りの着物を脱ぎ、恐れを身にまとい、地面にすわり、身震いしながら、おまえのことでおののき、おまえについて、哀歌を唱えて言う。(エゼキエル26・16)

また、「淫婦が獣の上に乗る」という表現も黙示録で見ることができます。

それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。(黙示17・3)

そして、聖書の中には多くの所で、「神が雲の上に座しておられる」と記されています。

さて、イエス様は何に乗られるのでしょうか。イエス様は、エルサレムに入城されたときは、ろばに乗られました。

イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」(ヨハネ12・14~15)

つまり、最初に地上に来られた時、イエス様は、人の姿をとってへりくだって来られました。しかし、再び来られる時には、栄光につつまれて来られます。かつてはみどりごとして来られましたが、再び来られる時には、馬に乗って来られます。かつては貧しい人の姿で来られましたが、富と栄光に満ちた方として来られます。また、かつては罪をになう犠牲の小羊として来られましたが、罪のさばき主として、獅子のように来られます。かつてはほふり場に引かれて行く小羊として来られましたが、再び来られるときには、勝利者として、また権威あるお方として来られます。

かつて黙示録6章2節で学んだ時には、白い馬に乗る「者」という表現は、サタンの使いを示していました。彼はあらゆる平和を破壊し、すべての者を迷わせます。彼は、ただ血を流すために戦争を起こします。これに対して、黙示録19章に出てくる白い馬に乗る「お方」は、真の平和の君です。人間は、誰一人として真の平和をもたらすことはできません。

白い馬に乗って戦いから帰ることは、その当時、最大の名誉でした。イエス様もまた、大きな戦いに勝利して帰られるのです。十字架の上で、罪のないイエス様が身代わりの死を遂げてくださったことにより、私たちは、罪の問題から解放されました。自分の罪を告白する者は、今も、恵みによって罪の赦しを受けることができるのです。

小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。・・・・彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」・・・・彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示5・7、9~10、12)

主イエス様は、ご自身の前にひざまずこうとしない者たちに向かって、さばきを下されます。

[2]「忠実また真実」な方


黙示録19章11節に記されているように、イエス様の本質は「忠実また真実。」です。「忠実で真実」という言葉は、ヘブライ語で「アーメン」といいます。十字架の勝利の後、イエス様はこの名前を持たれました。

アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。(黙示3・14)

イエス様は、ご自分の忠実さを証明なさいました。イエス様は、黙示録6章に出てくる「白い馬に乗る者」――破壊と欺きとを行なう反キリスト者と、はっきり対立しておられます。イエス様は完全に忠実で真実な方です。ですから、人は主イエス様に信頼することができるのです。イエス様は決して失望させることのないお方です。イエス様は真実で、見せかけや偽善がないお方です。イエス様のみことばと行ないは、常に真実です。私たちは、イエス様を通して真実に出会うのです。

この忠実さと真実とが、黙示録19章において、無限の力と結びついているのです。イエス様は忠実であり、真実であり、また現実におられる方です。今こそ、あなたの人生を、このイエス様の支配の中に委ねてください。もう一度言いますが、イエス様は決して失望させることのない方なのです。

[3]さばき主として来られる


黙示録19章11節において、イエス様は「義をもってさばきをし、戦いをされる。」と記されています。イエス様は、約二千年前、「人類に救いをもたらすために」来てくださいました。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3・17)

そしてイエス様は、「人類のさばき主として」まもなく再びおいでになるのです。

「また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。」(ヨハネ5・27)

救い主が、さばき主となられるのです。救い主イエス様を拒むなら、もはや永遠に、人類には何の救いも残されません。さばき主としてイエス様をお迎えするのは、世の終わりの時です。それは、人々にとって何の望みもない時となる、と記されています。与えられた救いを拒む人は、イエス様からさばかれます。罪の「赦し」を受けようとしない人は、罪の「さばき」を受けるのです。

義をもって戦うことができるのは、イエス様だけです。イエス様ご自身が、義なる方だからです。ですから、イエス様の戦いにおいて、神の義が明らかにされるのです。

[4]すべてを見通す方


黙示録19章12節に、イエス様の「目は燃える炎である」と記されています。その目は人間の心の奥底を見通す目です。イエス様の前には、隠し通されるものは何一つとしてありません。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4・12)

イエス様はすべてを知っておられ、その力によってひとりひとりに判断を下されます。イエス様はすべてを知っておられるので、正しくさばくことがおできるになるのです。人間が知りうることは限られています。したがって、人間の下すさばきは、ゆがめられています。

「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7・1~5)

私たちが人のことを知りうる範囲は、ごく限られています。その人の性格、環境、内側に持っている問題、また外に表れた言動などの、ごく一部を知ることができるに過ぎません。しかしイエス様は、人の思いと動機をすべて知っておられます。ですから、ダビデのように「主よ。私を探ってください。」と言う者は幸いです。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139・23、24)

このダビデのように願い、悔い改める人は、主の恵みと愛を体験します。しかし、このような態度を取らない人々もいます。神に対し、また神の愛と語りかけに対して、目も見えず、耳も聞こえなくなっている人々です。その結果、逃れようのないさばきが下されるのです。

[5]王の王、主の主


黙示録19章12節には、イエス様の権威について記されています。イエス様は、頭に「多くの王冠」をかぶっておられます。イエス様は戦うお方だけでなく、王の王でもあるのです。

黙示録12章において、竜(サタン)は七つの冠をかぶっています。

また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。(黙示12・3)

また、13章において、獣(反キリスト)は十の冠をかぶっています。

また私は見た。海から一匹の獣が上ってきた。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。(黙示13・1)

しかし、イエス様は、さらに多くの冠をかぶっておられます。なぜなら、イエス様は、王の王、主の主だからです。天においても地においても、すべての権力と栄光が、イエス様に授けられます。多くの冠は、あらゆる権力の所有を意味しています。このことによって私たちは、イエス様が全知全能の権威を持っておられることを知ります。イエス様はあらゆることにおいて、最大にして最高のお方です。

私たちは、イエス様が自分にとってただひとりの支配者であるかどうか、今改めて考えてみましょう。私たちは、自分の意志や感情、考えを捨てて、イエス様だけに信頼し、従っているでしょうか。私たちは、何によって支配され、影響され、導かれているのでしょうか。

[6]すでに成就した救い


黙示録19章13節に、イエス様は「血に染まった衣を着ていて・・・・」と記されています。これは、イエス様の十字架の犠牲を示しています。14節によると、イエス様とともに来る軍勢は、雪のように白い衣を着ています。イエス様お一人だけが、血に染まった衣を着ておられるのです。十字架上で、人々の罪を贖うための代価として血を流されたのは、イエス様お一人だからです。十字架につかれる前、イエス様はペテロに「あなたはわたしについて来ることができない」と語られました。

シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。「イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」(ヨハネ13・36)

白い馬に乗った方の衣は、天から下られるとき、すでに血に染まっていました。地上で砕かれたから血に染まったのではありません。イエス様の衣は、戦いを経て敵の血に染まったのでもありません。罪から人々を贖うため、十字架上でご自身が流された血によって染まったのです。まもなくさばきのために来られるお方は、小羊として十字架でほふられたお方なのです。

[7]口の鋭い剣


黙示録19章15節に、イエス様の「口からは鋭い剣が出ていた」と記されています。私たちは、このことから、次の聖句を思い出します。

彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。(黙示2・27)

正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。(イザヤ11・4)


これらのみことばが、黙示録19章において成就します。世界のさばき主が、悔い改めない者と戦われるのです。剣とは、手に持って戦う武器ではなく、口の剣を指しています。

右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(黙示1・16)

鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「・・・・悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」(黙示2・12、16)


それは人間が武器をもってする戦いではなく、全能なるイエス様のみことばによるさばきです。

神のみことばには二つの働きがあります。一つめの働きとして、ひとたび神のみことばが受け入れられると、それは新しいいのちとなります。

「このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。」(ルカ8・11)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(第一ペテロ1・23)


しかし、みことばが受け入れられない場合、二つめの働きとして、そのみことばが神との分離を引き起こします。みことばに対する私たちの態度は、主なる神に対する私たちの態度でもあります。みことばを通しての神の恵みを受け入れない人々は、さばかれるのです。

彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。(ヨハネ18・5~6)

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11・3)

「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。」(エレミヤ23・29)


ここまでは、黙示録1章に記されている「再臨されるイエス様」について学んできました。

2.イエス様につき従う軍勢


次に、14節にある「イエス様につき従う軍勢」について考えてみましょう。

イエス様は、再臨なさるときには、天から多くの軍勢を引き連れて来られます。携挙のときには、イエス様は雲の上までしか来られません。この世の人々は、イエス様の御姿を拝することができないのです。しかし19章でイエス様が再び来られる時には、イエス様は地上まで下られます。すべての人が、その目でイエス様を見るのです。

アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。(ユダ14~15)

再臨なさるイエス様につき従う軍勢とは、どのような人々なのでしょうか。

[1]花嫁


再臨のイエス様とともにいる軍勢のうち、第一にあげられるのは、イエス様の「花嫁」と呼ばれる信者たちです。「救われた者は、イエス様と永遠にともにいる」という預言が成就した結果です。小羊の婚姻のとき以来、花嫁(救われた人々)が花婿(イエス様)から離されることはありません。二者の間に分離が生じることは永遠にないのです。救いの必要性を認め、自分の罪を告白し、イエス様の救いに身を委ねたのがこれらの人々です。彼らについて、聖書は次のように言っています。

彼(小羊)とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。(黙示17・14)

今やこれらの人々は、イエス様の栄光にあずかっているのです。

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(コロサイ3・3~4)

[2]約束の民


再臨の主とともにいる軍勢には「花嫁」と呼ばれるイエス様の信者たちだけでなく、古くからの「約束の民」も含まれています。これらの民は、旧約聖書の時代に救われました。イエス様が救い主として来てくださる以前の民でしたが、神の恵みを信頼しきって、メシア(救い主)を待ち望んでいたのです。これらの人々は、神がメシアを遣わしてくださることを、堅く信じて待ち望みました。アブラハムのように神の約束を信じた人々だったのです。

アブラハムは、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。(ローマ4・20~22)

モーセは、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行ないました。(ヘブル11・25~28)


[3]大いなる苦しみの時代の殉教者


「大いなる苦しみの時代の殉教者たち」も、再臨の主とともにいる軍勢の中に含まれています。大いなる苦しみの時代に、多くの人々がイエス様のために命をささげます。この妥協のない態度と堅い信仰とが、主の再臨の時に報われるのです。彼らは白い衣を着せられて、王の王、主の主であるイエス様とともに、この地上に下って来るのです。

[4]天にある軍勢


さらに「天にある軍勢」(14節)も再臨のイエス様につき従っています。

「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マタイ24・30~31)

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。」(マタイ25・31)

「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。」(ルカ9・26)


「天にある軍勢」は、白い馬に乗ってイエス様の後につき従います。この馬については、旧約聖書に次のように記されています。

こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。(第二列王記2・11)

そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。(第二列王記6・17)


イエス様が「みからだである教会」、「旧約時代の信者たち」、「殉教者たち」、「天の御使いたち」とともに天から下って来られるとき、地上のすべての者は、イエス様が全地の支配者であることを知ります。この世はイエス様を見て、震えおののくのです。

3.イエス様の御名


最後に、「イエス様の御名」について考えてみましょう。黙示録19章11節から16節までには、三つの御名が記されています。これらの御名は、イエス様の「本質」と「権威」と「使命」を表わしています。

[1]ご自身のほか誰も知らない名(イエス様の本質)


まず第一に、イエス様は「ご自身のほかだれも知らない名」をもっておられます。

その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。(黙示19・12)

黙示録3章にも、この御名について記されています。

勝利を得るものを、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。(黙示3・12)

イエス様の中にある神の本質は、だれにも理解することができません。

「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」(マタイ11・27)

神の子としてのイエス様の本質は、私たち人間の理解をはるかに超えています。イエス様は、神のひとり子でありながらこの世に下ってくださいました。しかし、イエス様が本来持っておられる神としての本質を私たちがうかがい知ることなどとうてい不可能です。私たちは、イエス様の愛を体験し、イエス様の救いを自分のものとし、イエス様の助けを経験することができます。しかし、「受肉」、つまり神が人となられたことについては、神秘であり、私たちの知力で理解することは決してできません。そして、これこそが、私たちの礼拝の根底となるのです。

[2]神のことば(イエス様の権威)


第二に、イエス様の御名は、13節に「神のことば」と呼ばれています。

その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。(黙示19・13)

ユダヤ人たちにとって「ことば」とは、気軽に発せられる単語をさすのではなく、いったん口に出して語られると決定的な約束となる重さを持つものです。エサウは、いったん口に出してヤコブに長子の権利を譲った後に、これを撤回することはできませんでした。このように、「ことば」がひとたび語られると、そのことばは生き続けます。まして、そのことばが「神のことば」であれば、なおさらです。聖書の中で神が語られた「ことば」はすべて、厳然として立ち、未来永劫、ゆるぐことはありません。

神のすべての約束は、イエス様において成就します。「神のことば」が、イエス様においてすべて成就されるのです。

「神のことば」という名前には、さらに二つの意味があります。まず、「創造主としての神」を意味しています。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・・すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1・1、3)

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ1・16)

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11・3)


そして、神のことばは、「救い主としての神」を意味しています。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1・14)

これらのみことばを通して、「創造者」、また「救い主」としての神の本質と力とが啓示されています。イエス様はこの天地を創造されただけでなく、罪ある人々を救い出されました。ですからイエス様は、地を治める権利を二重にもっておられるのです。

「神のことば」は、イエス様から離れることはありません。なぜなら、「神のことば」は、イエス様そのものだからです。「神のことば」を正しく読むことは、イエス様に聞き、イエス様に従うことを意味します。

神の創造の「みことば」によって、この世界が生まれました。神の創造の「みことば」によって、今も人々は暗闇から光に、霊的な死から永遠のいのちへと呼び出されるのです。黙示録の著者であるヨハネは、この「神のことば」の力を体験した人でした。ヨハネは、イエス様によって罪の赦しを受け、イエス様に従いました。それ以来、「神のことば」はヨハネのすべてとなったのです。

やがて、恵みの時が去り、さばきが始まることは、聖書の「みことば」によって明らかです。ですから今、恵みの時代に、ヨハネが啓示された神の「ことば」である黙示録が、勝利、愛、恵みの「ことば」として語られ、述べ伝えられているのです。人間にとって「神のことば」を聞き、受け入れ、人々に述べ伝えることほど重要なことはありません。

[3]王の王、主の主(イエス様の使命)


第三の御名は、「王の王、主の主」です。

その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。(黙示19・16)

この御名によって「王の王、主の主」というイエス様の使命がわかります。イエス様の使命は、この世において神の王国を打ち建てることです。主の目的は、イエス様による完全な支配です。主を信じる私たちの中に現わされている神のご支配が、そのとき、全地の民の上に及ぼされるのです。

しかし、その前に「さばき」が行なわれなければなりません。この「さばき」は、「我々はイエスの支配など受けたくない」と言っているすべての人々に下されます。このような人々すべての頑なさが打ち砕かれるのです。イエス様は、鉄の杖をもって全地を治められます。

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。(黙示19・15)

地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの網を、解き捨てよう。」(詩篇2・2~3)

血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。(詩篇9・12)


以上、見てきたように、イエス様は三つ御名をもっておられます。ここで簡単にまとめておきましょう。

まず、「イエス様ご自身のほか誰も知らない名」です。これは、イエス様と神との一致を示しています。イエス様は、永遠から永遠に至る神であると同時に、人の子でもあります。このこと私たちの理解を超えています。

次に、「神のことば」。この御名は、イエス様が創造者であり、救い主であることを意味しています。

そして、「王の王、主の主」。イエス様には初めがなく、終わりがなく、永遠なるお方です。イエス様は、王の王、主の主として永遠に支配されるのです。

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