2023年4月3日月曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】25.大きな苦しみの終わりの時代への預言

25.大きな苦しみの終わりの時代への預言

黙示録14章6節から15節まで

1.第一の天使の、「永遠の福音」の知らせ
[1]永遠の福音
[2]御国の福音
[3]恵みの福音
2.第二の天使の、さばきの知らせ
3.第三の天使の、選択の知らせ
[1]獣を礼拝する者に対するさばきの警告
[2]忠実な者に対する報い

(6)また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。(7)彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」
(8)また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」
(9)また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、(10)そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。(11)そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。(12)神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」
(13)また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」(黙示14・6~13)

黙示録のこの箇所のテーマは次の三つです。すなわち、「大きな苦しみの終わりの時代に対する預言」、「世界史の終わりの直前における、三人の御使いの叫び」、そして「さばきの予告の知らせ」です。

また、この箇所は、三人の御使いの知らせに分けることができます。第一の天使の知らせは6節と7節にある「福音の知らせ」、第二の天使の知らせは8節の「さばきの知らせ」、第三の天使の知らせは9節から13節の「選択の知らせ」です。

まず、第一の天使の知らせから見ていきましょう。

1.第一の天使の、「永遠の福音」の知らせ


第一の天使の知らせは、6節と7節にある、「永遠の福音」の知らせです。それはまた、神のさばきの時が来たことを知らせ、神を恐れ、神をあがめることを要求する知らせです。

6節にある「永遠の福音」とは、何を意味するのでしょう。福音とはただ一つ、イエス様のことです。そのイエス様は、万物の創造者であり、王であり、救い主です。福音についてさらに詳しく言いますと、永遠の福音とは創造者であるイエス様のことであり、御国の福音とは王であるイエス様であり、恵みの福音とは救い主であるイエス様のことです。これについて簡単にみてみましょう。

[1]永遠の福音


永遠の福音は、すべての人類のためであり、主の被造物をとおして明らかにされています。

・・・・というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ1・18)

神の存在は、神が造られた被造物を見ることによって明らかであり、それをとおして人々は主への礼拝に導かれます。ヨブの悔い改めや、御使いを見て従ったコルネリオは、そのよい例であり、またダビデは次のように言っています。

私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。(詩篇139・14)

イエス様のことを聞いたことのない人々がどうして神を認め礼拝するように導かれるか、という問いに対する答えがここに与えられています。つまり、神はすべての被造物を創られたお方だと知ることにより、すべての人々が神への礼拝に導かれるのです。このようにして、多くの人々の群れが礼拝に導かれます。

彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を願い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(黙示5・9~14)

イエス様について聞いたことのない人々は、主が造られた宇宙や自然をとおして神を認め、礼拝するように導かれ、救われるのです。そして主の目から見れば、イエス様がこのような人々のために死なれたからこそ、人々は救われることができるのです。

黙示録14章6、7節では、「永遠の福音」がはっきりと宣べ伝えられています。この永遠の福音においては、人は神の前にひざまずき、礼拝を捧げることが勧められています。

神は、獣に対して礼拝を捧げず、まことの神を礼拝する者を救う、と言っておられます。「永遠の福音」は、詩篇96篇の5、9、10節に記されています。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。・・・聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」(詩篇96・5、9、10)

「永遠の福音」は、反キリストについて語られている黙示録13章の12節から17節に、はっきりと対立しています。

黙示録14章の6節から7節では、三つのことが要求されています。第一に、まもなく滅び去る反キリストを恐れることなく、永遠の創造者である神を恐れよう、ということです。神への恐れのない福音は、悪魔的なものです。

第二に、神を汚し、神の栄光を踏みにじる反キリストではなく、栄光を神に帰そう、ということです。

第三に、造られたもの、つまり反キリストではなく、創造者であるまことの神を礼拝しよう、ということです。

「永遠の福音」の内容は、「創造者としての神」です。これがまことの神を礼拝する根拠です。まことの神に対して降伏することは、かたくなな心を捨てて神を礼拝し、神の前にひざまずき、そして反キリストを拝まないことです。

[2]御国の福音


「御国の福音」とは何でしょうか。御国の福音とは、まことの神が王であるということです。悔い改めて、神のご支配を認めることです。御国の福音は、イスラエルの民とも密接に結びついています。神はダビデとの約束によって、この地上に神の国を建設されます。

あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。(第二サムエル7・16)

「御国の福音」は、昔の預言者たちや洗礼者ヨハネ、またイエス様によって宣べ伝えられました。

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。(マタイ9・35)

そして大きな苦しみの時に、ユダヤ人をとおして、み国の福音が再び宣べ伝えられることになるでしょう。

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。(マタイ24・14)

この福音の結果、黙示録7章にあるように、神の御座のまわりに多くの礼拝者の群れが起こされるのです。

[3]恵みの福音


「恵みの福音」は、今日宣べ伝えられています。

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒20・24)

「恵みの福音」とは、イエス様が十字架で私たちの罪のために死なれたこと、そして救いを成就されたことです。主は、すべての罪人を愛され、罪人たちのためにひとり子を惜しまずにお与えになってくださいました。自分の罪を認めて神のご支配に自らを委ねる人は、罪の赦しが与えられ、神の子とされるのです。

イエス様は、今日もあなたにこのことをしてくださろうとしておられます。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11・28)

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6・37)

御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示22・17)

私たちは、次の三つの質問に対してよく考えてみましょう。

私たちは、神を恐れ、すべての誉れを神にささげているでしょうか。

私たちは、神のみこころに従おうとしているでしょうか。それとも自分の意思を押し通そうとしているでしょうか。

私たちは、主なる神を愛し、神に対して真実の愛をささげているでしょうか。

2.第二の天使の、さばきの知らせ


次に8節の、第二の御使いの知らせについて考えてみましょう。この御使いは「さばき」を知らせ、また人間の乱れた文化の滅亡を預言します。それは同時に、主の勝利の叫びでもあります。

最後の警告と降伏への勧告のあとで、最後のさばきがやってきます。獣である反キリストに喜んで従っていた人々の上に、神の叫びが響きます。8節で、第二の御使いはバビロンの滅亡を預言しています。この最後の警告は、「バビロンの富と幸福に惑わされるな」ということです。黙示録17、18章には、バビロンの滅亡についてくわしく述べられています。

バビロンは、神の民に対する最も激しい敵対者でした。神の民は、七十年間このバビロンに捕らえられ、奴隷とされていました。

バビロンは主の御手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲んで、酔いしれた。たちまち、バビロンは倒れて砕かれた。このために泣きわめけ。その痛みのために乳香を取れ。あるいはいやされるかもしれない。(エレミヤ51・7、8)

バビロンは、政治と宗教の中心でした。また偶像礼拝と誘惑の中心でもありました。

ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。「倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた。」と。(イザヤ21・9)

バビロンは、黙示録17章1節で、「淫婦」と名づけられています。偶像礼拝と姦淫とは、ともに罰せられなければなりません。そのため、バビロンによって誘惑された者に「神の怒りのぶどう酒」が注がれるのです。

そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。(黙示14・10)

主の御手には、杯があり、よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒がある。主が、これを注ぎ出されると、この世の悪者どもは、こぞって、そのかすまで飲んで、飲み干してしまう。(詩篇75・8)

バビロンはまた、人間の乱れた文化の頂点でもありました。多くの人々はこの乱れた文化に酔わされて、物事をはっきりと見る目を失ってしまいました。人々は、技術の進歩は、乱れた文化を発展させることはできても、決して人間の内面にある渇きをいやすことはできないということに気づかないのです。

歴史的に見ますと、ヨーロッパの文明から大きな災いが流れ出たことがわかります。人々は文明の進歩によってパラダイスに近づいたのではなく、単に生ける神から引き離されただけであり、人々は「神の怒りとさばきに値する者」へと成熟したに過ぎません。生ける神の拒絶は神のさばきを招き、結局は文明の破滅に至ります。

8節にある、終わりの時代におけるバビロンとは、生ける神から離れた教会を指しています。それはにせ預言者がとなえる世界宗教です。にせ預言者の世界宗教の中心地は、たぶんローマではないでしょうか。

私たちは黙示録14章で、天に響く勝利の力強い声を聞きます。バビロンに対するこの勝利の声について、18章にさらにくわしく記されています。人々は、バビロンによって神から引き離され、真実の愛を失ってしまうのです。バビロンはサタンの道具です。つまり迷わす者たち、嘘つきの者たちです。

3.第三の天使の選択の知らせ


[1]獣を礼拝する者に対するさばきの警告


9節にある第三の御使いは、誰を礼拝するのかと、選択をせまっています。御使いは反キリスト的な世界に対するさばきのことを語っています。それは同時にこの世への警告でもあります。この世と妥協し、見えるものに頼っている人々に対する警告です。

さばきはバビロンにくだるだけではなく、獣を拝む者にもくだります。御使いは「生けるまことの神は、獣を拝む者に対して恵みを与えられない」と警告しています。獣を拝む者は、意識的に神を拒み、意識的に悪魔に仕えます。獣を礼拝することは神に対する人間の反逆の頂点です。

この時代には、獣を拝むように見せかけて、心の中ではイエス様を拝む、というようなごまかしはありえません。妥協はありえないのです。ですから御使いは、選択が必要だと語っているのです。

10節にある「神の怒りのぶどう酒」とは、神の罪に対する怒りを意味しています。イエス様は十字架において、私たちの代わりに苦しみの杯を飲まれ、私たちが受けるべきさばきを代わりに受けてくださいました。にもかかわらずイエス様を拒んだ人々は、この時神の怒りの杯を飲むのです。

それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。(ローマ2・4~6)

10節には火と硫黄のことが記されています。火や硫黄は、ソドムやゴモラの場合と同じように、神の恐ろしいさばきの象徴です。この恐ろしいさばきは、「聖なる御使いたちと小羊との前」で行なわれます。その時、獣に仕えるすべての人々は、イエス様が私たちの罪を担い、私たちのために死んでくださったことを、驚きをもって認めざるをえません。しかし、悔い改めるにはもう遅すぎるのです。なぜなら、その時にはすでにさばきが始まっており、このような人々はもはや言いわけができず、休むことのない永遠の苦しみに投げ込まれているからです。

11節はもっとも厳粛な真理です。

それは夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る。そこは代々にわたって、廃墟となり、だれも、もうそこを通る者はない。(イザヤ341・0)

すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。(黙示19・20)

そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示20・10)

火や地獄、永遠の滅びは、聖書の真理です。イエス様はいつもそのことを語っておられます。

「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。』」(マタイ25・41)

イエス様は、天に引き上げられた後も、このことを語っておられます。

しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示21・8)

パウロもまた、それについて語っています。

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(第二テサロニケ1・7~9)

ヨハネもそれについて、厳粛に語っています。

そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示20・10)

ユダもまた、同じ真理を語っています。

アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」(ユダ14、15)

ペテロもまた、そのことについて語っています。

神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。(第二ペテロ2・4~9)

地獄は、否定することのできない真理です。

11節には、「永遠にまでも」という表現が用いられています。この表現は、本来は「永遠から永遠へ」という意味であり、聖書の中に十二回出てきます。このうち八回は、神が「永遠から永遠」に至るまで生きておられる、ということについて書かれている箇所です。また一回は、義とされた者の祝福に関連して用いられています。

また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」(黙示5・13)

残りの三回は、滅びに関して述べられています。黙示録20章10節には、悪魔の永遠の滅び、救われていない者たちの永遠の滅びについて記されています。

そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示20・10)

「永遠に昼も夜も」とあるところは、原語は「永遠から永遠」という表現が用いられています。それは神によるさばきが「永遠」に続くことを意味しています。したがって、ここは聖書の中で、もっとも厳粛な箇所です。

[2]忠実な者に対する報い


13節では、まことの神に従う人々たちに、獣を拝む者たちとはまったく反対のことが起こることが記されています。

獣を拝む者に対しては、永遠の苦しみ、悲しみのみが与えられます。しかしイエス様のために命を捨てる者に対しては、イエス様は「あなたは幸いである。」と言われます。

ここで私たちは、獣を拝む者たちと、イエス様を礼拝する人々とを、比較してみましょう。

獣を拝む者たちは、その額に獣の名と獣の数字とが記されています。そして小羊を礼拝する人々には、イエス様の御名が、また神の御名が記されています。

獣を拝む者たちは悪魔の奴隷にされますが、小羊を礼拝する人々は救われて心の自由を与えられます。

獣を拝む者たちは姦淫を犯す者であり、淫婦です。小羊を礼拝する人々は、おとめのように汚れのない人々です。

獣を拝む者たちは偽りを語り、誘惑を受けます。小羊を礼拝する人々は、その口に偽りがなく、誘惑から守られます。

獣を拝む者たちは獣を礼拝しますが、小羊を礼拝する人々は小羊に従います。

獣を拝む者たちは永遠に滅びに至り、小羊を礼拝する人々は永遠に救われます。

獣を拝む者たちには平安がなく、小羊を礼拝する人々には真の平安があります。

10、11節には、獣を礼拝する者へのさばきが記されており、12、13節には忠実な者への報いが記されています。

この御使いの警告のあとで、恐るべき戦いが行なわれます。悪魔は反キリストとにせ預言者をとおして力を現わし、そして人々を惑わします。しかし、この時代に殉教をとげる人々は祝福されます。ユダヤ人たちは、救世主を待ち望み、神の御国の建設を待ち望み、そしてその約束された神の御国をまもなく体験する確信を得ます。

しかし、神の御国が来る前に殉教をとげた人々はどうなのでしょう。この問いに対する答えは、天から聞こえる声によって与えられます。彼らはなぐさめをえるのです。

また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」(黙示14・13)

殉教をとげる人々は、第一の復活にあずかり、主と共に支配を行うようになるのです。

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。・・・・この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。(黙示20・4、6)

彼らは、殉教の報いとして、地上における支配を与えられるのです。

天から声を出しているのは誰でしょう。それはもちろんイエス様ご自身です。さらに、聖霊もその声に対して「しかり。」と同意をもって答えています。このような二重の証しは、それが確実なことだと強く証明しているのです。

勝利を得る人々の群れは、獣を拝む者たちにはっきりと対立しています。12節には、勝利を得る人々の三つの特徴が記されています。

一つめは忍耐です。忍耐とは、弁明せず、攻撃せず、困難や孤独や死すらも神からの賜物として受けとることです。忍耐とは、最後の時に至るまで信仰を守りとおすことです。

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(マタイ24・13)

二つめは従順です。従順とは、神の戒めに対して注意深く、忠実であることです。神の言葉は信者にとって岩のような土台です。神の言葉への従順さこそ、勝利を得る人々の特徴です。イエス様に対する愛だけが、このような従順を可能にします。勝利を得る人々は、獣の強制や命令、誘惑を投げ捨て、神の戒めのみを受け入れます。

三つめは信仰です。イエス様に対する信仰、イエス様が十字架の上で流された血に対する信仰だけが、救いと永遠のいのちをいただく道です。勝利を得る人々の群れは、ペテロと同じように、イエス様が生ける神の子、キリストであることを証しします。

シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16・16)

そして、彼らはこのような信仰を、終わりの日に至るまで守りとおします。

あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。(第二テモテ1・13)

私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。(第二テモテ2・8)

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。(第二テモテ4・7)

勝利を得る人々は、いのちを捨てても、獣を拝んで永遠の滅びに入ることを拒み、三年半の間獣による苦しみに耐え、のちに千年王国でイエス様とともに支配者となることを選ぶ人々です。

13節の終わりの部分に、「彼らの行ないは彼らについて行くからである。」とあります。人を救うのは「彼らの行ない」ではなく、ただ、イエス様の十字架上の血による犠牲だけが私たちを救うのです。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2・8、9)

しかし、イエス様に対する愛からでた行ないは、彼らについて行き、永遠に残り、そして報われるのです。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15・58)

よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。(第二ヨハネ8)

だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。(ヘブル6・9、10)

もし、あなたがイエス様のものであるなら、あなたの「行ない」はどのようでしょうか。あなたは、救い主イエス様のために、何をなさっているでしょうか。

もし、あなたがイエス様を受け入れておられないなら、あなたの罪があなたを責めることでしょう。イエス様の血は、あなたの罪のために流されました。どうか、イエス様にあなたの罪を告白してください。そうすれば、イエス様はあなたの罪を赦してくださいます。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1・18)

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ9・2)

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