2023年4月28日金曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】37.人間に対する最後の審判

37.人間に対する最後の審判

黙示録20章11節から15節まで

1.第二の復活
2.さばきの時はいつか
3.さばく方
4.さばかれる者
5.さばきの根拠
6.さばきの結果
7.唯一の逃れ道

(11)また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。(12)また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。(13)海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。(14)それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。(15)いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示20・1~15)

黙示録20章11節から15節は、最も恐ろしい箇所だと言えます。ここに記されていることは真理であり、確かなことです。主題は「人間に対する最後の審判」であり、内容的には「永遠の滅び」、「第二の復活」、「世界審判」、「死者に対するさばきと終末」、「白い御座の大審判」などです。

サタンに対するさばきのあと、聖書は「死者」に対するさばきについて私たちに語っています。それは、主が公に認められるかたちで再臨されたあと、主がなされる第三のさばきです。第一のさばきは戦争というかたちで行なわれます(黙示19・11、15)。第二のさばきは神の国建設のため、千年王国の始めに行なわれるさばきです(黙示20・4)、(マタイ25・31~33)。そして千年王国の終りに行なわれるのが、最後の審判となる第三のさばきです。これからそのことを七つの点に分けて考えてみましょう。

1.第二の復活


はじめに「第二の復活」について見てみます。実は聖書の中には「第一の復活」という記述はありますが、「第二の復活」という記述は出てきません。千年王国の前に、すでに救われた信者の復活がありますが、これは「第一の復活」と呼ばれるもので、千年王国をキリストと共に支配するためのいのちへのよみがえりです。これに対して、未信者の復活は千年王国のあとで起こりますが(黙示20・5)、これを私たちは「第一の復活」と区別して「第二の復活」と呼んでいます。ただしこの復活は、いのちへのよみがえりではなく、さばかれるためのものです。

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。(ヨハネ5・28、29)

第一の復活にあずかる者は、アダムの時以来、主なる神様の御前にへりくだり、哀れみと恵みを請うた人々すべてが含まれます。そして第二の復活に属するのは、神を無視し、悔い改めを拒み、永遠への望みもなく死んでいった人々です。

次に、さばきの時について見てみましょう。

2.さばきの時はいつか


この「さばきの時」は、聖書では新しい天地が出現する直前とされています。このさばきは、主イエス様が裁判官としてなさる最後の行為です。

前に学んできたように、千年王国では、キリストがどういうお方であるか、また人間の信仰と従順の結果として何がなされるのかが明らかになります。また、サタンが本質的にどういう存在であるか、つまり、その本性を決して変えない者であり、変わりたいとも望んでいないことも明らかになります。そして人間を滅びへ、つまり間違った道へと導いていくことこそがサタンの目的であることが明らかになります。さらに千年王国は、私たち人間がどういう者であるか、その心の深奥には神様に対する反抗心がいかに深く根付いているかという事実をも示してくれます。たとえ人間として成功する条件をすべて備え持ったとしても、社会的・経済的・文化的な環境が完全に整えられたとしても、正しい政府が確立されすばらしい法律が制定されたとしても、また平和が実現したとしても、それらは人間を罪から救い出す真の救いのためには何の役にも立たないことが明らかになります。人は聖霊によって新しく生まれ変わらない限り、生まれながら神に対する反逆の心を抱いた者、反逆者であり続け、最終的にはさばかれなければならないのです。

3.さばく方


黙示録20章11節にさばきの御座について書かれていますが、その御座はまぶしいほどに真っ白で、罪と不義の汚れは少しもありません。「神は光であり」(第一ヨハネ1・5)とある、その神がここに明らかになります。それは隠されていることができません。

イザヤがこの御座を見たとき、彼は叫びました。

「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ6・5)

イザヤは当時、まったく神に忠実な神を恐れる人格者で、非の打ち所のない預言者でした。そのようなイザヤでさえ、神の前で「私はけがれた者だ」と叫ばざるをえなかったとしたら、ましてや意識的にイエス様を拒み、受け容れようとしなかった人々はどういうことになるでしょうか。

御座に座っている裁判官は主イエス・キリストです。

父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。(ヨハネ5・22)

また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。(ヨハネ5・27)

神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。(ローマ2・16)

なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。(使徒17・31)

ご自身、人間の姿をとって地上に下られた主イエス様は、裁判官としてふさわしいお方です。神の被造物である人間が、主イエス様を救い主として受け入れないことは、最も大きな罪です。私たちの罪の贖いのためにご自身をお与えになったほどに愛に富んだお方が、ここでは極めて厳格な裁判官となって、ご自身を拒んだ者たちに対されます。

神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。(第二テモテ4・1)

4.さばかれる者


第四番目の問題に入りましょう。さばかれるのは誰か。それは肉体的な死者だけでなく、霊的にも死んだ者たちです。カインの時代から千年王国の時代に至るまで、主イエス様の御前に心から悔い改めて身をかがめることをしないで、神に反抗し続けたすべての人間がさばかれます。贖われた信者たちは、すでに千年王国の前に復活しました。ですから、この箇所に記されている死者たちが救われていない死者であることは明らかです。ノアの時代に洪水によってすべてののが呑み尽くされてしまったように、ここでも人々のする計算はすべて無意味になり、最後の厳しい決算が行なわれます。

神を否定する者、イエス・キリストの神性を認めない者、天国と地獄の存在を認めない者たちすべてが、さばき主の前に引き出されることになります。逃げようとするあらゆる試みは役に立ちません。聖なる神の御前では罪人はどうすることもできません。逃げ道も、護ってくれる者も、弁護する者も存在しません。

イエス様の贖いの血潮を信じ、主に信頼することによって「義」と認められた人々だけが、さばきを免れることができます。それ以外の人々、つまりそれまでの絶え間ない主の呼びかけにも関わらず、意識的に罪の赦しを拒み、悔い改めなかった人々のすべてが弁解の余地なくさばかれます。罪を犯せば罰せられるということを知っていながら、意識的に罪を犯し、主の救いを拒んだ者は、必ずさばかれ罰せられます。

前に、神からの赦しを受け入れたくない魂のすべてが、死んでから「苦しみの場」に行かなければならないということを見てきました。しかもこの「苦しみの場」でも人間の魂は相変わらず考え、欲し、感じることができます。

その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」(ルカ16・23、24)

主イエス様は次のようにおっしゃいました。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3・18)と。しかし、信じたくない者は「すでにさばかれている」のなら、どうして最後の審判が必要なのでしょうか。それは、すべての未信者は自分たちがなぜ第二の死を経験しなければならないのか、どうして永遠に主なる神から離されなければならないのかをはっきりと知るべきだからです。

全宇宙はいつかなくなります。しかし、神も人間も永遠に生き続けます。人はしばしば「この人は死んだ」、「あの人も死んだ」と言いますが、すべて死んだ人は死後もなおイエス様のみそばか、あるいは「苦しみの場」か、いずれかの場所で生き続けます。天国の主イエス様のみそばに行った者はいのちに満ち溢れており、他方、「苦しみの場」に行った者はすべてそこからさばき主の御前に出て行かなければなりません。

さて、ここから第五番目の問題に移りましょう。

5.さばきの根拠


さばきの根拠になるものは「天にある書物」であることが黙示録20章12節に示されています。この書物について、詳しいことは必ずしも明らかではありませんが、「神の戒めの書」、「行ないの書」、「いのちの書」であると考えられます。

・神の戒めの書

先ず、「神の戒めの書」について見てみましょう。神のみことばである聖書は、しばしば「律法の書」とも呼ばれます。神のみことばを聞いた者は、それに従うよう義務づけられています。従わない者はさばかれています。

というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3・10)

「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(申命27・26)

たとえ神のみことばを知らない人であっても、良心による基準を持っています。つまり良心に従うよう、人間は義務づけられているのです。ですから良心に従わない者も、またさばかれるようになります。

神にはえこひいきなどはないからです。律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。――(ローマ2・11~15)

・行ないの書

第二は「行ないの書」です。これにはその人に真理を見出す機会があった時のことがすべて記録されており、また拒んだ場合もすべて記録されています。この書によって、すべての悪の行ないが明らかにされ、隠されていた動機も明るみに出されます。

神は、善であれ、悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(伝道者12・14)

私たちのすべての考え、ことば、行ない、怠慢はこの書の中に記録されます。多くの人々はさばかれることなどないと思ってこの地上の生活を営んでいます。人々は富と楽しみを求め、嘘をつき、だましたあとで誰にも知られなければ「ああ、よかった」と胸をなでおろします。しかし天においてはすべてのことが正確に記録されています。神はすべてを見ておられ、すべてをご存知です。誰一人、神の前で隠しとおせる人はいません。この地上では、人間は主なる神と贖い主なるイエス様の前から逃げることができると思い、そう試みます。多くの人の人生を一言で言い表わすと、それは「神からの逃避」と言えるでしょう。しかし、主イエス・キリストの贖いの十字架を受け入れ、主イエス様に信頼する者こそ幸いです。

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6・37)

あなたは、すでにイエス・キリストの贖いによる「罪の赦し」を受けておられるでしょうか。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1・9)

もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(第一ヨハネ1・7)

もうすでに贖い主としての主イエス・キリストを受け入れているなら、もはやさばかれることはありません。主イエス様がすでに私たちの罪に対する代価を支払い、神様の怒りをその身に受けてくださったからです。イエス様を信じている者なら、行ないのリストがさばき主の前に提出されることはありません。なぜなら、主イエス・キリストがその罪と債務のリストを十字架に釘付けにしてくださり、葬り去ってくださったからです。

いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。(コロサイ2・14)

「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43・25)

「そのようにして、人々はもはや「主を知れ。」と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。主の御げわたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31・34)

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8・33~39)

「さばかれる」ということは、「神から永遠に引き離される」ことを意味しています。

・いのちの書

主イエス・キリストを受け入れた者は、罪を赦されており、その名前は「いのちの書」に記されています。

心から罪を悔い改め、主イエス様をあがない主として受け入れた者はみな、次のように告白することができます。「神の恵みとイエス・キリストの血潮によって、どのような罪人であっても新しく造り変えられるのです」と。

人間は誰でも生まれた時にその名前を「いのちの書」に記録されます。しかし生きている間にイエス様を拒み続けて救いを受け入れなかった者の名前は「いのちの書」から消されてしまうのです。大艱難の時、獣や獣の像を拝んだ者の名前も即刻「いのちの書」から抹消されます。さばきの時、神が御座で「いのちの書」を開きますが、新しく生まれ変わった者の名前は必ずそこに記録が載っています。その人が、主イエス様の血潮の代価として買い取られた者であるからこそ、「いのちの書」に名前が記されているのです。「いのちの書」が「小羊の書」(黙示21・27)とも呼ばれる理由がここにあります。

さて、これまで見てきたことをまとめてみましょう。主イエス様はまず、さばき主として「律法の書」をお開きになり、それを手がかりにして一人一人の人間に何が要求されていたのかをお示しになります。神様の完全な愛、聖さ、真実というものは、人間がどんなに努力しても決して到達することのできないものであって、そのことを主イエス様は人間一人一人にわかるように示してくださいます。しかしそれと同時に、主なる神は、これらの事柄、人間の力によって不可能なことを、御子イエス・キリストを遣わしてくださったことにより、そしてイエス・キリストを信じ受け入れる者にイエス様が内住することにより、可能にしてくださったことをも明らかにしてくださいます。

それから「行ないの書」が開かれます。この書には、訴えられた人の名前が記録されており、神の律法によって吟味された一人一人の行ないも記録されています。神の要求に照らせばどのような人の行ないといえども、不完全であり的はずれです。人間が自分の良心の声を消そうとしたり、それから逃れようとしたりしたこと、また神が悔い改めと立ち返るための機会を与えた時に拒んだ人たちの様子をも明らかにお示しになります。

そして最後に「いのちの書」が開かれます。さばきに定められた者たちの名前はどこにも見出されず、それこそが永遠の滅びを意味するのです。

6.さばきの結果


これから六番目の点、「さばきの結果」がどんなものか見てみましょう。

人間はおののき始め、次の様に叫ぶことでしょう。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』(マタイ7・22)

人々はこう言うかもしれません。「私たちは教会に行き、聖書を読み、洗礼も受けました」、「あれもこれも、いろいろやりました」と。しかし、それがイエス様への愛と信仰からでなく、形だけのもの、または不純な動機から出たものである場合、さばき主は「わたしはあなたがたをぜんぜん知らない」(マタイ7・23)とはっきり答えられるのです。彼らは結局、サタンや反キリストや偽預言者と同じ末路を引き受けなければなりません。この末路は「第二の死」と呼ばれます。それは人間が神から永遠に引き離されることであり、地獄と永遠の滅びを意味します。(黙示14・11)神は永遠に生きておられる神(黙示15・7)であり、さばかれた人々の苦しみも神が生きておられる間、つまり永遠に続くのです。「永遠に失われた状態」が存在するということは恐ろしい事実です。人間は誰でもよみがえります。一つのグループは永遠のいのちのためによみがえり、別のグループは永遠の恥と汚れのためによみがえります。

地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。(ダニエル12・2)

誰がどちらの道に行くかは、結局その人と主との間の個人的関係であり、他人のあずかり知らないところですが、自分がどちらの道に行くべきかは知っておかなければなりません。

罰の程度はいろいろな状態に応じて異なります。例えば、悪の程度に応じて、また債務の程度に応じて、主から与えられた光に応じても違ってきます。神様のことばを聞きながら意識的にそれを拒み、罪の状態にとどまったまま真理の光に来ようとしない人々に対する罰は大きいのです。

「火の池」または「永遠の死」におちるということは、その人がもはや存在しなくなることではなく、まことの神、主からの永遠の決別を意味します。それは比べるもののないほどひどい苦しみとなることでしょう。

7.唯一の逃れ道


さて最後にここで、さばかれないための唯一の逃れ道について考えてみましょう。

聖書は今の天と地は過ぎ行くと言っています。

あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。(詩篇102・25、26)

目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。(イザヤ51・6)

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マタイ24・35)

しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。・・・・しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。・・・・そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(第二ペテロ3・7、10、12)

今まで見てきたように、黙示録19章17節から21節には反キリストに対するさばきが記され、黙示録20章7節から10節にはサタンに対するさばき、最後に黙示録20章11節から15節には主イエス・キリストを救い主と信じない人々に対するさばきが記されています。さばかれた人々については、彼らが主イエス様の前に何も語らず何も答えず、ただ立ち尽くしているだけであることが聖書から読み取れます。彼らは言い訳によってさばかれるのではなく、天の書物に書かれている事実に基づいてさばかれるのです。

ここで一つの大切な問いは、イエス様の恵みの御座と「白い御座」(黙示20・11)との間の違いは何かと言うことです。イエス様の恵みの御座はイエス様ご自身の血潮によって覆われています。この恵みの御座は、主イエス様の身代わりの苦しみについて、また提供された罪の赦しについて語っています。イエス様のみもとに来る罪人は、受け入れられ、義とされます。

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ3・25、26)

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9・22)

これに対して「白い御座」は、イエス様の血潮に覆われている状態ではありません。「白い御座」は、血潮で覆われていませんから罪の赦しはありません。赤い色は身代わりとして注ぎだされたキリストの血潮を表わします。白い色は神様の聖さと義を表わします。

もう一つ大切な点は、人間は自分のわざに応じてさばかれたとき、神の前に義とされ得るのかという問題です。その答えは「否」です。絶対に、誰一人としてそのようなことはありえません。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3・10~20)

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ3・25、26)

人間が義とされるのは、ただイエス・キリストの贖いの血潮の赦しによってのみ、可能です。もし人間が、自分のわざによって天国に入ることができるとしたら、十字架における犠牲の死はまったく不必要だということになってしまいます。さばきから逃れる唯一つの道は、イエス・キリストのもとに行って罪を悔い改め、赦しを受けることです。

こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント5・20、21)

神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒17・30、31)

新しく生まれ変わっていない人は、さばきの場に行かなければなりません。そしてそれは神からの永遠の分離へとつながります。よく言われるように、「一度しか生まれていない者は二度死ななければ」なりませんが、「二度生まれた者、つまり回心したものは一度だけしか死に」ません。

人間はまことの神に仕えるために神によって創られました。神により頼まないで行なうことはすべて罪として公にさばかれるようになります。神を無視した自分勝手は、どのような考えも行ないもわざも非難されます。イエス様に従順に従って行なうことだけが、永遠の実を結びます。誰でも心から望めば、きょう、神の約束のみことばに基づいて信仰に至り、信仰を通して救いの確信を持つことができるようになります。

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3・36)

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)

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