2014年9月2日火曜日

離れたらおしまい

離れたらおしまい
2014年9月2日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第二歴代誌
20:12 私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。

詩篇
127:1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

第二コリント
3:5 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。


初めにお読みになりました箇所は、本当にすばらしいイスラエルの民の態度でした。『私たちはどうすればよいかわかりません。』――これで終わりだったらたいへんです――『私たちはどうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。』この態度をとる者は、本当に幸せです。なぜならば、この信頼の態度こそ、主は祝福をもって、応えてくださるに違いない。

もう一か所、読みます。皆さん、何回も何回も読んだ箇所です。有名なところなんですけれど、イエス様は自分自身を明らかにするために、勝利の秘訣について言われました。

ヨハネ
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

離れたらおしまいです。

15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

このヨハネ伝、十五章の姿を見ると、主イエス様ご自身がまことのぶどうの木で、そして、あなたがたはその枝であると言われました。木の幹がその枝に力を送って、枝が多くの実を結ぶことができます。なぜならば、ぶどうの幹に力と命が満ちているからです。パウロは、我々の主イエス様と私たちとの関係について、次のように言ったのです。

コロサイ
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

イエス様の中に力と命が満ち満ちています。イエス様は我々の内に生きておられます。それゆえ、私たちは、その満ちているものを受けるために、イエス様と生きたつながりを保っていなけばなりません。イエス様から離れては、私たちは本当の意味で信じることも、祈ることも、愛することもできません。

『少しもできない』と、イエス様は言われました。これこそイエス様のことばです。そして、イエス様は、何事でも大仰に言われません。我々の内に、もっとも足りないことは、いったい何でしょうかね。それは、私たちが自分で何かを試みようとし、イエス様のために何か計画しようとする独立の精神が、イエス様に寄りかかる心が、ないことです。

イエス様がペテロに言われたことばは、我々にも当てはまるのではないでしょうか。

ヨハネ
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。

この言葉は、私たちも体験しなければならないのではないでしょうか。全くイエス様に寄りかかるということが、実を結ぶことと、力を持つことの秘訣です。イエス様に寄りかかることによって、自由になります。私たちは、はたして自ら貧しいことを知っているのでしょうか。私たちは何事もできない者ですけど、イエス様は我々の内にあって行動者となり、愛する者となり、祈祷者となることを願っておられます。この無限の富を前にして、我々は、乞食のようではないでしょうか。イエス様に寄りかかることは、泉に連なることを意味します。イエス様こそ、我々の慰めの泉です。この悩む理由には、無数の人々が慰めを求めています。しかし誰も、また、何もこれに答え得るものはありません。けど、イエス様は言われました。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

苦労している者は、解放されるべきであり、重荷を負っている者は休むべきです。今日、想像することのできないほど、重荷となっているものが、満ち満ちています。多くの信じる者でさえも、もはや、本当の喜びを見出すこともできない。心をかたくなにしてしまう。

イエス様に従うこと以外に、楽しみを求めようとしている信者もいるのではないでしょうか。意識して、悪魔との関係を断ち切らないかぎり、私たちは、悪魔の手玉にされてしまいます。現在、イエス様との関係がどうであれ、あなたの悩みと苦しみがどのようなものであれ、イエス様は招いておられます。

たとえば、あなたは、苦痛、心配、不安、動揺の内にいるのでしょうか。イエス様は、『すべて重荷を負っている者、疲れている者、おいで。わたしの所に来なさい。休ませてあげます。』

あなたは、不幸、不満、不自由でしょうか。また、あなたの心には喜びがないのでしょうか。イエス様は、『わたしのもとに来なさい。あなた方がこの世では悩みがあります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝った』と、言っておられます。

あなたは、試みがあなたの弱い点、あなたの逆らうことのできない点を、いつも掴んでいるので、元気がないのでしょうか。イエス様は、『わたしのもとに来なさい。わたしを呼び求めよ。あなたは、わたしの内においてすべての事において、勝ちえて余りがある』と約束しておられます。

あなたの心の中には、今まで、誰も満たすことができなかった癒しがたい空腹があるのでしょうか。イエス様は、『わたしは、いのちのパンです。わたしのもとに来る者は、もはや飢えることがない』と、約束しておられます。

あなたの魂は、どんな医者に見せても治らないような、からからに乾いた土地のような渇きを持っているのでしょうか。イエス様は、『誰でも渇く者は、わたしの所に来て飲むがよい』と呼んでおられます。

あなたの一日は、失望と誘惑の試練に満ちていて、あなたの目の前は、真っ暗なのでしょうか。イエス様は、『わたしはこの世の光です。わたしに従ってくる者は、闇の内を歩むことがなく、いのちの光を持つ』と、約束しておられます。

あなたの魂が、罪で汚れていることに驚き、この魂が聖められるかどうかと、疑っているかもしれない。イエス様は、『わたしのところにすぐ来なさい。わたしを呼び求めよ。たとえあなたの罪が緋のようであっても、雪のように白くなるのだ』と言っておられます。

イエス様とは、本当に、比類なくすばらしいお方です。イエス様こそ、我々の力の源です。私たちは、能力と権力を必要とします。主は、これらのものの所有者です。

コロサイ
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

また、イエス様こそが、罪の赦しの源です。罪の赦しを受けたいと願う者は、まず、自ら罪人であると知らなければならない。ただ、私は罪人であると言うだけでは、充分ではないでしょう。イエス様は、私たちにどんな罪を犯したかと、お尋ねになります。私たちはみな、聖い主なる神と自分のあいだに、いかに大いなる隔たりがあるか、感謝したことがあるのでしょうか。自分の罪を告白したことがあるのでしょうか。

イエス様こそ、自分の罪の赦しの源であると、感謝の心を持って言うことができれば、本当に幸いと思います。また、イエス様こそ、まことの平和の源でもあります。現代の世界の国々は、平和、平和と宣伝します。至るところで平和会議が招集されています。けれども、イエス様のみが、平和の源であることを、大部分の人間は考えようとしません。「イエス様こそが、私たちの平和です」と、初代教会の人々は、喜んで証ししたのであります。イエス様に寄りかかるということが、慰め、力、罪の赦しと平和の源に連結しているという事実を覚えて感謝しましょう。

イエス様により頼む秘訣とは、いったい何でしょうか。へブル書、十二章の二節が、その答えなのではないかと思います。

へブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエス様こそが、支配しておられ、人間一人ひとりを考えていてくださるのです。詩篇の作者であるダビデは書いたのです。

詩篇
34:5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

これこそが、毎日、我々の経験でもあるように祈るべきなのではないでしょうか。

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