2014年9月16日火曜日

私のものである主

私のものである主
2014年9月16日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒
16:19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

このあいだの土、日曜日、盛岡まで――遊びに行ったのではないけど――そして、今日も盛岡から片桐兄姉が見えてますね。ご苦労様。どうして来たのかな。時間をつぶすためではない。他の仕事がなかったから来たのでもない。結局、共に主を褒め称えるためではないでしょうか。

ダビデはもちろん、いろいろなことを経験しましたし、けど一人だけで褒め称えることとは、御心ではないらしいと思って、よく詩篇の中で、「共に」という表現を使いました。共に、主を仰ぎ見ること、共に、御名を褒め称えることこそが、大切なのではないでしょうか。主を褒め称えている人間を見ると、確かに自分もそうしなくてはいけないと思うのではないでしょうか。

私は、いまも、一人の姉妹の証しを覚えています。いろいろな辛いことを経験しました。沖縄の姉妹ですけど、九十四歳で召されました。けど、彼女を知るようになった人々とは、どうしてであるか、わらないけど、皆、祝福されたのです。自分が中心になりたい気持ちは、一切合切なかったのです。彼女の部分的な証しを読みましょうか。

『主の御名を賛美します。今、私はまだ元気です。けど、いつ召されるか解らないので、皆さんに最後の言葉を残しておきたいと思います。私の今の気持ちは、詩篇二十三篇の、「たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから」という通りです。また、「盃はあふれています」とのみことばは、何と嬉しいことでしょう。私もそのように言えるように導いてくださったのはイエス様です。ありがたいことです。

イエス様がいつも共にいてくださる、その人生は何とすばらしいことでしょうか。私は、その喜びで、平安で、希望で満たされています。ですから、今、何の心配もありません。思い煩いがありません。天国に行くことを喜んでいます。私は、いつまでも主の家に住まいましょう。主イエス様に心から感謝いたしております。』

もう、博士論文よりもすごいのではないでしょうか。結局、主は恵み深いお方である。私だって、本当は捨てられるべきです。天国に入る資格がないと、彼女は確信したのです。けども主は、だめな者を捨てようとしないから助かるね。今の社会と違います。イエス様は、決して捨てない。人間一人ひとりは、イエス様の流された血によって、買い取られたからです。人間一人ひとりは、イエス様にとって、尊い者です。

どうしてか、なぜか、それは解りません。今の世界とは、一つの大きな病院なのではないでしょうか。人間は皆、悩んでいるし、重荷を負っている者ですし、失望、絶望している者であり、どうしたらよいか、わからない者なのが現代人です。すなわち、結果として、人間は、孤独であり、さまよう羊のような者です。

さまよう羊の救いとは、いったい何なのでしょうか。言うまでもなく、羊飼いの近くにいることです。三千年前に、当時の世界を治めたダビデという王は言ったのです、「主は、私の牧者であるから、私には乏しいことがない。」こういうふうに言える人は、本当に悩みながら苦しみながら、大いに喜ぶことができます。

ダビデは、私そのものは、助けのない愚かで無力な羊であるから、どうしても羊飼いなる主を必要とします。自分自身のみじめさをよく知っている者は、良き羊飼いのところに来て、すべてをその羊飼いにゆだねます。救う道は、それしかない。良き牧者である主イエス様は、徹頭徹尾、自分自身を無にしてくださったお方です。そして、どうしようもない羊たちである我々、一人ひとりの幸いだけしか考えられないお方です。二千五百年前に書かれた約束は、本当に素晴らしいものです。よく引用される箇所です。

エゼキエル
34:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。

主の思いは、昔、そういう思いであっただけではなく、今日(こんにち)も同じ思いでいっぱいです。また、あまりおもしろくないしるしとして、聖書は言っています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」しかし、それだけではなく、喜びの訪れも書かれています。すなわち、『父なる神は、私たちのすべての咎を、十字架につけられた主イエス様に負わせた』ということです。イエス様の弟子であるペテロは、次のように告白しました。

第一ペテロ
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

主イエス様は、ご自分のいのちを与えてくださった良き牧者だっただけではなく、今日もなお、目に見えませんけど、我々の近くにおられ、我々のために生きておられ、私たち一人ひとりのことを考えてくださり、配慮しておられるお方です。ありのままの状態で、まさに、そのままの状態で、私たちは主のみもとに行くことを許されています。イエス様は、待っておられ、決して、拒むことを誰ひとりに対してもなさらないお方です。イエス様は、赦してくださり、解放してくださり、本当に新しくしてくださいます。

聖書の中のもっともすばらしい約束の一つは、「見よ、わたしはすべてを新しくする。」想像できない、考えられない。けど、約束を与えるお方とは、約束を守るお方です。唯一の救い、すなわち、罪の赦し、主なる神との平和、また、永遠のいのちを与えようと望んでおられるイエス様とは、生きておられるお方です。言うまでもなく、宗教と全く関係のないお方です。

まことの神とは、無宗教で宗教と全く関係のないお方であり、したがって、神のみことばである聖書の中で、宗教という言葉は出てこない。本当は――今、忘れてしまったけど――一回だけ、出てきます。けど、それは間違って訳されています。宗教ではなくて、礼拝、原語を見ると、礼拝となっている。ちょっと違うだけではなく、とんでもない間違いです。我々の持っている聖書とは、宗教と関係のないものです。初めのない、終わりのない、永遠なる神のみことばです。そして、イエス様は、「天と地はいつか滅びます。わたしのことばは、永遠に残る。」

世界一の馬鹿は、どういう者かと言いますと、この永遠に残ることばに頼らない人です。自分の気持ちによって、動かされる人なのではないでしょうか。

人間の作った宗教は、人を惑わし、間違った仕方で安らぎを与え、人を惑わして、お金を取るものです。単なる商売にすぎません。

今日、あちこちから来た人々は皆、宗教家ではなく、イエス様を知ることによって、変わらない喜びを見出した人々です。変わらない喜びがなければ、人生は確かに魅力のない重荷、また、退屈なものになります。

イエス様は、今、話したように宗教と関係のないお方であり、すなわち、無宗教です。このお方とは、人間から何も要求しません。いわゆる頭の知識も、立派になることも、また、お金も、イエス様は要求しません。主の呼びかけとは、聖書の中で、数えられないほど書いています。すなわち、「わたしは、あなたを愛している。」イエス様によって無視されている人間は、一人もいません。十字架上におけるイエス様の代わりの死、すなわち、私たちの身代わりとなって、我々のわがままを贖ってくださったイエス様こそが、はっきりと啓示された、父なる神の愛そのものです。

万物は、主なる神によって造られ、この偉大なる主は、ご自分の被造物のことを配慮しておられます。そして、この主は、今日、来られたお一人お一人に対しても、関心を持っておられます。ちょっと考えられないのではないでしょうか。私も、この主によって、深く、心から愛されているということ。

悩んでいる人間は、だから絶望しなくてもいい。なぜなら、孤独から解放される可能性があるから。あらゆる重荷から解放される可能性も存在しているからです。そして、債務からの解放も、提供されているのであり、主は、すべての罪、過ち、わがままを赦そうと、心から望んでおられます。

今日の集いも、何千年も前に約束され、そして、預言どおりにこの世に来られ、人間の代わりに、十字架の上で、我々の本来、受けるべき天罰をお受けになり、復活し、救いの道をお選びになり、昇天なさり、そして、再びお出でになる主イエス様を紹介する集いです。

私たちにとって、もっとも大切なのは、いったい何なのでしょうか。肉体上の健康でもなければ、たくさんの金を持つことでもありません。また、多くの友だちを持ったり、権力や名誉を持つことでもありません。大切なことは、人間が債務の重荷から解放されること、そして、救い主なる神が、自分のわがままを赦してくださり、自分に永遠のいのちを与えてくださったという確信を持つことです。イエス様を受け入れて、そして、その後で後悔した人は、この世に一人もいません。なぜなら、イエス様は、限りなく豊かに恵んでくださるお方であるからです。まことの救いは、あらゆる心配、恐れ、思い煩いからの解放です。

救われるということは、主なる神の愛を体験することです。人間によって作られた宗教に入ることによって、あるいは、人間が作った神々を拝むことによって、何の愛も体験せず、何の救いも与えられません。傷ついた心は解放され、癒されるべきです。かたくなになった心は、主の愛によって克服され、新しくされるべきです。満たされない心は、この世に来られたイエス様によって、満たされるべきです。

今日の集いがきっかけとなって、出席してくださった愛する皆様方、お一人お一人は、イエス様を知ることによって変えられ、すなわち、悩みながら喜ぶことができ、問題を持ちながら平安に満たされ、そして、生き生きとした希望を持って、将来に向かうことができますように。

前に読んでもらいました箇所は、二千年前に起こった地震についての箇所であります。突然、大地震が起こったと二十六節に書かれています。そして、牢に入れられたパウロとシラスは、急に偉くなった。どうしてであるか――『先生方』と呼ばれるようになったのです。すごいね!「先生方、救われるために何をしなければなりませんか。」結局、自分は救われていないことを認めたのです。けど、どうしたらいいか全く解らない。パウロとシラスの答えは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」結局、主にとって家族は考えられないほど大切です。主は、家族の中の一人、二人を救おうと思っているだけではない。家族みな!そして、この新約聖書の書かれた時の家族とは、血のつながりを持つことを意味しているのではなかった。親戚も知り合いの人々も全部、含まれていたのです。そうすると、この約束とは何とすばらしいものでありましょうか。

ピリピの獄吏は、救われるために何をしなければならないかと、小さな声で言ったのではなくて、必ず、叫んだのです。どうしても知りたかったからです。

この疑問の叫びから、一つの言葉を取り出して見てみましょうか。「私」という言葉です。「私が救われるために何をすべきでしょうか。」ここで言っている「私」とは、誰でしょう?この私とは、失われている人であり、罪、悪魔、自己の奴隷です。彼は、主なる神を見ることのできないメクラでした。霊的に死んだ者でした。主なる神から出るいのちから、遠く離れていた者でした。

霊的死とはいったい何でしょうか。霊的死とは、生まれながらの命を持っていることです。この刑務所の責任者は、霊的に死んでいたのです。なぜなら、救い主を知らなかったからです。ピリピの獄吏が救われた時、彼は、自分が罪人であることを認めました。もし救われたいと思うなら、自分が救われていない者であり、メクラであり、奴隷であり、また、霊的に死んでいる者であるという事実を、もちろん、認めています。 

次に観察したい言葉は、『救われる』という言葉です。「私は救われるために何をすべきでしょうか。」獄吏は、自分は、良い人間になるために何をすべきでしょうかと、叫んだのではない。自分は、救われるために何をすべきかと叫んだのです。彼は、『私はいかにしたら奴隷の身から解放されるだろう。私はメクラの身から、目開きの身になることができるでしょうか。私は、死の様から生きることができるのでしょうか』と、叫んだのです。

三番目の言葉は、「成す」という言葉です。「する」という言葉です。「私は、救われるために何を成すべきでしょうか。」鎖で縛られている奴隷が、自分の身を自由にすることができるために何をしたらいいのでしょうか。メクラが見えるようになるために、自分で何ができましょう。死人が、自分で生きることがどうしてできましょう。絶対に、何もできません。まことの救いとは、何でしょうか。まことの救いの本質とは、いったい何なのでしょうか。簡単に、三つのことを言いましょう。

第一番目、まことの救いは、主なる神の満足される充分なる救いでなければならない。人間がいかにして、誰によって救われるかは、主なる神しか知りません。獄吏は、自分の身を救うために、自分の道を行くことは許されなかったのです。ただ、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」獄吏は、この言葉によって導かれ、救われたのです。自分を救うために、自分勝手な道を選ぶことはできませんでした。私たちの救いの道は、十字架であり、また、十字架の上で代わりに死なれ、犠牲になられたイエス様です。

二番目、救いは罪と共に、罪の結果も消滅してしまうような、完全な救いでなければなりません。救いは、人の罪を消し去り、その人に新しいいのちを与えるものでなければいけません。獄吏の場合も、獄吏の罪が赦され、獄吏の内に新しい創造が、信仰によって、成されなければならなかったのです。私たちの罪は、十字架で贖われ、私たちの内に、新しい創造が始められなければいけません。

そして、三番目、救いとは、罪に対して成された死刑の執行でなければなりません。聖書は、一度、罪を犯した魂は、必ず死ぬと言っています。罪の刑罰を受けなければいけません。刑罰は、執行されなければなりません。獄吏は、イエス様の身代わりの死を信じました。もし、私たちが、主の救いを自分のものにしようと思うならば、十字架の上で代わりに死なれたイエス様のもとに来なければならない。

もう一か所、読んで終わりましょう。すばらしい約束の御言葉です。

第一ヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

主は本当に、約束を与えるお方です。約束を守るお方です。また、主は、確約してくださるお方です。すなわち、私たちが、もう罪を犯さなくてもよいように、すべてを成してくださるお方です。イエス様は、ただ単に、罪の債務からだけではなくて、罪の力からも、贖ってくださいました。

けど、私たちが、倒れた時にも、配慮していてくださるお方です。

第一ヨハネ
2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
2:2 この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。

この主は、本当に約束を与えるお方ですし、確約してくださるお方ですし、そして、言うまでもなく、何があっても、「おいで!」と呼びかけ、招いてくださるお方です。すなわち、主の御許に立ち返り、戻るようにと、招いてくださるのです。その際、イエス様は、私たちが主の恵みに与かることを保証してくださいます。

イザヤ
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

二千七百年前に書かれた言葉ですけど、時代遅れになっていません。すばらしい呼びかけ、また約束です。主は、我々に願い求めておられるお方でもあります。すなわち、主に立ち返り、主がすべての障害物を完全に取り除かれ、傷は癒されると、約束してくださるのです。すべてのことが絶望的に思われ、回復の可能性が全く考えられないような時にも、主は奇跡を行うお方です。

エレミヤ
3:22 「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。」

これは、唯一の救い主なる主の約束です。「今、私たちはあなたのもとにまいります」と、記されていますが、我々、全員がこの態度をとることを、主は切に望んでおられます。主は、我々を待ち望んでおられるお方です。しかも、両手を大きく開いて、待っておられるお方です。「わたしのもとに来なさい。」イエス様は、ただ単に、口だけの約束ではなく、真剣に我々のことを考えて、待っていらっしゃるということが、このみことばから解ります。

わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。イエス様の御許に行く者は、受け入れられ、永遠の救いを持つ者となり、罪の赦しと永遠のいのちを持つようになります。私たちは、これらの事実を大切に知る時、主の恵みに圧倒され、主の恵みは、我々に理解できないほどすばらしいものです。我々のただ一つの望みでもあります。

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