2014年9月3日水曜日

わたしの前で静まれ

わたしの前で静まれ
2014年9月3日、春日部家庭集会
ゴットホルド・ベック

イザヤ
40:25 「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。
40:26 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
40:27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

41:1 島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。

今日の主題、題名は、このイザヤ書41章の1節ですね。『わたしの前で静まれ。』現代人にとって、もっとも大切なことのひとつは、それなのではないでしょうか。

吉祥寺には、リンデの反対側なんですけども、ひとつの喫茶店があります。すばらしい名前を持つ喫茶店です。どういう名前かと言いますと、『静けさ。』けど、『静けさ』とは書いてないんです。ドイツ語の『Ruhe』と書いてあります。どうして、日本語で書かないのか?書くと、ウソだと分かるからかもしれない。けども、静かになることとは大切です。

詩篇の作者であるダビデは、言いました。

詩篇
62:1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

ダビデもいろいろなことで悩んだし、苦しんだし、孤独になったし、けども、彼はこういうふうに祈ったんですね。『私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。』人間からではない。環境からでもない。主からです。ですから、主の前で静まることこそが、いちばん大切なのではないかと思います。

このイザヤ書の40章のいちばん最後の節を見ると、そこには、疲れとか、無力、あるいは、たゆむことなどが記されていることが分かる。けど、私たちが、本当に正直に、偽ることなく、主の前に出るならば、自分が疲れて、無能力で、たゆむ者であることを認め、告白せざるをえないのではないでしょうか。

このことは、次の三つのことによって証明されています。すなわち、その第一は、主のみことばである聖書が、そのことを、はっきり言っているからです。聖書は、事実だけを述べているものです。そして、第二の証明は、他の信者たちを見ても、やはり分かる。第三は、私たちの経験によって、もちろん、教えられることです。

主のことばは、神の民の中にも、結局、信じる者の中にも、疲れている者、無力な者がいると、はっきり言っているのですから、間違いなくそうです。私たちも、確かにしばしば、疲れ、疲労困憊し、力も勇気も失われてしまう危険性を持っています。30節によると、多くの信者の特徴は、疲れ、たゆみ、つまづき、倒れることであることが分かります。

私たちは、自分自身のことや、他人のことを見ると、そこに無力さが支配していることを見ることができ、しかも、主の大いなる力よりも、人間の無力さの方が目に映るのではないでしょうか。

そういったことは、誰も認めたくないことかもしれないけど、厳粛な事実です。私たちが、率直に反省するならば、実際に、多くの者が疲れ、無力で、たゆんでいることを認めざるをえない。わずかな人々だけしか、「鷲のように翼をかって上ることができる」ということを、自分のものとしているのではないでしょうか。この鷲のように翼をかって上ることこそが、あらゆる勝利の秘訣そのものです。

どうして、人間は疲れ、たゆむのでしょうか。その原因の第一は、私たちを、本当に満たしてくれるものの源泉を知らないことです。第二に、提供されているものを、受け取らないからです。知らないこととは、どうでもいいことではない。無知とは、何か恐ろしいもの、悲劇的なもの、許すべからざるものを意味しています。

一箇所、お読みします。ホセア書の四章、主の悩みそのものです。

ホセア
4:6 わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。

これだけを見てもわかるね。恐ろしい悲劇的なことです、無知とは。この節とは、まことに大切な御言葉です。そこで、ここに書かれていることについて、内容的に、その順番をおって、考えてみることにしましょうか。

まず、第一に、未信者――救われていない人々ではない。神の民、主を信じて救われた人々に属する信者が知識を退けたとあります。上からの光を受け入れようとしなかった――頭を下げたくなかったということです。結果、知識を退けたので、知識がないという状態に、必然的に陥ってしまうのです。けども、それだけでなく、主なる神は、そのような信者を、退けてしまうと書かれています。その意味は、永遠のいのちに預からないとか、永遠の滅びに至るとか、いうことではなく、そのような救われた者が、神の祭司となることはできない。意味は、主に用いられないということを意味しています。そして、そのような信者は主の教えを忘れてしまうと、御言葉は言っています。結局、自分の思っていることだけが正しいと思う人は、気の毒な人々です。

絶えずサムエルの態度をとるべきではないでしょうか。サムエルは、子供だったか、青年だったか、わからないけど、若者でした。彼は、『主よ語ってください、しもべは聞いております。』この態度をとることこそが大切です。

イエス様でさえも、いつも、この態度を取ったよ。イエス様は、自分で考えて行動したことは、一回もない。まず、お父様、教えてよ。何をしたらいいか、分からない。今、あの人を癒してもいいか、分からない。恵んでください。御心を明らかにして。イエス様は、いつもこの態度を取った。結局、わたしの思いではなく、御心をだけがなるように。

主の教えを忘れてしまえばおしまいです。当時のいわゆるパリサイ人、聖書学者に向かってイエス様は、言わざるえをえなかったのです。すなわち、『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。』

【参考】マタイ
22:29 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」

知らないこと、すなわち、無知であることは、非常に恐ろしい結果をもたらすことが分かるでしょう。すなわち、その結果は、思い違いをして、間違った方向へ行ってしまう。的はずれの人生を歩むことを意味しています。

はじめに読んでもらいました箇所は、本当にすばらしいですね。戻りましょうか。

イザヤ
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

次の節も、もちろん、大切です。

41:1 島々よ。わたしの前で静まれ。

エレミヤ哀歌の中で、似ている言葉があります。

哀歌
3:26 主の救いを黙って待つのは良い。

私たちは、いったい何を知るべきでしょうか。私たちは、我々を満たしてくれるものの源を知るべきです。主とつながれることが、それです。永遠の神、地の果てまで創造された方、力と活気を持つ御方とつながっていれば、問題ない。

我々の主は、永遠なる神です。その主は、始めも終わりも、持っていません。その方は、変わることがなく、とこしえに変わらざるお方です。そして、また、我々の主は、万物の造り主でもあられます。すなわち、主は、過去において、目に見えるもの、目に見えないものをすべて、造られただけではなく、今もなお、新たなるものをお造りになっておられるお方です。『見よ、私はすべてを新しくする』と、約束していてくださるのです。

そしてまた、ないものをあるもののようにお呼びになる御方です。ローマ書4章の17節にそう書いてありますね。『無いものを有るもののようにお呼びになる方』とは、我々の主です。そして、詩篇の作者であるダビデは、『主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ』とあります。

【参考】詩篇
33:9 まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

主がおおせられ、命じられると、無から有が出現し、死んでいた者が生き返ることが実現されるのです。そして、その主は、力と活気を持っておられるお方です。我々人間の側は、どうかと言いますと、ただ無力さ、疲れなどが満ちておりますが、主の側はどうかといいますと、そこには、全知全能の力があることが分かります。そして、その永遠なる主、造り主なる神、全知全能なるお方は、我々の敗北を勝利へと変えてくださるというすばらしい約束を、我々になさっておられるのです。

力と強さの尽きざる豊かさが、我々に提供されています。そして、私たちはこの提供されたものを、受け取らなければ――自分のものにしなければならない。すなわち、私たちは主と結びつくことによって、超人間的な力を体験することのできる者の源と結びつき得るということになります。

第一番目の原因は、私たちを満たしてくれるものの源を、知らないことです。それに対して、第二番目の原因は、主によって提供されたものを、受け取ることを怠ること――悲劇的なことです。

29節を見ると、我々の主は、我々にとって必要なものを、すなわち、力と強さを我々に与え、提供することを約束してくださっていることが分かります。主は、与えてくださる。そして、私たちは、それをいただく、受け取る、自分のものにする必要があります。問題は、受け取るとは、何でしょうか。どのようにしたならば、自分のものとすることができ、どうすれば、提供されたものが、自分のものなるのかという問いです。

その答えを私たちは、前に読みましたイザヤ書の31節に見出すことができます。すなわち、主を待ち望むことです。

では、いったい、主を待ち望むとは、どういうことでしょうかね。それは、祈ったり、礼拝したり、集会を訪ねたり、聖書を読んだりすることを意味するのでしょうか。もちろん、それらのことも、当然、含まれるわけですけど、しかし、ここでいちばん大切なことは、このイザヤ書41章の1節にあるように、『神の前で静まること』です。

これは、今日、いちばん大切なことなのではないでしょうか。ダビデ王は、このことを知るようになりました。だから彼は詩篇の62篇に、次のように祈ったのです。

詩篇
62:5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来る・・・・。

結局、静まることこそが大切です。主の前に静まらないキリスト者は、主の語ることを聞くことができない。また、主の語ることを聞かない者は、主に従うこともできない。その不従順の結果は、主の祝福にあずからないことです。

主を待ち望むということは、すべてを主に明け渡すこと、徹頭徹尾、主により頼むこと、主のみ声を聞く備えがあることです。また、主と、主の導きに、本当に信頼することを意味します。そして、また主により頼むこと、主に信頼することは、自分自身を意識的に信頼しないこと、また、あらゆる人間的な助けに、より頼まないことを意味しているのです。

そのような態度の結果は、どのようなものでしょうか。そして、主を待ち望む者は、どのようなことを体験することができるのでしょうか。言い換えれば、主の前に静まる者は、何を経験することができるのでしょうか。そのことは、目に見えるもの、すべてのものから目を離し、ただ主にのみ、意識して、より頼むこと、ただ主のみこころにのみ、お従いする備えのあることを意味します。

主の前に静まる者は、体験することができます。今、話したように、何を体験することができるかというと、まず、私たちの弱さの代わりに、主の力が現れるということです。すなわち、めちゃくちゃな努力のかわりに、主の創造的な力が現れます。何という違いなのでしょうか。私たちは、なぜ敗北してばかりいるのか・・・・ということを考えたことがあるのでしょうか。それは、私たちが、自分の力により頼むからであり、そのことが、主の働きを妨げ、私たちの行いが、主の御手を縛ってしまうような結果をもたらすのです。

自分の不完全さを知っている者は、その意味で幸いです。その人は、主の前に静まり、主の力と強さを豊かに経験することが、許されるからです。

主を待ち望む者は、主の前に静まるもの、意識して主により頼みたいと思う者は、いったい、何を経験するのでしょうか。今、話したように、我々の弱さの代わりに、主の力が表れます。それだけではなく、高められた生活にあずかるものとなります。31節ですね、彼らは「鷲のように翼をかって上ることができる」のですとあります。

有名な音楽家であるヨハン・セバスチャン・バッハは、『我、喜びて十字架を担わん』というカンタータの中で、次のようなに表現しています。『その時、私は主にあって、力を得、鷲のように激しく、この地上から飛び立ち、うむことなく飛び回るだろう。』この言葉はもちろん、すばらしいけど、バッハが作った音楽を聴くと、もう踊りたい気持ちになる。もう、やはり主はすごい!主に頼ると、絶対に失望させられないと分かるようになります。

鷲という鳥は、鳥のなかでもただひとつ、いちばん、高く飛ぶことのできる鳥であって、その鷲の飛ぶ様子は、あまりにも高いので、望遠鏡なしには見ることができないほどのものです。しかし、これこそ我々、信じる者が、本当に属する場所であり、すべてのものに勝って、高い座です。有名なピリピ書の中で、次のように書かれてあります。すなわち、『私たちの国籍は天国である』とあります。『いつかなろう』というのではなく、現在、なっているということです。

【参考】ピリピ
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。

信じる者は、イエス様とともに高く引き上げられているか、さもなければ、地上のことばかりを考えるかの、どちらかです。ここで、『地上のことばかりを考えている』とは、地上のことによって縛られ、がんじがらめに束縛され、地上の重荷を負わされていることを意味しています。

確かに、多くの信じる者は、羽の破れた鳥のように飛ぶことを考えず、せいぜい地面の上を歩き回ることくらいしかできない。また、ある信仰があっても光を嫌い、光の中を歩もうとしたくない――モグラのような者になってしまう。もし、そうであれば、その人は、このすばらしい経験を、少しも持つことができないし、主にあって、力を得ることもできません。けど、私たちは、鷲のように、翼をもって飛び立つべきです。

旧約聖書の中に、私たちは、その良い例を見いだすことができます。十二人の族長たちが、カナンという地を調べるために遣わされました。十二人の報告は、残念ですが、同じものではなかったのです。十二人の族長たちは、カナンの地を調べるために一同、遣わされたのです。けどそのうちの十人の者は、『やめたほうがいい、無理だよ!』と言ったのです。彼らはイスラエルの民に属する主を信じる人々でした。けども残りの二人は、確かに鷲のような翼をもって飛び立ったんです。彼らの告白とは、全く違うものでした。十人は確かに、『私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。』

民数紀
13:33 ・・・私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。

けども、二人は――カレブとモーセは、違う態度を取ったんです。

民数紀
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

結局、十人の考えと二人の考えとは、全く違ったのです。見たことは、同じことでした。けども、十人は、目に見える現実だけを見て、もうがっかりして、落ち込むようになりました。けども、二人は、『ぜひとも、上ろうよ!そこを占領しよう。必ずそれができる』という態度をとったのです。結局、二人は、ただ、主のみを仰ぎ見、主にのみ、より頼むことによって、高く引き上げられ、主によって不可能なことは何ひとつないということを、確信したのであります。

主は、我々をも、いなごのような状態から、引き出そうとしておられます。ですから、聖書は次のように言っています。

コロサイ
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

本当にすばらしい御言葉であり、主の約束です。主を待ち望むこと、主の前に静まることこそが、考えられないほど大切です。結果として、圧倒的な勝利の日常生活を体験することができるのです。

聖書は、歩いても疲れないと書いていますね。ここには、走っても疲れないとは、書いていない。歩いても疲れない。『歩く』という言葉は、我々の日常生活の行いを表しています。多くの場合、普通に歩くことよりも、走ることのほうが優しいことがあります。実際生活の中で、主とともに歩むということは、もっとも、難しい試練でもあります。

これを体験した男とは、エノクという男です。アダムから七代目でしたか、創世記の中で、彼について、確かにいろいろなことを言っているのであります。創世記の5章になりますが、ここで、彼は、結局、『主とともに歩んだ』と書いてあります。

信仰がなくては、すなわち、主の前に静まることなくしては、主に喜ばれることはできません。このエノクと同じように、エリヤという預言者もまた、死を見ずして、天に移されましたが、彼の日常生活の特徴は、主の前に、意識して立つことでした。彼は、よく言ったのです、『私は主の前に立っている。』人間の前ではない。人間をよろこばせよう―そういう気持ちは一切合切ない。『私は主の前に立っている』と言い続けたのであります。

主の前に静まる、御声に聞く耳を持つことこそが大切です。

大切なことは、主が言われたそこの所で、主が養われるということであります。エリヤが、主に忠実に従ったため、彼は、圧倒的な勝利者の生活を経験することができた。もちろん、エノクやエリヤだけではなくて、ダビデもまた、同じことを、経験しました。ダビデは、この地上のすべてのものから目を離し、ただ主にのみ従っていくことを、決心したのであります。詩篇の16篇を見ると、ダビデの告白が書き記されているのであります。ダビデとは、結局、自分を見たり、他人を見たりすると、たいへんです。

詩篇
16:8 私はいつも(・・・・たまにではなくて、私はいつも・・・・)、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

1611 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

これこそ、すばらしい証しなのではないでしょうか。確かに、信じる者の中にも、敗北が――恥とすべきことが――、たくさんある。どうして?何が原因なのでしょうか?なぜ、疲れ、たゆみ、そして、つまづき、倒れるのでしょうか。今、話したように、提供されたものを受け入れることを怠っているからです。

詩篇の作者であるダビデは、経験しました。主を仰ぎ見ると――全部、主から受け取ると、安心して、前向きに生活することができるということです。

詩篇
55:6 そこで私は言いました。「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを。
55:7 ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。
55:8 あらしとはやてを避けて、私ののがれ場に急ぎたい。」

55:22 あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

本当にすばらしい御言葉です。詩篇の作者は、最初は、遠くへ逃げるために、翼を欲しがりましたが、しかし、そのような、逃げるための翼を、決して主はお与えにならない。その後で、彼の問題を解決する鍵が与えられたため、彼はよろこんで、こう言うことができるようになりました。

詩篇
55:22 あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

今や彼は、逃げるための翼ではなくて、高く飛び立つための羽を与えられたのです。

自分の重荷を主にゆだねる者は、決して、ゆるがされることはありません。悩みや苦しみ、そして、立ちはだかる困難な問題は、我々が主の前に静まるため、私たちが本当に主を待ち望むために、どうしても必要なものです。主の前に静まる者、主を待ち望む者は、次のことを経験することができます。すなわち、主が、重荷を取り去ってくださり、問題を解決してくださるので、私たちは自由な者となり、鷲のように翼を持って、飛び立つことができるのです。

ですから、もっとも大切なのは、主を仰ぎ見ることです。

最後に、もう一つの実例を見て終わります。読まなくてもいいでしょうけど、ヨハネ伝の4章の中で、一人の女性、いわゆるサマリアの女について書いてあります。彼女は、はじめは自分を満たしてくれるいのちの泉については、全く無知でした。しかし、イエス様は彼女に、ご自身を表してくださり、彼女は、主によって提供された賜物である、罪の赦し、罪の力からの解放、主なる神との平和、永遠のいのちを受け取り、イエス様にあって、他の人々のための泉となりました。

主は、この女にご自身を表してくださり、それに対してこの女は、イエス様に、『先生、私にください!』と言いました。この女は、むなしく、求めたのではない。主のみもとに来るものは決して、捨てられません。サマリヤの女の重荷は、彼女から取り去られただけではなく、主の恵みをほめたたえる者、主を指し示すものとなりました。

彼女の告白とは、詩篇の作者であるダビデのようなものではないでしょうか、ダビデは詩篇の87篇の7節に言ったのです、『私の泉はことごとく、あなたにある。』

【参考】詩篇
87:7 踊りながら歌う者は、「私の泉はことごとく、あなたにある。」と言おう。

これを経験すること、これこそが主の願っておられることです。我々の必要なものなのではないでしょうか。

へブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

0 件のコメント:

コメントを投稿