2014年9月30日火曜日

失望させられない秘訣

失望させられない秘訣
2014年9月30日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

私たちが、どうして喜びの集いという言葉を使うようになったかと言いますと、悔い改めるからです。へりくだれば主は恵んでくださり、ヤコブ書4章に、厳しい言葉が書いてあります。


ヤコブ
4:17 なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。

感謝をしないことは、ひとつの罪でしょう。主に対する愛の欠乏も、間違いなく、とんでもない罪です。聖書を読まない怠慢も罪であり、不信仰の罪も、もちろん、怠慢の罪です。集会に集わない怠慢も罪であり、親戚、肉親、友人たちに対する愛の欠乏も、言うまでもなく罪です。他の多くの滅びゆく魂に対する心配、彼らを愛せないことも罪であり、主にある兄弟姉妹のために、目を覚ましていないことも罪であり、己を捨てて主に従わないことも罪です。

そういう事を考えると、やはり頭を下げて、「あわれんで、赦して、ごめんなさい」としか、言えないのではないでしょうか。今、読んでもらいました箇所は、みな暗記しているでしょう。十一節は、「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」安心ですね。すばらしい言葉です。もちろんこれは、パウロの証しであり、告白です。三つの点に分けて考えましょうか。第一番目、祝福された人生の土台とは、いったい何でしょうかね。第二番目、祝福された人生の確信とは何でしょう。そして、三番目、祝福された人生の必要条件とは、いったい何なのでしょうか。

まず、祝福された人生の土台とは何でしょう。この土台とは、言うまでもなくみことばです。我々の持っている聖書は、どういう宝物であるか、想像できないほど、すばらしいものです。聖書は、こう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」けど、聖書とは、いったい何でしょうか。

ドイツの宗教改革者であるマルティン・ルターは、次のように告白しました。「聖書は、古いものでもなければ、新しいものでもない。聖書は永遠のものである」と、告白したのです。イギリスの物理学者、また、数学者であるニュートンは、「いかなる世界歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理が存在する」と、確信をもって、告白したのであります。ドイツの詩人であり、政治家でもあったヴォルフガング・ゲーテは、「私が獄(ごく)につながれ、ただ一つのものを持ち込むことが許されるとしたら、私は間違いなく、聖書を選ぶ」と言ったのです。フランスの総理大臣であるナポレオンは、「聖書は、たんなる書物ではない。それは、反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である」と、告白したのであります。そして、また、インドの総理大臣であるガンジーは、「私の生涯にもっとも深い影響を与えた書物は聖書である」と、証ししたのであります。アメリカの政治家であったリンカーンは、「聖書は、神が人間に賜ったもっともすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものは、すべて聖書の中に含まれている」と、言ったのです。

詩篇の作者であるダビデは、「聖書は、私の足のともしび、私の道の光です」と、証ししたのであります。そして、パウロは、「聖書は、あなたに知恵を与え、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」と、書き記したのであります。

人間は、誰でも、心の拠り所、心の平安、まことの喜び、人生の内容、また、目的、そして、生き生きとした希望を持つ必要がある。けど、こういうものは、ただ聖書を通してのみ与えられます。どうしてでしょうか。なぜならば、主なる神のみことばである聖書は、改心の種であるとあります。

ヤコブ
1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。

改心の種とは、やはり聖書であり、みことばです。ペテロ第一の手紙に、全く同じ内容のことが書かれています。

第一ペテロ
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

イエス様は、同じように、聖書の大切さについて言われました。

ヨハネ
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

その後の文章は、非常に悲しい。

ヨハネ
5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

悲劇的、そのものです。まことの救いにあずかった人々は、神のみことばである聖書を通して、救いに導かれ、また、主なる神との平和、絶えざる喜び、そして、永遠のいのちを持つようになりました。だからこそ聖書は、彼らの祝福された人生の土台です。聖書はこう言っています、「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」聖書は何と言っているのでしょうか、これこそが大切です。これこそが重要なのではないでしょうか。

人間の考えていること、人間の思っていること、人間の感じていることは、決して、大切ではありません。聖書は、神のみことばは、何と言っているか、これこそが重要です。どうしてであるかと言いますと、事実だけが大切であるからです。そして、聖書は、事実だけを宣べ伝えている書物であります。

他の言葉で言いますと、私たちが聖書を判断するのではなく、聖書が我々を判断すべきです。聖書は、主なる神ご自身が語られたことを、そのまま我々に伝えています。聖書に書かれているのは、したがって、事実のみです。それを人間が認めようが認めまいが、事実は事実です。

今まで、祝福された人生の土台とは、いったい何なのでしょうかということについて考えてきました。今度は、祝福された人生の確信とは何でしょうかということについて考えましょう。

確信の土台、また、源(みなもと)は、言うまでもなく、主のみことばである聖書だけです。聖書は、宗教、また、哲学とは関係のないものであり、すなわち、人間の作ったものではありません。主なる神の啓示、そのものです。主なる神が語られたことは、主なる神の啓示です。すなわち、それは、上から与えられたものです。動かされない確信を持っていたパウロは、その秘訣について、次のように書いたのであります。非常にパウロについて考えるとき、もっとも大切な箇所のひとつなのではないでしょうか。

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

1:15 けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、
1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、
1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。

私たちが、いつも覚えるべきことは、すなわち、人間の考えていることは、ぜんぜん大切ではなく、主が何を語っているか、これこそが重要です。主なる神は、真理であられるから、主なる神のみことばも、永遠なる真理そのものです。ちっぽけな人間が、聖書に記されている事実を理解することができるか、できないかは、決して、問題ではありません。事実は事実です。信じても信じなくても、認めても認めなくても。

ローマ
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

彼とは、いったいどなたのことでしょうか。彼とは、言うまでもなく、まことの唯一の神ご自身です。すなわち、主イエス様を通して、自分自身を明らかにされた万物の造り主、また、万物の支配者です。主なる神が、自分自身をイエス・キリストを通して、明らかされたのですから、イエス様はよく神のことばと呼ばれています。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

初めて聖書を開いて、これを読むと、全くピンとこない。『初めに、ことばがあった。』けど、これは人間の考えている言葉、話す言葉ではない。神とともにあったもの、神であるとありますね。

ヨハネ
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

ここまで読むと、ピンとこない。どういうことがわからない。解るために、十四節に書かれていますね。

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

このことばとは、初めのない終わりのない、父なる神であり、また我々の犠牲になられたイエス様です。コロサイ書一章を見ると、同じことが書き記されています。

コロサイ
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

私たちは、イエス様の偉大さ、比類なきすばらしさを理解できない。想像もできません。私たち一人ひとりも、主イエス様によって造られたのです。けど、それだけではなく、我々一人ひとりは、イエス様のために造られました。イエス様の死で贖われた者となるためではなく、主の友となるためだけではなく、主イエス様の花嫁とするためであると、聖書は言っています。これこそが考えられないほど、すばらしい事実であり、また、考えられない特権であり、また、幸せです。私たちは近いうちに、イエス様と一つになり、主の花嫁として、いつまでも主と一緒になるのです。

パウロは、ピリピにいる兄弟姉妹に書いたのです。

ピリピ
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

へブル
9:26 キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

救いを得させる信仰の土台は、ローマ書四章に書き記されている事実です。

ローマ
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

信じる者はみな、喜びをもって告白できるのです。

ローマ
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

私たちは、神のみことばを持っているのであり、主なる神の約束こそが最大の宝物です。神のみことばは、改心の種であり、真理そのものであり、また、足のともしび、道の光そのものです。聖書に宣べ伝えられているもっとも大切な事実は三つでしょう。

第一番目、イエス様が、私たちの罪のために死にわたされた事実です。永遠にわたって感謝しても、おそらく足らないでしょう。二番目、イエス様は、私たちが義と認められるために、よみがえられた事実です。三番目、イエス様は、再び来られるという事実です。「わたしがまた来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と、イエス様は約束してくださいました。このイエス様は、約束を守るお方です。

もう何十年前だったかわらないけど、ドイツの総理大臣の親戚だったワイゼッカー博士という教授は、ある時、大学で、学生たちに聞いたのです。「確かなことは何でしょうか。何を考えているの。」それに対して、当然ですけど、学生たちは一人一人、思い思いのことを言いましたけど、いつまでたってもらちがあかない状態だったので、一人の学生が勇気を出して、教授に言いました。「先生は、いったい何だと考えておられますか。」ワイゼッカ教授は、「主イエス様は、信じる者を迎えるために再び来られる」と、答えてそうです。

イエス様は、目標に導いてくださいます。イエス様は、ご自身の約束を必ず守ってくださいます。イエス様は、みことばを必ず守られるお方です。したがって、百パーセント、信頼できるお方です。聖書は、こう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」私は、決して決して、失望させられることがないと信じ、確信している人は本当に幸いです。

今まで、二つの点について考えましたね。第一番目、祝福された人生の土台とは、いったい何でしょうか。二番目、祝福された人生の確信とは何でしょう。最後に、第三番目の点は、祝福された人生の必要条件とは、いったい何なのでしょうか。

決して、失望させられないための条件とは、信頼することです。継続的に、信頼し続けることです。すなわち、意識的に、イエス様により頼むことです。我々の全信頼は、イエス様に集中されなければなりません。条件とは、人生の終わりに至るまで、意識的な信頼の態度を持ち続けられなければなりません。

最後に、三つの実例を見てみましょうか。

第一番目は、アブラハムという男です。アブラハムのように信頼することこそが、要求されています。アブラハムは、自分にみことばを与えてくださった、そして、彼は主を信じたと、聖書は言っています。彼は、心から信頼しました。死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる主を信じたと、聖書は言っています。彼は、主の全知全能を深く深く、確信していました。私たち人間には、全く望みがないように思われる場合であっても、主に信頼するならば、不可能が、今日でも、可能になります。アブラハムは、望みえない時に望みをいだいて信じたと、聖書は言っています。

彼は意識的に、目に見えるものから目をそらし、目に見えない主にだけ目を注ぐことをしたのです。これこそが、本当の信頼であります。信頼とは、自分や他人から目をそらし、主が必ず約束をお守りになることを確信することです。神は、約束されたことを成就する力があることを、アブラハムは固く信じました。主が、約束されたことを成就する力を持っておられるから、約束を守られるということを知っている者は、本当に幸いです。なぜならば、決して決して、失望させられることがないからです。これこそがアブラハムの経験でした。

第二番目の実例は、モーセです。ご存知のように、モーセは王子であったがゆえに、すべてが自分の思う通りにできたわけです。望むことはすべて、自分のものとなりました。しかし、彼は、そのように本当に恵まれた自分の境遇を投げ捨てました。世界一の愚か者だったのではないでしょうか。どうして彼は、そのような愚かなことをしてしまったのでしょうか。へブル書十一章の中で、その説明があります。

へブル
11:24 信仰によって(・・・・あるいは、信頼によって・・・・)、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

彼は必ず、どうしましょうか・・・・と思ったことでしょう。そして、苦しむことを選んだんです。

へブル
11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

どうして彼は、イエス様のことを解ったのか、わかりません。けど、聖書はそう言っているから、必ず上からの啓示によって、はっきりつかむことができたのです。

へブル
11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。

モーセは、この世の富や教養と、とこしえの報いとを比較して、その結果、そのような決断を行ったと言えます。モーセは、この世のいろいろな楽しみの結果が死であること、そして、その死後には裁きが下って、永遠の滅びに行くべきことをよく知っていました。モーセの経験は、主に信頼する者は、失望させられることがないというものでした。モーセが信頼したからこそ、イスラエルの民は救われたのであります。聖書は言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」『信仰の父』と呼ばれたアブラハムが、この事実を経験しただけではなく、『神の友』と呼ばれたモーセも、同じ事実を体験したのです。

第三番目の実例は、ダニエルの三人の友だちです。ダニエルの三人の友だちも、「主に信頼する者は、決して、失望させられない」ということを経験しました。この三人の友だちの特長は何だったでしょうか。すなわち、幼子のような信頼、また、妥協なき信頼でした。それゆえに彼らは、火の中に投げ込まれてしまったのです。

ダニエル
3:15 もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」
3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

この三人の確信とは何だったでしょうか。主に信頼する者は、失望させられることがないというものだったのです。

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