2014年9月5日金曜日

家族の救いの確かさ

家族の救いの確かさ
2014年9月3日、春日部家庭集会
ゴットホルド・ベック

イザヤ
6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。わたしはくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

マタイ
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあながたとともにいます。」

前に、次のような歌がありました。『弟子となしたまえ、わが主よ、わが主よ、弟子となしたまえ。心の底より、弟子となしたまえ。』このような心構えを持つことこそが、今日も必要なのではないでしょうか?イエス様は、弟子、結局、従う者を捜し求めておられます。

マルコ
1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

今までは、魚だけだったんですけど、今度は人間の番になる。

マルコ
1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

2:13 イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
2:14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
2:15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

3:13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
3:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせるためである。

この13節は非常にすばらしい節です。イエス様は、『おいで』、それから、『出て行け!』と、言われたのです。私の出たスイスの神学校の玄関に入ると、大きな世界地図があったんです。そして、このみ言葉が入ってます。『おいで。私のところに来なさい』、それから、下には、『出て行け!』福音を述べ伝えなさい。

主の呼びかけとは、こういう二種類の呼びかけではないでしょうか。第一番目の呼びかけは、救われるための呼びかけ、結局、神の子どもとなるための呼びかけであり、第二番目の呼びかけとは、イエス様の弟子となるような呼びかけです。

マルコ伝全体が言わんとしていることは、イエス様を大いなる僕(しもべ)として、父なる神に仕える僕として特徴づけられることです。これに対して、初めの福音書、マタイ伝ではイエス様は、王様として特徴つけられています。そして、ルカ伝では、人間としてのイエス様、そして、最後のヨハネ伝では、神の御子として、イエス様を特徴づけられています。けれど、マルコ伝においては、初めに述べたとおり、父なる神に仕える僕(しもべ)としてのイエス様が、同労者を、結局、弟子たちを探し求められることが描かれています。

イエス様の同労者であり、また、弟子とは、イエス様と共に奉仕する備えのできている人のことを言います。そして、ここのマルコ伝では、イエス様が弟子たちに呼びかけておられることが、はっきりと描き出されています。

中心人物は、言うまでもなくイエス様です。それから、いくつかの点について分けて考えましょうか?第一番目、今、話したように、呼びかけておられるお方とは、言うまでもなく、イエス様です。中心人物はイエス様であり、呼びかけておられるお方は、まさしく、イエス様ご自身に他なりません。そここに示されている文章の動詞を見れば分かるように、イエス様は常に、まず初めに行動なさり、率先して行動を起こされる方であることが解かります。

マルコ
3:13 イエスはご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられた。

1章16節、19節、今の2章の24節、『イエスはご覧になった』、『イエスはご覧になった』、何回も出てきますし、それから、1章の17節、20節、2章の14節、何回も同じ言葉が出てきます。『イエスがお呼びになった』、『イエスがお呼びになった』と。

イエス様は、ザアカイや、サウロの名前をお呼びになったように、弟子たちに対しても、決まった名前をお呼びになられました。このことは、非常に重要な意味を持っています。なぜなら、イエス様と私、イエス様とあなたと言うふうに、イエス様との一対一の関係こそ、非常に大切な関係であるからです。

また、人間がイエス様を選んだのではない、イエス様がどうしようもない人間をお選びになって、その中に入って、関りを持ってくださったからです。今日でも、人間の力によっては、また、人間の決定によっては、救われることはありません。イエス様が我々の心の目を開いてくださり、自分の本当の姿と、イエス様によって完成された救いとを明らかに示してくださるのです。イエス様の呼びかけとは、皆さん暗記していることばでしょう。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

罪人のために、助けを求めている人のために、悩んでいる人、孤独になっている人、絶望している人々のために、イエス様はおられます。悔い改めと信仰を通して、イエス様の現実の救いが明らかになるのです。けれども、悔い改めと信仰は、決して、人間からやって来るものではなく、まさに、上から与えられたプレゼント、贈り物、賜物です。それですから、信者とは、この贈り物を喜んで受け取った人であると言えます。受けたか、どうか?それとも、まだ、受けていないのか?これこそが大切です。

我々の人生にとって何が必要なのでしょうか。いちばん大切なことは、今、話したように救われること、神の子となることです。救われることです。そのために、何が必要なのでしょうか?

まず、第一に、自分の救われなければならないという必要を知ることです。そして、第二に、人間的な努力は、まったく空しい、役に立たないものであるということです。すなわち、自分も他人も、もちろん、宗教も決して自分自身を救うことができないということです。すべて、人間的な努力は見込みなく、望みなきものです。聖書が言っている救いとは、罪の問題の解決です。

罪のゆえに主なる神の怒りのもとにある人間は、主との平和を持ち、債務が支払われ、罪は赦され、永遠のいのちを持つと、聖書は言っています。けれど、これは人間や宗教によってではなく、イエス様によってのみ、与えられます。なぜならば、イエス様は、人間の罪に対する父の裁き、神の裁きの的になられ、ご自身の聖く尊い血によって、債務を支払い、罪を赦してくださったのです。

この真理の事実を心で受け入れた信じる者は、今、話したように、神との平和、罪の赦し、永遠のいのちを自分のものにすることができるます。すべての人間は、自分の力で罪の問題を解決することができないため、どうしても、イエス様が必要であると、告白する状態に至らなければなりません。『イエス様、私は今、どうしようもない者として、あなた様の御許にまいります。あなたが私の罪の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを、心から感謝いたします。』このようにイエス様に向かって言うことができる人は、幸いです。

もう一回、まとめましょう。創造主なる神の子供となるために、二つのことが必要です。第一は、主なる神の言われることを認めること。第二は、イエス様を受け入れることです。けど、主なる神は何と言っているのでしょうか。主は、絶対に癒されない罪の病い、それは、全く改善の望みがないと言っておられます。けど、イエス様は、我々の身代わりになってくださった。イエス様が成してくださったことは、本当に充分です。

そして、第二は、イエス様を受け入れることです。聖書のいちばん最後の一箇所を読みましょうか?黙示録の22章、聖書のいちばん最後の言葉のひとつです。

黙示録
22:17 いのちの水がほしい者は、値なしにそれを受けるがよい。

ここでいのちの水とは、イエス様による救いの贈り物に他なりません。そして、ここで、『ほしい者は受けるがよい』と記されていますが、欲しがっているかどうかだけが問題です。欲すれば受けるにちがいない。欲しいと思わなければ、たいへんです。将来は真っ暗闇であるからです。

イエス様は、永遠のいのちを与えるために、決して、強制するようなことはなさいません。『欲しい者は・・・・』と書いてあります。欲しい者は受けると、約束されています。受ける者は持つのです。すなわち、その人は、神との平和を得、罪の赦しを受け、主なる神の子供とされた喜びを持ち、永遠のいのちを持つことができるのです。

二番目の質問は、イエス様の呼びかけは、いかなるものなのでしょうか。すなわち、弟子となるように。だから、前に読んだ箇所の中で、何回も、『わたしについて来なさい』。救われるためではないよ。人間をとる漁師にしてあげよう。用いられるための呼びかけです。このイエス様の呼びかけは、いったい何を意味しているのでしょうか。すなわち、私たちは、救われるために、救われたのではない。仕えるために、用いられるために、救われたのです。

救われていることは、まだ救われていない人々をも救いたいという思いを持つことです。まだ救われていない人々も救いたいという切なる願い、思いが欠けている場合には、その人の信仰は疑わしいものです。

イエス様は、救いを受け入れるように重荷をおろしてあげようと、呼びかけた後で、ご自分に仕えるようにとも呼びかけておられます。けれども、イエス様に仕えるということは、いったいどういうことでしょうかね。それは、あれこれ行なうということではない。イエス様に従って行くことを意味します。それでは、イエス様に従って行くとは、どういうことなのでしょうか。イエス様について行くとは、たいへんなことですけど、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることを意味しています。

マタイ
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

ちょっと理解しにくい言葉ではないかな?『いのちを救おうと思う者はそれを失う』と、書いてるんですけど、実は、ギリシャ語を見ると、原語によると、「いのち」とは書いていないんです。「魂」と言葉が使われています。自分の魂を救おうと思うということは、自分勝手な道を歩んで行くことを意味します。

いわゆる人間の持っている魂の能力、働きは、まず、第一に考えること、第二に感じること、第三に欲することです。したがって、自分自身を否定するということは、自分の考え、自分の感情、自分の意思に支配させないことです。それに対して、魂を失うということは、自分自身の意思を、心の座から下ろし、イエス様をそこに置いて、第一の座につけることです。これがなければ、決して、主に従って行くことはできません。

イエス様について行くこととは、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることだけではなく、自分自身を憎むことを意味しているのです。」

ルカ
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

自分を憎むこととは、自分自身に対して、信用をおかないということが、どうしても必要です。自信に満ちた態度がダメにならないと、主に従うことはできません。イエス様なしには、一歩も進むことができないというふうにならなければなりません。イエス様、御自身、次のように言われ、告白してくださいました。『わたしは、自分の力だけでは、どうすることもできません』と言われました。

イエス様の思いだけを大切にしないと、妨げになります。けど、自分自身を信用しないどころか、自分自身を憎まなければ、わたしに従うことができないと、イエス様は言われました。いったい、どうして聖書は、『憎む』というような非常に厳しい言葉を使っているのでしょうか?パウロに訊けば、答えるでしょう。彼の答えは明確でしょう。

ローマ
7:18 私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。

善が住んでいなければ、悪しかない。結局、人間の考えていること、思っていることと、主の考えていることは根本的に違う・・・・と、新約聖書だけではなく、旧約聖書も同じことを言っているのです。

イザヤ
55:8 「わたしの思いは、あなたがた(・・・・『あなたがた』とはイスラエルの民、主によって選ばれ救われた民です・・・・)の思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

まったく違う。似てもいない。もう、ぜんぜん違う。ペテロのことをちょっと見てましょうか。

マタイ
16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

主の思いと人間の思いとは、まったく違う。ペテロはイエス様を信じたにもかかわらず、イエス様から十字架を取り除こうとした時に、イエス様は、「サタンよ、引き下がれ!」と、言わざるをえなかったのです。なぜ、そんなことになったのでしょうかね。その時、ペテロは、本当の意味での弟子ではなかったから。三年間、イエス様と一緒に生活して――一緒でした――、イエス様に呼ばれた時、全部、捨てて従ったんです。彼の目的と動機は決して悪くなかったんです。けれど、ペテロが人間的に考えて、人間的に行動したゆえにイエス様は、『ペテロよ』ではなくて、『サタンよ』と厳しいことばを発せられたのです。

すべてのことにおいて、『私の思いではなく、主の御旨(みむね)が行なわれますように』という思いをもって行動しなければならない・・・・ということです。自分の思いを捨て、主の御心だけを大切にすることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。

マタイ伝26章に、イエス様の祈られた言葉が出てきます。26章39節、『わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください。』イエス様の絶えず祈った思いとは、それでした。42節、『どうか、みこころが行われますように。』

【参考】マタイ
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

イエス様に従うことは、毎日、自分の意思と思いとを、主に明け渡すことを意味します。さらに、ここで、自分自身を憎むということだけでなくて、自分の家族をも憎まなければならないと記されています。いったい、どういうことですか?自分の家族を憎むということは、本当に自分の家族を無視してもいい、全く顧みなくてもいいのでしょうか?もちろん、そうではない。

あたりまえのことですがけど、私たちは一つの問題について考えるとき、聖書から適当に一箇所だけを選んで、『こう書いてあるじゃないの』と言う態度をとることは、非常に危ないことです。何があっても、聖書全体は何と言っているのかと考えるべきです。

言うまでもなく、主は人間一人ひとりの救いよりも、家族です。全家族の救いを心から願っておられます。そうすると家族を憎むとは、いったいどういうことですか?まったく、正反対のことばを、パウロは愛弟子であるテモテに書いたのです。

第一テモテ
5:8 もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

このことばと前のことばとは、一見したところ、全く正反対の事を言っているように見えるかもしれない。しかし、聖書は、はっきりと、私たちが家族を大切にし、尊敬しなければならないと言っています。しかしながら、それと同時に、私たちは、人間に対してよりも、主に対して、より忠実に従うべきであると、聖書は言っています。

主、また、主のみことばを、第一の座につける者は、必ず家族を大切にします。けど、家族だけを大切にする者は、結局、主を否定することを意味しているのです。イエス様は、次のように言われました。

マタイ
10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

家族が救われることを望む者は、家族を捨てるべきであると、聖書は言っています。曖昧な態度と妥協によっては、救いは成就しません。もし、あなたが家族の救いを、真剣に望むなら、百パーセント、イエス様の側に立たなければなりません。すなわち、イエス様に従うということは、自分自身、および、家族を否定し、憎み、イエス様を第一にすることになります。妥協のない態度を取ると、主は、間違いなく、あふれるばかりに祝福してくださり、家族も約束どおりに導かれ、救われます。

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