2014年9月24日水曜日

信頼することの大切さ

信頼することの大切さ
2014年9月24日、秦野家庭集会 
ゴットホルド・ベック

ローマ
10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

信じることだけではなくて、信頼すること、任せることこそが要求されています。この11節は、よく知られている箇所ですね。彼に信頼する者は、失望させられることがない。この文章を書いたのは、パウロという男でした。ですから、『彼に信頼する者は、失望させられることがない』とは、パウロの告白、パウロの証しです。


ちょっとだけ、三つの点に分けて、いっしょに考えてみたいと思います。第一番目、祝福された人生の土台とはいったい何でしょうか。第二番目、祝福された人生の確信とは、どういうものであるべきなのでしょうか。三番目、祝福された人生の必要条件とはいったい、何なのでしょうか。この3つの質問について、ちょっとだけ、一緒に考えてみたいと思います。

まず第一は、祝福された人生の土台とは、いったい何なのでしょうか。この土台とは言うまでもなく、主なる神のみことばです。聖書です。今、読みました11節に、『聖書はこう言っています。』大切なのは、聖書の言っていることです。聖書は何と言っているかと言いますと、『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』

『聖書とはいったい何でしょうか』と、訊くと人によって答えは確かに違います。いろいろな国々のおもだった人々に聞くと、もちろんそうです。例えば、ドイツの宗教改革者であるルターは答えたのです、『聖書は古いものでないし、新しいものでもない。聖書は永遠のものである。』イエス様は、『天と地はいつかは滅び去ります。私のことばは永遠に残る。』永遠に残ることばに頼らない人は愚かなものです。後悔するようになります。イギリスの物理学者、また、数学者であるニュートンは、『いかなる世界歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理が存在する』と、確信して、告白したのであります。ドイツの政治家で、詩人でもあるゲーテと言う男は、『私が獄に繋がれ、ただ一冊の本を持ち込むことが許されるとしたら、私は間違いなく、聖書を選ぶ』と言ったのです。フランスの総理大臣であったナポレオンは、『聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である』と言ったのです。インドの総理大臣であったガンジーは、『私の生涯に最も深い影響を与えた書物とは、聖書である』と言ったのであります。アメリカの政治家であったリンカーンは、『聖書は主なる神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて、聖書の中に含まれている』と、告白したのであります。

聖書に出てくるダビデというイスラエルの王は、何と言ったかと言いますと、『聖書は私の足のともしび、私の道の光です。』パウロは、『聖書はあなたに知恵を与え、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです』と、書いたのであります。

人間は誰でも心のよりどころ、心の平安、まことの喜び、人生の内容、また、目的、そして、生き生きと希望を持つ必要があります。しかし、こういうものは、ただ聖書を通してのみ、与えられます。どうしてでしょうか?なぜならば、主なる神のみことばである聖書は、『改心の種』である、と書いてあります。

ヤコブ
1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。

ヤコブはこう書いたのです。ペテロも同じようなことを書いたのです。

第一ペテロ
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

このペテロとは別に学者でもなかったし、大した教育を受けていなかったのです。ただ、魚を捕る漁師だったのです。けども彼は、聖書とは考えられないほど大切である、神のみことばそのものである、いつまでも変わらないものだと、書いたのであります。イエス様はまた、なんと言ったかといいますと、

ヨハネ
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

聖書はどうして与えられているかと言いますと、イエス様を紹介するためです。知識を与えるためではない。イエス様との出会いによって結局、見方が変わる。価値観も変わる。安心して、前向きに生活することができるからです。

まことの救いにあずかった人々は、神のみことばである聖書を通して救いに導かれ、また、神との平和を、絶えざる喜び、永遠のいのちを持つようになりました。だからこそ、聖書は祝福された人生の土台そのものです。聖書はこう言っています、『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』聖書は何と言ってるのか。これこそが大切です。すなわち、愚かな人間の考えてること、人間の思ってること、感じてることは、別にどうでもいい。決して大切ではなく、聖書は何と言ってるか、これこそが重要です。どうしてであるかと言いますと、事実だけが大切であるからです。そして聖書は事実だけを宣べ伝えている書物です。真理そのものです。他のことばで言いますと、私たちが聖書を判断するのではなく、聖書がわれわれを判断すべきです。

聖書は、主なる神ご自身が語られたことを、そのまま我々に伝えています。聖書に書かれてるのは、したがって、事実のみです。それを人間が認めようが、認めまいが、事実は事実です。

今まで、『祝福された人生の土台とは何でしょうか』について考えましたね。今度は、二番目の質問いついて考えましょうか。すなわち、『祝福された人生の確信とは、いったい何なのでしょうか』についてです。確信の土台、確信の源は、もちろん聖書です。神のみことばです。聖書は宗教、また、哲学とまったく関係のないものであり、すなわち、人間の作ったものではない。主なる神の啓示そのものです。主なる神が語られたことは、主なる神の啓示です。すなわち、それは上から与えられたものです。動かされない確信をもって、パウロはこの秘訣について、次のように書いているのです。

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

1:15 けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、
1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、
1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。

私たちが、いつも覚えるべきことは、すなわち、人間の考えてることとは大切ではない。主なる神が何を語っているか、これこそが重要です。主なる神は、真理であられるから、主なる神のみことばも、永遠なる真理そのものです。ちっぽけな人間が、聖書に記されている事実を理解することができるか、できないかとは、別に問題ではない。事実は事実です。信じても信じなくても、認めても認めなくても。すばらしい事実のひとつは、このローマ書に書かれています。

ローマ
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

『彼』とはいったい、どなたのことでしょうか。『彼』とは、言うまでもなく、生きるまことの唯一の神ご自身です。すなわち、主イエス様を通して、自分自身を明らかにされた万物の造り主、また、万物の支配者です。主なる神が自分自身を、イエス様を通して明らかにされたのですから、イエス様はよく『神のことば』と呼ばれているのです。普通、『神のことば、ああ、聖書でしょ』と思う人はいっぱいいます。けど、それだけではない。イエス様のひとつのことばも、神のことばなんですって。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

これを読んでも、ピンと来ない。どういうことか?2節を読むと、『この方は』、結局、単なることばではない。このことば、『このことばは、はじめに神とともにおられた。』

ヨハネ
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

ここまで読んでも、相変わらず、解らない。ことば、この方とはいったい、どういうもの?14節を見ると明らかになります。

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

他のことばを見ると、同じ事実が明らかになります。

コロサイ
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子(・・・である主イエス様・・・)にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

私たち一人ひとりも主イエス様によって造られました。けども、それだけではなくて、私たち一人ひとりは、イエス様のために造られたのです。イエス様の死に贖われた者となるためだけではなく、主の友となるためだけではなく、主の花嫁となるためと、聖書は言っています。これこそ、考えられないすばらしい事実であり、また、考えられない特権であり、幸せです。私たちは近いうちに、イエス様とひとつになり、主イエス様の花嫁として、いつまでも主といっしょになります。聖書は言っています。

ピリピ
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

ヘブル
9:26 キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

救いを得させる信仰の土台なるものは、ローマ書4章25節に書き記されている事実です。

ローマ
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

信ずる者はみな、喜びをもって告白することができます。すなわち、その次のローマ書5章1節を見ると分かります。

ローマ
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

私たちは、神のみことばを持ってるのであり、主なる神の約束こそが最大の宝物です。神のみことばは、改心の種(たね)であり、真理そのものであり、また、足のともしび、道の光であると、聖書は言っています。聖書が宣べ伝えているもっとも大切な事実はなんでしょうか。簡単に言いますと、三つです。

第一番目、イエス様は、人間一人ひとりの過ち、わがままのために死に渡された事実です。イエス様は代わりに罰せられた。従って、人間を罰する神はもう必要ない。イエス様は代わりに罰せられた。二番目、イエス様は、私たちが義と認められるために、よみがえられた事実です。イエス様は死んだままではなかったのです。初めから言われたとおりに、三日目に復活すると、言ったとおりになりました。三番目、イエス様は再び来られるという事実です。『わたしがまた来て、あなたがたをわたしのもとに迎える』と、イエス様は当時、約束してくださいました。

何十年も前のドイツの総理大臣の親戚、ヴァイツゼッカー博士という教授はあるとき、大学で学生たちに訊いたのです。いったい、確かなことは何?それに対して学生たちは、ひとりひとり、思い思いのこと言いましたけど、いつまでたっても、埒があかない状態だったので、ひとりの学生が勇気を持って、教授に言いました。「先生は、一体、何だと考えておられるの?」ヴァイツゼッカー教授は、『イエス様は信じるものを迎えに来るために再び来られる』と、答えました。

イエス様は、目標に導いてくださいます。イエス様は、御自分の約束を守ってくださいます。イエス様は、みことばを必ず守るお方です。したがって、100パーセント信頼できるお方です。このローマ書10章11節は本当にすばらしい言葉ですね、『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』全部、もう真っ暗闇に見えても、逃れ道も見えず、もうだめと誰もが思っても、主に信頼するものは、安心して前向きに生活をすることができる。私たちは決して決して、失望させられることがない、と信じるべきであり、確信するべきであり、なぜなら、まことの幸い、幸せの根拠であるからです。

今まで、私たちは二つの点について考えましたね。第一番目、祝福された人生の土台とはいったい、何?二番目、祝福された人生の確信とはいったい、何なのでしょうか。最後の第三番目の点は、祝福された人生の必要条件とは一体、何なのでしょうか。

決して失望させられないための条件とは、信頼することです。継続的に信頼し続けることです。すなわち、意識的にイエス様により頼むことです。我々の全信頼は、イエス様に集中されなければなりません。条件とは、人生の終わりに至るまで、意識的な信頼の態度が続けられなければなりません。最後に、三つの実例について考えましょうか。

第一番目の実例は、アブラハムと言う男です。聖書はなんと言っているかといいますと、アブラハムは主に信頼したとあります。彼は、自分にみことばを与えてくださった、そして、アブラハムは信じたのです。考えられなかったし、想像することもできなかったし、何を意味しているのかも、はっきり分からなかったけど、彼は信じました。みことばを信頼しました。ローマ書の中で彼は、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる主なる神を信じたのです。彼は、主の全知全能を深く確信したのです。だから、心配から、不安から、解放されました。われわれ人間には、まったく望みがないように思われる場合であっても、主に信頼するならば、不可能が可能となります。『アブラハムは望み得ないときに、望みを抱いて信じた』、と聖書は言っています。彼は、意識的に目に見えるものから目をそらし、目に見えない主にだけ、目を注ぐことをしていたのです。これこそ、本当の信頼です。信頼とは、自分や他人から目をそらし、主が必ず約束をお守りになることを確信することです。『神には約束されたことを成就する力があることを、アブラハムは堅く信じた』と、聖書は言っています。主なる神が約束されたことを成就する力を持っておられるから、約束を守られるということを、知ってる者は本当に幸いです。なぜなら、決して、失望させられることがないからです。

第二番目の実例は、モーセという男です。彼は、王子であったがゆえに、すべてを自分の思いどおりにできたわけです。望むものはすべて、自分のものとなりました。けど、彼はそのように恵まれた自分の境遇を投げ捨てました。彼は、世界一の愚か者だったのではないでしょうか。なぜそのような愚かなことをしてしまったのでしょうか。もう一箇所、読みましょう。答えとして、ヘブル人への手紙の11章です。

ヘブル
11:24 信仰によって、(・・・あるいは信頼によって・・・)モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

苦しむことを選ぶ人間はあまりいない。めったにいない。どうして彼は、そんなことを言った?

ヘブル
11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。

彼は、この世の富や教養と、とこしえの報いとを比較して、その結果、そのような決断を行いました。彼は、この世のいろいろな楽しみの結果が死であること、そして、その死後には裁きが下って、永遠の滅びに行くべきことを、よく知っていました。彼の経験は、主に信頼する者は、失望させられることがない、というものでした。モーセが信頼したからこそ、イスラエルの民は、当時、200万人の人々は自由になり、救われました。

聖書はこう言ってます、『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』信仰の父と呼ばれたアブラハムは、この事実を経験したし、今、話したように神の友と呼ばれたモーセも、同じ事実を経験したのです。

第三番目の実例は、ダニエルの三人の友だちだったのです。このダニエルの三人の友だちも、主に信頼する者は、決して失望させられないと言うことを経験したのです。この三人の友の特徴はなんだったでしょう。すなわち、幼子(おさなご)のような信頼、また、妥協なき信頼でした。それゆえに彼らは、火の中に投げ込まれてしまったのです。

ダニエル
3:15 「もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」
3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

この三人の確信とは何だったでしょうか。どうして、このような態度を取ることができたのでしょうか。すなわち、主に信頼する者は、失望させられることがない、ということです。私たちも毎日、何十回もこの事実を覚えるべきなのではないでしょうか。どういうことがあっても、主に信頼しましょう。イエス様にゆだねましょう。なぜならば、主は失望させられることがないからです。

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