2014年9月23日火曜日

ヨシュアの体験、証し、決意

ヨシュアの体験、証し、決意

2014年9月23日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨシュア
24:14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。
24:15 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」
24:23 「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」
24:24 民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

今、読んできてくださった箇所を見ると、我々の目の前には、イスラエル民族の歴史が浮かんできます。今から四千年前に、生けるまことの神は、アブラハムという男の前に姿を現しました。使徒行伝7章2節に、この出来事について、一文章だけ書いてあります。「栄光の神がアブラハムに現われた」と記されています。


アブラハムは、この主なる神に従って、約束されたカナンの地、今のイスラエルへと導かれました。この地であるイスラエルは、ユダヤ人に約束された地です。今日、アラビア人たちがこの地全体を支配しようと思い、イスラエル人を絶滅しようとしておりますが、主なる神の約束によれば、ユダヤ人がこの地を所有することになるはずです。

本当は、将来性のある国はイスラエルしかない。日本だって、将来どういうふうになるか、全くわからない。ドイツもそうです。けれども、イスラエルは、世界の中心になる国です。想像できない。人間的に言えば笑い話、けれども、聖書が言っているから、間違いなくそうです。

アブラハムは、四千年前にこの地に入ったのです。しかるに、彼の子孫たちは、その後、しばらくの間、地を離れざるを得なくなりました。まず、ヨセフという男が、エジプトへ売られてしまいました。続いて、彼の父ヤコブも、彼の兄弟たちも、エジプトへ下ったのです。けれども、エジプトで彼らは、しばらくするうちに、大変なことを経験するようになりました。奴隷の状態にされてしまったのです。けれど、主は、モーセをお遣わしになり、イスラエルの人々を、この奴隷状態の中から、すばらしく解放して、救い出してくださいました。

このモーセの手による主の救いは、イスラエルの人々に大しての感謝でしたし、また、奇蹟でもありました。主は、その後で、イスラエルの人々を、四日間だけではない、四十日だけではない、四十年間にわたり、荒野で養われ、その後で、ヨシュアの手によって、彼らを再び、約束の地カナンへと導かれました。

イスラエルのこの歴史は、歴史の上に現れた、ただ一度だけの歴史なのではないでしょうか。イスラエルの歴史は、奇蹟の歴史です。イスラエル民族は、生ける主なる神を知っている、地上でだだ一つの民だったのです。

この生けるまことの神は、まず、アブラハムに姿を現してくださり、その後の子孫は、主以外の神々に仕える偶像崇拝者でした。しかるに、イスラエルの人たちは、この生ける主なる神を体験的によく知りながらも、常にこの主に対して、心が鈍くなり、また、無関心になる危険を持っていたのです。

ヨシュアは、その時、百歳くらいの老人でしたが、このヨシュアの心の中には、主なる神に対しての深い関心がありました。ヨシュアは、その死を前にして、イスラエルの人々に警告を与え、この生ける唯一の主なる神に忠実であれと、彼らを諭したのです。

ヨシュアは、イスラエルの人々に、このように言ったのです。

ヨシュア
24:14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。

また、次のように言いました。

ヨシュア
24:15 ・・・・あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。

このヨシュアの言葉には、第一番目、ヨシュアの体験、二番目、ヨシュアの証し、三番目、ヨシュアの新たなる決意が言い表されているのではないかと思います。ヨシュアの体験とは、主を知ることでした。だからこそ、彼は主を愛し、主のためにだけ生きたい、主に仕えたいと望み、そして、彼の切なる願いは、主ご自身をより良く知りたいというものでした。

この三つの点について簡単に考えてみたいと思います。

最初に、ヨシュアは、何を経験したのでしょうか。ヨシュアは、主ご自身を知るようになりました。もっとも大切なのは、それなのではないでしょうか。ヨブは、次のように言ったのです。ヨシュアの体験も全く同じでしたから、ちょっと読みます。

ヨブ
42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

主を新たに体験した結果とは、それでした。パウロも同じように導かれ、経験したのではないでしょうか。なぜならば、彼は言ったんです。

ピリピ
3:8 ・・・・私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

ヨシュアは、モーセとの親しい交わりを体験しておりました。このモーセは神の人、神の僕(しもべ)、忠実な僕(しもべ)と呼ばれていました。主は、モーセと顔を合わせて、友がその友と語るように話されたと、聖書は言っています。

主が、モーセにシナイ山で四十日四十夜、過ごした後で、いわゆる律法をお授けになりました時に、ヨシュアもそこに居たのです。そのことは、ヨシュア自身も生けるまことの神を、親しく体験したことを意味しています。したがって彼は、自ら主なる神の道具となり、若い時から、主の敵に対して戦い、これを打ち負かしたのです。

ヨシュアは何を経験したかと言いますと、一文章にまとめると、祈ると勝つ、祈ると用いられる、祈ると勇気が与えられる、また、人間を恐れる恐れから完全に解放される。これこそが、ヨシュアの経験でした。

出エジプト記の三十三章に、このヨシュアのアマレク人に対する戦いが詳しく記されています。ヨシュアは、また、カナンに遣わされた十二人の偵察隊の一人でもありました。その時、ヨシュアは、見えるものではなく、見えない主の約束の方に信頼を置いたのです。このことのゆえに、イスラエルの人々は彼を殺そう、彼に石を投げようとしました。ヨシュアは、いかなる妥協もしなかった男でした。彼は、主から次のような命令を受けたのです。

申命記
31:23 ・・・・強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。

ヨシュア
1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。

このことばは、彼に与えられた約束だけではなく、我々のためにも書かれている約束じゃないでしょうか。主は、昨日も今日も、いつまでも変わらないお方ですから、だから、この家族は自分のためにも書かれている、与えられているみことばだと信じると嬉しくなるのではないでしょうか。主は嘘つきではない。約束を守るお方です。

このような主の約束をすべて、ヨシュアは、現実的に体験しました。主の命令に従って、ヨシュアもイスラエルの人々も、ヨルダン川を渡るという考えられない奇蹟を経験しました。主の命令に従って、ヨシュアは、エリコの要塞を落としたのです。ヨシュアは、何を体験したのでしょうか。彼は、生ける神を体験しました。主は生きておられる。主にとって不可能なことはない。このヨシュアは、だからこそ、「私と私の家とは、主に仕える」と告白せざるを得なくなったのです。

次に、二番目、ヨシュアの証しについてちょっと考えてみましょうか。

ヨシュア
23:3 あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。

ヨシュアは、このことばを通して、主は奇蹟をなさるお方であることを経験し、証ししたのです。

ヨシュア
23:14 あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。

ヨシュアは、決して、自分の名誉を求めようとはせず、主の御名が崇められることを心から求めたのです。ヨシュアの願いは、イスラエルの人々が、偽りのない心で、主だけに仕えることでした。

ヨシュア
22:5 ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。

23:11 あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。

よく言いますね。「気をつけて!」けれども、ここで大切な言葉です。「十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」ただ、『主を信じなさい』ではないよ。ヨシュアは、何を証ししたのでしょうか。ヨシュアの証しの内容は、ただ主だけでした。それゆえ、ヨシュアは、「私と私の家とは、主に仕える」と、言ったのです。たとえ、イスラエルのすべての人々が、主に背を向けたとしても、ヨシュアだけは生けるまことの神に従って行ったことでありましょう。

三番目、ヨシュアの決意、ヨシュアの新たなる決意は、何だったのでしょうか。新しい決意とは、ヨシュアが何年も前に成したる決意、すなわち、「私は、主に仕えよう」という決意と同じものでした。

ヨシュアの切なる願いは、結局、主をより良く知りたいというものでした。百歳を超えても、ヨシュアには、主のほかに仕えるものは何にもなかったのです。彼は、右を見ることもなく、左を見ることもなく、彼の目は、常に主に向けられていました。このヨシュアの態度は、イスラエルの人たちにどのような結果をもたらしたでしょうか。

イスラエルの人々は、ヨシュアのこの態度に、深い感銘を受けていたのです。イスラエルの人々は、ヨシュアの正しいことを知り、自分たちが、力強い主なる神のものであることを知ったのです。そこで、彼らも、「我々も、主にお仕えしたい」と、言ったのです。それは、単なる感情による決意ではなかったのです。自分たちの体験から出た決意でした。聖書は、このイスラエルの人々の決意が、一時的なものでなかったことを記されています。ヨシュア記の二十四章を見ると、それがはっきり解ります。

ヨシュア
24:31 イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。

ここでもたれている集いも、このような一つの新たなる決意の表れでなければならないのではないでしょうか。「私と私の家とは、主に仕える。」この決意は、ヨシュアの目的、また、願いだっただけではなく、我々の決意でもあるべきなのではないでしょうか。確かに、私たちはみな、イエス様を知る前は、偶像に仕える者でした。そして、我々の生活の中心には、イエス様はおいでにならなかったのです。パウロは、いろいろな手紙を書いたのです。たとえば、コリントにいる兄弟姉妹に、彼は、次のように書いたのです。

第一コリント
12:2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。

同じくパウロは、今度はガラテヤ地方に住んでいる人々に書いたのです。

ガラテヤ
4:8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。

けれど、私たちは、主のみことばを通して、我々の生活が目的もなく、望みもないものであることを知ったのです。人生の敗北者として、また、罪人として、私たちがイエス様の御許に導かれた時、私たちは、イエス様が罪を赦されるお方であり、本当の喜びを与えてくださるお方であり、まことの心の平安をお恵みくださるお方であることを知るようになりました。

そして、私たちは、主を体験的に知ったからこそ、私たちは、主に仕えたいと証しするようになりました。また、自分のためではなく、イエス様のために生きたいと望むようになったのです。なぜなら、自己中心的な生活には、満足がありません。けれど、イエス様に捧げられた生活には、自由があり、まことの幸せもそこにあります。

ヨシュアの告白の中には、『私が主に仕える』という意味だけではなく、『私の家も主に仕える』と書いてありますね。そこで、私たちの願いは、自分たちが主に仕えるだけではなく、家族の皆さんも、知り合いの人々も、みな一緒に、主なる神を知り、主に仕えるようになってもらうことです。主に仕えるということは、主の要求であり、また、主の命令でもあります。

申命記
10:12 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、
10:13 あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。

どのような人でも、その人生において、一つの選択の前に立たされるのではないでしょうか。すなわち、まことの主なる神に仕えるかどうかということです。そして、私たちにとって、正しい選択をすることが、考えられないほど大切です。主に仕えるかどうかということは、本人の自由な決断によることです。

私たちは、主に仕えるという決意を知っているのでしょうか。聖書には、これと同じ決意をした人の多くの実例が記されています。それは、ヨシュアと彼の家だけではなく、イスラエルの全家が、このような決意をしたということです。モーセもまた、このような決意を成した男です。へブル人への手紙の十一章――よく知られている箇所ですけれど――よく考えるべき宣べ伝える言葉ではないかなと思います。なぜならば、人間的に考えれば、彼は馬鹿でした。どうして?苦しむことを選んだのです。苦しんでもいいですか。嫌ですか。はい、苦しみたい。

へブル
11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

イエスから目を離さないように。モーセだけではなく、一人の女性がいます。イスラエルの民に属していなかった女性でした。異邦人の女でした。ルツという女性です。

ルツ
1:15 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」
1:16 ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」

この異邦人であるルツは、まことの神に出会ったのです。結果として、こういうふうに決意して、告白することができたのです。モーセもルツも、同じ決意をした人々でした。

三番目、ナーマンという男も確かに、イスラエルの民族に属さなかったのです。いわゆる異邦人でした。けど、彼の決意も同じものでした。

第二列王記
5:17 しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげます。

すばらしい告白であります。

四番目の証しは、アサフという詩篇の作者であります。同じ決意をした男でした。詩篇七三篇、皆さんもよく知っている箇所ですけど、すばらしい告白です。

詩篇
73:25 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。

主なる神を、個人的に体験する人々は、誰でも、主に仕えたいという願いを持つ者です。主を個人的に体験したことのない人は、一時的に主に仕えたいと願っても、それを実行することはできません。

五番目、金持ちの青年は、ひとつの実例でありましょう。

マルコ
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで(・・・・心から愛して、そして・・・・)言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

彼よりも、イエス様の方が悲しかったのではないでしょうか。さらに、ヨハネ伝の六章を見ると、イエス様に従っていた弟子たちの多くが、離れ去ったことが記されています。イエス様は、その時、そばにいた弟子たちにきいたのです。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と言われました。これに対して、ペテロは答えたのです。

ヨハネ
6:68 ・・・・主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
6:69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。

今日の集いも、また、決断に対しての招きでもあります。イエス様に仕えるようにとの招きです。モーセもこのような招きを与えたのです。

出エジプト
32:26 そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。・・・・

エリヤも、同じような招きを与えた。

第一列王記
18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」・・・・

また、イエス様の時代のピラトも、このような決断への招きを与えました。

マタイ
27:17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」

バラバか、イエスか。罪か、生か、死か、このような決断は、我々にもまた、迫られている決断です。

最後に、二つの箇所を読んで終わりたいと思います。

申命記
30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。

第一歴代誌
28:9 今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。

0 件のコメント:

コメントを投稿