2013年10月8日火曜日

パウロの目標

パウロの目標
2013年10月8日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第二コリント
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に作り入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

ご存知のように、パウロは、多くの手紙を書きました。だいたい人々を励ますため。「置かれている状況はどうであれ、イエス様から目を離さないでいなさい。」これは、おもにパウロの書いた目的でした。


けれども、例外があります。このコリント第二の手紙とは、ちょっと違う。彼は、なかなか言えないことを正直に告白するようになりました。今、読んだ箇所を見ても、大変だった。散歩ではなかった。厳しい戦いそのものでした。

パウロが多分、いちばん初めて書いた手紙とはとは、このテサロニケへの手紙です。第一章については、生き生きとした教会について書かれています。そして、生き生きとした証しをしている時に、その教会は、本当の意味で生き生きとしていることが解かります。二、三週間のあいだ、十字架につけられ、よみがえられたイエス様の福音によって、比較的、多くの人々は、聞く耳を持っていただけではなく、新しく生まれ変わったのです。考えられない奇跡です。

彼らは、新しい人間になっただけではなく、お互いに結びついて、ひとつの群れを作り上げました。今までは全く無関係で、いろいろな意味でばらばらだった見ず知らずの人たちが、心をひとつにして、一度に愛されるようになりました。ユダヤ人も異邦人も、内住の聖霊によって、ひとつのものとなりました。生き生きとした教会は、まさに生ける主なる神の奇跡の御業によって造られたものです。

本当に生き生きとした教会は、決して、形式的な組織ではなく、真の力、すなわち、内住の聖霊による一致を持っているのです。教会は、共通の課題とひとつの目標を持っているのです。

どのようにして、このような生き生きとした集会が発達し、どのようにして、パウロが大いなる働きを成すことができたのでしょうか・・・・という疑問に対して、この第二章は、はっきりとした答えを与えています。四つの質問についてちょっと考えたいと思います。

第一番目、第二章については、いかなる表題をつけるのでしょうか。第二番目、パウロ、また、同労者の生涯の目標は、いったい何だったのでしょうか。第三、パウロと同労者は、いかに働いたのでしょうか。そして、第四番目、彼らの奉仕の働きは、いかなる影響を及ぼしたのでしょうか。

第二章については、いかなる表題をつけるのでしょうか。『忠実なイエス様の僕たちにとっては、イエス様の再臨は、力づけ、勇気を与える望みを意味している』ということができます。もっと簡単に言うと、『パウロの祝福に満たされた奉仕』ということができます。さらに簡単にいうと、『空しくなかった』とつけることができるのではないでしょうか。

一人の人間の生涯について、『空しくなかった』と言うことができれば、本当に幸いなのではないでしょうか。軽井沢には、いくつかの墓地がありますが、その中に、次のような言葉が刻まれた墓があります。「我々、夫婦は、共に軽井沢を心から愛する。」結局、この言葉は、まだ生きている人々に対して、言おうとしたものです。したがって、これはまことに空しかった人生と言えます。

けれども、パウロの奉仕と生涯について考えると、それは決して、空しくなかったのです。この(第一テサロニケ)第二章は、二つに分けることができます。まず、一節から十二節までのあいだに、パウロは、自分の働きと同労者について述べています。ここでパウロは、何回も何回も、私たち、私たちという言葉を使っています。

第一テサロニケ
2:1 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。
2:2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。
2:3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
2:5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
2:6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。
2:7 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。
2:8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
2:9 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。
2:10 また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。
2:11 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、
2:12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

それから、第二番目ですね。十三節から二十節を見ると、パウロは働きの結果、また、テサロニケの集会や迫害する者について語っておられます。そして、その場合に、今度は、私、私たちではなくて、あなたがた、あなたがた、あるいは、彼らという言葉を用いていますね。

第一テサロニケ
2:13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。
2:15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。
2:16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。
2:17 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので、――といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、――なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。
2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。
2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

第二の質問は、パウロ、また、同労者の生涯の目標とは何だったでしょうか。彼らの人生の特長であり、もっとも大きな影響を及ぼしたものは、まさに、福音であったのです。それですから、福音ということばが、何回も何回も、繰り返して出て来るのです。

第一テサロニケ
2:2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。

福音とは、もちろん、ひとつの教えではない。イエス様です。

第一テサロニケ
2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

2:8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
2:9 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

福音を通して救うことができ、主なる神の力を体験した者は、福音を委ねられた者です。私たちは神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、我々の心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。これこそ、あらゆる信者に与えられている使命なのではないでしょうか。

私たちは、罪の世界に住んでいるのです。私たちの周囲は、荒れ果てたように見えます。私たちの周囲にいる人々は、荒野で水を求めている瀕死の人々に似ています。私たちは、どこに泉があり、どこに救いがあるかを知っています。それですから、私たちは、水を求めている瀕死の重病人を、泉のところに導いて行く責任と、また、義務とを持っている者です。福音によって、パウロと同労者たちの信仰と確信は、弱り果てることなく、反対に力づけられ、水を求めて迷っている人々にいのちの水、すなわち、救いの井戸を、力強く宣べ伝えたのです。

彼らは、自分自身の思いや考えを宣べ伝えたのではなく、ただ、イエス様だけを宣べ伝え、紹介したのです。自分たちの誉れではなく、イエス様の誉れだけがいちばん、大切だったからです。

第三の質問は、パウロと同労者は、いかに働いたのでしょうかね。この二章においては、「何何ではなく、何何である」という表現が、何回も出て来ることに注意したいと思います。たとえば、無駄ではなかった。だまし事でもない。人間に喜ばれるためではない。へつらいの言葉を用いたこともない・・・・と。そうではなく、主なる神に喜ばれるように福音を語るのである。自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願った。

第一テサロニケ
2:8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。

パウロと同労者の奉仕は、いかなる性質のものだったでしょうか・・・・という問いに対する答えは、この二章ではっきり与えられています。

八つの事実について、書かれていますね。一節を見ると、彼らの働きは無駄ではなく、実りの無いものではなかったこと解かります。二節を見ると、激しい苦闘にかかわらず、神に勇気をあたえられて、力強く神の福音を語ったことが解かります。三節を見ると、彼らの宣教が決して、だまし事ではなく、公明盛大なものであったこともわかります。

四節から六節までを見ると、彼らの奉仕の目的が、ただ主なる神の栄光のためであったことがわかります。自分のために、ある団体のために、また、ある組織のために、自分の力で、自分中心に働く者は、まことにあわれむべき信者です。

五番目、七節から九節までを見ると、彼らが優しくふるまい、また、慕わしく思っていたと記されています。

六番目、十節から十二節までを見ると、彼らの生活が単なる言葉ではなく、力強い証しであり、彼らの奉仕がこの聖なる清い生活によって成されていたのです。

七番目、十三節から十八節までを見ると、彼らの奉仕の働きは、みことばを生ける主なる神のことばとして受け取ったゆえに、大成功をおさめたことが記されています。

そして、八番目、十九節から二十節を見てみると、彼らは奉仕をする時に、絶えず主イエス様の再臨に視線を合わせ、待ち望む信仰を堅く持っていました。要するに彼らは、ちょうど母がその子供を育てるように、あるいは、父がその子に対してするように、信者一人ひとりに対して、力の限り配慮したのであります。七節と十一節を見るとわかります。

第一テサロニケ
2:7 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。

2:11 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに(配慮した。)

今日、パウロと同じように、このようにして奉仕をする者は、当時と同じように、豊かな実を結ぶことを体験することができ、そのような奉仕によって初めて、生き生きとした教会が生まれます。また、パウロと同労者たちとの働きによってわかることは、福音の宣教が命をかけるに値するものであるということです。

第一テサロニケ
2:8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。

パウロ、また、同労者たちが宣べ伝えた福音の本質は、主なる神が御国とその栄光とに、我々人間、一人ひとりを召してくださったことです。そのため、私たちはそれにふさわしく、主の御心にかなって歩くように導かれているのです。

第一テサロニケ
2:12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

パウロと同労者との特長とは、いったい何だったでしょうか?それは、無私、無欲の心と、喜んで苦しみを受ける覚悟と、愛に満たされた真心でした。彼らは、決して、自分自身のことを大切に考えず、絶えず、兄弟姉妹が清められ、成長することを願ったのです。彼らは、ちょうど親が子供を育てるように、兄弟姉妹、一人ひとりのために配慮したのです。彼らは、つまづかないように、また、いつも主のそば近くにいるようにと心から願いました。

最後に、第四の質問、すなわち、パウロと同労者たちの奉仕の働きは、いかなる影響を及ぼしたのでしょうか。

私たちは、今までに福音がいつも周囲の者に対して、二面的な効果をもたらすということ、すなわち、それを受け入れるか、拒むかのどちらかであることを見てきました。十三節を見ると、テサロニケの兄弟姉妹は、宣べ伝えられた福音を主のことばとして受け取ったことが解かります。そして、これこそ彼らが、パウロと同労者たちに対して、心からなる感謝をささげた理由でした。

第一テサロニケ
2:13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

十四節によると、テサロニケの兄弟姉妹は主のみことばを受け入れただけでなく、主なる神の諸教会にならうものとなり、苦しみや迫害をも、喜んで受けたことがわかります。彼らは、多くの使徒たちと同じように、イエス様の弟子が誤解され、迫害されなければならないという事実を、身を持って体験しました。

第一テサロニケ
2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。

それから、二十節を見ると、テサロニケの兄弟姉妹こ、そ、実にパウロと同労者たちとの誉れであり、喜びであると記されています。これこそ、パウロと同労者たちの働きの結果でした。

第一テサロニケ
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

今日でも、同じように、みことばに対して心開き、それを受け入れて信じる者には、永遠のいのちが与えられているのです。我々の大部分の人が、自分の罪が赦されており、主なる神との平和を持っているということを、体験的に知っているのです。しかし、そのような信者であっても、「あなたこそ、実に私の誉れであり、喜びである」と言われる人の数は、少ないのではないでしょうか。いったい、どうしてでしょうか。

テサロニケの信者たちは、みことばを受け入れ、激しい苦闘を通して、主の諸教会にならう者となりました。彼らの信仰が、苦しみや悩みを通して、ダメになることはなく、一層しっかりとしたものになったんです。彼らは、意識的に、見えるものではなく、見えないものを見たのです。彼らは、日常生活においても、無私、無欲の献身的な生活に、忠実に従いました。このようなわけで、彼らは、パウロと同労者たちの誉れとなり、喜びとなったのです。そして、パウロと同労者たちの伝道活動、福音の宣教の土台を成しているものは、まさに、主のみことばだけであったことがわかります。主のみことばを受け入れるところには、いのちがあり、それを拒むところには、憎しみと争いとがあります。

テサロニケの兄弟姉妹は、みことばを虚しく聞くことはなかった。彼らは、みことばを通して、主の声を聞きました。聞く耳があった。「主よ。語ってください。しもべは聞いております」という態度をとったのです。

結局、彼らは、みことばを通して、主が一人ひとりに語りかけてくださることを確信したゆえに、そのような信仰を持ち続けることができたのです。ところが、このようなテサロニケの兄弟姉妹とは反対に、大部分のユダヤ人は、みことばをむなしく聞くに留まってしまいました。

そのようなユダヤ人たちは、多くの預言者たちを殺したにもかかわらず、イエス様を十字架につけ、さらに、パウロをも迫害したのです。みことばをむなしく聞くこととは、まことに悲劇です。私たちも、多くのみことばを聞きましたが、それはむなしく終わってしまったのでしょうか。それとも、むなしくはなかったのでしょうか。

第一テサロニケ
2:13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

すなわち、主のことばは、働くことを望んでおられ、実際、働くことがおできになるのです。その生きた証拠は、とりもなおさず、生き生きとしたテサロニケの教会でした。このように、みことばが我々の心の内に宿り、働くことがおできになるかどうかということは、非常に大切な問題です。

もう一箇所、読んで終わります。イザヤは、主の口として宣べ伝えました。

イザヤ
66:2 ――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

結局、主を恐れる恐れを持つことこそが要求されています。

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