2013年10月1日火曜日

生きている教会

生きている教会

2013年10月1日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。

1:2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
1:3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
1:4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

忘れないように、けれども、祈りのお願いなんですけど、坂出に住んでいる比較的、若い姉妹、ミズホ姉は末期のガンで、モルヒネもきかないし、非常に苦しい状態だそうです。彼女のお父さんが、人が見舞いに行ってもいいと許したから、家族のためにぜひ覚えてください。ミズホは何歳かな・・・・四十一、四十二歳くらいではないかと思います。


今日のテーマは、「生きている教会。」どうして?死んでいる教会があるの・・・・と聞かれるかもしれない。あるんですって。黙示録、三章一節、サルデスという町にある教会は、死んでいた教会だったようです。「あなたは、生きているとされているが、事実は死んでいる。」彼らは、気がつかなかったかもしれないけど、主の判断は、死んでいる教会でした。けれども、今日のテーマは、「生きている教会」としたいと思います。

この最後の九節、十節を見ると解かりますね。主なる神に立ち返ることに対して、主イエス様の再臨が、いかなる影響を及ぼすかという問いに対して、『生き生きとした望みを与える』と書いてあります。その教会は、ただ、でき上った、存在しただけではなく、しっかりと根をおろし、成長した教会でした。用いられる器になったのです。妥協することなく、いつも、はっきりとした態度を取った教会でした。

この教会の特長は、非常に早く成長したということです。一章には、「選ばれていること」であるとか、「再臨」、「聖化」、「きよめ」、「聖霊」について、書き記されていることから判断して、テサロニケの教会が、生まれたばかりの状態に留まらず、立派な大人の教会に成長したことが解かります。

第一テサロニケ
1:4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。

1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

彼らは、再臨をただ信じただけではなく、待ち望むようになったのか。

第一テサロニケ
4:1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
4:2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。
4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け(ることです。)

1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

4:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。

5:19 御霊を消してはなりません。

第一章は、要するに、テサロニケの兄弟姉妹が、主なる神に立ち返ったことに対する、パウロの感謝の祈りで満たされています。ちょっと簡単に、六つの質問について考えてみましょうか。

第一番目、このテサロニケの教会の特長は、いったい、いかなるものだったでしょうか・・・・ということです。それは、生き生きとした健全な教会、したがって正常な教会だったことが解かります。この教会の秘訣は、主のみことばの上に立ち、主のみことばを第一にしたということです。よく言われますように、主を愛することとは、みことばを愛することです。1章五節、六節、八節と三回も、「みことば」という表現が出てきます。この教会は、パウロにとってのみならず、イエス様にとっても大きな喜びでした。

第一テサロニケ
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました

1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。

残念ながら、我々の集会は、決して、そのような模範的な集会ではないのではないでしょうか。なぜならば、兄弟姉妹すべてが、みことばの上に立つことをせず、みことばに満たされていないからなのではないでしょうか。なんとしばしば、私たちは自分の心や、他人の言うことや、悪魔のささやきの方を、みことばよりも大切にするのではないでしょうか。それらのものに耳を傾けず、ただ主のみことばだけを大切にする者は、豊かに祝福されます。

第二番目の質問は、みことばがこの教会に対して、いかなる影響を及ぼしたのでしょうか・・・・ということです。五節に答えられていますね。

第一テサロニケ
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。

この節によると、主のみことばは、テサロニケの教会で、力ある働きを成すことができました。聖霊の力によって、パウロは福音を宣べ伝えました。福音とは、もちろん、イエス様ご自身です。

第一テサロニケ
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました

みことばを勉強してわかったのではない。みことばですから受け入れた。この節を見ると、彼らはみことばを受け入れたことがわかります。したがって、ただ単に、みことばを聞いただけではなくて、それを受け入れたことが明らかです。みことばを受け入れて、自分のものにしなければ――当然です――みことばの力を体験することができません。テサロニケの人々は、みことばの力を体験的に知るようになりましたね。

第一テサロニケ
1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。

「主のみことばが、彼らから出て響き渡った」と、記されています。ここで、みことばが広められたことがわかります。これは本来、健全な教会が成長していく過程を現しています。すなわち、まず力を持って福音が宣べ伝えられ、そのみことばが受け入れられ、さらに、広められるということこそ、生き生きとした教会の特長、そのものです。もちろん、みことばは単なる普通の言葉や教えではなく、イエス様ご自身を現しています。みことば、すなわち、イエス様です。ヨハネ伝は、この真理をはっきりと示しています。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

この『ことば』とは書かれていない。『この方。』

ヨハネ
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

ここまで、聖書を知らない人々が読むと、ピンと来ない。『ことば』、『ことば』、『ことば』、『この方』、云々といったい、どういうはなし?十四節に答えられていますね。

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

したがって、ここでも同じように、「ことば」の代わりに、「主イエス」で置き換えてみて、主イエスが力強く宣べ伝えられ、主イエス様が受け入れられ、主イエス様が広められたと表現すれば、意味もはっきりします。他の宣べ伝えは、すべて、その内容の中心が、すなわち、イエス様ご自身です。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、もっとも大切なことを書こうと思って、いわゆる『よみがえりの書』を書いたのです。

第一コリント
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、・・・・

『聖書の示すとおり』、『聖書に従って・・・・』、結局、大切なのは、人間が何を思っているか、考えているかではない。聖書は何と言っているか。この土台から離れれば、とんでもないことになります。

第三の質問は、いかにして、みことばが、テサロニケで宣べ伝えられたのでしょうかということです。答えは五節ですね。

第一テサロニケ
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。

この節を見てもわかりますが、力と聖霊と強い確信とによって福音が、すなわち、イエス様が宣べ伝えられ、紹介されました。ここで明らかなことは、聖霊とパウロとが、ひとつになって働いたということです。

パウロはいつも、聖霊に聞き従いたいという飢え渇きを持っていたがゆえに、聖霊が臨んで、働いたのであります。聖霊は、忠実に従う者にのみ臨んで、働くことができます。よく引用される箇所である使徒行伝、五章の中で、この事実が明らかになります。

使徒行伝
5:30 私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。
5:31 そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。
5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。

「ご自分に従う者たちに・・・・」とありますね。聖霊の働きは、教会の成長にとって、どうしても必要です。聖霊が共に働くことができれば、今日(こんにち)でも、テサロニケに見られたと同じことが実現されます。

第四に、みことばを受け入れることについて、何と書いているのでしょうか。

第一テサロニケ
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

パウロは、ここで告白しています。「私たちは、聖霊によってみことばを宣べ伝えただけでなく、みことばを受け入れた」こともわかります。聖霊による喜びをもって、みことばを受け入れたとはっきり記されています。聖霊は、みことばを宣べ伝えるときのみならず、受け入れるときも積極的に働くと、言っています。そして、みことばを受け入れることは、イエス様を受け入れることであり、イエス様を受け入れることこそ、本当の信仰です。

みことばは、理解するものではなくて、受け入れるものです。みことばは、読むべきものではなくて、食べるべきものであると、有名な哲学者、ヒルティーは言っています。ヒルティーは、『読んだことは忘れやすいのに対して、食べたものは力となる』と言っています。私たちが、みことばを読むだけに留まるか、それとも、本当に食べて消化するかということは、我々の人生にとって、非常に大きな結果をもたらすことになります。ただ単に、みことばを読むに留まった者は、やがて、失われてしまいますが、本当に食べて、自分のもの、自分にみことばを味わい消化した者は、永遠に救われているのです。

結婚も二つの者が一つになるという意味において、非常に重大な結果をもたらしますが、イエス様を受け入れるか否かという問題は、さらにさらに、重大な結果をもたらすのです。受け入れることは、意思の行為です。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

この箇所によると、信じることは、すなわち、受け入れることです。それですから、信仰とはその人の意思の問題です。信仰とは、知らないうちに、心の中に入り込んでくる感情、あるいは、それを漠然と荷っている気持ちではなく、まさに、一人ひとりが決断しなければならない意志の問題です。したがって、順番としては、まず決心して、それから、行なうことです。放蕩息子は、豚といっしょになるほど、落ちぶれたとき、いい気持ちになることを待つことはしませんでした。彼は、父の御許(みもと)に帰ることを決心しました。信仰とは、自分自身のみじめな状態と罪の苦しみを素直に認め、主が提供された贈り物を、素直に受け入れることを決心する決断に他なりません。

主なる神のみことばは、今日も力強く、生きております。ヘブル書の著者は、この事実について、次のように書き記したのであります。

ヘブル
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

みことばは、力強く生きているものであるがゆえに、それを受け入れた者には、大きな影響を及ぼすのです。テサロニケの兄弟姉妹は、みことばを受け入れたことによって、新しく生まれ変わることができたのです。このようにして、受け入れられたみことばは、新しく生まれ変わるための種であり、決して、感情や気分や人間の理解力によるものではありません。新しく生まれ変わることは、次のようにして実現されます。すなわち、まず第一に、主に対する信仰です。

第一テサロニケ
1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。

二番目、主に立ち返ることと、偶像を捨てることです。

第一テサロニケ
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、・・・・

新しく生まれ変わることとは、結局、主に対する信仰であり、主に立ち返ることによって偶像を捨てることです。

そして、三番目、聖霊を受け入れることです。

第一テサロニケ
4:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。

みことばを受け入れる者は、主を信じることができるようになり、その結果、偶像を捨て、主に立ち返り、聖霊を受け入れるようになるのです。

第五番目の質問は、テサロニケにおいて、いかなるいのちの現れが見られたのでしょうか。

みことばによって、テサロニケ集会が新しいいのちを持っていたことがわかる。そして、一章の二節、三節にこの新しいいのちのことについて記されています。

第一テサロニケ
1:2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
1:3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。

ここで三つの事柄について、書いてあります。第一番目、信仰の働き。二番目、愛の労苦。三番目、望みの忍耐についてです。

『信仰の働き』と記されていますが、本当の信仰は、自ずからその結果として、豊かな実を結ぶようになるのです。信仰とは、新しい生涯を送るための力です。したがって、テサロニケにいる信者たちは、ただ単に信者だったわけでなく、その信仰が行動のかたちで、行いとして現れてきたのです。実際には、偶像から離れて、真の神に立ち返るようになりました。

次に二番目、『愛の労苦』という表現について、ちょっと考えてみましょうか。信仰が新しい生涯の力であるとするならば、愛は新しい生涯のための暖かさを意味しています。テサロニケの兄弟姉妹は、イエス様を愛したのみならず、主なる神を愛するがゆえに、主のために苦しんだのです。実際には、生けるまことの神に仕えるというかたちで現れたのです。

そして、三番目、『望みの忍耐』とあります。信仰が、新しい生涯のための力であり、愛が、新しい生涯のための暖かさであるとするならば、望みは、新しい生涯のための光であるということができるのではないかと思います。テサロニケの兄弟姉妹は、ただ単に望んだだけでなく、その望みのために、勇敢にも迫害を甘んじて受けたのです。彼らは、偶像から離れて、生ける真の神に仕えるのみならず、心から主を待ち望んでいたのです。テサロニケの兄弟姉妹の特長は、試された信仰、偽らざる愛、そして、生き生きとした望みでした。

あらゆる信者の生涯は、これと同じように救われて、まことなる神に仕え、主イエス様を待ち望む心がまえであるべきです。私たちは、ただ単に救われるために救われたのではなく、まことの神に仕え、心から主を待ち望むために救われた・・・・ということを、テサロニケの兄弟姉妹はよくわかったのです。このような理由から、テサロニケの兄弟姉妹は、隠れている状態に留まることはできませんでした。光は輝かなければなりません。まことのいのちは、成長し、広く大きくなっていかなければなりません。テサロニケの兄弟姉妹は、模範的な生涯を送ったために、その周囲の証しとなりました。

新しく生まれ変わる人生の実は、信仰と愛と希望です。新しく生まれ変わった人生の特徴は、まことの神に立ち返り、忠実に仕え、イエス様を待ち望むことです。しかし、このことはテサロニケの兄弟姉妹の人間的な力によるものではなく、主によって選ばれ、御霊の働きを妨げなかったからです。

けれども、今日、多くの信者が、「私は、イエス様を信じている」と言いながら、実際生活の中で、豊かな実を結ぶことなく、未信者とほとんど変わらないような生活をしていることは、本当に悲しむべき事実なのではないでしょうか。試された信仰、偽りのない愛、生き生きとした望みが、少しも見られないような場合には、その人が、本当に主と結びつき、交わりを持っているかどうかは、疑わしいものです。

最後に、第六番目として、結論として、簡単にテサロニケの教会が、どれほど広がる力を持っていたかについて、考えて終わりたいと思います。

第一テサロニケ
1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。

テサロニケの兄弟姉妹が、その地方全体の模範になったことがわかります。彼らは、人間として立派だったのではなく、イエス様が彼らの中に大きな位置を占め、充分に働いてくださったから模範となりました。

第一テサロニケ
1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。

主のみことばは、テサロニケの兄弟姉妹から出て、その地方、一帯に響き渡ったことがわかります。イエス様についての喜ばしい訪れは、テサロニケの兄弟姉妹を通して、広く告げ知らされました。そのために、マケドニヤとアカヤの人々も、イエス様のことを知るようになったのです。

みことばを受け入れることと、それを広めることとは、お互いにひとつの関連性を持っています。心の中に深く入れば入るほど、外に広がる力も大きくなります。生き生きとした教会とは、絶えずイエス様を宣べ伝えている群れです。私たちが、みことばを受け入れ、それに従う程度にしたがって、多くの人々が我々を通して導かれ、救われるようになります。「あなたがたは、わたしたちの証し人であるべきだ」というみことばは、主イエス様の願っておられることです。

生き生きとした証しをしない教会は、もはや教会としての権利を持っていません。イエス様は、テサロニケの教会をご覧になった時、心から喜ぶことができました。しかし、主はエペソの教会を見たとき、喜ぶことができませんでした。主は、次のように言わざるを得なかったのです。

黙示録(口語訳)
2:3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

『燭台を取りのける』とは、証しがなくなることであり、やがてはその教会がダメになることを意味しています。エペソの教会は、そのとき、悔い改めることをしなかったために、とうとう教会として存在することができなくなってしまったのです。我々の集会も、悔い改めなければ、同じようにダメになってしまうことは明らかです。それですから、私たちは主の御声に耳を傾け、それに従わなければなりません。

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