2013年10月6日日曜日

目標を目ざして一心に走る

目標を目ざして一心に走る
2013年10月6日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

今、読んでくださった箇所はもちろん、皆、何回も何回もお読みになったのではないかと思います。どこで、この言葉が書かれたかと言いますと刑務所の中。それを考えると、すごい!としか言えないのではないでしょうか。私は目標を目ざして走っている。『のんびりしていれば何とかなる』のではない。彼は、はっきりとした目的を持っていました。

イエス様の救いにあずかり、イエス様のものになったということは、これを見ても、戦いの中に自分の身を投じたことを意味します。この戦いに勝つために、全力をあげて、走らなければならない。それほど激しい戦いです。パウロは別のところで、信ずる者の生涯を、『競技者』にたとえています。

第一コリント
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

ヘブル書の著者も、同じようなことを思ったにちがいない。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

そして、使徒行伝の中で、パウロは告白することができました。

使徒行伝
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

パウロは、人を喜ばせようとは思わなかった。心からそう思って、告白しました。こういうことばを読んでまいりますと、信仰の競争を走り抜くには、まとわりつく色々なものを捨てなければならないことが分かります。それは、思い煩いである場合もありましょう。憂鬱な気持ち、不信仰、人を恐れる恐れであるかもしれません。また、十字架を負うことを拒むことであるかもしれません。

パウロの目ざした目標、報いとは、もちろん、普通に考えられる救いではなかったのです。なぜならば、パウロはその時、もうすでに救われ、永遠のいのちを持っていると確信していたからです。パウロは、自分のわがままは赦され、忘れられていることも確信し、喜びの声をあげることができたのです。

パウロの目ざした目的とは、今、話したように、普通に考えられる救いではなかった。それから、言うまでもなくパウロは、地上における名声のために、目標を目ざして走らなかったとはっきり言えます。パウロは、生きているあいだに、もうすでにイエス様のものになっただけではなく、優れた人として、動かすことのできない名声を獲得していました。そして、異邦人に対する使徒として、すべての人に認められていました。しかし、パウロは一度も他の人々に認められたいなどと思ったことはありませんでした。

パウロの時代には、自分の栄誉のために働く人々がおりました。これらの兄弟姉妹は、ねたみや闘争心、また、党派心や虚栄から、イエス様を宣べ伝える人々だったと聖書は言っています。パウロの時代にはそうでしたが、この末の世では、なおさら、そうではないでしょうか。

信ずる者の中にも、認められたいという願いが働き、何とかして信用を得よう、名声を博し、大いなる者と唱えられたくて働く人々も、もちろん、います。イエス様に出会った者は、はじめにイエス様によって救われた時、その喜びのあまり、自分の持っている物はみな、すべてイエス様に捧げ、イエス様に仕えたい、この世の名声は問題ではないと思ったことがあるはずです。けど、そのうちに名誉心が頭をもたげてきて、自分は何かになりたい、認められる者になりたいと思うようになります。口では、主にすべてを捧げて、主に仕えていると言いますが、実際は、人の誉れを求める人々がいるのではないでしょうか。

もし、人の誉れを求めているなら、肉においては己を喜ばせ、当たり障りのない楽な生活をすることができるでしょうけど、パウロのような、ただ神の誉れを求め、上のものを目ざして走ろうとする者には、いろいろな困難が降り掛かってきます。パウロの証しを、見てみましょうか。

第一コリント
4:9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。
4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
4:11 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
4:12 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
4:13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。

パウロの目ざした目標は、もちろん、罪の赦しではなかった。もうすでに赦された。自分の罪は、永久的に忘れられていることを、彼は確信していました。また、パウロの目ざした目標は、地上における名声でもなかった。パウロが目ざして走っていたものは、自分のものではありませんでした。自分の持ち物を少しでも多く持とうという願いは、若いころのパウロの願いだったのではないでしょうか。彼は、知的にも人より優れようとし、非常な努力をいたしました。

ピリピ
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。

間違った自信に満ちた者でした。彼が若いころ、持っていたこのような霊は、天からのものではありませんでした。したがって、天の報いとは少しの関係もありません。多くのキリスト者はただ、自分の祝福を求めて祈り、信仰生活を続けますが、他人の祝福を願わず、自分の祝福だけを求める人は、あたかも登山靴とリュック・サックを背負って走る競技者のような者なのではないでしょうか。このような人々は、しばらく走ると疲れてしまい、動かなくなってしまいます。パウロは、当時、イエス様のことを宣べ伝えた人々について、悲しいことを書いたのです。

ピリピ
2:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

3章18節では、パウロはこのような人々は、キリストの十字架に敵対して、歩いている人々だと言っています。

【参考】ピリピ
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

彼らはイエス様、ご自身に敵対してはいません。イエス様を知り、イエス様を信じ、罪の赦しをいただいた人々です。それでもなお、十字架に逆らっていると、パウロは書いたのです。それらの人々は、誤解されたくない、あなどられたくない、イエス様のために恥を負いたくない人々です。これらの人々は、人の思いでイエス様に十字架にかからないようにと諌めたペテロに似ているのではないでしょうか。イエス様はあの時、ペテロに言いました。『さがれサタン、あなたはわたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』と、激しく言われました。

イエス様の十字架の敵は、このピリピ書3章19節によると、地上のことを思っている人々のことを言います。

【参考】ピリピ
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

私たちは、十字架に敵対しているのでしょうか。それとも、私たちは、神の国とその義とをまず第一に求めているのでしょうか。

パウロは、体を伸ばして走るようになりました。どうしてでしょうか?言うまでもなく、救われるためではない。地上における名声のためでもない。また、自分の持ち物を得ようと思ったからではない。パウロが体を伸ばして走ったのは、奉仕の結果のためでもなかったのです。パウロは驚くほどイエス様に祝福され、すばらしいご奉仕をしました。しかし、ご奉仕の結果がパウロの目的ではなかったのです。

パウロは今、ローマの牢獄で、ピリピにいる兄弟姉妹に手紙を書き送っています。パウロは、そのご奉仕の大部分をもうすでにその時、終わっておりました。しかも、なお、ただこの一事に励んでいます。すなわち、『うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む。目標を目ざして一心に走っている』と、彼は言っています。多くの人々が、パウロの奉仕によって救われ、また、彼の力に満ちた奉仕によって、人々がたくさん、救われていました。けれども、パウロは奉仕の結果を、目標にはしていませんでした。

私たちも、奉仕の結果を最後の目的にするならば、間違っています。誤りです。ある人は奉仕と言って、奉仕に熱中しています。けれども、もし病いに倒れて、何年間も寝たきりにならなければならないとしたら、いったいどうでしょう。必ず絶望してしまいます。他の人々は、奉仕できる環境にあるのに、自分はできない、他の人々だけ豊かに祝福されて、自分は祝福されない――そのような時は、いったいどうでしょうか?もちろん、イエス様は、私たちが真実を尽くして、奉仕することを願っておられますけど、奉仕そのものが目的となり、まことの目的を達するための妨げとなるならば、本当に悲しいことなのではないでしょうか。

使徒行伝で、パウロは次のように証ししました。エペソの長老たちの前の証しです。

使徒行伝
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

それでは、ここまで、パウロが求めていた報いではなかったものを見て来ましたが、最後に、パウロが求めていた報いとは、いったい何だったのでしょうか?これについて、考えたいと思います。

まず、パウロが求めていたのは、ただ主の誉れです。まことの報いを求めて、ひたすら走る者は、信者や他の人々の栄誉を求めないで、ただ、主ご自身の誉れを求めて走ります。ダマスコの途上、よみがえりの主イエス様が、パウロをとらえられた時、主は一つの目的をもって、パウロを回心せしめました。そのとき、パウロは、主が自分が主の僕(しもべ)としてご奉仕をするために、救ってくださったのだと思ったにちがいない。

今、パウロは何年もの間、ご奉仕を続けた後、囚われの身となってローマの獄(ひとや)につながれています。そして、ピリピの兄弟姉妹に、手紙を書き送っています。目に見える伝道のご奉仕は、だいたい終わったというのに、彼は、なお、目標を目ざして走っていると、書き送っているのは、どういうことでしょうか。御霊は絶えず、パウロを前の方に追いやってやめませんでした。ですからパウロは、そのように言わざるを得なかったのです。

主ご自身は、パウロより、もっと大きな関心をもって、このまことの目標を達成しようと願っておられました。だから、パウロをして目標を目ざして励ましめたのであります。問題は、私たちが満足することではなく、主が満足されることです。また、主は、私たちが、主の示す目的だけに向かって邁進するのを願っておられます。その時、はじめて主は満足なさいます。

パウロの著しい特徴は、ただ、主を喜ばせるために、すべてのことをしたと言うことです。回心の時に、もうすでに、彼は、『主よ、私はこれから何をしたらいいのでしょうか』と、主の御声に耳を傾けて、それに聞き従いました。パウロは生涯、主の指図どおりに動いていたということです。パウロが生涯、主の指図どおりに動いていたということとは、本当に恵みそのものです。ですから、主はパウロに、御自分の目的を上から教えられました。パウロは、主なる神のまことの目的を知っていたから、ただ、ひたすらに、からだを前に伸ばし、それを目ざして前進しました。けど、この主の御目的とは、いったい何だったでしょう。

イエス様は、ゴルゴタで十字架におかかりになる前に、父なる神に祈って、言われました。

ヨハネ
17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

また、よみがえられ、昇天され、引き上げられたイエス様は、弟子ヨハネに次のように仰せられました。すごい、すばらしい約束です。

黙示録
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

イエス様とともに御座に着き、主なる神とともに、永遠に支配する。これが、パウロの目ざした真の目的であり、報いであったのです。何という驚くべき、栄光に満ちた立場でしょう。人からの誉れは小さなものです。主なる神とともに、永遠に過ごすという驚くべき光栄が、われわれを待っているのです。

第二番目の真の報いを目ざすものは、自分の持ち物を求めず、自分をむなしくいたします。今、読みました黙示録3章21節ですね、『わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。』このイエス様のみことばの裏に、わたしを模範として、わたしに従いなさいという意味が含まれています。このイエス様の勝利の道を歩む模範は、有名なピリピ人への手紙の2章に書かれています。

ピリピ
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

主イエス様は、主なる神のひとり子であられたのに、天におられたならば何の不自由もなく、驚くべき祝福のうちに住むことができたのに、自分をむなしくし、しもべのかたちを取り、人間の姿になり、そればかりではなく、己(おのれ)を低くし、死に至るまで、しかも、十字架の死に至るまで従順であられました。イエス様は、人の誉れも名誉も得ようとは、ひとときだに思われませんでした。また、イエス様は自分のものを求めようとは、思われなかったのです。全く己をむなしくしておられました。イエス様は、結果を数える奉仕でなく、ただ、父に従順に従い、十字架の死にいたるまで、従順であられました。

このイエス様の霊は、父なる神に、ことごとく嘉(よみ)せられました【嘉する。(身分の上の人が目下の者の行いなどを)よしとする。ほめること】ので、イエス様がよみがえられた時、父なる神は、イエス様にいちばん、高い御位(みくらい)をお授けになったのです。イエス様は今、天の御位に座しておられます。しかし、ただ一人でそこにおられることを願っていません。イエス様が十字架にかかってくださったのは、信ずる者のひとりひとりがキリストの霊を持ち、御座に着くことができるようになるためでした。だからこそ、パウロはその道がどんなに恥と苦しみに満ちていても、御座に続く十字架の道を、自ら選びとったのです。この道は、パウロにとって、決して気楽な散歩道ではありませんでした。それまで、彼はいろいろなことで苦労しましたし、悩みましたし、けれども、だからこそパウロは、その道がどんなに、恥と苦しみに満ちていても、御座に続く十字架の道を、自ら選び取りました。

この道はパウロにとって、今、話したように、気楽な散歩道ではなかった。彼は、主に従おう、自分は別にどうでもいいという態度を取ったのです。パウロにとって栄光への道は孤独の道でした。なぜなら、小羊である主の行く道は、恥とそしりの道です。けど、恥とそしりに満ちたこの道の終わりは、栄光の御座の真ん中に続いているのです。けど、十字架に敵対して歩いている者は、これと反対の経験をするでしょう。彼らの歩いて行く道は、人の誉れと名声を求める道であり、彼らの求めている栄光は、やがて、恥とそしりに変えられることです。

ピリピ
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

十字架の道は、恥とそしりの道です。イエス様が裸にされ、十字架につけられた時、群衆はイエス様を指差し、「彼はわれわれと等しく人間ではないか、神の子だと言うのは偽りでないか」と、思う存分、誹り、侮りました。通りかかった者たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「神殿を打ち壊して、三日後に建てる者よ。もし神の子ならば自分を救え。そして、十字架から降りて来い。」民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるならば、自分自身を救うがよい」。兵卒どももイエスを罵り、「あなたがユダヤ人の王なら自分を救いなさい」。十字架にかけられた犯罪人の一人は、「あなたはキリストではないか、それなら自分を救い、また、われわれも救ってみよ」と、言ったのであります。

十字架の道は、恥とそしりの道です。イエス様は十字架の死に至るまで従順であられました。釘がイエス様を十字架につけたのではない、われわれ一人一人に対する測り知れない愛が、イエス様を十字架につけたのです。

私たちの近くに、真ん中におられるよみがえりのイエス様は、私たちが十字架の敵であるか、または、十字架をいとわず、恥も死もいとわず、すべてを主にささげているか、すべてをご存知です。私たちは、ピリピの兄弟姉妹たちのように、主の目に喜ばれる人々となっているのでしょうか。

ピリピ
2:25 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
2:26 彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。
2:27 ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。
2:28 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
2:29 ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。
2:30 なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。

パウロは、ピリピの教会に属するエパフロデトについて、こういうふうに書いたのです。このエパフロデトに対し、私の同労者、私の戦友、私の兄弟と呼びかけています。このエパフロデトとは、パウロと同じく、永遠に朽ちないひとつの目標を目ざして走る競技者でした。このひとつの目標を、心の眼で見た者は自分自身を顧みません。自我という足かせから、解放されています。

このピリピ書2章、21節と30節は、実に著しい対照を示しています。21節は、はかない人の名声を求めて走る者の姿が書かれています。

ピリピ
2:21 だれもみな(・・・・自分、自分・・・・)自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

30節には、朽ちることのない天の報いを求めて走る人の姿が書かれていますね。

ピリピ
2:30 彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。

パウロ自身、次のように言えました。よく引用されるすばらしい告白でもあり、証しでもあります。

使徒行伝
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

エパフロデトもパウロも、ただひとつの天の賞与を求めて走り続けました。

ピリピ
3:13 ・・・・ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

パウロは有能な主に仕えるしもべでした。もちろん、当時、認められた主のしもべだったのです。彼は名声も得たし、残る天の栄誉を目ざして走ることは、簡単なことだったと言う人もいるかもしれない。けど、エパフロデトを考えてみたい。彼は名もない、誰の目にも目立たない、当たり前の一人の信者にすぎなかったのです。しかし、主なる神の眼からは、パウロもエパフロデトも、同じく主に仕える者として見えたのです。問題は、私たちが何と何をやったかということではない。私たちがどれほど、主に忠実で従順であったかというだけなのではないでしょうか。

コロサイ
3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

そうしないと疲れてしまい、落ち込むようになり、喜びもないし、力もないということです。パウロの目ざした目的は何であったかと言いますと、それはイエス様を知る知識の絶大な価値でした。

ピリピ
3:8 私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

パウロは、このためにすべてのものを捨て去りました。パウロがここで言っている「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」は、イエス様について知る知識とは全く違います。それ以上にすぐれたものです。キリストについての知識は、集会に来たり、聖書研究会に出たり、本を読んだりすることにより、貯えることができます。パウロは、イエス様について知りたいとは言っていません。さらに勝るものを求めていました。すなわち、「私はキリストを得たい」と、彼は叫んだのです。これは何を意味しているのでしょうか。パウロはよみがえりの主のいのちを、自分のものとしたかったのです。

それでは、このよみがえりの力は、どうしたら自分のものにすることができるのでしょうか。それは、イエス様の苦難にあずかって、その主のさまに等しくなることによってのみ、自分のものとすることができます。私たちは、すべてを主にささげた献身者として、自分が持っている考え、意志、感情をすべて、主にささげ、また、自分の当然、持ってよいと思われる権利も、主にささげたいものです。

御座で主なる神の賞与を得る者は、聖書の知識が豊かな者ではありません。また、熱心に奉仕した者でもないでしょう。キリストの霊を豊かに内に宿している者が、イエス様の賞与を豊かに受けるのです。パウロは、ほんとうに刑務所の中で書きました。

ピリピ
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

パウロは、誰が何と言おうと、このただひとつの目標を目ざして走り抜こうと決心していました。パウロは、何としてもこの賞与を得たいと願いましたから、他の人の意見には眼もくれず、走っていました。

ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

パウロには、敵も多かったでしょう。パウロを批判し、小さいことを大げさに話し、『あなたがそのようなことをすれば信者は割れる。離れる者もいるかもしれない。あなたは霊的な高ぶりを持っているのではないか。他の信者に命令する者となりたいと思っているの?もっと簡単な福音だけを伝えたらいいだろう。そのような霊的な真理を語ると、かえって信者の頭はごちゃごちゃになる』などと、言う人々も必ずいました。このようにパウロは誤解されましたが、これはパウロの十字架の道でした。

パウロは、別に人と違った信者になりたいとは、思っていませんでした。パウロがただひとつ、願っていたのは、すべての主にある兄弟姉妹が、主の目的を見、光栄に満ちたこの賞与を目ざして、ひたすらに走ることだけでした。パウロはイエス様とともにすべての聖徒がひとところにとどまらず、御座にまで行き着くことができるようにとの重い重荷を担ったのです。

普通の競争は、何とかして自分だけが早く走り、他の人は遅くなるように心がけます。けど、御座に向かって走る兄弟姉妹の競争は、全くこれと反対です。己(おのれ)をむなしくし、他の人々を顧み、助け、仕えて行く者がいちばん早く御座に達することができるのです。

パウロはなぜ、細かいことまで聖書に書き残して注意しているのでしょうか。主にあるすべての者が御子イエス様の御姿に変えられ、イエス様の御座に達する者となることができるように、パウロは細心の注意を払っていたのです。私たちも同じ心構えを持つようになれば、ほんとうにありがたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿