2013年10月22日火曜日

もうちょっと(三)

もうちょっと(三)
2013年10月22日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

今日は、ゆっくり話すつもりはない。あまり、時間がないからです。すぐ、高知まで行かなければならない。このあいだ、奄美大島に行きましたし、沖縄にも行きましたし、いつも言いますけど、いろいろなことを経験してしまった。ひとつだけ経験していない。タイクツ。退屈とは何だろう?さっぱり解かりません。これも祝福かもしれない。


今度は、タケモト・マサオ兄弟の葬儀なんです。このあいだ、別の姉妹の葬儀のために、高知まで行きましたけど、ついでではなくて、メインなのは、このマサオ兄弟とどうしても会いたかった。末期のガンとわかったし、そしてずっと痛かったんですね。私もガンなんですけど、ぜんぜん痛くない。そうすれば知らん顔してもいいでしょうけども、マサオの場合はやっぱり、ずっと最後まで苦しかったそうです。葬儀も、主が祝福することができるようにぜひ、おぼえてください。

今日のテーマは、「もうちょっと」というテーマでございます。もうちょっと。イエス様を知るようになった人々は、輝くすばらしい将来を持つ者です。イエス様は、彼らにとって、道であり、真理であり、また、いのちであるからです。イエス様なしの将来は、確かに真っ暗やみです。

イエス様を知るようになった者は、喜ぶことができます。なぜなら、彼らは確信するからです。すなわち、もうちょっとでイエス様はおいでになります。そして、今日かもしれない・・・・と考えると、嬉しくなります。どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、私たちは希望を持っているし、安心して将来に向かうことができるのです。確かに聖書は、将来のことについて、いろいろなことを言っています。イエス様は、末の世について言われました。

ルカ
23:30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。

この箇所を読むと、将来は確かにばら色ではない。山に向かって、丘に向かって祈る人は、本当に愚か者、そのものです。

黙示録
6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
6:16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
6:17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

イエス様は、はっきり約束してくださいました。すなわち、わたしは、また、迎えに来ます。今度は、十字架の上で死ぬためではなく、わたしに属する人々を迎えに来るためです。このいわゆる空中再臨のとき、主の恵みによって救われた人々は、瞬間的に見えなくなります。死を見ないで、そのまま、よみがえりの体を持つようになります。イエス様といっしょになるのです。

それだけではなく、その瞬間、いわゆる恵みのときも終わります。その後のことについて、前に読みました聖書の箇所によると、多くの人々が急に祈るようになります。助けを求めるようになります。普通の祈り会には、そんなに多くの人は来ません。けど、ここにおいて、たいへん多くの人々が来ています。ここには、七つの異なったグループの人々があげられています。七という数字は完全の数字であります。ということは、小羊の救いを拒んだすべての人が、ここに来ている・・・・ということになります。

恐怖が彼らをひとつにしたのです。したがって、もっとも強い者も、力を失ってしまうのです。主なる神の提供された救いを拒んだ、思い上がった人々は、モグラのように洞穴の中に隠れようとしています。けれども、これらの人々は、落ちかかってくる原子爆弾から私たちを守れと言うのではなくて、御座にいる方から、また、小羊、主なる神の小羊の怒りから守ってくれと叫んでいます。これらの人々は、原子爆弾や人間の前に隠れているのではなくして、小羊である主イエス様の怒りの前に隠れようとしているのです。ちょっとだけ三つの点について、簡単に考えましょう。

第一番目、いつ彼らは祈っているのでしょうか。第二番目、誰に向かって祈るのでしょうか。そして、三番目、何を祈っているのでしょうか。

いつ、彼らが祈っているのでしょうか。この祈りの時は、怒りと裁きの時です。すなわち、彼らの祈りは、すでに遅すぎます。今は、なお恵みの時です。今日なお、罪を悔い改めて、イエス様のもとに来る者は、罪の赦しを受け、永遠のいのちと平安を得ることができます。

聖書においては、父なる神の怒りについては、多くのことを学ぶことができますけど、小羊の怒りについては、あまり多くのことを知ることができません。小羊の怒りということは、完全なる破壊を意味します。その愛から、いのちを与えられたお方が、今、怒っておられます。

もしも、主なる神の怒りを、私たちのために、代わりに受けてくださったそのお方が、怒れるときに、いったい誰がこれに耐えることができるのでしょうか。もし、そうであれば、すっかりダメです。小羊が怒られる時には、もはや救いがないからです。

ちょうど逆のことを私たちは、ローマ書、八章において見ることができるのではないかと思います。

ローマ
8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

イエス様が、我々の味方であれば、誰も私たちの敵となることができません。しかし、イエス様が我々の敵となるならば、誰が救いを与え、癒すことができるのでしょうか。小羊が怒られる時には、すべてがおしまいです。

二番目の質問は、誰に対して、大勢の人々が祈っているのでしょうか。山と岩に向かって、彼らは祈っています。これは、まったく空しい祈りです。イエス様の御名を呼び求める者が救われます。ただ、神の救い主のもとにのみ、救いがあるからです。イエス様は、聖書において、「岩」そのものと呼ばれています。今日もなお、イエス様に自分の支配権を委ねる人は、揺るがない永遠の岩の上に守られるのであります。けども、この人たちは山、また、岩に向かって熱心に祈りますが、けどもそれは、全く意味の無い無駄なことです。

ちょうど、はじめの人間であるアダムやエバが主の前から逃げようとした時のように、恐怖と不安とが、これらの人々を捕らえているのです。罪と良心の呵責とが、人間を主なる神の前から逃れさせるのです。罪が、人間を臆病者に、そして、神の前から逃げる者にさせるのです。もしかすると、今日、来られた方々の中にも、主なる神の前から逃げている人もいるかもしれない。そのようなことを止めて、悔い改めて、イエス様のもとに帰ってください。イエス様こそが本当の逃れ場、逃げ場、そのものです。イエス様は待っておられます。受け入れ、赦そうとされたいと望んでおられます。

三番目の質問は、将来、おおぜいの人々は、何を祈っているのでしょうか。「我々の上におしかかれ、私たちをかくまってくれ」と、祈っています。これらの人々は、主なる神の前に出るよりも、死のほうを望んでいます。彼らは、かつて、自分の罪を認めようとしなかったのです。そして、小羊の提供された救いを受け入れようともしなかったのです。そして、今、小羊の怒りから逃れようとしています。けど、裁きと小羊の怒りとから、誰も逃げることはできません。

ヘブル
9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。

神の裁きと小羊の怒りとは、恐ろしい恐るべき事実です。誰がそれに耐えられるでしょうかと、将来の人々が叫ぶのです。しかし、これは心からの問いかけではなくして、単なる恐れから出た叫びにすぎません。誰も主なる神の裁きに入るときには、その裁きがどのようになるのかという疑問は持っていないのです。なぜならば、小羊の裁きが正しいことは、すべての人が知っているからです。

最後に、短く三つの質問を考えてみたいと思います。

第一番目、私たちは、いつ祈るのでしょうか。今、恵みと受け入れられるときに祈るのでしょうか。それとも、恵みのときが過ぎ去り、すべてのものが揺り動かされるときに祈るのでしょうか。イザヤ五十五章を見ると、次のようなすばらしいことばが書かれてます。

イザヤ
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

二番目、誰に向かって祈るのでしょうか。生きるまことの神に向かって、イエス様を通して、永遠の救いを提供しておられる主に向かって祈るのでしょうか、それとも、後の日に、岩や山に向かって祈るのでしょうか。

三番目、何を祈るのでしょうか。一時的なあなたの守りについて、祈るのでしょう。それとも、あなたの不滅の魂のために祈るのでしょうか。永遠のいのちのために祈るのでしょうか。今のときに、「罪人の私をあわれんでください」と祈るのでしょうか。もっとも大切な祈りとは、それでしょう。「罪人の私をあわれんでください。」

その人の罪が主の流された血によって、おおわれている人だけが、その日には守られるのです。詩篇三十二篇はダビデの祈りのことばですけど、次のように書かれていますね。

詩篇
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

イエス様は、今の時代には、なお救い主でありますが、しかし、裁きの日には、救い主ではなくて、裁き主となります。我々の生活の基礎は、いったい何なのでしょうか。その基礎がイエス様にある人は幸せです。今日もなお、永遠の愛を持つお方の声が聞こえてきます。

詩篇
2:12 御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。

イエス様を信じる兄弟姉妹にとって、来るべき真っ暗な裁きの日に対して、二つのことが言えるのです。すなわち、私たちにとっては、まず、まだ救われていない知り合いの人々のために、絶え間なく祈るということ。そして、その次に、それらの方々を、イエス様の御許に連れてくるために、愛の労苦をするということこそ、要求されています。

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