2013年10月27日日曜日

キリストには代えられません

キリストには代えられません
2013年10月27日、町田よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

ルカ
13:10 イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
13:11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
13:12 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、
13:13 手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
13:14 すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」
13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。
13:16 この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
13:17 こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。

今、読んできてくださった箇所を見ると分かります。このイエス様の恵みによって、いっぺんに解放され、癒された女の証しとは、いったいどういうものでしょう。ひと言葉で言いますと、「キリストには代えられません」ということに違いない。ダビデも3000年前に、救いを経験して、次のように言いました。


詩篇
118:14 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

こういうふうに言える人は、本当に幸せなのではないでしょうか。イザヤも2700年前に、同じように救い主を知るようになりました。

イザヤ
12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

救いとは、ものではなく、主御自身です。医者であるルカは、その当時、まだ一般には、大切にされていなかった女性たちの世界に注意を払いました。健康な婦人でさえ、男の人の半分以下くらいしか語られなかったことを考えれば、不治の病いにかかっている女性の状態が、どのように惨めなものであったか、想像がつくことでしょう。もう18年も、その女の人は病いの霊に憑かれ、腰が曲がって、全然、伸ばすことができませんでした。疑いもなく、彼女は長い間、薬の助けを求めたはずです。彼女は、医者から医者へと渡り歩いたでしょう。けど、状態はますます酷くなる一方でした。その状態は、癒しと大いなる解放の日が来るまで続きました。けど、イエス様を通して、彼女は一瞬にして癒され、解放されました。イエス様は、この婦人に向かって、『あなたが長年の束縛から解放されることは、待つことができない程、最高にすばらしい時ではありませんか』と、おっしゃったことでしょう。18年のあいだ、病気でした。18年のあいだ、惨めで救いのない状態でした。18年のあいだ、人殺しの悪魔によって束縛されていました。

この婦人は外面的にも、内面的にも、健康となるべきであり、自由の身となるべきでした。悪魔は、もはや、これ以上長く勝利をおさめることは、許されないはずです。この問い、すなわち、『あなたにとって、束縛されて、悪魔の支配下に置かれている状態から解かれて、解放されることは、最高のときではないでしょうか』という問いは、我々にも当てはまるのではないでしょうか。私たちは、さらに束縛された者として留まりたいのでしょうか。私たちの信仰生活は、さらに霊的に見た場合、依然として失敗であるべきなのでしょうか。救われる時、罪の債務の赦しをイエス様の御手から受けとる時は、もちろん、明日ではないし、再来週でもないし、今日です。今です。

けれども、すべての信者にとっても、イエス様によって解放していただき、自由になる時も、今です。しかも、今日です。大いなる解放者であるイエス様は、あらゆる束縛から解き放ち、あらゆる惨めさから解放してくれます。イエス様は、溢れるばかりの喜びを与えてくれます。私たちには、生ける主なる神、奇蹟を行う主が賞賛され、栄光をお受けになるために、真実をもって貢献するために、溢れるばかりの祝福が我々のために用意されています。

イエス様を受け入れた人々は、自分の名前が小羊の書、すなわち、いのちの書に記されていること、そして、イエス様の贖い(あがない)のみわざに基づいて、自分たちが義とされていることを、確信しています。けれども、至るところに、精神的な病人、病いの霊に憑かれている信者がいます。その人たちの状態は、勝利と敗北の繰り返しです。確かに、彼らは罪が赦されいることを証しします。けれども、日常生活においては、何ひとつ勝利について知りません。彼らは、罪の債務から解放されていることを知っています。しかし、罪の力から解放されることについては、何ひとつ知りません。このような状態が、多くの人々の場合、もう何年も続いていると言うことは、悲劇なのではないでしょうか。

主は、本当に解放できるのでしょうか。このことについては、なんの疑いもありません。しかし、私たちは、なんとしばしば、罪、自我、悪魔によって束縛されていることではないでしょうか。多くの信者が、不親切で、ねたみ深く、訓練されておらず、自己中心で不誠実であり、疑いと恐れと不安によって束縛され、イエス様のために奉仕する自由がないと言う状態の原因はなんでしょうか。

悪魔によって束縛されているのではないでしょうか。イエス様は本当に自由にすることができるのでしょうか。あらゆる束縛から解き放つ主の力は、十分なのでしょうか。慢性的な束縛が存在します。そして、多くの人は、本当に自由になることができるという希望を放棄しました。私たちは、『主に栄光を帰することをしない』という習慣を持っているかもしれない。イエス様は、あらゆる壁を打ち壊し、束縛されている状態から解放することがおできになるのでしょうか。

ここに出てくる婦人の癒しは、我々の主は、おできになるということの証明です。また、私たちは、ここで主が、どのようにして、癒しと解放をお与えになったかをも、知ることができます。ルカは、イエス様がどのようにして、安息日に会堂で福音を宣べ伝え、この病いの女から目を離さなかったかを述べています。しかし、イエス様は、ただ単に、この女性の惨めさと希望のない状態だけをご覧になっただけではない。

イエス様は、この女をみもとに呼び寄せたとあります。これは、常に主の方法でしょう。主は、いかなる倫理学をも与えず、また、人間がいかに自分の力でゆっくりと自分を解放すべきであるとかという処方箋をも、何jひとつお与えになりません。イエス様は、みもとに呼び寄せるのです。おいで。疲れているから、さみしいから、困っているから、私のところに来なさい。私のところに来るものを、私は決して捨てません。

イエス様は我々をもご覧になります。イエス様は、私たちに何が欠けているかを、もちろんご存知です。また、イエス様は、隠された罪をもご存知です。どんなちっぽけな不真実、不純、愛のない状態をもご存知です。しかし、イエス様は、我々の悩みと本当の姿をご覧になるだけではありません。イエス様は、呼びかけて、呼んでおられます。ひとりひとりを待っておられます。

イエス様は、私たちが、逃げることをやめるまで、待っておられます。私たちがもはや隠したり、言いつくろったりしたいと思わないようになるまで、待っておられます。イエス様は、私たちがそのままの状態で、主のみもとに来るのを待っておられるのです。イエス様のみもとに来る人々は、救いと解放を経験します。誰でも、イエス様の大いなる解放を経験すべきです。

それでは、これから、とくに、二つの点について一緒に考えてみたいと思います。第一は、婦人が置かれていた絶望的な状態。第二は、婦人が解放を経験した道についてです。

まず、第一に、この婦人の絶望的な状態を、私たちはほとんど想像することができません。確かに彼女は、会堂の中で、もっとも、かわいそうな人でした。今日(こんにち)も、礼拝や学び会に来る時、内面的に打ちのめされている信者がいます。なぜなら、その人たちの日常生活は失敗であり、主の栄光を現すのに役に立たないからです。この婦人も、そういう気持ちを持っていたのではないでしょうか。彼女は、ただ単に、外面的に腰が曲がって、伸ばすことができなかっただけではなくて、内面的にも治る希望がぜんぜんなかったのです。ですから、惨めな気持ちになり、喜びも力もなかったのです。けども、イエス様は、彼女をご覧になりました。

ルカ
13:11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。

13:16 この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。

ここでは、この婦人について、5つのことが述べられていますね。すなわち、第一番目、彼女は、アブラハムの娘でありました。二番目、彼女は、病いの霊、弱さの霊を持っていました。三番目、彼女は、この状態で、すでに18年も経っていました。四番目、彼女は、自分で自分を治すことが、ぜんぜんできなかったのです。そして、五番目、彼女は、解放されることを、もちろん、切に望んでいました。

まず、第一に、アブラハムの娘と言うのは、彼女が神の民に属してること、したがって、主を信じた者であったことを意味しています。

彼女は、自分の運命によっても、心をかたくなにせず、信じる者の交わりを求めたのです。彼女は、主の言葉だけが、慰めを与え、希望を与えてくれることを知っていました。ですから、彼女は会堂に行ったのです。というのは、ただただ、そこだけが主の御言葉を聞くことができるところだったからです。

今日(こんにち)も、忠実に集会に来ている信者がいます。しかし、その方々は、来た時と同じ状態で、すなわち、何ひとつ変わらず、悲しんで、内面的に病気で帰ってゆきます。主を信じながら、束縛されています。そして、こう言うことはあり得ることです。我々の生活の中で、いったい何が推進力なのでしょうか。我々を動かし、支配しているものは、いったい何なのでしょうか。このことを静かに、考えるべきなのではないでしょうか。

二番目、この婦人は、病いの霊、弱さの霊を持っていました。彼女は、腰が曲がっていました。そして、聖書は、それが、普通の体の病気ではなく、悪魔のしわざであったと言っています。

悪魔が彼女を束縛していたのです。彼女は、悪魔によって支配されるようになり、束縛されてしまいました。もちろん美しさとか優雅さとかは、すべて無くなっていました。確かに彼女は、腰が曲がっていましたので、人は彼女の顔を見ることはできませんでしたし、たとえ、見ることができたとしても、あまりにも深い悲しみの表情に驚いたに違いない。彼女は、腰が曲がっていましたので、実際には、地面と自分だけしか見ることができませんでした。あらゆる自己中心、自己追求の信者のひとつの姿が、そこにありました。

自分自身のことだけしか考えない人は、霊的なカタワとなります。私たちの最大の敵は、尊敬されたいと思う自我です。この婦人は、18年の間、自分の体の状態のことばかりを考えて、思い煩い、自由で健康になる道はあるのだろうかと、自問していました。多くの信者は、自分の霊的な状態について問います。すなわち、どうしたら、自由になり、霊的に健康になるのかということ、これです。

三番目、彼女は、この状態ですでに18年も経っていました。18年前に、彼女は、悪魔の攻撃の的になったのです。彼女は、悪魔に負けて、それ以来、悪魔の力と独裁のもとに置かれていました。しかも、18年間です。我々は、自分の状態のことで、もうどうにもならないと見放してしまっているかもしれない。それだけではなく、他の人々についても、どうすることもできないと思ってるかもしれない。

けど、私たちは、自分の状態について、よく考えるべきなのではないでしょうか。18年間、私たちは怒りやすかった。そして、今日(こんにち)、大してよくなっていない。18年間、私たちは信頼できなかった。そして、今日、大して変わっていない。18年間、私たちは不信感を持って、批判的でした。そして、今日も状態は、大してよくなっていない。18年間、私と一緒に生活することは難しかった。そして、今日も状態は、大してよくなっていない。18年間、私たちは密かな罪を犯してきました。そして、今日も状態は、大してよくなっていない。

勝利の人生には、決して到達しませんでした。我々の自我は、主の働きに逆らいました。自己否定が少なければ、主のいのちも、ほんの少ししか現れません。十字架の道から外れてしまうと、よみがえりの力を経験することは、ほとんどありません。

四番目、彼女は、(体を)まっすぐにしたり、自分自身を解放したりすることは、ぜんぜんできなかったのです。疑いもなく、まっすぐに行くことができると言うことは、彼女の切なる願いでした。けど、あらゆる試みは失敗しました。あらゆる試みの際に、自分の無力さが現れました。実際、どうすることもできなかったのです。

確かに私たちも、また、御心にかなう生活をしたいと試み、何度も失敗したのではないでしょうか。また、私たちはイエス様にいろいろな約束をしました。しかし、何度も同じ罪を犯してしまいました。人は罪を犯し、赦してもらえます。そしてまた、人は罪を犯し、もう一度、赦してもらいます。たえず、上がったり、下がったりしているのです。

五番目、彼女は、解放されることを、もちろん、切に望みました。それが、彼女の願いであったと言うことを、私たちは、なぜ知ってるのでしょうか。なぜならば、彼女は、イエス様が彼女をお呼びになった時に、瞬間的に、反応して、応えたからです。自由になる。そのことは、彼女の心からの叫びでした。

私たちは、誰でも、本当に自由でありたいという切なる願いを持っています。悪魔に縛られている者は、決して、決して幸せではありません。けど、どうすれば、解放されるのでしょうか。どうすれば、私たちは、イエス様の大いなる解放を経験できるのでしょうか。この婦人の癒しは、この問いに対する答えを与えてくれます。

ここで私たちは、次の第二番目の点を考えてみることにしましょう。すなわち、解放が経験される道についてです。

ここでは、いろいろなことが、ルカによって、正確に書き記されています。私たちは、イエス様がどのような力で、この束縛された婦人を解放したか、そして、また、完全な解放という奇蹟を、どのように行ったかということを、知ることができるのです。

ここでも、また、私たちは5つの事柄を考えてみたいと思います。第一に、彼女は、主イエス様のみもとに来ました。確かに、彼女はイエス様の足下にひれ伏しました。第二に、彼女は、主の声、すなわち、全く大いなる力の言葉を聞きました。第三に、彼女は、イエス様の御手を感じ、それによって、イエス様が何かをなそうとしておられることを知りました。第四に、彼女は、創造的な力、創造的な行いとして、主の力を経験したのです。そして、五番目、彼女は、主をあがめました。心から礼拝したということです。

第一に、イエス様が彼女をご覧になった時、彼女を呼び寄せました。彼女が、イエス様の声を聞いたとき、彼女は、引かれるように、主のところに行きました。イエス様は、彼女に対して、無関心ではなかったのです。イエス様がお呼びになる時には、いつも、はっきりとした目標があります。イエス様は、人間が心を開いて、イエス様のところに来ることを望んでおられます。

そして、この婦人は、このことを行いました。彼女は、イエス様のところへ行き、足下にひれ伏した。期待に満ちて、希望に満ちて、信仰に満ちて、そうしたのです。疑いもなく、この瞬間に全く、静けさが辺りを支配しました。すべての目は、イエス様に向けられました。イエス様は、何をするのでしょう。イエス様はどのようにして、ご栄光を現すのでしょうか。イエス様はどのようにして、この婦人の信仰に報いるのでしょうか。

人間が腰が曲がっていて、悪魔に束縛されていながら、イエス様の声を聞き、主の、「私のところに来なさい」と言う招きに従うとき、大いなることが起ります。なんと多くの人々が、罪によって、債務によって、不安によって、疑いによって、内面的に重い気持ちになっています。けど、イエス様が呼んでおられるとは、なんというすばらしい事実でありましょうか。イエス様がこの婦人を呼んだとき、すべての目は、彼女の上に向けられたに違いない。彼女は、何をするのでしょうか。彼女は、依然として、群衆の中でもぐっていようとは、思いませんでした。彼女は、イエス様のところ行くために、前へ出て行く決心をしました。彼女は、ただ単にイエス様のところへ行く決心をしただけではなくて、実際に行き、主の足下にひれ伏しました。

私たちの悩みがたとえ、どのようなものであろうとも、イエス様のところに行きましょう。たとえ、何が自分を束縛し、捕らえていようとも、イエス様のところに行きましょう。主イエス様のところには、助けがあり、主は解放し、あがなってくれます。イエス様の足下にひれ伏す者は、もはや、自分を大切にせず、目立ちたがらず、役割を演じたいとも思いません。イエス様の足下にひれ伏す者は、徹底的に打ち砕かれ、すべてを光の中に出す備えができています。イエス様の足下にひれ伏す者は、主の約束の真理を経験します。すなわち、へりくだった者に、恵みが与えられるのです。

第二に、この婦人は、主の声を聞きました。全く偉大な力の言葉でした。「あなたの病気はいやされました」と、イエス様は言われました。この婦人が、イエス様のこの言葉を聞いた時、『主は私を解放したいと望んでおられ、それがおできになる』と言うことを彼女は知り、確信したのです。

けども、イエス様はただ単に、この婦人を解放したいと思っただけではなく、主の働きの妨げとなっている、あらゆる束縛から、私たちをも自由にしたいと望んでおられます。いったい、どうして私たちはそのことを知ることができるのでしょうか。なぜならば、私たち主の言葉の中に、そのためのはっきりとした言い表しを持っているから、知ることができます。そして、また、主の恵みが、すべての罪の力よりも偉大で、あらゆる罪から洗い清める主の血潮が流されたからです。3つの言葉を引用します。

マタイ
1:21 この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

イエス様がお生まれになる前の御使いのことばです。

ローマ
8:37 私たちは・・・、圧倒的な勝利者となるのです。

イエス様は、私たちのために死んでくださり、私たちのために甦られ、私たちのために全能なる神の右に高く上げられました。それは、私たちが、我々を愛しておられる主によって、圧倒的な勝利者となるためです。

ヘブル
7:25 (主は)ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

これら3つの御言葉は、勝利の生活のために、贖われ、解放されることが可能であると言うことを私たちに約束してくれます。そして、まさにそのことを、この婦人が経験しました。彼女が主の足元にひれ伏した時、彼女は、「あなたの病気は癒されました」と、主の言葉を聞きました。それは、主が、罪はもはやあなたを支配しないとおっしゃったのと同じ意味を含んでいます。

ローマ
6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

あるいは、御子が自由にする者は、完全に自由です。私は、「あなたがたを完全に自由にします」と言う意味をも含んでいます。

ヨハネ
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

本当に自由であるということは、完全に自由であるということ、そして、罪の支配から解放されていることを意味します。イエス様は、この婦人に、まことの解放を約束してくださいました。

私たちは、今までに次のことを見てきました。すなわち、まず第一に、この婦人は、イエス様のところに来て、イエス様の足下にひれ伏し、それから、第二に、この婦人は、あなたの病気は癒されたと言う全く偉大な力のことばである主の声を聞きました。

そして、第三に、彼女は、主の手を感じました。前に読んだ箇所、13節、主が『手を置かれた』と、書いてあります。

イエス様が彼女に触った時、彼女は主のいのち、主の力の何かを感じました。すなわち、彼女は、そのことによって自由になりました。イエス様が我々の上に手を置かれると、私たちもまた、自由になり、もはや、前とは同じ人間ではなくなります。イエス様の御手が、らい病人に触った時、そのらい病人は、らい病から解放されました。イエス様の御手がツンボに触った時、彼は聞くことができるようになりました。イエス様の御手が盲人に触った時に、その盲人は見えるようになりました。イエス様と接触する者は、イエス様があらゆる束縛と情欲から、完全に解放してくださることを経験します。

私たちはしばしば、集会の中で、イエス様がいかに人の心を作り変えて、新しくするかを経験します。なんの逃れ路(のがれみち)をも見出すことができなかった人々が、今日、生き生きとした希望で満たされています。以前はただ、自分のことしか考えなかった人々が今日、『イエス様のために生きたい』というただひとつの切なる願いを持っています。乱れた金の中に生活していた人が、今日、主の恵みの偉大さを示す者となっています。イエス様によって触られるということは、なんと大いなることでしょうか。イエス様は全く新しいものが創造されるため、生活の中に全く新しい変化が生じるようにと、我々にも接触したいと願っておられます。

第四番目に、その婦人は創造的な行いとして、主の力を経験しました。『主が手を置かれると、女はたちどころに、腰が伸びました』とあります。我々の主が行うことは、創造的な行いです。イエス様が命令すると、すぐにその通りになります。

詩篇
33:9 まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

天地を創造された主、我々の体をもお造りになった主、その主が彼女の上に御手を置かれると、大いなることが起ったのです。詩篇の作者であるダビデも次のように書いたことがあります。

詩篇
146:8 主はかがんでいる者を起こされる。

悪魔によって束縛され、腰が曲がり、まっすぐになることが、全然できなかった婦人が、まっすぐになったと聖書は言っています。今日、最も必要とされ、第一に求められている人は、まっすぐな人、純粋で誠実で正直な人です。そして、光の中を歩み、透き通っていて、その動機が純粋な人が求められています。腰の曲がった人がまっすぐになりました。彼女は、自分ではまっすぐにできませんでした。それは、全く不可能でした。それは、ちょうど私たちもまた、自分の力では、イエス様に似た生活をすることが、絶対にできないのと同じように、全く不可能だったのです。それは、主がなさること、主のいのちの働き以外の何ものでもありません。

最後に五番目、主の行いを経験する者は、礼拝せざるを得ません。彼女は、まっすぐになり、神を誉めたたえましたと書いてあります。悪魔に束縛され、自分の情欲に縛られている人は、決して、主を崇めることはできません。暗闇の中の人生は、決して主の栄光のために役に立ちません。自己中心の生活は、主の御名を汚します。主が手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめました。我々もまた、このすばらしい解放、すなわち、この婦人が経験することを許された解放を経験しようではないでしょうか。

主の大いなる解放を経験することは可能です。というのは、主は、昨日も今日も、いつまでも変わらないお方であるからです。奇蹟を行いたもう我々の主は、我々のすべての生活の中で、主が悪魔に束縛されていた婦人に行ったことを、今もなお行うことができるということを待っておられます。

私たちは、主の御声に耳を傾ける備えができているのでしょうか。私たちは、主の御手にさわっていただく備えができているのでしょうか。私たちは、あらゆる悩みをもって、主のみもとに行く備えを持っているのでしょうか。その時、主は必ず、応えてくださいます。私たちは、主の創造的な行いを経験し、自由になり、本当に解放されます。私たちはもはや、罪に仕える必要はありません。私たちはもはや、自分の自我の奴隷になっている必要はない。私たちはもはや、悪魔の奴隷になっている必要もないし、私たちは、ありのままの状態で、イエス様のところに行き、主の足元にひれ伏し、主に心を打ち明けることができれば、本当にさいわいです。

最後に、ダビデの祈りを紹介します。非常に、我々も毎日、祈るべき祈りなのではないでしょうか。

詩篇
139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

私たちは、私たちに語られた主の御言葉により頼み、私たちのために刺し通された主の御手を感じ、これ以上、悪魔の奴隷でありたくはないと、切に望むことができれば、本当にさいわいです。私たちは、いのちを与える主の御言葉の力を、経験したいものです。私たちが、霊とまことをもって、真心から主を礼拝できるためです。しかも、我々の主は奇蹟をおこなった、私たちは解放されているという言い表しをともないます。今こそ、私たちが、主にこの奇蹟を願い求める時なのではないでしょうか。


おわり

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