2013年10月15日火曜日

もうちょっと(二)

もうちょっと(二)
2013年10月15日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
3:1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、
3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、
3:3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。
3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。
3:5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。
3:6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。
3:7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。
3:8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。
3:9 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。
3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。
3:11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。
3:12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。
3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。

今日は引き続いて、テサロニケ第一の手紙について、ちょっと考えたいと思います。手紙の内容は、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。」「キリストも多くの人の罪のために、一度、ご自身を捧げられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」


いつになるかわからない。困ちゃうけど、必ず来られます。今日の集会の途中で来られるかもしれない。その時、主の恵みを経験した人々は、いっぺんに姿を消して、天国に行くようになる。もしかするとその時、残る人がいるかもしれない。いや、寂しくなる。『やはり私の考え方は間違っている。イエス様のためよりも、自分のことを大切にして・・・・』と思うようになります。

ですから、今日のテーマは、「もうちょっと」にしましょうか。イエス様を知るようになった人々は、輝くすばらしい将来を持つ者です。イエス様は、彼らにとって道であり、真理であり、また、いのちであるからです。イエス様なしの将来は、本当に考えられないもので、真っ暗闇です。なぜならば、救われたという確信がないからです。

もうちょっとで、イエス様はおいでになります。今日かもしれない・・・・と考えると、喜ぶようになる人がいますし、ある人は、ちょっと困ると思うかもしれない。どういう状況に置かれていても、どういう問題があっても、私たちは希望を持つことができ、したがって、将来に向かうことができるのです。

この第一の手紙の一章を見ると、テサロニケという当時の有名な町に住んでいた人々は、最初から、すばらしい出発をしたことがわかります。このテサロニケにいる人々は、十字架につけられ、よみがえったイエス様の福音を聞いた時、うれしくなりました。解放されるようになりました。

第一テサロニケ
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ(・・・・分かったのではない・・・・)、私たちと主とにならう者になりました。

八節にも同じようなことが書かれていますね。

第一テサロニケ
1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。

こういうふうに、パウロは言えたのです。パウロの初めて書いた手紙は、おそらく、このテサロニケ第一の手紙でした。テサロニケの兄弟姉妹は、みことばを単に頭で理解したというよりも、みことばを聞いた時、素直になり、信じて、霊の糧として食べたのです。みことばを、本当に自分のものとして受け入れ、従順に味わった時にのみ、イエス様の大いなる力が働くことができます。(第一テサロニケ)一章の内容はそうなんです。

二章によると、パウロと同労者たちの働きが、本当に真実なものであったがゆえに、空しく終わらなかったということです。テサロニケの兄弟姉妹は、マケドニアとアカヤとにいる信者たち全体の模範となり、光となったのです。けれども、そのようなすばらしい出発をしただけでなく、それから先の成長のことをも、おろそかにしてはなりません。

子供が生まれると、誰にとっても大きな喜びでしょうが、けど、生まれてからその子供は、成長、発育をせずに、いつまでも同じような状態に留まってしまうなら、それは、親にとって喜びではなく、悲しみになってしまいます。

それと同じように、どうしようもない者として、悩む者として、イエス様を救い主として受け入れ、新しく生まれ変わるということは、この世において、もっともすばらしい出来事にちがいない。けど、主なる神の子とされた者が、やがて、妥協してしまい、悪魔の罠に落ち込んでしまうとしたならば、それは、大きな悲しみになってしまいます。

もちろん、生まれることと出発とがなければ、成長があり得ないことは明らかです。多くの人々は、自分がイエス様を信じる者であると言いますけど、正しい出発がなければ、正しい成長もあり得ないことが、しばしば、ないがしろにされてしまっているのです。正しい出発がなされないと、元の状態に留まってしまうか、さらに悪い場合には、後戻りしてしまいます。さらに注意しなければならないことは、彼に正しい出発が成されたとしても、必ずしも正しい成長を意味するとは限らないでしょう。

テサロニケの兄弟姉妹の場合は、どうだったでしょう。その答えは、今読んでもらいました三章の中に与えられています。

ちょっと、七つの質問について考えたいと思います。第一番目、第三章には、何という表題をつけることがふさわしいでしょうか。二番目、信仰という言葉は、いったいどこに出てくるのでしょうか。第三番目、信仰とは、いったい何でしょうか。四番目、いかなる危険が信者の信仰生活を脅かすのでしょうか。五番目、パウロはいかにして、信者たちのために、信仰の危険を警告したのでしょうか。そして、六番目、パウロがこのテサロニケの人々について、いかなる情報を得ていたのでしょうか。そして、最後の七番目、信じる者のために、パウロは何を望んだのでしょうか。

第三章には、何という表題をつけることがふさわしいでしょうか。「良い進歩」、あるいは、「信仰によって」、また、「それにもかかわらず」、「吟味」、「苦しみを通しての祝福」などと、つけることができるのではないかと思います。

第三章は、次のように、三つに分けて考えることができます。

まず、奉仕における共同。一節、二節を見るとわかります。

第一テサロニケ
3:1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、
3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、・・・・

それから、第二番目は、そのあとの節ですね。三節から八節まで、何が書かれているかと言いますと、「奉仕における苦難と患難」についてであります。

第一テサロニケ
3:3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。

苦難に会うことは、どうしても必要である。

第一テサロニケ
3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。
3:5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。
3:6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。
3:7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。
3:8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。

そして、三番目の箇所は、九節から十三節でしょう。

第一テサロニケ
3:9 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。
3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。
3:11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。
3:12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。
3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。

二番目の質問は、信仰という言葉は、いったいどこに出てくるのでしょうか。

第一テサロニケ
3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、・・・・

3:5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。

ここにも、『信仰』ということばが出てきますね。

第一テサロニケ
3:6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。
3:7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。

『信仰』ということばがもう一度、出てきますね。

第一テサロニケ
3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。

イエス様を信じるということは、イエス様と結びついていることを意味します。それこそ、パウロが望んでいたことであり、テサロニケの兄弟姉妹が、イエス様と結びついていることこそ、パウロの心からの願い、また、祈りでした。パウロは、テモテからこの事実を聞いたとき、大いに慰められました。

この三章によって、パウロがいかにして、信じる者を主の御手の中に入れたかを、はっきりと見ることができます。さらに、主の御手にある兄弟姉妹が、主の導きによって祝福され、また、成長していることも解かりました。

第三の質問は、そもそも信仰とは、いったい何なのでしょうか。有名なヘブル書の中で、『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです』と、あります。

【参考】ヘブル
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

このみことばによると、信仰とは、二つの面を持っています。一番目、目に見えないものを見ることであり、二番目、勝利のことを知ることです。したがって、信仰のかわりに、確信とか、信頼とか、希望、あるいは、望みということばを用いてもよいでしょう。そして、実際には、まずイエス様と出会い、イエス様に信頼し、自分自身を主に明け渡すことを意味しています。まことの信仰の内容は、イエス様が十字架につけられ、よみがえられ、再び、来られるということです。

ペテロ、第一の手紙の中で、また、次のような箇所があります。ペテロは当時の信じる者に書いたのです。

第一ペテロ
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

テサロニケの兄弟姉妹に対して、パウロが抱いていた最大の関心事は、彼らがこの信仰を堅く守り続けるということでした。すなわち、彼らが、目には見えないけれども、必ず来られるイエス様を見上げ続け、どんなことがあっても、イエス様との生き生きとした交わりを持ち続けるということでした。そこで、パウロは、テサロニケの兄弟姉妹の信仰が、堅く立っているかどうかを知りたいと心から切に願っていたのですね。

第一テサロニケ
3:5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。

パウロは、テサロニケの兄弟姉妹は、もう絶対に大丈夫・・・・というような確信を持つことをせず、どうなっているか、絶えず心を配り、配慮していたのです。けども、パウロの信仰は、それらの不安や心配を克服しました。というのは、パウロが見ていたものは、彼らの弱さや問題などではなく、主の真実さ、主の恵みだけだったのです。

パウロは、大いなる愛を持って、彼らのために心を配ったため、アテネとコリントでテモテと一緒に働くことを断念し、テモテをテサロニケへと送ったのです。

第四の質問は、いかなる危険が、信じる者の信仰生活を脅かすのでしょうか。いろいろなことが、イエス様との交わりを駄目にする原因となりえました。

第一テサロニケ
3:3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。

このような苦難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますため、パウロは、同労者であるテモテを遣わしました。絶えず、イエス様を見上げることをしないと、イエス様を見失ってしまう危険性が大いにあるわけです。そして、イエス様を見失うと、信仰は弱くなりますが、いろいろな患難を通してそのような状態に陥ることは、まれではなく、イエス様にしっかりと結びつくことができなくなってしまうのです。

第一テサロニケ
3:5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。

パウロは、もしや、試みる者が、テサロニケにいる兄弟姉妹を試みはしないかと気遣ったのです。患難を通して、イエス様を見失ってしまうと、試みる者が入ってきて、私たちの信仰の土台を崩してしまうのです。また、イエス様を絶えず見上げていないと、私たちは、悪魔の手玉にされてしまうのです。

パウロが、心から、本当にテサロニケの兄弟姉妹のために、心を配っていたことは、次の節を通して知ることができます。

第一テサロニケ
3:1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、・・・・

3:5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。

テサロニケの兄弟姉妹が脅かされると、パウロと同労者も、同じように信仰が脅かされ、彼らが主にあって堅く立つならば、パウロたちも生きることになるからです。

第一テサロニケ
3:8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。

したがって、集会がダメになることは、パウロにとって、死を意味するに等しいことでした。したがって、彼らが、主にあって堅く立っていることを聞いた時、パウロは生き生きとした状態にあることができたのです。

他の兄弟姉妹が苦しんでいる時、私たちも同じように苦しみを感じているのでしょうか。どうでしょう。

カインは、かつて、主に向かって、「私は、弟の番人でしょうか」と言いました。今日でも、多くの人が、カインと同じような態度を取っているのではないでしょうか。この態度は、まさに、殺人犯の態度です。兄弟姉妹の誰かが罪を犯した時、それは自分には関係がない・・・・という態度を取るならば、それこそ、まさにカインと同じような態度に他なりません。

パウロは、テサロニケの信じる者と、しっかりと結びついて、ひとつになっており、もはや、離れることはできない状態になっていました。そのために、彼らが主イエスにあって、固く立っているときは、パウロの信仰も、喜びで生き生きとしており、彼らの信仰が揺れ動いて、動揺しているときは、パウロも同じように痛みを感じました。

第五番目の質問は、パウロは、いかにして、信じる者のために、信仰の危険を警告したのでしょうか。

第一テサロニケ
3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。

やがて患難にあうことを、あらかじめ予言しておいたことがわかります。パウロは必ず、イエス様に従うことが、十字架を背負うことを意味し、いろいろな患難や苦しみに遭遇するはずであると言ったのであります。けれど、ただ単に警告しただけでなく、なぜ患難にあわなければならないかについても語っています。

その第一の理由は、信じる者がこの世にあっては、いわば、異分子のような者であり、居留者、また、旅人であるため、思いはこの世ではなく、天国にあるため、妥協しなければ、必ず患難が伴なわざるを得ないということです。

第二に、患難によってのみ、我々の信仰は清められ、強められるということです。たとえば、金は千度の熱さで鍛えられます。そして、信仰は聖書の中で、金にたとえられています。

第一ペテロ
1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

患難がなければ、我々の信仰は鍛えられず、したがって、成長しないのです。それですから、パウロは患難をも喜んでいると証しすることができました。パウロは、信じる者の信仰を強め、励ましました。

第一テサロニケ
3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、・・・・

3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。

また、パウロは、彼らの信仰の足りないところを補いたいと願っていたのです。パウロは、決して、気休めの言葉や事実に反するようないい加減なことを言わず、信仰が成長するためには、どうしても多くの患難が必要であると言ったのです。

パウロの心からの願いは、信じる者の信仰が強められ、成長することでした。パウロの生活の特長は、自分自身を忘れ、信者の幸せを願うということでした。我々の場合はどうでしょうか。他の信者に対して、どのような態度を取っているのでしょうか。

第六番目の質問は、パウロは、このテサロニケの兄弟姉妹について、いかなる情報を得ていたのでしょうか。

第一テサロニケ
3:6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。

この節を見ると、テモテが良い知らせを持って来たことが解かります。

テモテは、テサロニケの兄弟姉妹の信仰と愛とについて知らせました。テモテは、テサロニケの兄弟姉妹が信仰によって、主イエス様としっかりと結びついていることを、自分の目で確かめたのです。彼らは、決して、宗教団体を形成していたのではなく、イエス様との生き生きとした交わりを持っていたのです。そして、自発的な交わりを形成させたものこそ、愛に他ならなかったのです。

第一テサロニケ
3:8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。

テサロニケの兄弟姉妹は、主にあって堅く立っていたのです。けど、今日、多くの信じる者は、堅く立っておらず、いつも動揺しているのです。しかし、堅く立つことは、決して、自分の力によるのではなく、主にあって、初めて実現されるのです。したがって、主にあって、堅く立つということは、自分自身の空しい努力を止めて、すべてをイエス様に委ね、明け渡すことによるのです。

パウロは、彼らの状態をつぶさに聞いて、そのために大喜びで感謝をしました。けども、パウロは、それで満足したとか、それで結構であるとかいうことはせず、さらに高い目標を見上げて、それを目指していたのです。確かに、新しいいのちを得るためには、多くの戦いが必要とされませんが、信者となってからの信仰の成長のためになされる戦いの方がはるかに大きく、また、激しいものです。パウロは、信者に対していかなる目標を望んでいるかということを、祈りの中で現しているのです。

第七番目の質問は、すなわち、信じる者のために、パウロは何を望んだのでしょうか。

第一テサロニケ
3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。

テサロニケの兄弟姉妹の信仰を完全なものとするために、彼らの信仰の足りないところを補うということこそが、パウロの願ったところでした。そのために、愛を増し加えて、豊かにしてくださるため、イエス様に祈ったのです。

第一テサロニケ
3:12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。

また、それと同時に、イエス様が彼らの心を強め、聖く、責められるところのない者としてくださるようにと、祈ったのです。そして、パウロは、そのために日夜、しきりに願い求め、祈り続けたのです。実際、パウロが、信者のためにどのようにして、どれほど配慮したかについては、ほとんど想像することはできません。すなわち、パウロは、自分自身の苦しみや問題など忘れて、他の信者のために、日夜、真剣に祈ったとあります。

第一テサロニケ
3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。

このようなパウロの態度と祈りへの答えとして、主なる神は、テサロニケの兄弟姉妹を豊かに祝福してくださいました。

今日、必要とされていることは、パウロと同じように、自分のみならず、他の兄弟姉妹に対しても、真剣に祈り、力を注ぐことです。主は、そのような者を、『通りよき管』として用い、他の信者をも祝福することを望んでおられるのです。その意味で、私たちはすべて、主によって自由に用いていただこうではありませんか。

十三節をもう一度、読んで終わります。

第一テサロニケ
3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。

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