2013年10月29日火曜日

もうちょっと(四)

もうちょっと(四)
2013年10月29日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

確かに私たちは、将来のことはわかりません。明日のことでさえも解からないのが、愚かでどうしょうもない人間です。けども、本当は違う。わかる。イエス様を信じる者にはわかる。今、読まれたように、「私たちは、いつまでも主とともにいる。」この特権について、この栄光について、いくら考えても的はずれです。もっとも偉大である、もっともすばらしいことであります。ですから、今、いろいろなことで悩んでも、近いうちに、いつまでも主とともになると考えると、希望が湧いてきます。前向きに生活を送ることができるようになります。


今、読んでもらいました、このテサロニケ第一の手紙の四章には、やがて起こるべき、大いなる出来事が記されています。それは、イエス様が再び来られるときのことです。私たちは、イエス様の再臨が、確かにいつ成されるかについて、計算することはできません。いわゆる教会の歴史を見ると、かつて、いろいろな人が計算したんです。必ず何月何日に来る。ある人々は、それを信じて、銀行の金を全部おろして、献金しました。後で、だまされた・・・・と認めざるを得なかったのです。

計算したらダメ。けれども、待つべきです。毎日、今日かもしれない・・・・と考えると、明日の事は別にどうでもいいのではないでしょうか。その意味で、信じる者は、本当に幸せです。将来のことはわかっている。私たちは、いつまでも主とともになることです。

主のみ、最後のときを、もちろん、ご存知です。イエス様の再臨がいかなるものであり、いかなるかたちで行なわれるかについては、もちろん、無知であってはならない。知るべきです。そして、この四章をより良く知るために、パウロは書いたのです。そして、他のパウロの手紙においても、聖書における時代区分を考えるべき、理解すべきなのではないでしょうか。聖書によると、主なる神が、とくに強く働かれる場として、おもに、次の三つに分けて考えることができます。

第一番目、いわゆる諸国民であり、第二番目、イスラエルであり、そして、第三番目、主のからだなる教会です。

第一の場面は、アダムから、アブラハムに至る全人類です。そのことについては、創世記、一章から十一章までに、細かく記されています。五章と十章の系図によって、その時代が、おおよそ二千年間であったことが解かります。

第二の場面は、イスラエルの民です。しかし、それは、主がアブラハムを召された時から始まったのです。アブラハムの召しについては、創世記十二章に記されております。主なる神は、絶えずイスラエルの民に、ご自身を現そうとなさいましたが、彼らは、主に背き続け、最後には、彼らの王である主イエス様を、十字架につけて殺してしまったのです。アブラハムの召しから、イエス様の十字架までも、おおよそ二千年間ありました。

そして、第三の場面は、教会であり、教会の誕生は、五旬節に求められると、聖書は言っています。教会は、新しく生まれ変わることによって、ユダヤ人にも異邦人にも該当するようになりました。主の目的は、決して、諸国民やユダヤ人にあるのではなく、まさしく、教会を建てることであり、それによって、多くの信者が集り、一定の数に達すると、そこで初めて、イエス様の再臨が成就されるのです。

さらに、信者の数のみでなく、信者の成長をも、主は望んでおられることは、言うまでもない。初めから計画されていた信者の数が満たされるとき、主イエス様が天から下って、教会と空中で出会い、ひとつになってくださるのです。その時、すでに眠った、先に召された信者も生きながらえている者と共に引き上げられ、花婿である主イエス様と共に、婚姻のときを持つことができるようになります。

このようにして、教会が引き上げられた後、悪魔は非キリストと、いわゆる、偽預言者とを通して、この世を支配するようになります。天上では、イエス様と信じる者との大いなる婚礼が成されていることに対して、この地上では、大きな患難と苦しみが支配するようになります。しかし、このような悪魔の支配も、ハルマゲドンの戦いによって、終止符を打たれるのです。その時、地上では、諸国民の大軍がイスラエルに攻め上ると、聖書は言っています。まさに、この時に、イエス様が公に再臨なさるのです。始めは、教会を迎えに、花婿として空中まで下って来られる主イエス様は、七年後で、公に再臨なさる時には、今度は信者たちとともに、イスラエルの王として、また、諸国民の裁判官として来られるのです。

その時、イスラエルに対して戦いを挑んだ諸国民の大群は、完全に撃ち滅ぼされ、イスラエルはイエス様を、自分の王として迎え入れるようになります。イエス様が、あらかじめ約束されていたダビデの座につくことによって、いわゆる千年王国が始まるのです。しかし、千年が経った後で、悪魔はもう一度、力を盛り返し、しばらくのあいだだけ、大軍を引き連れ、イスラエルに対して最後の戦いを試みるのです。しかし、その時、天から火が下って、彼らはすべて焼き滅ぼされてしまうのです。その後で、大いなる厳かな裁きが行なわれます。未信者は、大いなる裁判官の前に出なければならず、また、そこで裁かれなければなりません。大きな反逆を通して、新しい天と新しい地が出現すると、聖書ははっきり約束されています。

アダムからアブラハムまでが二千年、アブラハムからイエス様までが二千年、それから、イエス様から今日までが約二千年であり、イエス様が教会を迎えに、天から下って来られる日が、非常に近いことが解かります。

我々の持っているカレンダーとユダヤ人が持っているカレンダーは違うのです。ですから、私たちは今、二〇一三年でしょと言うのです。本当は全然、違うかもしれない。十何年間間違っている可能性が充分あります。

イエス様が、再び来られるということは、将来における非常に大きな出来事を意味するわけです。イエス様との出会いによって、すなわち、新しく生まれ変わることによって、人間は新しい目的を持つようになります。

パウロの場合には、次のような言葉、すなわち、「主よ、私は何をしたらば、よいのでしょうか。」「生きているのは、もはや私ではなく、主イエス様である。」このような言葉によって、彼が、全く新しく生まれ変わったことがわかります。パウロは、後ろのものを忘れ、ただ前のものを目指して、力を尽くしたのです。

我々の目的は、イエス様ご自身、すなわち、十字架につけられ、よみがえられ、再び来られるイエス様に他なりません。信じる者の目的は、地上の生活をはるかに越えたところにあります。しかも、イエス様は、将来、すべてを支配してくださるのです。イエス様は、まもなく来ると約束してくださいました。

ヨハネ
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

すばらしい約束なのではないでしょうか。このイエス様の再臨の時こそ、信者たちひとりひとりが、心から切に待ち望んでいるものです。イエス様の再臨こそ、信じる者にとって、生き生きとした希望であり、信仰の光であり、イエス様に対する愛の原動力です。三つの質問について考えましょうか。第一番目、この第四章の主な内容は、いったい何なのでしょうか。第二番目、第四章に対しては、いかなる表題をつけることがふさわしいのでしょうか。そして、三番目、イエス様が来られる時に起こる出来事は、どのような順序で成されるのでしょうか。

四章は、二つに分けて考えることができるのではないかかと思うのですけれど、前半は、一節から十二節まで、信じる者の清めであり、後半は、すなわち、十三節から十八節まで、信者の希望です。もちろん、清めと望みとは、密接に結びついているため、切り離すことはできません。ヨハネ第一の手紙を見るとそれが明らかにされています。三章を見ると、ヨハネは当時の信じる者に、励ますため力づけるために書いたのです。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

二番目、第四章に対しては、いかなる表題をつけることがふさわしいのでしょうか。『生き生きとした望み』、あるいは、『道と目標』、さらには、多分、『今日、成った』という題をつけることができるでしょう。しかし、ここでは、まず目標について考え、それから、道について、考えるべきなのではないでしょうか。絶えず、目標を目指している者にとっては、途中の苦しみや悩みは、それほど、大きなものにならなくなります。

エス様の再臨は、二つのこと、すなわち、第一に、教会のために、イエス様が天から下って来られ、空中まで迎えに来てくださることと、第二に、教会のためではなくて、教会と共に、地上まで下って来てくださるということを含んでいます。

この第四章では、最初の事柄、すなわち、イエス様が教会のために、下って来られることだけが記されています。このことについて、もう少し、詳しく調べてみると、次のようなことがわかります。何であるかと言いますと、すなわち、第一番目の場合、イエス様は、大きな患難の前に、教会のため、空中まで下って来られますが、それを見る者は誰もいない。それから、教会は、天に引き上げられるのです。これに対して、第二番目の場合には、イエス様が大きな患難の後に、イスラエルと諸国民のため、からだなる教会と共に、この地上まで下って来られ、その時には、すべての者が、はっきりと見ることができ、エルサレムのオリーブ山に下られるのです。

三番目、イエス様が来られる時に起こる出来事は、どのような順序で成されるのでしょうか。第一番目、イエス様ご自身が天から下って来られます。二番目、イエス様にあって眠っている人々、信じ、先に召された人々が、初めによみがえります。そして、三番目、生きながらえている信者は、引き上げられ、空中で主に会います。

この三つの出来事について、もうちょっと考えてみましょうか。

第一番目、イエス様ご自身が、天から下って来られます。すなわち、イエス様ご自身とは、全宇宙を創造され、旧約聖書で預言されたメシアであり、ベツレヘムでお生まれになって、最後に、十字架につけられ、そして、よみがえられたお方です。

そして、まさにそのお方が、再び来られるのです。パウロに現れてくださったイエス様は、取りも直さず、十字架で死んでくださったイエス様に他ならなかったのです。いわゆる、近代的な聖書批判と呼ばれるものは、イエス様の再臨を、頭から否定しています。いわゆる、統一教会は、聖書に書かれているイエス様、すなわち、十字架につけられて、死んで、復活なさったイエス様は、救い主ではなく、本当の救世主は、すなわち、再臨されたイエス様は、別の人であると言っているのです。けれども、聖書ははっきりと、イエス様ご自身が、やがて再臨され、しかも、そのイエスが十字架の上で亡くなられたイエス様であると言っているのです。

パウロは、テサロニケの兄弟姉妹について、喜ばしい知らせを聞くことができました。テモテが、信者について、良い知らせを報告したからです。しかしながら、そのようなテサロニケの兄弟姉妹にも、死んだ人が何人かいました。これは、本当に悲しい知らせでした。そのために、テサロニケの信者は悩み、かつ、苦しみました。

異邦人が苦しむというのであれば、それはいわば、当然のことです。なぜなら、異邦人は、本当の希望がないからです。しかしながら、パウロは、前に読んでもらいました箇所を通して、すばらしいことを宣べ伝えたのです。もう一回、読みましょうか。

第一テサロニケ
4:13 眠った人々(・・・・意味は先に召された人々・・・・)のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

もっとも良いものは、死んでからやって来る。主の恵みは、決して、死に終わることがない。

二番目、イエス様にあって眠った人々が始めによみがえります。すなわち、キリストにあって眠った人々は、信者だけであり、死んだ人、すべてがそうであるというのではありません。『キリストにあって』ということは、イエス様の血を体験的に知ったことを意味しているのです。ある教会に属しているとか、洗礼を受けたとかいうことが大切なのではなく、イエス様を体験的に知っているかどうかが問題です。『キリストにあって』とは、イエス様の霊によって、新しく生まれ変わったことを意味します。

いわゆるよみがえりの書を、ちょっと見てみましょうか。

第一コリント
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

この箇所を見ると、そのとき、ラッパが響き渡ると記されています。有名な作曲家、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、よく知られているメサイヤという曲の中で、このときの喜びと、賛美とを声高らかに、歌いあげているのです。

パウロも、イエス様と共にいること、すなわち、死んでイエス様を見ることは、この地上に漫然と生きているよりは、はるかに良いと言っています。そこで、死んだ人は、どのようにして復活するか・・・・という疑問は生じてくるでしょう。答えは、次のものです。

第一コリント
15:35 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」
15:36 愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。
15:37 あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。

15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

そのとき、信者は新しい栄光のからだを持って、よみがえると、聖書は言っています。人が死ぬと、体と霊とが分かれます。信者の霊は、イエス様のみもとに帰っていきます。だから、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹を励ますために書いたのです。

第二コリント
5:8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。

そして、体は眠るのです。肉体は、栄光の体が出てくる芽のようなものです。死んだ体と復活する体とのあいだには、ひとつの関係があります。それは、ちょうど、種とつぼみのような関係にあります。イエス様が、よみがえりの体を持って、死の墓からよみがえられたのと同じように、信者も、よみがえりに体を持って、よみがえるわけですが、その瞬間は、まさに、決定的な瞬間であります。我々の体は、イエス様と同じように、よみがえりの体になるのです。

第三の問いは、そのとき、生きながらえている人々に、何が起こるのでしょうか・・・・ということです。すなわち、生きながらえている信者は、引き上げられて、空中で主に会います。聖書は、彼らが、雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会うと、答えています。

第一テサロニケ
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

すばらしい、考えられない栄光です。もう一箇所、読みます。内容的には同じものであります。

第一コリント
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

結局、彼らは、エノクという男が経験したように、引き上げられ、急に見えなくなります。エノクについて、聖書は言っています。

創世記
5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

しかも、一瞬のうちに、そのように変えられるのです。この世の肉の体から、栄光の体に変わるためには、一秒もかからないでしょう。その時には、もはや、重力の法則が支配しないため、新しい体は引き上げられて、空中に登っていくのです。そして、空中で主イエスにお会いするのです。それは、まことに恐るべき出来事であると言えましょう。そのとき、地上にいる信者たちは、一瞬にして見えなくなってしまうのです。信者の父、母、子、従業員、運転手などは、いずれも、瞬間にして、見えなくなってしまうのです。このようにして、何千万人という信者が、急に見えなくなることは、未信者にとって、まことに驚嘆すべきことです。この時こそ、イエス様にとって、かねてから願っておられることが成就するとき、すなわち、小羊の婚姻の時であるのです。黙示録を見ると、この将来の考えられないお祝いについて書かれています。

黙示録
19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

そのとき、かしらなるイエス様は、からだなる教会とひとつになれるのです。そして、イエス様は、彼らをご自分と共にいるように、彼らをみもとに引き寄せてくださるのです。イエス様は、そのために、もちろん、考えただけではなく、祈りました。イエス様のもっともすばらしい祈りのひとつは、ヨハネ伝、十七章に出てきす。

ヨハネ
17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

この大いなる出来事は、現在、苦しみの世界に、将来、新しい光を与えていただく、まことの希望と望みです。この将来における事実が、信じる者の信仰生活の中に、正しく受け入れられるとき、それは、信者にとってまことの力となります。したがって、私たちは望みのない人々のように悲しむ必要はありません。私たちには、そのようなことをする権利がないのです。私たちは、みことばによって、慰めと希望とを与えられています。

パウロは、十五節に、「主のことばによって」と言っています。したがって、それは、決して、パウロ自身の人間的な望みではありませんでした。また、それは、イエス様のよみがえりから、パウロが自分で考えて、作り上げられた結論でもありせん。パウロは、主のみことばによって啓示を受け、その啓示によって、奥義を明らかにすることができたんです。パウロの喜びの源は、みことばでありましたが、我々の場合もそうでなければなりません。パウロが考えていたことは、決して、現在の悩みや苦しみのことではなく、主と共にいて、ご臨在を覚えることに他なりませんでした。

パウロは、「みことばを持って互いに慰め合いなさい」と言っています。

有名な音楽家であるバッハは、死ぬことについて作曲したとき、それは、すべて賛美と歓呼に満たされていました。彼は、死の谷を見ただけではなく、死んでから永遠に主と共にいることを確信していたからです。もしも、私たちが、一時間のうちに死ぬということが解かったならば、どうでしょう?不安と心配でおののくでしょうか。それとも、賛美と歓呼に満たされるのでしょうか。

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