2013年9月24日火曜日

もうちょっと(一)

もうちょっと(一)
2013年9月24日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒行伝
17:16 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。
17:17 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。
17:18 エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。
17:19 そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。
17:20 私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」

17:21 アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。
17:22 そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
17:23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
17:25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
17:26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
17:28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。
17:29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
17:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。
17:33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
17:34 しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。

18:1 その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。

だいたい集会が始まる前に、「今日のテーマは?」と聞かれます。前に聞いた方がいいかもしれない。終わってからでは、忘れる可能性があるからです。今日のテーマは、「もうちょっと。」短い。

ヘブル書の著者は、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」結局、意味は『もうちょっと。』

イエス様を知るようになった人々は、輝かしいすばらしい将来を持つことです。イエス様は、彼らにとって、道であり、真理であり、いのちであるからです。イエス様なしの将来は、確かに真っ暗闇です。イエス様を知るようになった者は、喜ぶことができます。どうしてであるかと言いますと、なぜなら彼らは、はっきりとした確信を持っています。

もうちょっとでイエス様は、おいでになります。そして、今日かもしれないと考えるとうれしくなります。どういう状況におかれても、どういう問題があっても、私たちは希望を持って将来に向かうことができます。

新約聖書の全二百六十章の中で、三百回以上、イエス様の再臨について語られています。したがって、再臨は事実として大切なだけではなく、この再臨を待ち望むことこそが、日常生活における喜び、また、力のもとになります。

イエス様が来られることは、主を知らない人々にとっては、恐れとおののきに満ちたことばですけど、イエス様を知るようになった人々にとっては、この上もないほどの大きな喜びです。この再臨について、いちばん、たくさん書かれている手紙とは、おそらく、テサロニケ第一の手紙なのではないかと思います。生けるまことの神に仕えるため、神に立ち返り、イエスが天から下ってこられるのを待つことを考えることが、大切なのではないでしょうか。

第一テサロニケ
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

ちょっとだけ、三つのことについて考えたいと思います。第一番目、手紙についての一般的な事柄。二番目、手紙の言わんとしていること。そして、三番目、テサロニケにおける教会の発生についてです。

まず、手紙についての一般的な事柄。ここでテサロニケと呼ばれている都市は、かつて、サロニケと呼ばれていた町でした。サロニケという村は、昔からあった小さな村でしたが、紀元前三百十五年に、アレキサンダー大王の後継者の一人であるカサントス、すなわち、マケドニアのカサントスが、新たに拡張して造り替えたものがテサロニケと呼ばれた都市になりました。

けども、テサロニケという名前の由来は、アレキサンダー大王の妹、すなわち、カサンドラの妻の名前にちなんでつけられたと言われています。それが、パウロの時代には、十万人の住民を擁する大都市に発展していました。テサロニケには、ユダヤ人も少なからずおり、会堂を持っているユダヤ人もいたのです。また、そこは、港でもあり、大きな商取引が行なわれた場所でもありました。

この手紙の作者はパウロであり、パウロといっしょに、シルワノとテモテもいたことが解かります。シルワノは、アンテオケからパウロと一緒になり、そして、テモテはルストラから一緒になりました。

手紙を受け取った受取人は、言うまでもなく、テサロニケの教会、テサロニケにいる主の恵みによって救われた兄弟姉妹です。西暦五十二年、パウロは二回目の伝道旅行をしましたが、その時、テサロニケにやってまいりました。彼は、ピリピからやって来ました。ピリピに滞在していた時のパウロの生活は、人間的に見るならば、失敗のように見えますが、そこから小さな集会が発生した事実は、非常に重要な意味を持っています。

確かに人間的に見るならば、パウロが捕らえられたことは、失敗のように思われますが、実際は、その反対で、パウロは大喜びで、力強くテサロニケにおける伝道活動を続けたのです。彼は、三つの安息日に大成功を治め、福音を宣べ伝えました。それを通して、ユダヤ人も異邦人も、また、少なからず貴婦人たちもイエス様を信じ、受け入れたのです。それは、パウロにとって、もっとも体力と気力を消耗した時でした。というのはパウロは、他人の世話になることを好まず、他人から悪口を言われることも好まなかったので、自分で働いて生活しなければならなかったのです。パウロは、このようにして、悪口を言われないように願ったのですが、それにもかかわらず、大きな反対が持ち上がったため、信者のことを考えて、テサロニケを離れたのです。

その後で、パウロはテサロニケから出た二人の同労者、アリスタルコとセクンドを与えられたのです。パウロは、テサロニケにわずか四週間しか滞在しませんでした。しかし、豊かに祝福されました。パウロは、テサロニケを離れて、ベレヤへ行きました。そこで、伝道活動を続けましたが、結果は同じように、陰謀のため、そこをも離れざるを得なくなり、そのようにして、アテネへと向かったのです。そして、アテネでは、非常に豊かな実を結ぶことができました。しかし、テサロニケのことを慮(おもんぱか)り、シルワノとテモテとをアテネから帰したのです。

パウロは、次にコリントへとやってまいりました。このコリントでパウロは再び、シルワノとテモテに出会い、二人からテサロニケで見聞きしたことを、つぶさに聞いたのです。テサロニケの集会は、ユダヤ人から大きな攻撃を受けたにもかかわらず、模範的な集会に成長したのです。

彼らの受けた攻撃についての箇所を見てみますと解かります。

第一テサロニケ
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

『多くの苦難』とあります。

第一テサロニケ
2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。

3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。

テサロニケにいる兄弟姉妹は、確かに攻撃され、多くの苦難を受けましたが、しかし、主から受け取ることによって成長し、模範的な群れになりました。

第一テサロニケ
1:2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
1:3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。

1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、・・・・

2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

パウロは、二人の同労者の報告を聞いた後、西暦五十三年にパウロは、コリントでこのテサロニケへの第一の手紙を書いて、テサロニケにいる兄弟姉妹に出したのです。この手紙は、パウロがいちばん最初に書いた手紙です。

パウロは、この手紙を書いた目的は、兄弟姉妹にとって、いちばん大切な目標を差し示すことでした。新約聖書の中にある手紙はすべて、救われた兄弟姉妹のために書かれたものであり、彼らの信仰がますます成長し、いっそう主イエス様により頼むようにと記されています。

今まで、私たちは、手紙についての一般的な事柄について考えましたが、今度は二番目、手紙の言わんとしていることとは、いったい何なのでしょうか。おもな内容は、イエス様がご自分を待つ者のために必ず来られるということです。

第一テサロニケ
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。

すなわち、イエス様の再臨、ならびに、それが持つ信者の体験との関係が、いかなるものであるかを説明することを目指しているのです。イエス様の再臨は、単なるひとつの教義であるのみならず、イエス様を信じる者の信仰生活において、いきいきとした力を現す秘訣にもなっています。どの章を見ても、その終わりには必ず、イエス様は再臨されるというみことばで結ばれています。

第一テサロニケ
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。

3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。

4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

イエス様の再臨は、いったいいかなる影響を及ぼすでしょうか。各章ごとに、ひとつの手紙をとりあげて考えてみましょう。

一章において、イエス様の再臨がまことの意味に立ち返ることに対して、いかなる影響を及ぼすかを考えてみると、これに対してパウロは、新しく生まれ変わった兄弟姉妹には、主イエス様の再臨こそが、いきいきとした望みを与えると答えています。

二章においては、イエス様の再臨が、救われた兄弟姉妹の奉仕に対して、いかなる影響を及ぼすかという問いが出されます。この問いに対しては、忠実な主イエス様のしもべに対して、主の再臨は、力づけ、勇気づける望みを与えると答えられています。

第三章においては、イエス様の再臨が、私たちの心の状態に対して、いかなる影響を及ぼすかという問いが考えられます。それに対して、主イエスの再臨は、信者に清めの望みを与えると答えられています。

そして、第四章の後半においては、イエス様の再臨が、信じる者の死に対して、いかなる影響を及ぼすかと問われています。これに対して、イエス様の再臨は、残された者に対して、慰めを与える望みを約束していると答えられます。

第五章においては、イエス様の再臨は、信者の目を覚ましている状態に対して、いかなる影響を及ぼすかを考えてみると、イエス様の再臨は、まどろんでいる信者を呼びさまし、完全な献身へと導いてくれるものです。したがって、このようなことからも解かるように、この手紙全体の中心点は、まずイエス様の再臨であるということです。そして、イエス様の再臨こそ、我々の全生涯を根本的に造り変えられるべきです。

イエス様の再臨がなければ、何ら、力づけ、勇気づける力は存在していないことになります。ただ、イエス様の再臨を待ち望む者だけが、ますます清められ、ますます高められるのです。イエス様の再臨がなければ、私たちが、前に死んだ信者と再会する望みもなく、何らの慰めもないことになります。

もしも、イエス様が再臨なさらなければ、献身の生活も価値がなくなります。けれど、イエス様は必ず、再臨なさるのです。これこそ、パウロが力強く言わんとしたことに他ならない。主にある兄弟姉妹は、正しい道を歩もうとする限り、絶えず、イエス様の再臨に心の目を向けなければならない。

我々の人生を決定しているものは、いったい何なのでしょうか。目の前にあるいろいろな出来事でしょうか、それとも主の再臨でしょうか。

今まで、私たちは、二つの点について考えたのです。すなわち、手紙についての一般的な事柄について、それから手紙の言わんとしていることについてでした。

こんどは、ちょっと短く最後に三番目、テサロニケにおける教会の発生についてです。パウロが、テサロニケに送った手紙は非常に平易に解かりやすく書かれているため、誰が読んでも理解できるのです。そして、ローマ人への手紙のように教義の手紙でもありません。また、ガラテヤ人への手紙のように、いろいろな対立の問題を含んだ手紙でもありません。この手紙は、まさにパウロが、テサロニケにいる信者一人ひとりに対して、真心を込めて書いた手紙であります。

それですから、私たちはテサロニケの信じる者の群れを、より良く知りたいものです。

家で、もう一回ゆっくり、使徒行伝の十七章、一節から読むべきです。

使徒行伝
17:1 彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。
17:2 パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。
17:3 そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。」と言った。
17:4 彼らのうちの幾人かはよくわかって、(・・・・光に照らされて、確信を得たということでしょう・・・・)パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。
17:5 ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。
17:6 しかし、見つからないので、ヤソンと兄弟たちの幾人かを、町の役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言った。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます。
17:7 それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしているのです。」
17:8 こうして、それを聞いた群衆と町の役人たちとを不安に陥れた。
17:9 彼らは、ヤソンとそのほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。
17:10 兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂にはいって行った。
17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

すでにご存知のように、ヨーロッパで最初に発生した信者の群れは、ピリピの集会でした。パウロとシラスは、ピリピで捕らえられ、ひどく取り扱われました。けども、彼らは決して、周囲の人間を見ることなく、絶えず復活されたイエス様を見上げていたので、獄中においても絶えず喜び、感謝することができたのです。彼らは、囚われの身から解放された後、テサロニケに行き、そこでも同じように、喜びと感謝を持って、イエス様を宣べ伝えたのです。イエス様を紹介することこそが、自分の使命であると確信しました。もちろん、私たちも同じ使命を持っているのではないでしょうか。

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