2013年4月23日火曜日

主を喜びましょう

主を喜びましょう
2013年4月23日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。


16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

今朝の題名は、「主を喜びましょう。」イエス様は、今、最後に読んでもらいました箇所の中で、当時の弟子たちを励ましたのです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、『あなたがたにいろいろなことを教えてあげたい』というよりも、『あなたがたがわたしにあって平安を持つ』ためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。『だから諦めなさい』ではなく、『しかし、勇敢でありなさい。』

喜べ!という呼びかけなのではないでしょうか。どうして喜ぶことができるか?イエス様が、すでに世に勝ったからです。十字架の上で、『終わった、完了した、万歳』と、叫ばれたからです。

パウロは、いろいろな、もちろん救われた人々に手紙を書いたのです。そして、彼は、よく二種類のキリスト者について書きました。ある兄弟姉妹に、「私はいつも、あなたがたすべてのために神に感謝しています。」おそらく、私たちは、言えないかな。『いつも』、『すべて』とあります。もちろん、パウロは、他の兄弟姉妹のことを考えたとき、違うことを告白せざるを得なかった。『私は困っている、私は悩んでいる、私は苦しんでいる』と、パウロは、認めざるを得なかったのです。どうして、そんな違いがあるのでしょうか。

ある兄弟姉妹は、「イエス様は、まだまだ来ないよ。そんなに待たなくてもいいんじゃないの」と思い、他の兄弟姉妹は、首を長くして、期待を持って、『今日かもしれない』と望みながら、生活しています。ある兄弟姉妹は、自分のために生活し、自分自身を実現しようと望み、また、他の兄弟姉妹は、イエス様のために生活したい、イエス様に喜ばれたいと、切に望んでいます。

イエス様だけが盛んになり、私は別に大切ではない。こういう心構えがなければ、キリスト者の人生は、実を結ばない人生であり、的外れの人生です。ある兄弟姉妹は、中心になりたい、役割を演じたい、もしそうでないと、あまりおもしろくない。別の兄弟姉妹は、イエス様のみに、すべての栄光を帰して行きたいと、心から望んでいます。ですから、ある兄弟姉妹は、つまづきを与え、分裂を起こす者であり、別の兄弟姉妹は、命がけで集会全体の一致が現れることを望み、そのために祈り続けます。

毎週、火曜日、二百十二番の歌を歌うのは、そのためでしょう。けども、一致とは、御霊の一致です。人間の作るものではない。だから、祈り続けることこそが、ネヘミヤ記、八章十節に、「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」と言ったのです。

ドイツのヒトラーは、聖書を知っていたかどうかは、全くわからないけど、同じことを宣伝したんです。彼は、いつも何と言ったかと言いますと、「喜ぶことによって、力を得る。」確かに今、ネヘミヤ記八章十節と同じ意味です。喜ぶ秘訣とは、主を待ち望むことです。主を待ち望む者は、新しい力を得ると約束されています。

この後ろにも書かれていますね。重田豊子姉妹の書いたことばです。

イザヤ
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

前に、ある婦人は、悲しそうな顔で、「家の二十七歳になった息子は、全く無力になった。そうすると、本人も家族も、喜べなくなった。」この婦人は、いろいろな宗教に入りましたし、けども、問題は解決されませんでした。理由として言われたのは、四世代前の先祖たちが問題である。拝まなければ、お金を出さなければ、何もならないと言われたのです。

人間は騙されやすいから、宗教が存在しています。真(まこと)の解決を与えられるお方の呼びかけとは、次のものです。「すべて疲れた人は、おいで。重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしは、あなたがたを休ませてあげます。」

また、四十三歳の若い男は、正直に、「私は、非常に疲れている」と言われました。意味は、『本当の喜びを知らない』ということです。喜びがなければ、人間はすぐ疲れます。喜びがなければ、人生は全く重苦しいものになります。退屈なものになってしまいます。けれど、本当の喜びの泉、また、源(みなもと)はイエス様です。イエス様に信頼する人は、絶えざる喜びを持つようになります。

主イエス様に全部、委ねなければ、任せなければ、やはり、全く平安はないし、喜びもありません。本当の喜びは、もちろん、単なる楽しみより、ずっとすばらしいものです。すなわち、赦された、受け入れられた、愛されているという確信がなければ、変わらない喜びがあり得ない。したがって、あらゆる人間にどうしても必要なのは、罪の赦しです。

なぜなら、罪が赦されると、主なる神との交わりが、可能となるからです。そして、主との交わりによってのみ、人間は満たされ、幸福とされ、幸せになるのです。すなわち、誰からも奪われることのない喜びの根拠は、今、話したように、罪の赦しです。

人間のわがままから、人間は全く、主なる神から離れるようになり、主とのあいだに、ある隔ての壁ができている。けれども、イエス様の犠牲によって、主の身代わりの死によって、この人間と主なる神との隔ての壁が取り去られたと、聖書は言っています。

身代わりとなる方がなければ、罪のない方が代わりに死ななければ、救いの道がない、罪の赦しはないと、主は宣言しておられます。イエス様が十字架の上で死んでくださった時、我々の代わりに死んでくださったのであり、そして、イエス様の死は、私たちのわがままに対する主なる神の答えそのものでした。我々の受けるべき裁きでした。イエス様の代わりの死によって、全人類の罪は罰せられたから、今になって主なる神は、あらゆる人間の罪、また、過ちを赦されるようになっています。

主の言われたことを素直に受け入れ、信じるならば、救われ、受け入れられるようになります。誰からも奪われることのない喜びを持つようになります。まことの喜びは、自分自身の中にあるのでもなく、また、自分の持っているものや周囲のものの中にあるのでもなく、ただ、救い主なる主ご自身の中にあります。イエス様に結びついていることが許されているということこそが、本当の喜びです。前に読んでもらいました箇所、もう一回、読みます。

ヨハネ
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

主は、いったい何を考えて何を望んでいるのでしょうか。パウロの説明は、次のようなものです。皆、暗記している箇所です。

第一テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

何を要求されているか。たまにではなくて、『いつも』喜ぶことです。たまに、祈ることじゃなくて、『絶えず』祈ることです。あることについてではなくて、『すべてのこと』について感謝することこそが、主の望んでおられることです。喜びの秘訣は、罪を赦すお方としてのイエス様を知ることです。救いとは、頭の知識と全く関係のないものです。

イエス様を知り、生き生きとした交わりを持つことによって、あらゆる人間的な思い、たとえば、孤独、傲慢、自分中心の利己主義、無味乾燥な悲哀観、そして、絶望など、あらゆる悩みが解消してしまうのです。そして、他方においては、本当の喜び、まことの平安、生き生きとした希望が与えられます。イエス様との生き生きとした交わりの中にこそ、本当の喜び、絶えざる喜びの源(みなもと)があります。この変わらない喜びを得たダビデは、次のように告白しました。彼が、心から言えることでした。

詩篇
34:1 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。

私たち一人ひとりは、このように言えるのでしょうか。心から、告白できるのでしょうか。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」こういうふうに言える人は、本当に幸せです。このみことばの、大切なことばは、もちろん、「あらゆる」と、「いつも」ということばです。

もし、ダビデが、「私は、ある時に主をほめたたえる。私の口には、たまに、主への賛美がある」と言ったならば、誰でも理解することができるし、そして、それぐらいだったら私もできると、思うようになるのではないでしょうか。けど、ダビデは、雨が降っても、太陽が照っても、私は苦しみを持っていても、持っていなくても、また、意気消沈していても、高められても、私はいつも、主をほめたたえる。私の口には絶えず主への賛美があります。また、ダビデの告白とは、詩篇の百四篇にも、次のように書き記されています。

詩篇
104:33 私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。
104:34 私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。

ダビデは、よく「主」という言葉を使いました。ダビデが信じ、心から愛するようになった主は、天と地を創造され、万物の造り主であり、また、すべての背後に、はっきりとした目的を持って導いてくださる万物の支配者でした。

ダビデはいったい、どうして喜ぶことができたのでしょうか。次の事実を確信したからなのではないかと思います。

すなわち、主は、私のために計画してくださり、私の道を平にする。たとえ、私が、逃れ道のない状態に置かれたとしても、私は、私を愛してくださるお方の御手の内にいる。なぜ、悩みを経験しなければならないのか、わかりません。しかし、私は、主は、主のなさることをご存知であられるということを知っています。そして、私の主は、無駄なことは何ひとつなさいません。間違った計算や無計画性は、主にとって存在しない。主は、私の最善だけを考えておられます。そして、私は決して、主は決して、決して、変わらない。私は、感じようが、感じまいが、主が私を愛しておられることを知っている。主は、私を贖ってくださった。決してお捨てにならない。

どうして、ダビデは、あらゆる時に、主をほめたたえることができたのでしょうか。どうして、ダビデの口には、いつも主への賛美があったのでしょうか。結局、この確信を持っていたからです。すべてがうまく行けば、誰でも喜ぶことができる。けど、すべてがまずくなってしまい、なぜこんなことを経験しなければならないのか、どうしても説明がつかないときに、喜ぶことができるということは、確かに人間の能力を超えており、それは主の恵みの現れです。

「主なる神が、私を愛してくださる。天の父であり、私の人生を計画してくださるゆえに、すべての事は益となる」と、ダビデは確信しました。パウロも、ローマ書、八章の中で、同じことを書き記したのです。

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

これは、パウロの確信でした。この確信は、誰も、私から奪い取ることはできない。だからこそ、信じる者は、主にだけ頼る者は、すべてを主に任せる者は、あらゆるときに、主をほめたたえることができます。

ヨブという男は、この事実を体験しました。「見よ、神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を、神の前に主張しよう」という態度を取ったのです。

イエス様の恵みによって、救われた人々は、いつも、私たちの最善を考えてくださり、主なる神を知っているから、何があっても喜ぶことができます。ハバクク書の中で、よく知られている、よく引用される箇所があります。すばらしい証しです。

ハバクク
3:17 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
3:18 しかし・・・・、

この、『しかし』はすごい!

ハバクク
3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

たとい私たちが、何の実を見なくても、また、それが一見、空しいように思われる時でさえも、いつも喜んでいなさいと、主は要求し、命令しておられます。「私は主にあって、私の救いの神にあって喜ぼう。」これは、ハバククの断固たる決断でした。

自分自身を否定することが、どうしても必要であるということは、ここでも明らかに知ることができます。もしも、預言者ハバククが、自分の感情や自分の思いによって、支配されていたならば、決して、喜ぶことができなかったでしょう。なぜなら、その時の状況は、ひとつの実も結ぶように思われず、人間的には、すべてが空しいように見えたのです。

初代教会の救われた兄弟姉妹も、同じことを経験しました。使徒行伝、五章の四十一節を見ると、次のように書かれています。彼らは、捕まえられ、訴えられるようになり、けども・・・・

使徒行伝
5:41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。

悩みながら、苦しみながら、泣きながらではなく、喜びながら出て来た。イエス様に従う者は、それが犠牲を払わなければならないようなとき、使徒たちと同じように、信仰のために、甘んじて迫害を受けるということは、それほど簡単なことではありません。それは、ただ目に見えるものから目を離し、イエス様だけを見上げることによってのみ可能です。ペテロ第一の手紙の中で、また、同じようなことばが出てきます。

第一ペテロ
4:14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

信じる者の喜びは、外部の事情には関係がない。パウロ、また、同労者であるシラス、二人はこれを経験しました。これもよく引用される箇所です。

使徒行伝
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

二人は、無実の罪で、不当に牢獄に入れられました。そこで、彼らは鞭で打たれたり、棒で殴られたり、いろいろな拷問を受けました。彼らは、肉体的に大きな苦痛を受けなければならなかった。しかし、それにもかかわらず、真夜中ごろ、すなわち、真っ暗で、逃れ道もなく、何の希望もないように思われる時、二人は、『神に祈りつつ、賛美の歌を歌った』と書いてあります。

はっきり言えることは、二人は自分で考える前に、人間と相談する前に、静まり、祈りました。祈りしかないと思っただけではなく、実際に、祈ったのです。しかし、パウロとシラスは、例外ではなかったのです。他の主と繋がっている兄弟姉妹も、同じ態度を取ったのです。パウロは、彼らについて、次のように証ししました。

第二コリント
6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んで(いる。)

私たちは、いろいろな悲しみや苦しみなどを経験することがある。しかし、それにもかかわらず、いつも喜ぶことができ、あらゆる時に、主をほめたたえることができるのです。これこそが、ダビデの証しであり、パウロとシラス、そして、初代教会の兄弟姉妹の告白でした。

前に、一人の婦人が、火曜日の集会の前に二階に来られ、挨拶の代わりに、正直に一言で言いたいこと全部を言われました。すなわち、喜ばなくなった。その姉妹は、御主人とうまく行かなかったから、大いに悩んで、御代田まで友だちに連れてきてもらいました。次の日、彼女の顔の表情が変わって、喜んで帰ることができました。悔い改めると、主は赦す。受け入れてくださり、平安と希望と喜びに満たしていてくださると、彼女は経験したからです。喜びに満たされていて、すごい奇跡です。

初めて喜ばなくなったと思った人は、何を経験したのでしょうか。お父さんが骨折してしまったので、仕事が増えて、集会に来ることも難しそうになった。それだけなら、大した問題ではないかもしれないけど、彼女は、聖書を読まなくなってしまっただけではなく、祈りも単なる形式的なものになってしまった。

聖書とは、祈りの材料であるから、読まなくなると、祈りそのものも、おかしいものになるのは、当然なのではないでしょうか。彼女は、喜ばなくなってしまった。また、ご主人と大喧嘩になって、「もう充分です。離婚します」と、彼女は叫んだそうです。

確かに、後で後悔したのですが、しかし、喜ばなくなってしまったから、大問題になりました。可愛い女の子がいますが、その子は、お母さんのはなしによると、毎日、毎日、お母さんの顔を見ながら、いたずらを言ったりして、しかし、あの子の努力は、空しかった。あの子は、立派なお母さん、完璧なお母さんを欲しくなかったのです。喜んでいるお母さんを欲しかったし、必要だったのではないでしょうか。

覚えていただきたいのは、私たちが、絶えず喜んでいるか、いないかということは、どうでもいいことではない。あらゆる時に、主をほめたたえることこそ、主の呼びかけであり、また、主の命令です。この主の命令に、従わないことは、言うまでもなく罪です。罪のあるところには、主は祝福してくださいません。

いつも喜んでいなさい。おそらく、多くの人は言うでしょう。そういうことを言うのは簡単ですけど、実際に、そのとおりに喜ぶことはできないと言うでしょう。確かに、私たちは、自分自身の状態や状況を見ると、本当に喜ぶことができないような場合が数多くあることを知っています。

たとえば、パウロは、イエス様に出会ってから、長いあいだ、忠実に主に仕えた後で、告白したのです。有名なローマ書、七章、「私は、なんというみじめな人間なのだろうか」と、彼は叫んだのです。これは決して、喜びの叫びではない。私たちが、自分自身の内側を見ると、そこには喜ぶべき根拠が何ひとつないことを知っています。

けれど、すべてを知っておられる、唯一のまことの主は、『いつも喜んでいなさい』と命じておられます。主は、私たちが、どうであるか、どのような状態であるかをお考えにならないで、いつも喜んでいなさいと命じ、それを要求しておられます。喜ぶ秘訣とは、主を仰ぎ見ることです。主を待ち望むことです。

自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる主に拠り頼むことです。主は言われました、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません。わたしを離れては、あなたがたは、あらゆる時に、主をほめたたえることはできないし、また、いつも主への賛美があり得ないのです。」

ヨハネ伝十五章の姿を見ると、主ご自身がまことのぶどうの木であって、そして、あなたがたは、その枝であると言われました。木の幹は、その枝に力を送って、枝が多くの実を結ぶことができます。ぶどうの幹に力といのちが満ちているのです。パウロは(言いました)、イエス様と繋がっていることは、考えられないほど大切です。もう一箇所、読んで終わりましょうか。

コロサイ
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

ヨハネ
15:5 ・・・・人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。

イエス様の中に、喜びと力が満ち満ちています。私たちは、その満ちているものを受けるために、生きた繋がりを持たなければならない。イエス様から離れては、私たちは本当の意味で、信じることも、祈ることも、愛することも、感謝することもできません、少しも。それは、主のことばです。そして、主は何事でも、大仰に言われないお方です。

我々のうち、もっとも足らないことは、いったい何でしょうか。それは、私たちが自分で何かを試みようとし、イエス様のために何か計画しようとする、独立の精神を持つこと、すなわち、イエス様に寄りかかることがないことなのではないでしょうか。

おわり

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