2013年4月1日月曜日

イエス様は愛し、イエス様は与えた

イエス様は愛し、イエス様は与えた
2013年4月1日、中町家庭集会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

今、読んできてもらった二箇所のうち、未信者にとってのいちばん大切な箇所は、もちろん、ヨハネ伝3章16節です。そして、救われた人々にとって、もっとも大切な箇所は、言うまでもなく、ガラテヤ書2章の20節なのではないでしょうか。

子供の歌があるんです。内容は、『イエス様はいちばん』――これが何回も出てくる表現です。イエス様がいちばん!どうしてでしょうか。今の二箇所を見ると、答えが出ています。どうしてイエス様がいちばんかといいますと、イエス様は愛したから。それから、イエス様は与えてくださったからなのではないでしょうか。

このイエス様を知ることこそが、あらゆる人間にとって、もっとも大切です。イエス様についていろいろなことを知ることは別にどうでもいい、けども、イエス様ご自身を知ること、イエス様との出会いによって知ることこそが、聖書の言っている必要な改心であります。改心とは何かといいますと、誠実な悔い改めと、本当の信仰です。聖書は、何回も何回も言っている――悔い改めて信じなさい。

子供の場合は、いちばんよく分かる。例えば、ことばは小さい時から親からイエス様、イエス様、聖書、聖書としか聞いていないし、日曜学校に行っても、聖書、聖書、イエス様、イエス様としか聞かないから、疑う余地がないんです。素直に信じるのです。けども、遅くとも一五、六歳になってから、今までの信仰では足りなくなる。すなわち、悔い改めが着いてこなければ、いくら信じても、意味がないことです。

ほんとうの意味で、砕かれて、悔い改めなければ、あらゆる信仰は、あまり役に立たないものなのではないでしょうか。すなわち、頭を下げて、『神様、イエス様、こんな罪人の私を哀れんでください、お赦しになってください。』そこまで行けばオーケー。こういう心の態度を取れば、必ず結果として、赦され、受け入れられ、救われます。

悔い改めてから信じてもいいと約束されています。この約束を与えてくださったお方とは、もちろん、嘘を知らない、よろこんで人間ひとりひとりのために救いの代価を払ってくださった、十字架の上で死なれたイエス様です。そして、イエス様の救いの救いのみわざは、結局、今、話したように二つの言葉にまとめることができます。まず、イエス様は愛した。二番目、イエス様は与えた。この二つの事実は、聖書では、よく、一緒に使われています。今、読んでもらいましたヨハネ伝3章16節もそうです。『神はそのひとり子を賜わるほどに、この世を愛したのだ』とあります。そして、ガラテヤ書の中の箇所でも、『私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子』と、パウロは告白するようになりました。

イエス様は、愛した。もちろん、過去形だけではなく、イエス様の愛は変わらないから、イエス様は、愛しただけではなくて、今日も愛していてくださる。確かに、信じられないほど、すばらしい事実です。

イエス様は、愛した。そして、愛し続けてくださるお方です。前にも話したことがあるんですけど、ドイツで戦争の前に、ある町で、ボーデルシュヴィンクという牧師が、孤児のために多くの家を建てるようになったのです。最終的に、何千人も孤児が、そこで住むようになったのです。町の名前はベテル、聖書の中にも出てくることばです。神の家という意味です。そして、ドイツで多くの人に知られるようになりました。そして、やはり、もちろん助けを求める子供が多く集まるようになった。そして、どうしましょうか?彼らを助けるために、何を贈ったらいいか?金だけだったら、なければ出せないから、いろいろなものが贈られるようになりました。結局、何でもいい。けど、この表の中で、ただひとつ使えない物があると注意されたんです。これは贈らなくてもいい、これは使い物にならないからいらない。すなわち、瀬戸物のかけら。これを贈っても、ちょっと使い道がない。

けど、聖書の中で、陶器師のたとえ話が書かれています。結局、何を書いているかといいますと、万物の造り主、この大宇宙を無から創造されたお方は、瀬戸物のかけらさえ使うことができる、用いることができるということです。

イエス様を信じる者とは、どういう人でしょうかね?ただ、かけらの寄せ集めからできているにすぎないのではないでしょうか。

自分自身が、死に値する者であるとほんとうの意味でわかった人は、この愛を知っているんです。人間は、本当は死に値する者。

ある歌の一節があります。「私は、もっとも悪い人間の一人である。」多くの人がそれを歌っていますし、そう思っているかどうかは、また別です。このもっとも悪い存在である私という尊厳が傷つけられる時、何と早く、私たちは、侮辱されたと思い、腹を立てることなのではないでしょうか。意味は、自分がだめな者であることを認めたくない。分かっていない。自分のわがままを知るために、結局、上からの光が与えられなければ、ほんとうの意味でわからないのではないでしょうか。立派な人間にとっても、なおさら、そうなのではないでしょうか。

自分を正しい者とすることは、もっとも醜い、いちばん、誰でもある罪ではないでしょうか。確かに罪ということばは、聖書の中で、よく出てきます。そして、多くの人々は、『いや、私は罪人と違う』と言うんです。結局、彼らの思っていることは、罪とは、結局、悪い行い、良くない行いが罪である。けど、聖書の言っている罪とは、訳すと的外れです。すなわち、人間と主なる神のあいだの隔ての壁こそが罪です。そして、当然です。人によって、その壁の厚さは違うでしょうね。めちゃくちゃな生活をしている人なら、自分と神のあいだの壁は、ずいぶん厚いかも知れない。3メートル15センチかも知れない。他の完璧な生活をする人と、神のあいだの壁は、5センチかもしれない。けど、壁は壁だよ!神の目から見ると関係ない。

この壁が取り除かれなければ、まことの救いはありえない。イエス様が初めて紹介されたとき、30歳になったんですけども、親戚関係でもあったバプテスマのヨハネが、イエス様を紹介したんです。どういう言葉で紹介したかといいますと、『見よ!約束された救い主である。この世の罪を取り除くメサイアである』と、言ったのです。

イエス様は、どうして来られたかといいますと、もちろん、ひとつの宗教を作るためでもない。いろいろなことを教えさせるためでもない。死ぬため。犠牲になるため。ですから、聖書の中心は、ひとつの教えではない、イエス様の死です。イエス様の死とは、いわゆる殉教者の死ではなかった。人間の受けるべき天罰でした。イエス様が罰せられたから、人間を罰する神は今、存在していない。これこそが考えられないほどすばらしい事実です。

イエス様は罰せられた。

これこそが、聖書の言っている喜びの訪れ、福音そのものです。そして、聖書を読みながら、分かります。聖書とは、ひとつの鏡のようなものです。結局、自分の姿が出てくるのです。そうすると、多くの人々――宗教によって毒されている人間――は、やはりがんばらなくては!いい子にならなくてはだめ・・・・と思っているのですけど、逆です。がんばれば、がんばるほど、悩むようになります。思う通りにいかないからです。

ひとことばでいいますと、イエス様の十字架を仰ぎ見ると楽になるということです。どうしてあるかといいますと、イエス様ご自身をもって、私たちのわがままのための責任をとったことを示し、イエス様が、我々の死の判決を自分自身で担い、実際に、我々のために犠牲になり、死なれたのです。ただ、まことの愛だけが、きよい神の愛のみが、これをすることができるのです。

自分がしたことのない罪のぬれぎぬを着せられることほど、腹の立つものはないでしょう。人間は、それに対して、何と弁護することでしょう。けども、イエス様のことを考えれば、もっとも憎まれた方、いちばん孤独になった方、無視されたお方とは、十字架にかけられたイエス様でした。

イエス様は、愛した・・・・人間一人一人を!我々の一生は、このすばらしい唯一の愛に感謝し尽くすには、短すぎるでしょう。永遠に感謝してもし足りません。

イエス様は、愛しただけではなくて、二番目のすばらしい事実とは、イエス様は、自分自身を与えた。単なる愛ならば、私たちを救うことはできなかったでしょう。主なる神の大いなる力強い愛は、我々に苦労をしろと言うことはできません。もし、できるなら、それは本当の愛ではない。盲目的なものです。主なる神の愛の力は、罪人に罪はないと言うことはできません。罪人は罪人だからです。主の愛は、ただひとつのことができます。すなわち、罪の代価を払うことができます。それをイエス様は、してくださいました。

父なる神は、ひとり人子であられるイエス様をお与えになりました。その命まで与えたと聖書は強調しています。したがって、聖書の中心とは、今、話したように、ひとつの教えではない。十字架です。イエス様の代わりの死です。すなわち、十字架は、私たちが、自分の認めた死の判決の――私たちにではなく――イエス様に成された刑罰の執行でした。それは、イエス様の流された血によって表された献身です。流された血は犠牲です。いのちを捧げる献身は、尊いものです。イエス様の血は、何と貴重なものでしょう。

イエス様の血は、すべての罪を清めます。したがって、教会の人々とは、確かに迫害された者でしたけど、彼らは、イエス様の流された血によって私たちの罪は赦されたと、よろこんで証しすることができたのです。

イエス様は、愛してくださった。イエス様は、自分自身を捧げてくださいました。イエス様は、もちろん、人間ひとりひとりを、全く個人的に愛してくださり、ひとりひとりのことを考えておられるのです。そのために、イエス様に感謝したことがあるのでしょうか。

愛を拒むことほど、重い罪はないのではないでしょうか?例えば、母親の愛を拒むことは、とんでもない罪です。夫婦間の愛を拒み、退けることも、悲しむべきことなのではないでしょうか。けれども、イエス様の愛は、もちろん、母親の愛情よりも、夫婦間の愛よりも、ずっと大きなものです。

イエス様の愛は考えられないものです。なぜならば、変わりません。イエス様が、『わたしは昨日も今日もいつまでも変わらない』と言われたこととは、結局、『わたしの愛が何があっても変わらないものである』と、約束してくださいました。イエス様、あなたが私をも尊い血によって救ってくださったことを感謝すると言うことができれば、本当に幸いと思います。

前に話したことがありますけども、ドイツで起こったことだったんですけども、リサちゃんという七歳になる女の子が、ある駅で、父親と一緒に汽車を待っていました。リサちゃんは、物珍しそうに、あたりを見ました。お父さんは、友人と話しに夢中になっていたのです。その時、警官の一団がやって来た。その警官たちの真ん中に、手錠をはめられた、怖い顔つきをした犯罪人が、引かれて来るのを、このリサちゃんは見たんです。その男は、恐ろしい犯罪を犯した者でした。そして、今、刑務所へ送られる途中だったのです。リサちゃんは、この犯罪人のことを知っていました。なぜならば、その朝、お父さんが、次のように言ったからです。『この犯罪人の仲間が助けに来るかもしれないから、厳重に監視しなければならないそうだ』と。

リサちゃんのすぐ近くで、この一団が止まりました。お父さんは、友人と話に夢中になっていたから、何も気がつきませんでした。そうでなかったら、お父さんは、子供をこの恐ろしい一団に近づけなかったでしょう。リサちゃんは、そばに立って、男を少し不安げに、けど、心から同情して眺めていました。これを最後にして、このかわいそうな男は、一生のあいだ、監獄に閉じ込められて、日の目を見ないだろう・・・・と思うとリサちゃんはたいへん、悲しくなったのです。突然、男は、リサちゃんを見て、それから、目をそらしました。それから、すぐ男は、リサちゃんの同情あふれたまなざしに気づきました。男は、リサちゃんを少しのあいだ、じっと見ていましたが、まもなく、耐え切れないように、目をそらしました。リサちゃんは、男が自分のことを、うるさく思ったのだと思ったのです。彼女は、それをたいへん悲しく思いました。それで、この恐ろしい男のすぐそばまで行って、真剣な顔で言いました、「おじさん、私はおじさんを悲しませるつもりはなかった。ただ、おじさんのことが心配だったの。イエス様もまた、おじさんのことを心配していますよ」と、言ったのです。

すると、その時、警官の一人が、リサちゃんの腕をすばやく掴み、気がついて来た父親に引き渡しました。このリサちゃんの言葉を聞いた者は、その犯罪人より他にいませんでした。幸いのことに、この男は、このことばを聞きました。あどけなく、同情に満ちあふれた、心から話された言葉は、この犯罪人の怖い心に入り込みました。そして、悲しい監獄の中でも、この男は、この言葉を忘れることができませんでした。看守は、この危険な悪者が、もう何の騒ぎも犯さないで、暴れもしないで、逃げようとしないで、毎日、おとなしく、親切になっていくのを見て、非常に驚きました。数ヶ月の後に、監獄の牧師がきくと、彼がどうしてこのように変わったのかということが明らかになった。その謎が解けました。「それは簡単です」と、犯罪人は答えました。『一人の女の子が、私のことを心配してくれた。そして、イエス様もまた、私のことを心配している。この女の子と、イエス様が同情してくださったから、私の心は砕けた』と。

イエス様は、もちろん、人間一人一人のことを考えて心配してくださるお方です。イエス様は、人間一人一人のために、十字架の死を通して、救いの代価を払ってくださいました。イエス様は、偉大なる救い主であり、真の平和を与えるお方であり、あらゆる敵に対する勝利者であり、大いなる解放者であり、絶大な価値を持っているお方であります。

それだけではなく、再び天から下ってこられるお方です。信仰の導き手でもあり、また、その完成者でもあります。このイエス様を知ること、このイエス様に頼ることこそが、唯一の逃げ道なのではないでしょうか。

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