2013年4月16日火曜日

マタイ二十二章三十二~四十節

マタイ二十二章三十二~四十節
2013年4月16日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マタイ
22:32 「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
22:34 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
22:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


このまま読み続けても良かったけどね。

これはおもしろい集会かもしれない。聖書だけ読んで終わり。神のことばでしょう?人間がしゃべっている言葉よりも、大切なのではないでしょうか。もちろん、どういう気持ちで読むのかが問題ですね。「主よ、語ってください、しもべは聞いております」という心構えで読めば、非常にすばらしい。

人間に与えられている最高の宝物は、間違いなく聖書です。ヨシュアに与えられた約束をちょっと読みます。

申命記
31:7 ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。
31:8 主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

もちろん、このことばは、ヨシュアに与えられたことばだけではなくて、我々、一人ひとりに与えられていることばです。それを読むと、もう嬉しくなる。もう心配する必要はない。主が先に進まれるから。この主は、「恐れてはならない。おののいてはならない」と、言っておられます。

もう一箇所、読みます。ヨナタンに言われたことばです。

第一サムエル
14:6 大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。

すばらしい約束なのではないでしょうか。主がお救いになるのに妨げとなるものは、何もありません。家族の救い、もちろん、知り合いの救いも含まれています。歴代誌下の二十章にもすばらしい約束が書き記されています。家族の救いこそが、主にとってすべてであります。

第二歴代誌
20:17 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。

20:20 こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」

勝利を得るのは大変か、簡単かのどちらかです。

第二歴代誌
20:21 それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に(・・・・後ろではない・・・・)出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」

ドイツの聖書は、『恵み』と書いてないのです。『愛』と書いています。同じようなものです。その愛はとこしえまで。

第二歴代誌
20:22 彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。

いちばん、大切なのはいったい何なのでしょうか。言うまでもなく、いちばん、大切なことを知ること、また、いちばん、大切なことをすることなのではないでしょうか。

今、読んでもらいましたように、ある聖書学者たちが、イエス様に尋ねたのです。「先生、たいせつな戒めはどれですか。」イエス様の答えは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」大切なものは何でしょうか。イエス様の答えは、「あなたの神、主を愛せよ。」これは聖書全体のいちばん大切な戒めです。当時の群衆は、イエス様の話を聞いて、そして、驚いたと書いてあります。けど、イエス様は、何かを教えようとはしなかったでしょう。イエス様は、道しるべではなく、道、そのものであるから。イエス様は、真理について語ったというよりも、真理、そのものであられるから、自分自身を明らかにしようと望んだのです。

イエス様の教えたことは、ですから、ひとつの教えというよりも、ひとつの呼びかけです。皆、暗記している呼びかけとは、マタイ伝、十一章の二十八節でしょう。すべて疲れた人、重荷を負っている人、寂しく孤独になった人は、しっかりしなさい・・・・ではなく、わたしのところに来なさい。おいで、待っているよ。

【参考】マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

イエス様のところへ行くと、愛されていることを知り、解放され、大いに喜ぶようになるに違いない。

主なる神は、人間がご自身を愛することを望んでおられる。ちょっと不思議なことではないでしょうか。これは、すばらしい人間の使命そのものです。人間には、主なる神と愛の関係を持つことが許されています。人間以外の被造物、たとえば、数えられないほど多くの天使たちには、主は別に、愛を要求なさいません。ただ服従だけを要求されていますが、人間からは、それ以上のものをお求めになるのです。すなわち、主は、我々に愛されることを望んでおられます。

確かに不思議です。「あなたの神である主を愛せよ。」これは最大の、そして、いちばん大切な戒めです。主なる神は、我々の二心(ふたごごろ)なき愛を求めておられます。

主は、真心からの愛を望んでおられます。ですから、主は、私たちが愛しても愛さなくてもかまわない・・・・という具合には、私たちを自由勝手になさることはなさいません。愛することを命令しておられます。どうしてでしょう。なぜならば、人間は、ただその時にのみ、人生の満たし、完全な喜び、真(まこと)の自由を満たすことができるからです。

本当の愛は、主からのものです。主なる神なき本当の愛は、存在していません。真(まこと)の愛と、主なる神は、不可分のものです。主なる神は、愛、そのものです。聖書は、神が愛を製造するとか、神が愛を送るとか、言っていません。神は愛をお示しになりました。

第一ヨハネ
3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

主は、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。聖書の中心なるテーマとはそれなのです。

聖書の中でよく出てくるサウロという男は、確かに長いあいだ、イエス様を憎み、信じる者を迫害しました。いかなる人も、彼を、間違った道から引き戻すように、納得させることは、もちろん、できませんでした。

彼は、どのようにして、イエス様を信じるようになり、イエス様を命がけで紹介する者になったのでしょうか。そのことを彼は、ひとつの文章で、短く語っています。ガラテヤ、二章二十節、『私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子キリスト』と、言ったのです。

【参考】ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

彼は、何を瞬間的にわかったかと言いますと、十字架につけられたキリストは、犯罪人ではなく、詐欺師でもなく、嘘つきでもなかった。なぜなら、復活なさり、今もなお、生きておられるから。

生ける神は、確かに人間になりました。生ける真(まこと)の神は、人間一人ひとりが受けなければならない罰を、ご自身の身に受けてくださった。主なる神は、ご自身で我々の救いのために身代金を支払う備えをした、と。

この愛は、当時のサウロ、後のパウロを圧倒しました。この愛は、彼の人生を根底から変えられました。彼は、全く違う人間になりました。すなわち、この愛は、パウロに迫り、すべてを放棄し、犠牲にし、この愛を宣べ伝えることを要求しました。

十字架は、何を語っているのでしょうか。「わたしは、あなたの創造主であり、また、あなたの救い主でもある。愛そのものである。わたしは、自分自身を犠牲にし、苦しみの人、悲しみの人となり、呪われ、罪とされ、救いの代価を払った」と。生ける真の神が愛そのものであり、ご自身を捧げてくださったゆえに、主は愛されることを要求しておられるのです。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。」これが、大切な第一の戒めです。けど、正直な人は皆、わかるでしょう。すなわち、自分の力で主の律法を、主の戒めを守ろうと思っても、うまく行かないと。イエス様の御許に近づき、言うべきです。「私は、守りたい。しかし、無理。できません。敗北者です。あなたが助けてくださらなければ、全く不可能です。私の内には何ひとつ良いものが宿っていません。」

自分の力によっては、全く自己中心的な生活を送ることしかできません。自分が降参することを公にすることは、普通の人間にとって最もいやなことなのではないでしょうか。すべての宗教は、はるかに受け入れられやすいものです。というのは、すべての宗教は、人間を中心に置き、人間が努力することを要求するからです。

けれど、生ける真の神は、人間が自分のダメな状態を認め、降参することを公(おおやけ)にし、砕かれることを望んでおられます。イエス様を愛する者は、イエス様を中心に据えたいと願います。

イエス様を愛さない人は、自分が中心になりたいと思っています。バプテスマのヨハネは、イエス様を愛した男でした。彼は、「イエス様は盛んになり、私は衰えるべきである」と、告白したのであります。イエス様に対する愛なしに、何かをすることは、肉的な行動をすることを意味します。そして、肉からは、何も良いものは出てきません。

ひとつのことは明らかです。すなわち、人間は、全く堕落してしまった者、また、自分のことだけしか考えられない者、そして、自分の力でもって、主を愛することはできません。しかし、自分の債務を告白し、自分の無力さをもはや、隠さず、ありのままの状態で主の御許に来る者は、次のことを経験します。

すなわち、イエス様は、ご自身の御許に来るすべての人を、喜んで受け入れてくださるということ。また、イエス様は、主に告白されるすべての債務を赦してくださるということ、そして、イエス様が、内側から新しくしてくださるということです。

人生の空しさ、罪の泥沼から解放されたダビデという王様は、主を愛した人でした。次のように告白しました。詩篇、十八篇、よく読む箇所です。

詩篇
18:1 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
18:2 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

どうしてダビデは、主を愛したのでしょうか。なぜなら、彼の多くの罪を赦していただいたからです。彼は、結局、赦されたと確信したとき、主を愛さざるを得なくなっただけではなくて、心から礼拝する者となりました。惨めさから脱出する道は、ただひとつ。箴言、ダビデの息子であるソロモン王は、次のように書いたのです。聖書全体の言っていることは、それでしょうね。

箴言
28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

聖書全体の言わんとしていることは、それなのではないでしょうか。もう一箇所、読んで終わります。皆さんも暗記している大切な、すばらしいことばです。

第一ヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

1:7 御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

ダビデは、この道を行く覚悟をしました。そして、もちろん後悔しなかったのです。

おわり

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