2013年4月9日火曜日

主のよみがえり(二)

主のよみがえり(二)
2013年4月9日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。


ヘブル
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きま
した。
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

ドイツのいわゆる宗教改革者であるマルチン・ルターは、もちろん、いろいろな人々に攻撃されました。ローマ法王によって迫害され、『ルターを殺す人は大いなる褒美をもらう』云々と・・・・。彼は、ずっと逃げ続けましたし、ある立派な家、お城を持つ人に誘われて、『ここで住めば安全です。』彼は、確かに悩みましたし、落ち込みましたし、奥さんが非常に賢い人だったらしいです。ある時、もうやっぱり死んだ方がいいと思っていたとき、彼女は黒い洋服を着たのです。ルターはびっくりして、「なんですか?」「私は、葬儀に行きます。」「誰が死んだの?」「あなたの神。」

そして、家の前の看板に、「ルター」をはずして「Er lebt」と書いたのです。意味は、「彼は生きている。」結局、主は生きておられる。結局、イエス様は復活なさいました。イエス様は、生きておられるお方です。

そして、このあいだ、よみがえりに基づく信仰生活の大切さについて、一緒に考えてまいりました。今日はちょっと、続けたいと思います。イエス様を通して初めて、内容ある人生と、はっきりとした目的を持った意味のある人生が確立されます。イエス様の御許に来るということは、もっとも大切であり、なぜならば、救われることだからです。主イエス様は、御許に来る人を、決して決して捨てないからです。永久的に受け入れられるに違いない。

最初、私たちは、何を手に入れるかを大切にします。たとえば、罪の赦し、まことの心の平安、変わらない喜び、生き生きとした希望を得ることとは、確かに大切ですけども、それから、さらに進行しなければならないのではないでしょうか。というのは、いつまでも元の状態にとどまることは、許されないからです。主を通して、私たちがいただいたものは、確かにすばらしい。しかし、さらに私たち自身が変わらなければならないのではないでしょうか。

まず第一に、主を知ること、そして、次に、イエス様と共に歩むことこそが要求されています。今、読んでもらいました箇所は、おもにアブラハムについての箇所でした。彼は、信者、すべての者の父、すなわち、信仰者の模範と言われています。彼の生活を通して、私たちは、次のことを知ることができます。すなわち、私たちの信仰生活にとって、もっとも大切なことは、死者をよみがえらせた方、すなわち、よみがえりの神との交わりを持つことです。

よみがえりに至る主イエス様の道は、十字架を通ってきました。我々の場合もそれと全く同じです。私たちも、自己を否定し、自我に死ねば、よみがえりに基づいた生活を送ることができます。どのような困難があっても、そのような困難を超越して、勝利者となることができる。

私たちは、よみがえりに基づいた信仰生活を送る時、その戦いの勝利は保障されています。五旬節の後、イエス様の弟子たちは、迫害され、徹底的に憎まれました。しかし、あらゆる攻撃においても彼らは、圧倒的な勝利者になることができました。

今日も、アブラハムの経験した七つの経験について、ちょっと考えてみたいと思います。

第一番目の経験は、次のようなものでした。

創世記
11:31 ・・・・彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。

アブラハムは、多くの人と同じように、自分の利益やこの世の財産を求めるという、自然の欲求を持っていました。自分のふるさとにおける安全と快適さは、アブラハムが好んだものでした。しかし、主は、『否』と仰り、別のところへ移ることを命令されました。アブラハムは、慣れ親しんだふるさとを離れなければならなかったのです。私たちは、我々の生涯について、どのように考えているのでしょうか。もし、主がすべてを捨てて、別のところへ移りなさいと命令したら、どういう態度を取るのでしょうか。

二番目の経験は、創世記、十一章三十一節の後半に書いてありますが、彼らは、カナンの地まで行く予定だったのですが、その途中のカランまで来て、そこに住みついてしまったと書いてあります。アブラハムの父は、中途半端なことしかできませんでした。つまり、何かを始めても、それは完成まで続かなかったのです。

多くの信者は、このアブラハムの父と同じことをしているのではないでしょうか。この世から引き出された者ですが、しかし、彼らは自分の財産や利益などのために、この世の誘惑に負けて、中途半端な状態に留まってしまう。

アブラハムの家族は、カランで非常に好ましい場所を見いだし、そこで、快適な生活をしました。実際、今日(こんにち)も、多くの信者は妥協してしまい、あれやこれやと心を動かしたりする適当な生活をします。しかし、それは快適な生活であるかもしれないけども、長い目で見ると、必ず後悔するようになります。主は、そのようなアブラハムの快適な生活に対して、『否』と仰り、アブラハムは、そのみことばに従いました。

創世記
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。

主は、我々の生活に満足しているのでしょうか。我々の生活は、妥協によって特徴づけられてはいないでしょうか。確かに、私たちは主イエス様にだけ仕えたいと思います。しかし、実際、心は燃えても、肉体は弱いということを経験し、そのため、あきらめてしまって、もう、どうなっても仕方がないと思う信者がいるのではないでしょうか。けれども、ここにおいても、主は、『否』と仰います。私たちが、自分の自我を捨てて、すべてを主に明け渡すときに、初めて、私たちは、内面的、霊的に成長することができます。

第三番目の経験は、次のようなものです。アブラハムは、そこから出て、カナンの地に着きました。しかし、妥協者であるアブラハムの父は、そこに着く前にカランの地で亡くなったのです。アブラハムは、そこでひとつの選択の前に立たされました。すなわち、彼は、ソドムとゴモラの周りの実り豊かな土地を取るべきか、あるいは、それよりも実りの少ない地域を取るべきかという二者択一です。

アブラハムは、実り豊かな地域を見て、それが気に入り、欲しいという気持ちを持ちました。アブラハムは、ロトよりも年上でしたから、選択の権利はアブラハムにあったわけです。アブラハムは、「主よ、私はどうしたらいいの」と祈り、そして、その時、主は『否』と仰り、アブラハムはそれに従いました。この場合にも、アブラハムは、自分自身の考えを大切にしないで、主の導きに従ったのです。結局、それは、結果的に見て、正しい選択であったことが判明いたします。

私たちは、自分の利益を取るのでしょうか、あるいは、『自分はどうなってもかまわない、ただ主の導きだけに従いたい』という態度を取るのでしょうか。そのどちらの道を選ぶかによって、私たちは、よみがえりの力を経験するか、しないかが決まります。

創世記
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。

四番目のアブラハムの経験とは、何だったのでしょうか?すなわち、次のことです。アブラハムは、敵に対する圧倒的な勝利者の後で戻ってきたとき、ソドムの王は、アブラハムに対して、贈り物によって、影響を与えようとしました。しかし、主は『否』と言われたので、アブラハムはそれに従い、何ひとつ受け取ることをしなかった。すなわち、この世から認められることを、意識して退けたのです。創世記、十四章二十二節、二十三節を見ると解かります。

創世記
14:22 アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。
14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」

このような態度を取ったのが、祝福されたアブラハムでした。この世の名誉は、何にもいらない。この世から認められることは、全く必要ない。これこそがアブラハムの態度であり、初代教会の祝福された秘訣でもあったのではないでしょうか。今日、しばしば見られることは、この世の手段でもって主に仕えようとしたり、この世から認められたいというような行ないなのではないでしょうか。ですから、そのような方々は、よみがえりの力を経験することができません。

アブラハムの第五の経験は、次のようなものです。主は、イシュマエルに対して、はっきりと『否』と仰いました。

創世記
17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。
17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」
17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」
17:19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
17:20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。
17:21 しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」
17:22 神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。

イシュマエルとは、肉の結果、すなわち、自分の努力の結果として生まれた者です。十三年間のあいだ、アブラハムは、主がイシュマエルを認めてくださるのではないかと思っていました。十八節、しかも、アブラハムは神に祈って言いました、「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように」とありますね。けど、主は違う。『否』と仰せになられました。それは、私たち人間の肉の努力とは結びつかないのです。そのためにアブラハムは、結局、主の『否』というみことばを了解せざるを得ませんでした。アブラハムは、主に従って、イシュマエルを追放しました。イシュマエルに対して、はっきりとした態度を取ったのです。

第六番目のアブラハムの経験とは、何だったでしょう。アブラハムは、神が決して、代用品を了解なさらないということを知っていました。

主なる神は、アブラハムとサラに一人の息子を約束してくださいましたが、そのために、主なる神は、人間の自分の努力や助けを全く必要としていなかったのです。主なる神は、奇跡を成してくださり、人間の目には全く不可能と思われたこと、すなわち、アブラハムとサラに一人の息子が生まれるということを実現なさいました。それから、神は、「このはしためをその子といっしょに追い出しなさい」と、アブラハムに命令なさいました。これは、また再び、主の『否』というご返事でした。主の『否』ということばは、常に自我の死を意味します。アブラハムもまた、我々と同じような人間でした。そのことは、二十一章の十一節に記されています

創世記
21:11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。

イシュマエルをのけものにするということだけでは、充分ではなかったのです。彼は、家族から追放されなければなりませんでした。主は、妥協に対して、長く忍耐することがおできになりません。アブラハムは、まず、ウルを捨て、次に、カランを捨て、それから、実り多いヨルダン平野を捨て、そして、今や、彼はイシュマエルをも、追い出さなければならなかったのです。分離は、深刻な、したがって、耐え難いほどのものとなってきました。けども、それによって、アブラハムは、信仰的、霊的に深まるようになり、成長したのであります。

第七番目のアブラハムの経験とは、次のようなものでした。本当に辛い分離がやってきました。二十二章、良く知られている箇所です。

創世記
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

だいたい三日間です。考える暇があった。主は、イサクに対して、『否』と仰せになりました。イサクは、主によって与えられた者であり、それは、本当に奇跡でした。わが子、イサクを縛って、祭壇の上に置くことは、アブラハムにとって、どれほど辛いことだったでしょうか。けれども、アブラハムは、その備えをしました。彼は主に、『しかり』と言いましたが、それは、彼にとってもっとも高価な代価でした。

私たちは、そのような状態からどれほど離れているのでしょうか。ローマ書の中で十三章、十一節に次のような文章があります。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。」今や、私たちも眠りから覚めるべきとき、また、主イエスに用いられるべきときが来ています。しかし、そのことは、自分自身に対して死ぬことによってのみ可能となる。

私たちは、アブラハムと同じように、主の『否』に対して、『しかり』と答え、それを了解することができるようになれば、本当に幸いです。

アブラハムとは、主に心からより頼んだ人であり、また、主の『否』に対する了解を学んだ男でした。結果として、絶えず、主をより良く知りたい、絶えず続く新しい成長が与えられたのです。

アブラハムの経験は何であったかと言いますと、アブラハムは毎回、主の『否』に対して『しかり』という態度を取りましたので、溢れるばかりの豊かな祝福を受けることができたのです。自我の死は、いつも、よみがえりの力の新たな経験に、私たちを導いてくれます。

そこで、最後に、アブラハムが自我に死ぬことによって、どのような祝福を受けたかについて、手短に見てみたいと思います。

まず第一に、アブラハムは、自分の故郷であるウルを離れる前に、主なる神からの祝福が約束されていました。そして、アブラハムは、主に忠実に従ったとき、主は偽らないお方であるということを、体験的に知ることができたのです。

第二に、アブラハムが、目的地の手前にあるカランの地に住む前に、主は、従順に対する豊かな祝福を約束してくださいました。それに対して、主は、アブラハムに、ご自身が真実であることを体験的に教えてくださり、アブラハムは、豊かな祝福にあずかることが許されたのです。

第三に、アブラハムがロトに土地の選択を任せたとき、そして、この世的には大変な損失を被ったとき、主は、次のように仰せになりました。

創世記
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」

アブラハムは、こう聞いたのです。そして、主に従いました。主に従ったとき、このすばらしい約束を与えられました。『私はどうでもいい』という態度を取ると、常に成長、拡張、豊かさが与えられます。

第四に、アブラハムがこの世の賜物(たまもの)、ソドムの王の贈り物を、断固として断ったとき、そのとき、初めて、主は、次のように仰せられました。

創世記
15:1 ・・・・アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。

ここで、『非常に』ということばが使われていますが、それは大切な意味を持っています。なぜなら、アブラハムがソドムの王からの贈り物を拒んだとき、天の王は、アブラハムに非常に大きな報いを提供してくださったからです。主のためにすべてを捨て、自分が認められることを少しも臨まない人は、主ご自身によって、溢れるばかりの豊かな恵みを与えられます。十五章の五節に記されているように、アブラハムは、上を、すなわち、天を見上げました。上、あるいは、天とは、豊かな報いを意味しています。なぜなら、まことの報いは、常に上から与えられるものであるからです。

よみがえりに基づく信仰生活とは、あらゆる環境、あらゆる不可能なこと、あらゆる人間に超越していることを意味します。

創世記
15:5 ・・・・「天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

この約束は、もちろん、我々にも与えられているのではないでしょうか。コロサイ書、三章の二節に書いてあるように、『地上のものを思わず、天にあるものを思』うと、豊かな祝福が与えられるとあります。

コロサイ
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

第五に、アブラハムがイシュマエルに対する神の『否』を受け入れ、そして、主なる神が、自分の息子を必ず与えてくださると信じた時、十三年後に、主はアブラハムに新たに啓示してくださいました。

十七章、二節、『わたしは、あなたをおびただしくふやそう』という約束が与えられました。

【参考】創世記
17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。

そして、第六に、アブラハムが、イシュマエルを追放して、主なる神の側に立ったとき、十七章六節の約束を与えられました。

創世記
17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

要求されることは、自分の力、また、努力に、より頼むことを止めること、そして、自分の思いどおりにことが進まなくても、主に信頼し、より頼むことです。そうすると、豊かな祝福が与えられます。

最後に、第七番目ですけど、アブラハムが自分のすべてであった息子、イサクを犠牲に捧げることをよしとしたとき、その時から、もっとも実り多い信仰生活の実行を始めるようになりました。アブラハムによって捧げられたイサクは、小羊なるイエス様を象徴するものでした。私たちは、イエス様が捧げられた犠牲のことを、思い起こすことによって、自分自身を新たに主に捧げようではありませんか。

我々の人生は、はたして、アブラハムの人生と同じようなものなのでしょうか。すなわち、主に対する全きより頼みの人生なのでしょうか。また、主の拒絶的な答えに対する了解の人生なのでしょうか。そして、絶えず続く、新しい成長の人生なのでしょうか。

パウロの人生の特徴は、アブラハムの人生の特徴と全く同じものだったようです。パウロは、次のように告白しました。

ピリピ
3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

そのよみがえりの力は、いかにして我々の人生において、有効なものとなることができるのでしょうか。それは、イエス様の十字架が、我々の人生において、本当の経験となることによって、実現されます。パウロは、有名なガラテヤ書、二章二十節で言ったのです。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる。

おわり

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