2013年4月2日火曜日

主のよみがえり(一)

主のよみがえり(一)
2013年4月2日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

一昨日(おととい)でしたかね、いわゆる、イースター、イエス様の復活された記念日でした。だいたい、日本のカレンダーには書いてない。たまに、日本のカレンダーも、役に立つ。どうしてであるかと言いますと、火葬場が空いているかどうか。けれども、おそらく、外国では、どこの国に行っても、イースター、復活祭と書いているのではないでしょうか。

日曜日だけではなくて、月曜日も必ず、休みです。もちろん、学校もそうですし、市役所もそうですし、やはり、お祝いするべきですけど、心からお祝いする人は――どうかね――喜びを持って、「我々の主は復活なさった。生きておられる」と言うことができなければ、悲劇的なのではないでしょうか。

もし、イエス様が復活なさらなかったならば、今日、このような集会はない。もしそうだったら、イエス様の死とは、いわゆる、殉教者の死にすぎなかった。我々とは関係のないものです。非常に残念なのは、イエス様の死を、十字架の上の死を信じた人は、一人もいなかった。

笑い話ではないか、当時の状況を見ると解かります。ユダヤ人は、ユダヤ人を十字架につけたことがない。一回も。今日まで。けど。イエス様ははっきり(言われた)、「わたしは、十字架の上で死ぬ」と。もちろん。これは、旧約聖書の預言の実現だけだったのです。

そして、イエス様が、「わたしは復活する」と言われたのは、笑い話ではないか。考えられない。もし、弟子たちぐらいにイエス様のことばを信じたならば、ちょっと悲しいけど、あと二日、あと一日、何時間かの後で、また会えるという確信があれば、いくら辛くても、三日間くらい食べなくてもいいよ。三日間くらい寝なくてもいい。もうちょっとで会える。信じた人は、一人もいなかった。人間とはそういう者です。イエス様は復活なさいました。イエス様は、生きておられます。

今日は、このイエス様のよみがえりに基づく生活について、ちょっとだけ、一緒に考えてみたいと思います。

イエス様を通して初めて、内容ある人生へと、はっきりとした目的を持った意味のある人生が、確立されます。イエス様の御許(みもと)に来るということは、結局、救われることを意味します。最初は、私たちが何を手に入れることができるかということに重点が置かれます。たとえば、罪の赦し、まことの心の平安、まことの喜びと生き生きとした希望などです。けど、時代は、それからさらに進行しなければならないのではないでしょうか。というのは、いつまでも、元の状態に留まることは許されないからです。すなわち、イエス様を通して、私たちがいただいたものは、確かにすばらしいことです。しかし、さらに、私たち自身が変わらなければなりません。

まず第一に、イエス様を知ること。そして、次に、イエス様と共に歩むことが必要です。すなわち、今、話したように、主のよみがえりに基づく信仰生活こそが、要求されています。

このような生活を送ったのは、アブラハムという男です。このアブラハムについて、すばらしいことが書いてあるのです。ローマ書、四章の十七節をお読みいたします。

ローマ
4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

もう一箇所、読みましょうか。ヘブル書の十一章、信仰の大切さについて書いてあります。

ヘブル
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

人間的に考えるならばバカ。出るけど、どこへ行くべきかは分からない。それなら出なくてもいいのではないの?でも、彼は出て行きました。

ヘブル
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

このアブラハムは、私たち信者、すべての者の父、すなわち、信仰者の模範と言われています。彼の生活を通して、私たちは次のことを知ることができます。すなわち、私たちの信仰生活にとって、もっとも大切なことは、死者をよみがえらせた方、すなわち、よみがえりの神との交わりを持つことです。

信者は、ただ単に、よみがえりの事実を信じるだけではなく、よみがえりに基づいて信仰生活を送ることが、どうしても必要です。これはいったい、どういうことを意味しているのでしょうか。それは、いろいろな状況や環境に動かされることなく、それらを超越した生活をするということに他なりません。

ちょうど、イエス様が復活して、父なる神の御座の右に座するようになったのと同じように、私たちもまた、本当のいのちを持っているならば、イエス様と共によみがえり、すでに今、天に移されているはずです。よみがえりに至るイエス様の道は、十字架を通って行きました。我々の場合も、それと全く同じです。私たちも自己を否定し、自我に死ねば、よみがえりに基づいた生活を送ることができます。私たちは、よみがえられた主との交わりを持っているのでしょうか。持っていないならば、それは私たち自身の責任です。なぜならば、自分勝手な道を行ったことの結果であるから。

私たちは、悪魔のせいとか、周囲の事情とか、他の人々のせいにしがちです。しかし、根本問題は、自分の自我にあることを知らなければなりません。

パウロの祝福された奉仕の活動は、刑務所に入れられることによって、中断されました。しかし、彼は、エペソ書、二章六節、すなわち、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と、書くことができたのです。

どのような困難があろうとも、そのような困難を超越して、勝利者となることはできます。私たちが、よみがえりに基づいた信仰生活を送る時、その戦いの勝利は、保障されています。

五旬節の後、イエス様の弟子たちは、迫害され、憎まれました。しかし、あらゆる攻撃においても、彼らは圧倒的な勝利者となることができたのです。彼らは、自分のことを忘れ、イエス様のために生きたい、イエス様に用いてもらいたいと心から思ったのであり、犠牲になったのです。私たちは、よみがえりに基づいた生活をすることの必要性に対して、イエス様によって、目を開いていただきたいものです。

ここで、もう一度、よみがえりに基づいた信仰生活とは、いったいどういうことなのでしょうか。少し考えてみたいと思います。

そのために私たちは、もう少し詳しく、アブラハムの生涯を見てみることにしましょうか。なぜならば、アブラハムは、死者を復活させる神を信じた人であったからです。アブラハムの生涯のおもな特徴は、次の三つにまとめられます。第一番目、主に対する全きより頼み。二番目、主の拒絶的な答えに対する了解。そして、三番目、絶えず続く、新しい成長の三つです。

まず、主に対する全きより頼みについて、聖書から見てみましょうか。すべてのことにおいて、アブラハムは、主により頼みました。なぜならば、自分自身は何もできなかったからです。したがってアブラハムは、主に従おうとするときには、どうしても、よみがえりの力を経験しなければなりませんでした。

我々と同じように、アブラハムも、また、おもに多くの過ちを通して、このことを学びました。三回、アブラハムは、自分勝手にことを行なってしまいましたが、その結果、罪の中に入ってしまいました。私たちも、自分の力で、何かをしようとするときはいつも、もはや、よみがえりに基づいた信仰生活を送ることができない。罪の真ん中に入り込んでしまうのではないでしょうか。

最初の失敗は、創世記の十二章に記されています。

創世記
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
12:11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
12:14 アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
12:15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
12:16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
12:17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
12:19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
12:20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。

アブラハムは、ちょっとだけ、約束の地にいました。しかし、それから飢饉がやってきました。もちろん、これも偶然に起こったものではない。そのため、アブラハムは、行ないに不安を感じ、エジプトへ出て行き、もはや、主を見上げる代わりに、自分勝手なことをしてしまった。

「私は、約束の地を自分自身の力で見つけたのではなく、それは主の導きによるものでした。だから、今、ここに発生した大飢饉も、私のせいではなく、主の責任によるものです。私を養ってくれるものは、今まで導いてくださった主ご自身である。」このような信仰を続けることができれば、アブラハムは本当に幸せでした。

しかし、実際は、残念ながら、彼は自分勝手なことをしてしまった。外側を見るならば、アブラハムは、より豊かになり、快適な生活を送っていました。しかし、内側を見ると、彼は妥協によって弱くなり、その結果、主は、彼が罪を悔い改めて、カナンの地に戻ってくるまでは、彼を導くことができなかったのです。

第二の失敗は、同じく創世記、十六章に書かれています。主は、アブラハムに一人の子供を約束なさいました。しかし、彼は考えました。「私たちは、今や、主に全くすべてを委ねることはできません。私たちにとっては、主のなさることは、あんまりにも遅すぎて、助けとはなりません。だから、自分たちの力で、何とかしなければならないことでしょう。」アブラハムは、こう思って結局、絶望してしまいました。

主は、アブラハムに息子をお与えになることを約束されました。しかし、その約束は、なかなか成就いたしません。アブラハムは、だんだん歳を取り、ついに八十五歳になってしまい、その望みはほとんどなくなってしまいました。彼は、それまで主と共に歩み、多くの幸いなことどもを経験してまいりました。しかし、今、息子を与えてくださるという主のお約束は、望みがなくなってまいりました。

人は絶望しますと、いろいろな違った反応を示します。ある人は、絶望状態に陥ると、諦めてしまいます。また、ある人は、逃れるために自分で何かしようとします。アブラハムの場合がそうだった。アブラハムは絶望しました。妻、サラは、子を産みません。そこで、妻サラは、仕え女(つかえめ)で名をハガルという、一人のエジプトの女をアブラハムの妾(めかけ)として与えました。

ハガルは、まもなくアブラハムの子を産みました。これは、いったい何を意味しているのでしょうか。アブラハムは、その行ないによって、『主なる神はできない、だから、自分でことを行なおう』という、いけないアブラハムの心を現しています。アブラハムは、『主は、望みの神ではない、私がやらなければ、主は成し得ない』という気持ちになってしまいました。

アブラハムは、絶望に陥りました。そのとき、アブラハムは主により頼まないで、自分でことを行ないました。その結果はどうだったでしょうか。悪魔が勝利を取りました。悪魔は、我々の状態を見て、大喜びのときがしばしば、あるのではないでしょうか。私たちは、口で、「主はできない。主はこの状態を解決できない。だから、自分でやろう」と、口でこそ、もちろん、言いませんが、しかし、実際の生活において、それをやっている場合が、往々にしてあるのではないでしょうか。

アブラハムは、何でもできる主を仰ぎ見ないで、自分で問題を解決しようと思ったのです。しかし、これは、肉の思い、自分の思い、すなわち、私たちは、徹頭徹尾、主に委ねることはできない、主の時が来るまで待つこともできない、時間がかかりすぎると。その結果、アブラハムは、エジプトの女ハガルと一緒になって、子供を作りました。

アブラハムは、第一回目の失敗の後、エジプトを離れましたが、今、また再びエジプトと結びついてしまいました。なぜなら、ハガルはエジプトの女だったから。そして、このことは今日に至るまで、ひとつの大きな悲劇の源となりました。なぜならば、イスラエル人の何千年もの敵は、ハガルの子孫であるアラビア人だからです。

第三の失敗は、創世記、二十章に書いてあります。結局、アブラハムはまた、自分を守るために、嘘をついてしまったのです。自分で心配するか、主に頼るかのどちらかです。イサクが生まれる前、アブラハムは、嘘をついて、自分の妻を自分の妹だと言いました。アブラハムは、不信仰のゆえに嘘をつきましたが、それは、彼が用心深くふるまおうとしたからです。

けど、彼の心配は全く根拠のないものでした。アブラハムの失敗は、よみがえりに基づかない信仰生活がどのようなものであるか、また、どのような実を結ぶものであるかを、我々に示しています。

しかし、それ以外の点では、アブラハムはよみがえりに基づく信仰生活を送り、全く主により頼んで、すべてを主に捧げました。私たちは、主の導きと主の助けがなければ、全く無力な者であるということを知るようになり、その結果、本当に、主により頼んだ信仰生活を送っているのでしょうか。アブラハムの祝福された生活の特徴は、今、話したように、主に対する全きより頼みでした。

もうひとつ、主の拒絶的な答えに対する了解、あるいは、主の『否』に対する理解だったのではないでしょうか。アブラハムは、これを願ったり、思ったり、望んだりしましたが、それに対して、主は、再三再四、『否』と言われました。この『否』という主のことばは、アブラハム自身の考えや目的の死を意味していました。しかし、その死に続いて、よみがえりが成就されたのです。

このよみがえりの力は、ただ十字架を経験すること、すなわち、自己否定の結果としてのみ、あげられるのです。この『否』という主のことばの意味、内容は、病気になったり、お金がなかったり、その他、いろいろな困った状態を意味しますが、しかし、そのような否定的な状態に対しても、『しかり』という肯定的な返事をすることができれば、祝福され、新しく生かされ、用いられるようになります。

アブラハムは、このことを何回も経験し、それに対して、七回、アブラハムは了解し、その都度、自分自身の死を、すなわち、自分自身の考えを否定することを学びました。それ以来、アブラハムは、勝利から勝利への信仰生活を送るようになったのです。このアブラハムとは、『信仰の父』と呼ばれるようになり、それだけではなく、『主なる神の友』と呼ばれるようになりました。

おわり

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