2013年4月21日日曜日

すべての不安と心配からの解放

すべての不安と心配からの解放
2013年4月21日、松山よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

マタイ
15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」
15:33 そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう。」
15:34 すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
15:35 すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。
15:36 それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。
15:37 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。
15:38 食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。

何年か前だったのですが、次のような話を聞きました。今まであまり良くない関係を持っていた親戚のことです。一人はイエス様を信じ、もう一人は、まだ、イエス様を信じていなかったのです。けども、話しの結論として、未信者が急に言いました、『今までのことは忘れて、今から、親しく交わりましょうよ』と、未信者が提案したのです。過ぎ去ったことは、もう終わったし、過ぎ去っているから、問題は今から。結局、今日からです。この態度を取ることこそが、考えられないほど、大切なのではないでしょうか。私はこの話を聞いたとき、本当に嬉しかった。なぜならば、聖書の言っていることと同じだからです。


イザヤ
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」

主は、全ての罪の赦しを提供しておられるお方です。主は、あらゆる過ち、わがままを許すことができるお方というだけではなく、赦したくて、赦したくてしかたがないお方です。すなわち、『今までのことはそれで(終わり)、親しく交わりましょうよ』と、主は呼びかけておられます。人間は、今、話したように、赦しあいましょうという気持ちを持つことはできます。けど、なかなか、忘れられません。何かあれば、思い出すのではないでしょうか。主は、赦してくださるお方だけではなく、忘れてくださるお方です。有名なイザヤ書の43章。

イザヤ
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。

旧約聖書の中で、何回もこういうことばが出てきます。もちろん、新約聖書にも同じことばが書かれています。

ヘブル
10:17 わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。

あらゆる人間にとって、どうしても必要なのはいったい何なのでしょうか。第一番目、変わらない喜びを持つことです、どういう状況に置かれても。第二番目、まことの平安を得ることです。心配からの解放です。三番目、前向きに生活することができること、結局、生きる希望を持つことです。

今日は、全ての不安から、心配からの解放について、一緒に考えたいと思います。どういう人々が、不安と心配から解放されるかと言いますと、『自分の過ち、自分の罪、自分のわがままは、イエス様の流された血によって赦された。忘れられている、私は永久的に、まことの神によって受け入れられた』と、確信できる人です。不安と心配は、我々の力を麻痺させてしまいます。その結果は、人は疲れを感じたり、何でもないことをするのにも、多くの時間と労力を費やしたり、神経を使い過ぎたりするのです。そして、仕事が我々をダメにするのではない。心配と不安が我々を損なうのではないでしょうか。

ダビデ王もまた、不安と心配をたくさん、持っていたようです。彼の祈りを読むとわかります。けど、彼は不安と心配から、解放されました。詩篇の40篇17節に、彼は正直に告白しました。

詩篇
40:17 私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方です。

ダビデは、あらゆる不安や心配を全て、主である助け手に明け渡すことによって、克服することができました。明け渡す秘訣、ゆだねられる秘訣とは、相手の力を知ることなのではないでしょうか。相手にとって不可能なことが無いと分かれば、安心して、全てをゆだねることができます。イエス様は当時の弟子たちに、同じことを教えようと望んでいたのです。すなわち、『わたしにとって不可能なことは無い』と。

イエス様は、今、読んでもらいましたように、ある時、五千人の人々、本当は男だけでした。イエス様は男だけで集会を持っていたと考えられています。男が四千人、五千人だったら、女性と子供はもう数えられない群衆でした。イエス様は、みんなに食物を与えられたとあります。この二つの奇蹟を比較してみようと思うとき、注意したいことは、今、話したように、五千人と四千人という数字の中には、女と子供は含まれていない。男ばかり。ですから、(全体で)何人になるのか、数えられない。まず、五千人の男たちをご覧になった時、イエス様は、彼らが羊飼いのない迷える羊のような状態にいるのを、心からあわれみました。他方、四千人の男をご覧になったとき、彼らが食べる物を何ひとつ持っていないことに、あわれみをもよおされていたのです。

イエス様が、何を言いたかったのかと言いますと、私にとって不可能なことはない。期待をもって待ち望めば、満足させられるようになり、それだけではなく、安心して、前向きに生活することができます。

この二つの奇蹟を通してわかることは、そこにおいて、人間の本当の姿が描き出されているということです。すなわち、彼らは羊飼いのない迷える羊と同じであり、羊飼いを持っていないように、まことの霊の糧をも、持っていないということです。また、この二つの奇蹟を通して、イエス様が欠けているものを満たすお方として、すなわち、よい牧者として、また、天から来られた生きたパンとして現れてくださったことをも、読み取ることができます。

まず、よい牧者として、イエス様はご自分のいのちを我々のために捧げてくださいました。

ヨハネ
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

自分自身を犠牲にします。そして、また、天からのパンとしてのイエス様は、御自分を信じた者たちに永遠のいのちを与えるために、御自身をささげてくださいました。

ヨハネ
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

主が信仰を与えてくださらなければ、人間は信じられないのです。

ヨハネ
6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」

もちろん、これについてだけ考えたら、想像できない。四十日間、水のない荒野(あれの)で彼らは生きることができた。一家族、二家族くらいならわかる。二百万人です。もう考えられない奇蹟です。

ヨハネ
6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

イエス様は、御自身の力をお現わしになり、そして、弟子たちが、この偉大なる主に、心から信頼することを、徹頭徹尾、信頼すべきことを知らせてくださいました。イエス様は何千人に対して、弟子たちが見ている目の前で、食物をお与えになりました。そして、また、イエス様は、自然をも、御自身に従わせることができると、明らかにしてくださったのです。

弟子たちが、水の上で非常に困った状態に陥ったことも、偶然に起こったのではない。イエス様の導きでした。彼らは、イエス様の一言によって、その瞬間、荒れ狂っていた波が鎮まったというすばらしいイエス様の御力を体験しました。嵐から静けさに、不安と恐怖からまことの平安に、絶望から主イエス様にあっての喜びに変わる。

イエス様の導きの目的は、ただ単に、弟子たちがイエス様の力と導きに信頼することだけでなく、イエス様の無限の可能性をも信頼することでした。イエス様にとって不可能なことはありません。イエス様は、全知全能の主です。したがってイエス様にとって、奇蹟も当然のことであったということを、弟子たちは知るべきでした。

当時の人々のイエス様に対する判断とはいったいどういうものだったのでしょうか。マルコ伝を見ると次のように書かれています。

マルコ
8:27 それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
8:28 彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」
8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。

当時、ある人々は、イエス様はバプテスマのヨハネだと言いました。すなわち、主なる神がバプテスマのヨハネをよみがえらせ、もう一度、新しい使命をお与えになったのだと。確かにイエス様は、ヨハネと同じように、罪に対しては厳しく戦いました。しかし、それだけではない。イエス様は、罪を赦す権威も持っていたのです。

また、ある人々は、エリヤだと言いました。エリヤとは、最も強い、大胆な預言者でした。確かに、イエス様も人間を全然、恐れないで、大胆に語ったのです。神の国を述べ伝えましたが、しかし、イエス様こそが神の国の王、そのものです。

また、ある人々は、預言者のひとりだと言いました。すなわち、悔い改めを迫る預言者として、主なる神がイエス様を遣わされたのだと思ったのです。けども、イエス様は預言を与えたお方というよりも、預言の成就、そのものでした。

そこで、イエス様は弟子たちに向かって直接、尋ねたのですね。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』その時、ペテロは弟子たちの代表として、はっきり言いました、『あなたは神の子キリストです。』すなわち、あなたはメシアであり、旧約聖書の全体が約束しているそのお方にほかならない。あなたは、父なる神の完全なみこころを行なうお方であり、悪魔を滅ぼして、永遠のいのちを与えてくださるお方です。あなたのために、旧約聖書が書かれました。あなたこそ世の救い主であり、来たるべき王です、と。

イエス様は、当時の弟子たちだけではなく、我々にも同じようにきいてくださるのではないでしょうか。「あなたは、わたしをだれだと言いますか」と。他の人が何と言っているかは問題ない。あなた自身が、この問いに対して何と答えるか、それこそが大切です。あなたはご自分の告白として、いかなる答えをなさるのでしょうか。

また、これらのことを、ペテロと同じように信じたとしても、その信じたことを日々、体験しているかどうかが問題です。他の人々が、あなたの日常生活を見て、イエス様がいかなるお方であるか、おのずから分かるのでしょうか。私たちはよく、ある兄弟姉妹を見て、そして、見た結果として、『イエス様、ありがとう、あなたさまは、すばらしい』と、思うようになり、礼拝せざるを得ません。なぜならば、多くの兄弟姉妹は、イエス様の大いなる力を表わす者、証明する者となったからです。

ペテロの告白は、もちろん、単なる頭の知識ではなかったのです。上から与えられた啓示の結果でした。ペテロの告白は、教養や理性によっては、決して与えられないものであり、まさに、上からの賜物に、ほかならなかったのです。ペテロはイエス様が、いかなるお方であるかを悟るに至り、イエス様を喜んだのです。自分の思いではなく、この告白の土台は、まさに、主のみわざでした。

パウロも結局、同じような体験をしたのです。有名なガラテヤ書1章12節で、彼は正直に言ったのです。

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

他の言葉で言いますと、主イエス様は、主なる神の我々に対する啓示です。『イエス様がわたしは何々である』と、よく言われた。それは単なる教えではなく、まさに、主なる神の啓示そのものでした。おもに、ヨハネ伝を読むと、『私は、何、何、何である』という言葉が何回も出てきます。ヨハネ伝から2、3箇所、読んでみましょう。

ヨハネ
14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

『理解せよ』ではない。分かったから信じるという者は、にせものです。理解はできません。何も感じられない、けど、与えられているからうれしい。この態度をとるべきです。イエス様は、『道徳的に高い生活をせよ、宗教家になれ、わたしの教えを勉強し、理解せよ』と、言ったのではない。ただ、わたしを信じなさい。問題は、イエス様を信ずるとはいったい何でしょうかね。

イエス様の言われた七つのみことばを通して、それを知ることができるのではないかな。

[1]パン

ヨハネ
6:35 わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

二回も、『決して・・・ない』と、強調されています。一度だけではありません。

ヨハネ
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

イエス様はこう約束してくださいました。いのちのパンとして、生けるパンとしてイエス様は、父なる神の贈り物を私たちに与え、永遠のいのちを与えるために、イエス様は来られました。

信じることとは、何でしょうか?イエス様のみもとに行くことです。信じるとは、いのちのパンを食べることです。すなわち、イエス様を自分のものにすることです。それによってのみ、心の飢え渇きは完全に満たされます。

エレミヤは、次のように告白しました、『私はあなたのみことばを見つけ出した』(エレミヤ15:16)。どうして、見つけたか?探したからです。聞く耳を持っていたからです。我々は皆、一応、耳を持っている。けど、聞く耳がなければあまり役に立たない。エレミヤは、『主よ、語ってください』という態度を取ったから見つけた。見つけたものを食べてしまった。私は食べました。結果、『あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました』(エレミヤ15:16)。信じることとは、食べることです。自分のものとすることです。

[2]光

ヨハネ
8:12 わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

イエス様は世の光として、罪の闇から明るみに出るようにと招いておられます。そして、光の中にまことのいのちを見い出すようにと、呼びかけておられます。信じるとは、この箇所によると、イエス様に従うことです。私たちは、イエス様に従っているのでしょうか。私たちの歩みは、光の中の歩みなのでしょうか。私たちは、自分の考えや動機を人に知られたくないと思うのでしょうか。私たちは、本当にいのちの光を持っているのでしょうか。ダビデは、告白しました。

詩篇
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

体験したからです。

[3]門

ヨハネ
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

イエス様は、単なる道しるべではなく、救いに至る門そのものです。この門を通る者は、すなわち、イエス様を通る者は救われます。

ヨハネ
6:37 わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

信じることとは、イエス様を通ることです。通って入る者は、救われます。イエス様だけが、唯一の父なる神に至る、ただひとつの門、ひとつの道です。イエス様なしに、主なる神に至ろうとする者は、反対に、あわれな悪魔の奴隷となってしまいます。救われることとは、イエス様によって受け入れられることです。

[4]道

ヨハネ
14:6 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

ただ、イエス様を通って行く者だけが、真理に至るのであり、永遠のいのちを見い出すのです。イエス様なしの道は、偽りの道です。今こそ、心の目を開けて、比類なきお方であるイエス様を受け入れたら、絶対に後悔はしません。信じるとはいったい何なのでしょうか、この御言葉によると、イエス様を通して、父のみもとに行くことです。

初代教会の宣べ伝えたメッセージのひとつが、使徒行伝に書かれています。

使徒行伝
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

[5]いのち

ヨハネ
11:25 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

罪の赦し(罪?)が、いのちに至る道を遮断しましたが、この問題をイエス様が完全に解決してくださったから、『わたしは、よみがえりであり、いのちそのものである』と、言うことができたのです。すなわち、イエス様を信じる信仰、そして、イエス様を心から受け入れることが、私たちを主なる神に、そして、真のいのちへと至らせてくれるのです。信じることとは、この箇所によると、永遠のいのちを持つことです。『死んでも生きる』とは、永遠のいのちを持つことです。

[6]牧者

ヨハネ
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

イエス様だけが、良い牧者です。そして、イエス様は、『他のものは偽りであるゆえ、わたしを信じ、受け入れなさい』と、人間ひとりひとりに迫っておられます。まことのいのち、完全な満たし、全き平安、本当の安全は、全てイエス様によってだけ与えられます。信じることとは、イエス様のものとなることであり、そして、イエス様のものになった人間は、イエス様を知っているのです。すなわち、彼らは、主の流された血の赦す力を体験的に知るようになりました。『赦されている、忘れられている』と、確信することができ、喜びの声をあげることができます。

イエス様を知ることが、考えられないほど大切です。イエス様について、いろいろなことを知ることは、けっこうですけど、十分ではない。イエス様だけという確信を持つことが大切です。

[7]ぶどうの木

ヨハネ
15:1 わたしはまことのぶどうの木です。

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

このような箇所を信じる人は、少ないのではないでしょうか。本当の交わりをもって初めて、ぶどうの木は、豊かな実を結ぶのです。イエス様はぶどうの木であり、私たちはその枝です。ここで動かすことのできない事実について書かれています。すなわち、枝は木とつながっていれば、うまくいくし、つながっていなければ、何をやってもむなしく、役に立たない。

イエス様と結び付いていない人は、残る実を結ぶことはできません。そのような人々の生活は的外れな生活です。イエス様と結びついていない人は、本当に気の毒です。実が残らないから。けども、イエス様との交わりをもっている人だけが、常に豊かに実を結んでいるのです。我々の人生は、実りのあるものなのでしょうか。もしも、そうでないならば、私たちは主と結び付いていないということの証明であることを、知らなくてはならない。

だからイエス様ははっきり言いました、『わたしを信じなさい。』自分でがんばりなさい、勉強せよではなかった。私を信じなさい。これこそが、イエス様の我々ひとりひとりに対する呼びかけなのではないでしょうか。イエス様を信ずることとは、いわゆる人間によって作られたキリスト教という宗教に入ることを意味しません。イエス様を信ずることとは、ある教会に籍を置くことでもないし、聖書知識を得ることでもないし、より良い人間になろうと努力することでもありません。イエス様を信ずることとは、ありのままの状態で、イエス様のみもとに行くことです。そして、イエス様を受け入れた者として、イエス様に従うことです。

そして、イエス様を信じる者は、イエス様を通る者であり、父のみもとに行く人です。そういう人々は受け入れられ、永遠のいのちを持つ者となり、そして、イエス様ご自身を知る者となります。主を体験的に知るようになった人は、イエス様から離れたくない。『イエス様をよりよく知りたい』と、切に望むようになります。イエス様にとどまること、イエス様とひとつになること、木と枝のように。これこそ、主が望んでおられることであり、我々の望むべきことなのではないでしょうか。

不安と心配から解放される道とは何でしょうか。今、話したように、イエス様をいのちのパンとして、世の光として、救いに至る門として、道として、真理として、いのちとして、また、よみがえりとして、良い牧者として、まことのぶどうの木として知ることです。

最後に2、3箇所、すばらしい聖句を読みます。まず、マタイ伝の6章、いわゆる山上の垂訓の中の一箇所です。

マタイ
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

そして、パウロがピリピにいる兄弟姉妹に書き送った箇所もすばらしい。イエス様の、今までに読みました個所と内容的に結局、同じです。

ピリピ
4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる(祈りと)願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

人間ではない、まず、主に知っていただきなさい。

ピリピ
4:7 そうすれば、(・・・結果として・・・)人のすべての考えにまさる神の平安(・・・神御自身の平安・・・)が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

イエス様はそう言いましたし、パウロもそう言いましたし、ペテロは、ペテロ第1の手紙に書きました。

第1ペテロ
5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

これを信じる人は本当にしあわせです。もうすでに、イザヤという預言者は告白しました。

イザヤ
12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

こういう集会の後で必ず、毎回、言われます。『忘れ物をしないように。』したって、いいじゃないの。前に、広島であったことです。イチロウ兄弟の奥さんが家出してしまった。3人の小さい子供を残して。ひどいよ。けども、彼のお兄さんは、アメリカに住んでいた姉妹もそうなんですけど、励まそうと思ったのです。そして、勧めたのです。今度、広島でよろこびの集いがあるから行きなさい。彼は来ました。集会は三時から始まったのですが、彼は一時半に来ました。ゆっくり話し合うことができたし、一緒に祈ることができた。小さい子供を一人で残してきたから、もちろん、集会には出ないで、そのままで帰らなければならなかった。一人の兄弟に広島の駅まで連れて行ってもらって、彼は、車から出た時にね、『忘れ物はないですか』と、きかれて、『ある』と言ったそうです。なに?自分の思い煩い。こういう意味でね、ここでも、忘れ物をしてもらいたい。絶対に後悔しないからです。


終わり

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