2013年5月7日火曜日

イエス様の血の尊さ

イエス様の血の尊さ
2013年5月7日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エペソ
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

コロサイ
1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

ヘブル
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。


黙示録
1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放(ってくださった方である。)

アメリカの初めての大統領は、ジョージ・ワシントンでした。彼は、1732年に生まれ、そして1799年に亡くなったんです。若かったんです、六十七歳で亡くなったんです。ちょっとだけ、のどが痛くなったんです。けど、急に亡くなりました。はっきり言えることとは、医者のせいでした。とんでもないミスをしてしまったのです。

たとえ健康な体でも、このような手当てを受けたら、間違いなく死ぬのです。というのは、今では、あり得ないことですけど、当時の治療とは、平気で行なわれました。今だったら、おそらく刑務所ではないでしょうか。結局、血を採ると健康になる。そして、医者は何リットルも血を採って、結果として死んだのです。考えられない話です。

けど、大統領が亡くなった時、ベッドのそばには、神のみことばである聖書が置かれていました。そして、その聖書の中に、こういうことばがあります。

レビ
17:11 肉のいのちは血の中にあるからである。

17:14 すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。

これは別に、孤立したことばではありません。聖書は、おそらく血液学の教科書を除いて、他のどんな本よりも、血とその重要性について、多くを語っています。けども、当時、ワシントンの時代には、血液の知識はなかったかもしれない。しかし、聖書を信じることはできたはずです。

無知と迷信のために、そして、何千年来、伝えられてきた単純明快な神のみことばを少しも信じようとしなかったため、犠牲となった命の数は、とても数えられないほどでした。

そして、肉体の死よりも、もちろん、霊魂の死のほうが、もっと悲劇的で、救いようのないものです。聖書では内面的な生活や、主なる神との永遠の関係に絡んで、血の重要性を説いています。この場合、重要なのは我々の血ではなく、別の血です。すなわち、私たちのために流された主イエス様の血です。

確かに多くの人には、信じがたいことでしょう。しかし、本当です。「血」は聖書の主題です。聖書には、初めから終わりまで、何百回も血のことが述べられています。すなわち、血を流すことなしに罪の赦しはあり得ない。さらに。「イエス・キリストの血が、すべての罪から私たちを清める」とあります。

「罪の報いは死である」とも書かれています。ここで問題になることは、これは単なる宗教的な迷信か、科学的な事実かということです。もし、事実としたら、それは全宇宙でもっとも重要な事実と言えましょう。私たちの永遠の運命は、その事実を受け入れるか、拒むかのどちらかです。神のみことばである聖書は、我々に今、話したように、理論や単なる教えを伝えようとしているのではない。事実そのものだけを伝えようとしています。

神のみことばである聖書の中でもっとも大切な事実は、主イエス様の成してくださった救いです。だから、「御子の血」ということばこそ、聖書の中心なのではないでしょうか。

第一ペテロ
1:18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

イエス様の血は、尊いものであるから、流された血は大いに愛されていることを意味します。考えられないほど愛されている証拠です。イエス様の流された血とは、単なる教えというよりも、唯一の救いの道です。もう一箇所、読みます。皆、暗記していることばです。

第一ヨハネ
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

これこそ、よいニュースそのものではないでしょうか。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

イスラム教という宗教は、何と言っているかと言いますと、神は子供を持っていない。けども、御子がなければ救いの道がありません。なぜならば、イエス様は、「わたしは、道そのものであり、真理そのものであり、いのちそのものです」と、自分自身を啓示してくださいました。

何年前か、よく統一教会に入った人は多かったのです。この統一教会のいわゆる原理講論の中で、「血」ということばは、一回も出てきません。意味は、統一教会の提供している救いとは、にせものです。なぜなら、人間の代わりに罪のない者が死ななければ、罪の赦しはあり得ないからです。私たちは、聖書の事実を頭の中に蓄えている知識として、知ることだけでは充分ではない。生活の中に、どうしてもその知識が満たされていかなければ、日々を生活することができない。それほどに体験的に知らなければいけません。

主なる神のご計画とは、いったい何なのでしょうか。ヨハネ伝、六章四十節を見ると、答えられています。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が(・・・・良い行ないをして、一生懸命、努力する者なのではなく・・・・)みな永遠のいのちを持つことです。

また、パウロもガラテヤにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのであります。

ガラテヤ
4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

主なる神のご目的は、人間がみな救われて、そして、神の子とせられた者がみなイエス様のみ姿に似せられることです。一人ひとりは、自分の強い点、また、弱い点を知っています。自分のいちばん弱い点も、めいめい知っているでしょう。そして、私たちは、イエス様の御心にかなう勝利の生活を願い、それがために祈りましたけど、その結末は敗北に終わったことがあるかもしれません。どうしてでしょう?

真(まこと)の土台を持っていなかったせいでしょうか。聖書の知識を持っていなかったせいでしょうか。確かに人間はみな、多くの悩みや苦しみがありますけど、それに対する主の備えは、ご自身の一人子である主イエス様です。英語でよく言われます。「Christ is the answer!」イエス様こそ、あらゆる問題に対する答えそのものです。

『それは私たちは知っている』と言われるでしょう。けど、もし、それを本当に知っているならば、どうして自分の力でがんばっているのでしょうか。自分の力で、勝利の生活を送ろうと努力するのでしょうか。パウロは、自分の信仰生活において、「勝ち得て余りある」と、証ししました。よく知られているローマ書、八章の最後の節です。

ローマ
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

パウロは、勝利の秘密を握っていました。それは、ガラテヤ書にあるとおり、「私が生きるのではなく、キリストが私のうちに生きている。」この勝利の秘訣を、パウロは知っていました。体験的に知るようになったのです。私たちは、自分で勝利の生活を送ることはできません。我々の内に住んでおられるイエス様しかできない。だから、我々の内にイエス様のみ姿が形造られてくるということを、本当に大切なことであると言わなければなりません。

多くの人は、悩んで、そして、考えています。主はどうして私を、このようなお取り扱いの中にお入れになるのでしょうか。私には、どうしてこんなに悩みがあり、苦しみがあるのでしょうか。それは、自分自身が死んで亡くなり、自分の内にイエス様が生きておられるという、真(まこと)の知識に達するように、主ご自身が導いておられます。

私たちは確かに、いろいろな願いを持っています。しかし、イエス様はそれに応えますときに、間違いなくイエス様を私たちにお示しになります。その他のどのような方法も、お取りになりません。

聖書全体の中心にしているのは何でしょうか。言うまでもなく、人間の罪とイエス様の血潮です。もちろん、このことについてもやはり、理論や教えは大切ではない。事実が問題です。神のみことばである聖書は、私たちの罪とイエス様の血潮の価値をはっきりと述べています。これに関して、ローマ書から読みます。

ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

主なる神も、人間も、悪魔も、罪の事実を認めています。罪の働きは三つではないかな。第一番目、主なる神に対して、隔ての壁ができたのです。二番目、自分に対して、良心の呵責が重荷となったのです。三番目、悪魔に対して、訴えの根拠になってしまったのです。

(一)確かに、主なる神に対して、隔ての壁ができてしまったのです。すなわち、最初の人であるアダムは、主なる神に対して不従順であったために、主なる神と人間とのあいだに隔てができてしまいました。すなわち、不義が罪が神と人とのあいだを隔てたのです。イザヤ書の五十九章二節をお読みします。ここではっきり、述べられています。

イザヤ
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

したがって、主なる神は、全人類はことごとく罪の下にあると言っています。

ローマ
3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

(二)罪によって、主なる神に対して、隔ての壁ができてしまった。それだけではなく、二番目、自分に対して、良心の呵責が重荷となってしまいました。罪を犯し、神とのあいだに隔たりができたために、人間には良心の呵責が生じました。主なる神の霊、聖霊なる神が人の心に働くとき、全人類はことごとく、罪の下にあることを悟り、自分は罪を犯したと認めるのです。放蕩息子の告白は、次のようなものでした。

ルカ
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」

罪の働きは、今、話したように三つですね。第一番目、主なる神に対して、隔ての壁ができてしまった。二番目、自分に対して、良心の呵責が重荷となった。三番目、悪魔に対して、訴えの根拠になってしまったのです。

(三)私たちは、良心の呵責を持っていますが、悪魔はそれにつけ込み、人間に、「お前は罪を犯した、ダメなどうしようもない者だ」と言います。悪魔は、訴える者として黙示録に書かれています。

黙示録
12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」

これは将来のことです。まだ、実現されていません。前に言いましたように、主なる神は、人間も悪魔も罪の事実を、もちろん、認めています。ですから、三つの事柄、すなわち、主なる神に対する罪、良心の呵責、そして、悪魔の訴えを解決することが考えられないほど大切です。

ところで、いったい、どうしたらこの三つの問題を解決することができるのでしょうか。先に言いましたように、人間のあらゆる困難、苦しみに対する主なる神の答えは、いつもひとつです。ご自身の御子である主イエス様ということです。

この三つの問題も、もうすでにイエス様によって、イエス様の十字架の犠牲によって、解決済みなのです。すなわち、主なる神と人とのあいだを隔てている罪という壁は、イエス様の血によって、もうすでに取り除かれました。主なる神と人間との交わりができるようになりました。それから、イエス様の十字架の血潮をよく知るならば、私たちの良心の呵責は消えてなくなります。また、私たちが、主の血潮の価値を深く知るなら、悪魔の訴えは効き目がなくなります。

このように、主イエス様が十字架で流された血潮の力は、無限に価値あるものです。主なる神に対して、私たちの良心の呵責に対し、また、悪魔の訴えに対して、十二分の効果を持っております。

私たちが、霊的に進歩し、成長を遂げたいなら、どうしても主の血潮の限りない力を知る必要があります。イエス様が、十字架におかかりになり、その時、流された血潮の絶大な価値を知らなければなりません。この知識なしに、主イエス様にお従いすることはできないからです。ですから、この三つのことについて、やはり、祈りながら聖書を読むべきなのではないでしょうか。

イエス様の流された血の三つの働きは、今、話したように、第一番目、壁の廃棄、主なる神との交わりが可能となった。二番目、罪の赦しが提供されています。結果として、喜びと平安に満たされます。そして、三番目、十字架の犠牲こそが、悪魔に対する勝利を意味しているのです。

ヘブル
9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

けども、イエス様の血潮が流されたから、私たちは大いに喜ぶことができます。

おわり

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