2013年2月5日火曜日

主の教育

主の教育
2013年2月5日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
6:45 それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。
6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
6:47 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
6:48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。
6:49 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
6:50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
6:51 そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。
6:52 というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。


イエス様は、当時、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われただけではなく、今日も、同じように呼びかけておられます。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」と、勧めているというよりも、命令されています。「しっかりしなさい。わたしだ。」

全部、イエス様のせいにすれば、非常に楽になる。どういう問題があっても、不幸があっても、イエス様が許しちゃったから、イエス様のせいです。そして、イエス様の導きは、もちろん、完全です。私たちには、理解できないのは決まっている。けれども、間違いなくそうです。

今日、おもにイエス様の導き、また、イエス様の教育、目的とは、いったい何なのでしょうかという質問について、一緒に考えてみたいと思います。答えは二つです。第一番目、イエス様のご栄光を明らかにすることであり、もう一つは、主の御姿に変えられるためです。

まず、第一に、イエス様、ご自身です。イエス様は、ご自身を現したく、思っておられます。私たちは、自分が本当に取るに足りない者であるということを、よく知っているのでしょうか。私たちは、自分の状態、あるいは、絶対に良くならない自分中心の生活を、本当に知っているのでしょうか。

すべてのことにおいて、イエス様はご自身を啓示したく、思っておられます。私たちがイエス様に出会って、イエス様を体験的に知るようになったのは、もちろん、主のあわれみ、恵みの結果です。そして、私たちが、イエス様に出会って、体験的に知るようになって、初めて、我々の苦しみや悩み、あるいは、あらゆる問題が解決されるのです。

今日の箇所を見ると、イエス様が舟に乗り込まれると、風がやんだと、記されています。これは、あらゆる問題が解決されることを意味します。イエス様は、私たちに、ご自身をより多く、啓示したく思っておられるのです。しかも、私たちを通して、他の人々に、ご自身を現したく思っておられます。
弟子たちを教育する目的は、弟子たちがイエス様の権威を、より良く知ることによって、それを確信し、イエス様に完全に拠り頼むようになることでした。弟子たちがイエス様を徹頭徹尾、信頼することこそ、主が求められた目的でした。弟子たちは、どれほど多くの不信仰があったことでしょうか。

信仰とは、イエス様に対する絶対的な信頼に他なりません。この信仰がないと、自分のことばかりを考えるようになるのです。不幸になろうとする者、イエス様の力を知ろうと思わない人は、自分のことばかりを考えるのもいいでしょう。

また、信仰とは、主の全能なることを確信することです。この確信がなければ、常に疑惑が起こってきます。疑いの結果は、信仰生活の麻痺、そして、喜びのない状態です。

信仰とは、目に見えないものに目を注ぐことです。これが欠けると、目に見えるものに対して、不安や心配を感じるようになるでしょう。そして、それによって、主は、栄光をお受けになりません。

主の導き、また、主の教育の目的は、主ご自身のご栄光を明らかにすること、そして、それと結びついて、主ご自身に似た者に造り変えられることです。私たちは、イエス様を見上げ、常に主を体験している時に、自ずから、そのような者に造り変えられていくことです。よく知られている箇所ですけども、コリント第二の手紙の三章十八節を見ると、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹の成長のために、次のように書いたのです。

第二コリント
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

教育とは、自分自身の努力や試みによって起こるのではなく、ただ主を見上げることによって、主を見上げて歩む時にのみ、実現されます。教育者であるイエス様は、決して、命令なさるのではなく、ご自身がお手本となっておられるのです。私たちは、主に似た者になりたいと思うならば、この世の見えるものに目を奪われることなく、見えないものに、イエス様に目を注がなければならない。

次に、第二点、すなわち、主の導き、また、主の教育の手段について、ちょっとだけ一緒に考えたいと思います。教育の手段とは、まず第一に、もちろん、イエス様ご自身です。さらに言うならば、まず模範的な祈り人、次に、自然を従わせる権威を持ったお方、そして、すばらしい慰め主であられるイエス様を、より良く知ることです。

イエス様について考えると言えることは、イエス様は、真に模範的な祈り人でした。イエス様は、だた一人、山で祈られました。イエス様は、再三再四、退けられて一人でお祈りしたのです。私たちにとっても、主イエス様と同じように、一人で静かに祈り、主との交わりを持つことが、どうしても必要です。さもなければ、悪魔の虜(とりこ)になってしまうのです。

マタイ
14:23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。

マルコ
6:31 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。

似ている箇所はいっぱいあります。

ルカ
9:10 ・・・・イエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。

そういう文章は、いっぱいあります。結局、イエス様は、弟子たちにも、静かなところへ行き、祈ることを命じられました。静かな時を持つということは、何もしないということではなく、主を深く思い、主に深い祈りを捧げて、交わりを持つことを意味しております。イエス様でさえも、祈りの生活の必要性を感じておられました。イエス様は、私たちよりもはるかに、忙しいお方でしたが、それにもかかわらず、静かな時を持つために、その時間を作られました。

現代人の多くは暇がないと言うのです。どうして?時間を作らないから。作ろうと思えば、誰でもできる。イエス様は、いつも考えられないほど忙しかったけど、時間をいちばん、大切なことのためにお作りになりました。

マルコ
1:35 イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
6:47 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。

5:16 (主)ご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

6:12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

こういう文章が、次々と出てきます。これらの箇所は、イエス様の祈りの生活の一部を描き出しています。我々の祈りの生活は、いったいどうでしょうか。私たちも同じように、祈りの生活に励むようにと、主は命令しておられるのです。旧約聖書の中で、「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」(第一歴代誌16:11)とあります。

主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。絶対に後悔しない。溢れる祝福を経験します。また、有名な山上の垂訓。

マタイ
7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

主をより良く知るために、主の祝福を経験するためには、条件があります。「求めなさい、探しなさい、たたきなさい。」とあります。

マタイ
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。

ルカ
18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

ヨハネ
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

このように約束されています。

エペソ
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

テサロニケのこの箇所は皆、覚えています。

第一テサロニケ
5:17 絶えず祈りなさい。

三つのことばだけ。けど、考えられないほど大切です。

ヤコブ
5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。

これらのみことばから明らかなように、主は、私たちが絶えず祈り、求めることを要求しておられます。けれども、祈るためには、いくつかの条件があることを忘れてはなりません。歴代誌の下を見るとこの条件について、次のように書いてあります。

第二歴代誌
7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

「もし、あなたがたが心を尽くして、わたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」云々とあります。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」と、イエス様は約束してくださいました。「ですからあなたがたは、お互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」「義人の祈りは、働くと大きな力がある」と、ヤコブ書5章16節にも約束されています。『求めるものは何でも、神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです』と、ヨハネ第一の手紙、3章の22節にあります。

今までに第一番目、主が祈り求めることを命じられたこと、そして、二番目、その祈りが満たされるための必要条件について考えてきましたが、これから、三番目ですけど、祈りに対する主の答えについて、ちょっと考えてみたいと思います。

詩篇
91:15 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。

イザヤ
58:9 あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。

『彼らが呼ばないうちに、わたしは答え』るとも、約束されています。求めなさい。そうすれば与えられます。

ヨハネ
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

すばらしい。嘘を知らないお方の約束です。ここでもう一度、先ほどの箇所、すなわち、マルコ伝、六章四十六節から四十八節までのところに戻って、模範的な祈り人としてのイエス様について、もうちょっと、考えたいと思います。

マルコ
6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
6:47 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
6:48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。

イエス様は祈られて、弟子たちが困っているのをご覧になりました。

一般的に言って、主の御前で静かに祈る者は、ひとつの問題を見る場合にも、高い次元から見ることができ、普通の人よりも、はるかに多くのことを見通して、その問題に対する解決への導きをも見いだすことができるのです。

イエス様は、その時に弟子たちの苦しんでいるのをご覧になりましたが、もちろん、今日でも、我々の信仰生活のあらゆる事柄を見ておられるのです。

創世記
6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

みな、いつも悪いだけ・・・・このように主は、ノアの時代にも人々の心をご覧になりました。主は、常に我々の考えや思い、また、動機などを見ておられるのです。いかなる罪をも主の前に隠すことはできません。

我々の生活の中で、債務という問題はどうなっているのでしょうか。すべてを忘れようとする試みは、まったく空しいものです。債務はあくまでも債務であって、ただちに支払われない限り、いつまでも残るのです。債務を支払われた者だけが、罪を赦すことができるのです。そして、そのことをイエス様が成してくださいました。このようにして、イエス様が、十字架でご自分のいのちを、尊い代価として捧げてくださったゆえに、今日も、その福音を提供していてくださるのです。このすばらしい救いを自分のものにすることができるのは、考えられないあわれみなのではないでしょうか。

出エジプト記
3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。

主は、モーセの時代においても、エジプトがイスラエル人をしいたげているのをご覧になりました。しかし、イスラエル人をエジプトから救い出してくださり、完全な救いを成し遂げてくださいました。

イエス様を知らない者は誰でも、悪魔、罪、この世の奴隷となっています。本当の解放は、ただイエス様だけが実現してくださることがおできになります。我々の場合には、私たちを不自由にし、喜びを失くさせるような、我々を支配している事柄があるのでしょうか。イエス様は、それらのものをご覧になるだけではなく、実際に、それらのものから解放してくださるお方です。

詩篇の作者であるダビデは、また、次のように書いたのであります。一つの告白でもあります。

詩篇
34:16 主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。
34:17 彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

これこそダビデの証しであり、体験でした。ノアの時代、また、モーセの時代だけではなく、ダビデの時代にも、主はすべてをご覧になり、あらゆる苦しみや悩みから、ご自分の民を救い出してくださったのです。歴代誌下の十六章九節、非常にすばらしい、絶えず覚えるみことばではないでしょうか。

第二歴代誌
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

したがって、私たちの心が、主と全く一つになっているかどうかということが、いちばん、大切な問題です。

主の導きの手段とは、教育の手段とは、今、考えたように、まず第一に、イエス様ご自身であり、すなわち、模範的な祈り人であるイエス様、次に、第二番目、自然を従わせる権威を持つお方であるイエス様です。

前に読みましたマルコ伝、6章48節の後半に、「主は湖の上を歩かれた」と書いてあります。しかし、今日、このみことばの終わりに疑問符を打ち、この事実を認めないばかりか、批判する動きさえ、強まっているのではないでしょうか。しかし、イエス様を本当に体験した者は、この事実を少しも疑わずに、全知全能なる主が、それをする力を持っておられることを確信しているのです。

来るべきメサイアの支配と権威は、すでに旧約聖書で預言されました。おもに、イザヤ書の中です。クリスマスの頃に良く、引用される箇所です。

イザヤ
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

マタイ
8:27 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

イエス様が、『力ある神』と名付けられていることからしても、主イエス様が自然現象をも支配し、湖を静め、歩かれたことは、決して、不思議なことではなく、いわば、当然のことだったわけです。けども、風や湖を静めるなどということは、主イエス様にとって、それほど大したことではありませんでした。なぜならば、イエス様は、はるかに大きな御業を成されたからです。すなわち、罪を赦し、ご自分の力でよみがえり、永遠のいのちをお与えになられたのです。マタイ伝の九章の中で、この事実について、次のように書き記されています。

マタイ
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。

ヨハネ
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。

17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

イエス様は、十字架の死、また、復活の後で、弟子たちにこう言われました。

マタイ
28:18 わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

エペソにいる兄弟姉妹たちに、このイエス様の偉大さを伝えるために、パウロはまた、書いたのです。

エペソ
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

ペテロも、このイエス様の偉大さ、与えられた場所について、また、書いたのです。

第一ペテロ
3:22 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。

イエス様は、すべての力と権威を持っておられますが、私たちの中では、イエス様の存在は、どのようになっているのでしょうか。

イエス様は、我々にとって見知らぬ人なのでしょうか。もしそうならば、私たちには神なく、望みなく、永遠の滅びに至る道が横たわっているだけです。それとも、イエス様は、私たちの救い主となっておられるのでしょうか。救い主になっておられるなら、私たちは、主との平和を持ち、罪を赦されて、永遠のいのちを持っているのです。しかし、イエス様は主となることを望んでおられるのです。

私たちの生活の中に、イエス様が中心となっておられる時にのみ、私たちは、イエス様と共に遺産を受け継ぐ者となることができ、ことばに言い尽くせないほどの栄光にあずかることができるのです。すなわち、イエス様と共に御座に着くという特権にあずかることができます。

主の導きの目的、主の教育の手段とは、今、一緒に考えてまいりましたように、まず第一に、イエス様ご自身であり、すなわち、模範的な祈り人であるイエス様、次に二番目、自然を従わせる権威を持つお方であるイエス様です。

最後に三番目、すばらしい慰め主であるイエス様です。

マルコ
6:50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

このみことばは、簡単な気休めではなく、このみことばの背後には、全能なる主が立っておられます。私たちは、本当に、主に拠り頼んでいるのでしょうか。我々の目に見えるあらゆる恐れや不安、心配ごとなどから目を転じて、ただ主イエス様だけを見上げましょう。

私たちは、自分自身を見たり、他人を見たり、あるいは、自分の感情、考え、意思などを大切にすることなく、絶えずみ、ことばを第一としなければなりません。おもにイザヤ書、いわゆる旧約聖書の福音書の中で、すばらしいことばがいっぱい出てきます。

イザヤ
43:1 イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

41:13 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。

全部、複数形ではなくて、単数形に書かれているから、ありがたいのではないでしょうか。なぜイエス様は、このようなことばを言われたのでしょうか。言われた目的とは、いった何なのでしょうか。答えは、ヨハネ伝十六章の三十三節でしょう。

ヨハネ
16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

主の導き、主の教育の手段とは、いったい何なのでしょうか。今、考えたように、主ご自身です。もう一つ、患難なのではないでしょうか。しかもそれは、最大の苦しみです。

マルコ伝、六章四十五節を見ると、イエス様が弟子たちを強いて船に乗り込ませたことがわかります。すなわち、イエス様に従う時には、必ず患難がやって来るということです。しかし、このような患難を通して、主は、一つの決まった目的を達成しようとしておられるのです。

教育というものは、一朝一夕にして出来上がるものではなく、長い時間をかけて、少しずつ出来上がっていくものです。ここでも、弟子たちの場合、イエス様の教育を、完全に学ぶことができなかったため、訓練を繰り返して学ぶことはなかったんです。マルコ伝、四章三十五節から四十一節を見ると、その以前にも、弟子たちが激しい波風を見て、あわてふためき、弟子たちに向かってイエス様は、「信仰がないのは、どうしたことです?」と言われたことが記されています。

マルコ伝、六章の場合には、事情は非常によく似ています。なぜならば、この場合にも、風が吹き、波が立っていたからです。そして、この時も、弟子たちは、不安と恐れでいっぱいでした。しかし、この場合には、イエス様が遠く離れた所におられたため、前の場合よりも、さらに悩みが大きかったことが解かります。

イエス様が弟子たちのところにやって来られた時は、すでに明け方の三時か、四時ごろだったと記されています。したがって、弟子たちは非常に長いあいだ、困り果てていたことが解かります。すべての望みが消え果たときこそ、イエス様が登場なさる時です。その時、初めて主は、我々に救いの御手を差し伸べてくださるのです。

おわり

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