2013年2月19日火曜日

鷲のようになろう

鷲のようになろう
2013年2月19日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

詩篇
62:1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

62:5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
62:6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。
62:7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ

今、読んできてくださった箇所は、ダビデ王の告白でありまた、祈りでした。主の救いを黙って待つのはよい。似ている箇所は、いっぱいあります。


ダビデは、心から、「私のたましいは黙って、ただ、神を待ち望む。私の救いは神から来る。」こういう態度をとる者は、必ず、主の栄光を体験的に知るようになり、主を拝まざるを得なくなります。

現代人にとって、もっとも大切なのは、静まること。すなわち、主の前に静まること。「主よ、語ってください。しもべは聞いております。」もし、私たちが、本当に、正直に偽ることなく、主の前に出るならば、私たちも、自分が疲れて、無能力で、たゆむ者であることを、告白せざるを得ないのではないでしょうか。

私たちが、率直に反省するならば、実際に、多くの者が疲れ、無力で、たゆんでいることを認めざるを得ません。わずかな信者だけが、鷲のように、翼をかって、上ることができるということを自分のものとしているのです。この鷲のような翼をかって上ることこそが、あらゆる勝利の秘訣そのものです。

我々の信じている方とは、どういうお方でしょうか。詩篇の作者は言いました。「主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは固く立つ。」すなわち、我々の主は、無いものを有るもののようにお呼びになるお方です。主が仰せられると、命じられると、結局、無から有が出現し、死んでいた者が生きかえることが、実現されるのです。

そして、その主なる神は、力と活気を持っておられるお方です。私たちの側は、どうかと言いますと、ただ、無力さ、疲れなどが満ちております。しかし、主の側はどうかと言いますと、そこには、全知全能の力があることが解かります。聖書にその方について、何と書いてあるかと言いますと、『造り主なる主は、全知全能なるお方であり、我々の敗北を勝利へと代えてくださる』という、すばらしい約束を我々になさっておられるのです。

この詩篇の作者であるダビデは、本当にすばらしく、主を褒め称えたのです。もう一回、読みましょうか。

詩篇
62:5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
62:6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。
62:7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

我々の主は、本当に我々の逃げ場、そのものです。

聞こうと思う者、聞こうと望む者は、もちろん、聞く耳を持つようになります。主の前に静まらない者は、主の語ることを聞くことができないし、主の語ることを、聞かない者は、主に従うこともできません。

その不従順の結果は、主の祝福にあずかることができない。主を待ち望むということは、すべてを主に明け渡すこと、徹頭徹尾、主に拠り頼むこと、すなわち、主のみことばに従うこと、そして、主、また、主の導きに、本当に信頼することを意味します。

そして、また、主に拠り頼むこと、主を信頼することは、自分自身を意識的に信頼しないこと、また、あらゆる人間的な助けに、より頼まないことを意味します。主に委ねること、主の助けを求めることこそが要求されています。自分の不完全さを知っている者は幸いです。

その人は、主の御前に静まり、主の力と主の強さを、豊かに経験することが許されているから。主に頼り、主に信頼する。これこそが大切です。結果として、我々の弱さの代わりに、主の力が現れるからです。それだけではなく、高められた生活にあずかる者となる。みことばは言っています、「彼らは、鷲のように翼をかって上ることができる」と、あります。

【参考】イザヤ
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

有名な音楽家であるヨハン・ゼバスチャン・バッハは、「我、喜びて、十字架を担わん」というカンタータの中で、次のように表現しています。「その時、私は、主にあって、力を得、鷲のように激しく、この地上から飛び立ち、うむことなく、飛び回るだろう」と。

鷲という鳥は、みなさん、ご存知のように、鳥の中でただひとつ、いちばん高く、飛ぶことができる鳥です。その鷲の飛ぶ様子は、あまりにも高すぎるために、望遠鏡なしに見ることができないほどです。そして、これこそが、我々、信じる者が本当に属する場所で、すべてのものに勝って、高い座です。

私たちは、イエス様と共に、高く引き上げられているか、さもなくば、地上のことばかりを考えるかのどちらかです。ここで、地上のことばかりを考えると、地上のことによって縛られ、がんじがらめに束縛され、地上の重荷を負わせられていることを意味しているのです。

多くの信者は、羽根の破れた鳥のように、飛ぶことを考えず、せいぜい、地面の上を歩きまわることくらいしかできません。我々の弱さの代わりに、主の力が現れなければならない。また、高められた生活にあずかる者となることも大切であり、また、主の奇跡的な行ないを、明らかにすることも、どうしても必要です。

走ってもたゆまないということは、ちょっと、普通の状態ではないでしょう。普通は、百メートル、二百メートル、四百メートル、八百メートル、走った後で、もう疲れきってしまうということでしょう。

けれども、主を待ち望む者、主の前に静まる者、徹頭徹尾、主に拠り頼む者は、走ってもたゆまないと体験することができます。そして、超自然的、超人間的な力が約束されています。なぜならば、超人間的な課題が、我々を待っているからです。

奇跡を行なう主と結びついている者は、ある意味において、もはや、普通ではない。その人は、走ってもたゆまないのだから。パウロも、この超人間的な力を、次のように告白しました。

第二コリント
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

このパウロの言っていることばの内容は、決して、普通の事柄ではない。普通は、四方八方から苦しめられると、人間は窮してしまうのです。途方にくれたり、迫害されて、倒されたりする者は、普通はあわれな者です。けども、主と結びついている者は、鷲のように、翼を持って、飛び立つことができる。走ってもたゆまず、前進できるのです。

主の前に静まり、本当に、イエス様を待ち望む者は、羨ましがられるはずです。なぜなら、超自然的な力が、その人を満たすからです。イエス様は言われた・・・・というよりも、叫んだのです。

ヨハネ
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

こう、書き記されています。

ヨハネ
14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のとに行くからです。

イエス様は、こう約束してくださいました。我々の中から、本当に生ける水が流れ出ているのでしょうか。私たちは、イエス様が言われたわざよりも、さらに一層、大いなる大きなわざを成しているのでしょうか。ひとつのすばらしい約束が記されています。

ヨシュア
23:10 あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。

すばらしい約束です。主に頼ると、我々の弱さの代わりに、主の力が現れます。私たちは、高められた生活にあずかる者となり、我々を通して、主の奇跡的な行ないが明らかになるのです。

結局、まとめてみると、圧倒的な勝利の日常生活を体験することができるということです。歩いても疲れないというところには、『走っても疲れない』ではなく、『歩いても疲れない』と、書かれていることに注意しましょう。『歩く』ということばは、私たちの日常生活の行ないを表しています。多くの場合、普通に歩くことよりも、走ることの方が易しいことがあります。実際生活の中で、主と共に歩むということは、もっとも難しい試練でもあります。

昔むかし、だいたい六千年前かな、エノクという男は、天に引き上げられた。死を見ないで、そのままで行ったのです。聖書は、創世記の五章二十二節、彼について何と言っているかといいますと、一文章だけですけど、大切な事実です。「エノクは、神とともに歩んだ。」自分勝手に動いたのではない。神とともに歩んだ。

ヘブル
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

信仰がなくては、すなわち、主の前に静まることなくしては、主に喜ばれることはできません。エノクと同じように、(エリヤも)天に移されました。列王記、上の十七章ですけど、エリアについて書かれています。

第一列王記
17:1 ・・・・私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。・・・・

17:3 ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
17:4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
17:5 それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。・・・・

ここで大切なことは、主なる神が言われたそこのところで、主が養われるということです。主が遣わされたそのところで、主が養ってくださるのです。そして、エリヤが、主に忠実に従ったため、彼は、圧倒的な勝利の生活を経験することができました。

ダビデも、同じことを経験しました。エノクだけではなく、エリヤだけではなく、ダビデも経験しました。ダビデは、この地上のすべてのものから目を離し、ただ、主にのみ従って行くことを、決心しました。目に見える現実を見ると、勇気を失います。がっかりします。落ち込みます。ダビデは、それを解かったから次のように言いました。『私はいつも・・・・』たまにだけではなくて、

詩篇
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

信じる者の中にも、敗北か、恥とすべきことがたくさんあります。どうしてでしょう。いったい何が原因なのでしょうか。なぜ、私たちは、疲れ、たゆみ、そして、つまずき倒れるのでしょうか。

前に言いましたように、原因の第一は、私たちを満たすものの源を知らないから。また、提供されたものを受け取ることを怠ってしまうこと。なぜ、しばしば、私たちは、失望、落胆し、問題の前に途方にくれ、自分のみじめさや失敗にきずくのでしょうか。そのような状態の時に、私たちは、詩篇の作者が感じたことを理解することができるのではないでしょうか。すなわち、詩篇、五十五篇の六節を見ると、次のように書かれています。

詩篇
55:6 そこで私は言いました。「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを。
55:7 ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。セラ
55:8 あらしとはやてを避けて、私ののがれ場に急ぎたい。」

ダビデという詩篇の作者は、最初は、遠くへ逃げるために翼が欲しかった。しかし、そのように逃げるための翼を、主は、決して与えません。その後で、ダビデの問題を解決する鍵が与えられたため、彼は言えたのです。

詩篇
55:22 あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

本当に、すばらしい約束なのではないでしょうか。今や、ダビデは、逃げるための翼ではなく、高く飛び立つための羽を与えられました。自分の重荷を主に委ねる者は、決して、ゆるがされることがないと、心から告白したのです。

悩みや苦しみ、そして、立ちはだかる困難の山は、私たちが主の前に静まるため、私たちが本当に主を待ち望むために、必要なものです。主の前に静まる者、主を待ち望む者は、次のようなことを経験します。

すなわち、主が重荷を取り去ってくださり、問題を解決してくださるので、私たちは自由な者となり、鷲のように翼を持って、飛び立つことができるということです。我々の失敗や敗北の原因は、私たちを満たすものの源を知らないことです。そして、私たちの場合には、もはや無知の問題にとらわれることなく、ただ主だけを中心にする必要があります。

なぜならば、主はみことばを通して、自分を現してくださるのです。イザヤ書、四十章、よく言われることばです。後ろにも、書かれていることばです。重田豊子姉妹が書いたものです。

イザヤ
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

我々の敗北、我々の失敗の原因は、提供されたものを受け取ることを怠ることです。ヨシュア、また、カレブという二人の男は、当時、提供されたものを受け取りました。民数記の中で、彼らについて書いてあります。

民数記
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

彼らは、主のみことばを真理として受け取り、約束されたものを自分のものとすることができたのです。

最後に、新約聖書の中から、もう一つの実例を見てみましょうか。すなわち、ヨハネ伝、四章に出て来るサマリヤの女です。彼女は、初めは、自分を満たしてくれるいのちの泉については、全く無知でした。けども、イエス様は、彼女にご自身を現してくださり、彼女は、主にあって提供された神の賜物である罪の赦し、罪の力から解放、神との平和、永遠のいのちを受け取り、主イエスにあって、他の人々のために泉となったのです。

ヨハネ
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

4:14 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

イエス様は、この女に、ご自身を現してくださいました。それに対して、彼女は、イエス様に、「先生、私にください」と、言いました。この女は、空しく求めたのではない。イエス様の御許(みもと)に来る者は、決して、捨てられないからです。彼女の重荷は、彼女から取り去られただけではなく、主の恵みを褒め称える者、主を指し示す者となりました。

彼女は、イエス様こそ、自分にとって、すべてのすべてであると、確信するようになったのです。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。」確かに、救われるために、何も知らなくてもいい。聞かなくてもいいでしょう。

赤ちゃんのようになれば、それで充分です。しかし、イエス様を信じるようになった者として、どうしても知らなければならない事実があります。例えば、後ろ向き生活をしなくてもいい。主は、すべてを新しくすることができる。あきらめなくてもいい。心配しなくてもけっこう。どうして?

主は、生きておられるからです。

おわり

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