2013年2月20日水曜日

小羊の怒り

小羊の怒り
2013年2月20日、上尾家庭集会
ゴットホルド・ベック

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

今、読んでくださった箇所を通してわかることは、イエス様はどうして来られたのか、犠牲になったのか、空しいものになったかと言いますと、私たちが富む者となるためです。富む者となるために、言うまでもなく、へりくだることです。自分の空しさ、自分のみじめさを知ることです。

聖書全体の言わんとしていることは次の箇所でしょう。有名なイザヤ書のことばです。

イザヤ
57:15 わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

『へりくだる(人)』ということは、たとえて言うならば、イエス様の前にあわれな乞食のような者です。心砕かれた人です。そして、イエス様の光によって自分の空しさ、自分のみじめさを知っている人なのではないでしょうか。自分には、主の御心にかなったものがひとつもないことを知ることなのではないでしょうか。


もっとも大切な祈りのひとつが、ルカ伝十八章に出て来るのですが、『神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。』このような祈りは、必ず聞き届けられます。このような祈りをささげる者は絶対に後悔しない。このような心の態度を取ることだけが要求されています。非常にありがたい事実なのではないでしょうか。

ダビデは多くの詩篇、祈りを書いたのです。彼の心をあらわすいちばん大切な詩篇は多分、詩篇三十二篇と五十一篇ではないでしょうか。

詩篇
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

彼は、こう書き記したのです。どうして?結局、彼は体験的に知るようになったからです。へりくだることとは、自分が強く偉大な富んだ者ではない、本当にみじめで、どうしようもないことを認めることです。

イエス様は貧しくなられた。もちろん、この大宇宙を造られる前に、イエス様は想像できない栄光を持っていたのです。けど、イエス様は貧しくなった。イエス様の貧しさとは何であるかと言いますと、父なる神に対して自分で選んだ依存です。イエス様は、父なる神から聞いたことだけを語った。父なる神が行なったことだけを行なったのです。

ですから、私たちは一生懸命、福音書を読んでも、イエス様はどういうお方であったか、ちょっとつかめません。われわれ人間は全く違うからです。イエス様の唯一の変わらない祈りは、『わたしの思いではなく、みこころだけがなるように。』自分は、別に、どうでもいい、無視されても、悪口を言われても、イエス様は全部、ゆだねたからあらゆる不安、心配から解放されたのです。すなわち、イエス様は、決して自分で勝手になさることはなかった。父なる神に全くより頼んだ。いつも父の御心に服従なさったのです。

『わたしの思いではなく、あなたの思いがなるように。』ちょっと想像できない、考えられない態度でした。なぜならば、この世に来る前にイエス様は何でも知っておられたし、何でもできたのです。何の不自由もなかったのです。けれども、この地上に来ることによって、本当に束縛されてしまいました。

黙示録の中で、将来のことについて色々なことが、書かれています。われわれが、イエス様に祈れば、助けを求めればイエス様は聞いて下さる。けれども、将来のことについて、ちょっと考えられないことが書かれています。

黙示録
6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
6:16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
6:17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

ここで、『小羊の怒り』について書いてあります。普通なら、小羊のささげられたいのちについて、小羊の変わらない愛について書いてあるのです。けれども、この箇所を見ると、やはり、この小羊なるイエス様の愛は変わるものです。『小羊の怒り』と書かれているからです。

イエス様は、はっきり約束してくださいました。すなわち、『わたしは迎えに来ます。』もちろん、今度は、十字架の上で死ぬためではない、わたしに属する人々を迎えに来るためです。このいわゆる空中再臨の時、主の恵みによって救われた人々は皆、瞬間的に見えなくなる。死を見ないで。そのまま。よみがえりのからだを持つようになり、イエス様と一緒になる。それだけでなく、その瞬間、いわゆる恵みの時も終わります。その後のことについて、前に読みました聖書の箇所によると、多くの人々は祈るようになります。もう一節、見てみましょうか。

ルカ
23:30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。

前に読んだのですが、ロシア、ソ連のレーニンという男とは、もちろん、神を否定していました。『神はいない。いない。それを信じなければ殺されるべきです。』もう何万人、彼を通して殺されたかわからない。けれども、彼は死にそうになったのです。そして、彼は祈るようになったんですって。誰に向かって祈ったかと言うと、テーブルと椅子に向かって祈ったのです。けれど、いくら立派なテーブルであっても、丈夫な椅子であっても答えはない。

気の毒です。結局、生きている間に祈らない人はかわいそう。祈ることとは、もちろん、まず頭を下げることであり、助けを求めることです。助けを求めなければ、この世でもっとも気の毒な人々です。なぜなら、助けを求めなければ、助け主を知る可能性はないからです。

将来、多くの人々も結局、祈るんです。山や岩に向かって。そういう祈りは全く意味のないことです。普通の祈り会には、そんなに多くの人が来ないかもしれない。けれど、ここには数えられないほど、たいへん多くの人が来るんです。ここには、七つの異なったグループの人々があげられています。七という数字は完全な数であります。ということは、小羊の救いを拒んだすべての人がここに来ているということになります。恐怖が、彼らをひとつにしたのです。

したがって、最も強い者も力を失ってしまう。主なる神の提供された救いを拒んだ、思い上がった人々は、もぐらのように、ほら穴の中に隠れようとしています。けれど、これらの人々は、落ちかかって来る原子爆弾から私たちを守れと言っているのではなく、御座にいる方から、また、小羊の怒りから守ってくれと叫んでいます。これらの人々は、原子爆弾や人間の前に隠れているのではなくて、小羊の怒りの前に隠れようとしているのです。

この箇所を見ながら三つのことを考えましょうか。まず、第一番目、いつ、彼らは祈っているのでしょうかね。二番目、誰に向かって祈るのでしょうか。そして、三番目、何を祈っているのでしょうか。

この祈りの時は、怒りと裁きの時です。すなわち、彼らの祈りはすでに遅すぎます。今のわれわれの時代は聖書によると、恵みの時代、救いを得る時代であります。すなわち、今日、罪を悔い改めてイエス様のみもとに来る者は、罪の赦しを得、永遠のいのちを自分のものにすることができるのです。

聖書においては、父なる神の怒りについては、確かに多くのこと書き記されています。けれど、小羊の怒りについては余り書いていない。

小羊である主イエス様の怒りということは結局、完全なる破壊を意味します。その愛から、いのちを与えられたお方が今、怒っておられます。もしも、主なる神の怒りをわれわれの代わりに受けてくださったそのお方が怒られる時、誰が、これに耐えることができるでしょうか。もし、そうであればすっかりダメです。小羊が怒られる時にはもはや救いがありません。

ちょっと、逆のことを見てみましょうか。皆さん、何回もお読みになった素晴らしい箇所です。

ローマ
8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

イエス様がわれわれの味方であれば、誰もわれわれの敵となることができません。けれど、イエス様がわれわれの敵となれば、誰が救いを与え、癒すことができるのでしょうか。小羊が怒られる時には、すべてがおしまいです。

二番目、誰に対して、おおぜいの人々が祈っているのか。ここで書かれているのです。ちょっと、考えられないことです。山と岩に向かって、彼らは祈っているのです。これは全く空しい、役に立たない祈りです。

確かに聖書の中に、よくイエス様の御名を呼び求める者が救われると、約束されています。ただ神の救い主のもとにのみ救いがある、と聖書は言っています。イエス様は、聖書において岩、そのものと呼ばれています。今日もなおイエス様に自分の支配権をゆだねる人は、揺るがない永遠の岩の上に守られるに違いない。けれども、この人たちは、山や岩に向かって熱心に祈りますが、それは全く意味のないことです。無駄なことです。

ちょうど、初めの人間であるアダムやエバが、主の前から逃げようとした時のように、恐怖と不安とがこれらの人々を捕えているのです。罪の赦しと呵責とが、人間を主なる神様の前から逃れさせるのです。罪が人間を臆病者に、そして、神の前から逃げる者にさせるのです。もしかすると、今日、来られた方々の中で主の前から逃げている人がいるかもしれない。そのようなことをやめて、悔い改めて、イエス様のもとに帰ったほうが幸せです。イエス様こそが、ほんとうの逃れ場そのものです。そして、イエス様は、もちろん、人間ひとりひとりを待っておられます。受け入れて、赦そうと望んでおられるのです。

三番目、将来、大ぜいの人々は、何を祈っているのでしょうか。今、読んだように、『私たちの上に落ちかかれ、私たちをかくまってくれ』と、祈るようになります。こういう人たちは主の前に出るよりも、死のほうを望んでいます。彼らは、かつて、自分の罪を認めようとしなかったのです。そして、小羊の提供された救いを受け入れようともしなかったのです。そして、今、小羊の怒りから逃れようとしています。しかし、裁きと、小羊の怒りから、誰も逃げることはできません。

ヘブル
9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。

いつか死ななくちゃいけないでしょうと、人間はみなわかっている。けれど、死んでから、死後に裁きを受けることについて考えると、ちょっと、問題になるのではないでしょうか。代表者、唯一のまことの弁護士であるイエス様がいなかったら、もう悲劇的です。

神の裁きと小羊の怒りとは、夢ではない。恐るべき事実です。『だれがそれに耐えられるでしょうか』と、将来の人々が叫ぶのです。しかし、これは、心からの問いかけではなくして、単なる恐れから出た叫びです。誰も、主なる神の裁きに入るときには、その裁きがどのようになるのかという疑問は持っていないのです。小羊の裁きが正しいことを人間は認めざるを得ない。

最後に、三つの質問を考えてみたいと思います。

第一番目、私たちは、いつ祈るのでしょうか。恵みと受け入れられる今のこの時に祈るのでしょうか。それとも、恵みのときが過ぎ去り、すべてのものが揺り動かされる時に祈るなのでしょうか。あらゆる人間にとっていちばん、大切なのは、祈り、助けを求めることです。イザヤ書にすばらしいことばが書き記されています。

イザヤ
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

祈ることとは、主を呼び求めることです。助けを心から求めることです。

二番目、誰に向かって祈るのか。生けるまことの神に向かって、イエス様をとおして、永遠の救いを提供しておられる主に向かって祈るのか、それとも、後の日に、岩や山に向かって祈るのでしょうか。結局、祈る対象は考えられないほど大切です。人間は、ほんとうに苦しむようになると、『神さま助けてくれ』と言うでしょうが、この神とはいったい、誰なのでしょうか。宗教と関係している神は空しい。まことの神は、宗教と関係のない方であるからです。

三番目、何を祈るのでしょうか。一時的な自分の守りについて祈るのでしょうか。それとも、不滅の魂のために祈るのでしょうか。永遠のいのちのために祈るのでしょうか。

永遠のいのちとはどういうものか、今はもちろん、まったくわかりません。初めて完全な者として造られたアダムとエバでさえも、永遠のいのちを持っていなかったのです。造られたいのちにすぎなかった。永遠のいのちは、造られているものではない。イエス様は、『わたしがいのちです。』

イエス様を受け入れた人は――意識しないでしょうけど――間違いなく、永遠のいのちを持っている。行き先は決まっていると信じ、前向きに生活することができる。『今の時に、罪人の私をあわれんでください』と、祈ることこそがもっとも大切です。いつか、後の日に、岩や山に向かって、私たちの上に落ちかかれと祈っても終わりです。罪人の私をあわれんでくださいと、祈るほうがはるかに賢明なのではないでしょうか。その人の罪が主イエス様の流された血によっておおわれている人だけがその日には守られるのです。

ダビデはみこころにかなう祈りをしたから、喜んで言うことができました。詩篇の三十二篇一節、二節だけ読みます。お宅で全部、初めから終わりまで読んだほうがいいと思います。

詩篇
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

イエス様は、今の時代には、なお救い主です。しかし、裁きの日には、『救い主』でなくて、『裁き主』になります。われわれの生活の基礎は、いったい何なのでしょうか。イエス様の成し遂げられた救いなのでしょうか。基礎がイエス様にある人は幸せです。

詩篇
2:12 御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。

イエス様を信ずる兄弟姉妹にとって、来たるべき真っ暗な裁きの日に対して、二つのことが言えるのです。すなわち、私たちにとっては、まず、まだ救われていない知り合いの人々のために絶え間なく祈るということ、そして、その次に、それらの方々をイエス様のみもとに連れてくるために、いわゆる愛の労苦をするということこそ、要求されています。

どういう人々が、今、救われているかと言いますと、救われていない人々のために、心から祈られている人々ではないでしょうか。多くの人は、『いや、信じています、信じています』と、言います。しかし、救われていない人のために心配して祈らない人は、考えられないのではないでしょうか。なぜなら、私たちは、どうしてイエス様を信ずるようになったか。主が、あわれんでくださったからだけなんです。いつか天国へ行くためではない。悩んでいる人、困っている人、孤独になった人々をイエス様のみもとに連れて行くために救われたのです。

イエス様は生きておられます。このイエス様は貧しくなった。無視されても、悪口言われても、イエス様は口を開かなかった。黙って、死に赴かれるのです。どうしてでしょうか。イエス様は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられた。それは、私たちがキリストの貧しさによって富む者となるためです。富む者とは、大金持ちではない。健康人でもない。私でさえも受け入れられている。神の愛を受ける資格はないけれど、愛されているからありがたいと素直に信じ、感謝している人々ではないでしょうか。

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