2013年2月26日火曜日

ただ信じよう

ただ信じよう
2013年2月26日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
1:29 イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。
1:30 ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。
1:31 イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。

5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
5:39 中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。

イエス様の弟子たちだけではなく、婦人たちの多くもイエス様に従い、イエス様の大いなる力ある業を見ることができ、また、イエス様に全く信頼したことを、聖書を通して、知ることができます。イエス様と出会った婦人が、決して、拒むことなく、心を開いて受け入れたことを、聖書を通して知ることができます。

婦人たちは、イエス様を理解することができなくても、信頼したのです。イエス様に出会った婦人たちを見ると、彼女たちは、非常に大きな苦しみと悩みを持っていたことがわかります。婦人の独特の問題は、病気、家庭内の問題、子供の教育、毎日の生活の問題、愛を求める気持ちなどです。そして、このような悩みと苦しみを持っている婦人に、イエス様が出会われると、彼女たちの問題は、すべて解決されたのです。イエス様は、私を理解することができ、常に助けることができ、私の心をも満たすことができるお方であると、彼女たちは体験したのです。

そこで、多くの婦人たちの中から、二人の代表的な女性を取り出し、彼女たちが、いかにしてイエス様と出会い、すべてを満たされたのかについて、ちょっとだけ、見てみたいと思います。その二人とは、今、読んだ箇所を見るとわかります。一人は、年取ったシモンのしゅうとめであり、もう一人はヤイロ、若い娘であります。

初めに、ちょっと、シモンのしゅうとめについて見てみたいと思います。

マルコ伝、一章を見ると、彼女は病気であったことがわかります。その当時も、今日と同じように、大勢の病人がいました。人間は病気によって、自分の力ではどうすることもできない無力さを体験することがしばしばあります。彼女は、病気のために、食欲もなく元気もなく、その上、一人でベッドに横たわっていたため、他の人々と話す状態もあまりなかったのです。

自ずから、一人ぼっちになりました。また、病気が治るかどうかもわからなければ、やはり心配です。喜びがない。彼女の熱病は、非常に重かったので、人々はさっそくそのことを、イエス様に伝えたのです。そして、イエス様は、彼女が非常に苦しんでおり、弱っていることを聞きました。そして、イエス様はそのために、貴重な時間を裂きました。

イエス様は、いつも非常に忙しい方でしたが、その中から、ご自分の時間を作られたため、そのような時間を持つことができたのです。私たちも、しばしば、いろいろな用事がなければ、集会に出るというふうに考えがちです。悪魔は、いつも、何らかの仕事があって忙しいように、人間を惑わすのではないでしょうか。

時間がないことはあり得ない。作ればあるでしょう。作ろうと思えば、主に助けを求めれば、必ず、主は働いていてくだるのです。私たちは、イエス様を主として仕えるか、あるいは、反対に必要な時だけ、利用する僕(しもべ)として取り扱うかのどちらかなのではないでしょうか。

イエス様と出会って、本当の喜びを得た者は、イエス様との交わりの中にこそ、最高の喜びを見いだすことができます。イエス様は、シモン・ペテロのしゅうとめのために、時間をお作りになりました。愛と理解を持って、彼女の手をとって、起こされました。彼女は、イエス様が触れられるとすぐ病気が治り、元気になりました。

力なさ、失望、落胆、孤独は一瞬にして消え去り、彼女は、イエス様の手をつかんで、心から感謝したことは、容易に想像することができます。彼女は、イエス様との出会いの前に、すでに、息子がペテロから、イエス様のことについて、いろいろ聞いておりましたが、けれど、大部分はピンと来なかった、理解することができなかった。息子であるシモン・ペテロは、本当に、真面目な人間にもかかわらず、このイエス様と出会ってからは、とんでもないことをしてしまった。

仕事をやめて、ある程度まで狂信的に、イエス様のことばかりを話すように変わってしまいました。彼女は、どうして、何故と、もちろん、理解できなかったんです。彼は、いつもあのナザレの大工、イエスは、約束された救い主、メサイヤであるということを、しきりに力説していたのです。そのようにして、イエス様のことが全然、わからなかった彼女は、イエス様に来てもらいたいために人を頼むことを、もちろん、しなかったのです。そして、イエス様が来られたときも、別にどうということはありませんでした。

全く予期せずして、彼女は、イエス様の偉大なる力を体験しました。そして、彼女は、イエス様との出会いによって、全く変わりました。彼女は、力なく、失望、落胆し、孤独でした。けども、イエス様との出会いによって、新しい力、勇気を与えられました。そして、イエス様との交わりの中に、本当の喜びを見いだすことができたのです。かつては、生きる望みも勇気もなかった彼女は、今や、人生の目的を持つようになりました。

彼女は、マタイによると、イエス様に仕えるようになり、マルコ伝によると、弟子たちをもてなしたと、書いてあります。つまり、彼女の人生の目的は、イエス様と信じる者に仕えることに変わったのです。そして、このような飛躍的な変化は、予期せず、人間の努力によらずして起こったのです。

信じる者は、誰でも同じように言うことができるはずなのではないでしょうか。「私がイエス様を選んだのではない。イエス様が、私を捕らえてくださったのです。」いわゆるクリスチャンの多くは、教会でイエス様のことを聞き、ある程度、雰囲気によって、イエス様を信じたように思い込んでしまいます。しかし、イエス様によって捕らえられていない限り、ダメになることは解かりきっています。

しかし、それと反対に、イエス様が我々の心の中に入り、私たちを捕らえてくださると、私たちは予期せずして、新しく造り変えられるようになります。ひとたび、イエス様によって捕らえられた者は、イエス様の御手の中にあるため、もはや、離れることはできません。たとえ、ある時、自分がイエス様から離れてしまったのではないかと、考えるようなことがあっても、決して、そうではなく、捕らえられた者は、決して、離れられない。イエス様は離さないからです。

ヤイロの娘も、同じことを体験しました。彼女も、イエス様によって癒されようと願って癒されたのではなく、全く予期しないかたちで癒されました。彼女の病気の経過も、普通の病気と同じように、病気になったときから回復することなく、しだいに悪化して、遂に死んでしまったのです。

彼女の両親が、イエス様を信じたため、彼女の屍(しかばね)は、死に対するイエス様の力を現すためのものとなりました。娘の病気は、決して、薬やその人の強靭な体などのために回復したのではない。イエス様によって癒されたことを知るときに、誰でも、イエス様の偉大さに驚嘆せざるを得ません。イエス様は、私たちが気づくよりも、はるかに多くのことをしてくださっておられます。彼女のために、両親は、主のところへ行って、ひれ伏して祈り、願ったんです。

もしも、私たちのために、多くの祈りが捧げられなかったならば、私たちもイエス様を信じる者とはならなかったでしょう。今日でも同じように、一人ひとりがイエス様を求めたから、信じるようになったというよりも、むしろ、主の御名と約束のため、また、多くの信者の祈りのために、失われた魂は永遠のいのちを持つように変えられるのです。今日もイエス様は、御自身のために、私たちが予期しないかたちで御業(みわざ)を成しておられます。イザヤ書の中に、すばらしいことばがあります。

イザヤ
43:24 あなたは、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

イエス様は、今日も、我々の祈りと態度とに応えて、予期しないかたちで、取り計らってくださいます。そこで、ヤイロの娘が癒されたのも、ヤイロの祈りと真剣な態度に、主が答えてくださった(ことの)現れであることが、わかるのではないでしょうか。

そのような意味で、最後に、父親であるヤイロについて、ちょっと一緒に、考えてみたいと思います。彼は、会堂司(かいどうつかさ)、会堂の権利者の一人であり、その当時、非常な権威と名声を持っておられました。しかしながら、彼の名声と評判と言えども、娘の病気を癒すためには、何の役にも立たなかったのです。

彼は、非常に娘を愛していたため、娘の病気は、彼にとって、考えられない、想像できない、大きな苦しみと悩みでした。もしも、彼が、イエス様を百パーセント、信頼しなかったならば、死にかかっている娘から離れることはしなかったでしょう。しかし、彼は、そのような時にも、決して、絶望することなく、イエス様の御許(みもと)に来て、足元にひれ伏し、自分を投げ出して、ありのままをイエス様に願いました。

ヤイロは、他の人々が何と言おうと、かまいませんでした。多くの人々は、周囲の人の噂を気にするものです。そのため、イエス様の力を体験するのに、妨げとなってしまうのです。私たちも、ヤイロのように徹頭徹尾、主に信頼するか、あるいは、人を恐れるかのどちらかです。

マルコ
5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」

ヤイロは、こういうふうに心から思った(という)よりも、叫んだのです。このみことばの中に、ヤイロが、イエス様を全く信頼し、救いの確信を持っていることが、はっきりと現されたのであります。イエス様にとって不可能なことはない。これは、ヤイロの確信でした。「私の幼い娘が死にかけています。どうか、その子が直って、助かりますように、手を置いてやってください。」

あなたはできると、彼は確信しました。ここで、手を置くということは、その人と一つになることを意味します。イエス様が、苦しみ、悩んでいる人々の上に手を置かれると、その人から苦しみが去っていくのです。信仰は、イエス様の力に拠り頼み、期待することであり、ヤイロは、それを行なったんです。

確かにヤイロの信仰は、試されました。つまり、いろいろと妨げているものが出てきました。ヤイロは、イエス様と共にできるだけ早く、娘のところへ行こうとしましたが、大勢の群衆が、それを妨げたんです。すなわち、群衆がイエス様に押し迫りながらついて行ったのですと、書いてあります。

二番目の妨げは、一人の病気の女でした。そして、イエス様は、彼女のために、非常に多くの時間を費やしてしまったんです。ヤイロの心は、そわそわしていたでしょう。しかし、ヤイロにとって、このような経験は、どうしても必要でした。

なぜならば、絶望的な病気の女が、イエス様によって癒されるのを、つぶさに見ることができたのです。彼は、イエス様がその女に、「しっかり直って達者でいなさい。あなたの信仰があなたを救った」と、言われるのを聞きました。多くの試練に遭遇している父親の前で、イエス様は、ご自分の力を明らかに示されました。

第三の妨げは、もっとも困難なものでした。すなわち、ヤイロは、娘は、もうすでに死んだという情報を聞いたのです。したがって、もはや、イエス様を煩わすには及びますまい。諦めるに他ありません。ヤイロの信仰は、確かに、風前のともしびでした。娘が死んだ以上、これ以上、信仰を持ち続けても、役に立たないのではないでしょうか。目に見える支えは、全部、いっぺんにダメになりました。

命がある限り望みがある。けれど、命がなければ、望みもないと、普通の人は考えます。ヤイロも、そのように考える危険性の中にありました。しかし、彼は、主の心強いみことばを聞きました。どういうことばかと言いますと、「恐れることはない。ただ信じなさい。」

このようなことを言うのは、頭のおかしい空想家であるか、あるいは、将来をも、御手の中に収めておられる神の御子であるかの、どちらかです。私たちは、このみことばは、ヤイロを慰めるための絶望的なイエス様のことばではないことをよく知っています。そのことは、ヤイロも知っていました。

というのは、少し前、イエス様が絶望的な病気の女を癒されたのを目の前に見ることができたからです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」イエス様は、いちばん、必要な時に、いちばん、必要なみことばをお与えになりました。イエス様のみことばがなければ、ヤイロは、もうがっかりしてしまったことでしょう。

イエス様は、何という愛と理解を示されたことでしょうか。このみことばによって、ヤイロの揺れ動く信仰が、平静に戻ったんです。彼らが家に着くと、人々が大声で泣いたり叫んだりして、騒いでいました。しかし、ヤイロはそのことによって動揺したり、ぐらついたりすることはありませんでした。

彼は、ただイエス様だけを見ていたのです。イエス様は、「ただ信じなさい」と言われ、ヤイロは信じました。すなわち、ヤイロは意識して、目に見える現実から目をそらしたのです。彼は、主のみことばの上に、しっかりと立っていました。その時、ヤイロは、イエス様のすばらしさと偉大さを体験することができたのです。

イエス様が、死に対立しておられました。普通の人は誰でも、瀕死の病人が死ぬまでは、希望を持って、一生懸命やりますけど、死んでしまうと、それで一巻の終わりと考えます。しかし、イエス様の場合は、そうではありません。終わりと思われている場合も、イエス様にとって、不可能なことはありません。だから、イエス様は、「ただ信じなさい。」人々が終わりだと諦めてしまう、その時こそ、イエス様の偉大な力、また、大いなる御業(みわざ)が明らかにされるのです。

イエス様は、「わたしは、いのちです。よみがえりです」と、言われました。イエス様のおられるところは、どこでも必ずいのちが啓示されるのです。いのちそのものであるイエス様と、死人であるヤイロの娘、何という対象を示していることでしょうか。これら両者は、本来、相容れないものであるにもかかわらず、お互いにひとつにならなければならないのです。

そうしなければ、希望は生まれません。イエス様が死人の手をとって起こされると、死の病は去りました。少女は、単に生き返っただけではなく、非常に元気になりました。私たちは、霊的な死が、肉体的な死よりも、はるかに恐ろしいことを知っています。霊的な死とは、主なる神に対して、死んでいることを意味します。主なる神との結びつき、交わりを持っていない状態を意味します。人間の生まれつきの状態は、罪と罪過とによって死んでいる状態です。

聖書の中から、エペソ書、二章一節だけ、ちょっと読みます。

エペソ
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

また、同じくパウロは、今度はコロサイにいる人々に書いたのです。

コロサイ
2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。

また、放蕩息子のことで、ルカ伝、十五章に書かれています。

ルカ
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。

今日、教会に行ったり、洗礼を受けたり、自分でクリスチャンだと思い込んでいる人でも、新しく生まれ変わっていない人が少なくない。これらの人々は、黙示録、三章一節にあるとおり、「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」けども、イエス様の御手が触れた時、死んでいた者が生き返るのです。イエス様によって、新しく生まれ変わった者は、死からいのちへ移っているのであるとあります。

第一ヨハネ
3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。

ヨハネはこう書き記されたのであります。

いのちそのものであるイエス様の力は、何と偉大なるものでしょうか。そのことを、シモンのしゅうとめが体験し、同じく、この力によって、ヤイロの娘は、死からいのちを呼び戻されたのです。

ところで、私たちも、いのちの君であるイエス様の偉大なる力を、もうすでに体験したのでしょうか。イエス様は、あなたの中に、あなたの家族の中に、そして、あなたの職場の中にご自身の力を現したく、思っておられます。私たちは、目に見える支えがなくても、イエス様の導きが、たとえ、解からなくても、イエス様にすべてを明け渡し、信頼しているのでしょうか。「恐れることはない。ただ信じなさい。」ここでは、あなただけではなく、あなたの家族、友人の救いも問題となっているのです。

ヨハネ伝、五章二十四節を見るとイエス様は次のように、約束して、言われました。ヨハネ伝の五章二十四節は、本当にすばらしいことばです。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

主の呼びかけ、主の招きのことばとは、次のようなものでしょう。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

ヨハネ
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

もうすでに、旧約聖書の中で、同じ呼びかけが書き記されています。

イザヤ
55:1 ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

『主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられる』(ローマ10:12)とあります。主は、『すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んで』います(第一テモテ2:4)。

黙示録
22:17 渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

おわり

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