2013年2月3日日曜日

人にはできないことが主にはできる

人にはできないことが主にはできる
2013年2月3日、熊本よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

ルカ
18:27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

『不可能が可能となること』という題をつけようと思います。今、読みました箇所は本当にすばらしい約束、励ましの言葉ではないでしょうか。『人にはできないことが、神にはできるのです。』不可能と思われることでも、すべてがそのように不可能であるとは限りません。けど、絶対に不可能な状況も存在するらしい。それにもかかわらず、信じる者、イエス様に頼るものにとってはすべてのことが可能であると、聖書は何回も言っているのです。どうしてであるかと言いますと、主に属するものは、不可能なことが何一つないお方を知っているからです。「人にはできないことが、神にはできるのです。」この言葉は、もちろん、人間の証し(という)よりも、イエス様御自身の言われた言葉です。


そしてイエス様は、ただ単に真理を語ったお方だけではない。真理そのものです。イエス様だけが、「わたしは真(まこと)そのものである」と、言うことができたのです。イエス様は、嘘をつくことがおできになりません。聖書全体は、人間において全く不可能なことが、主なる神においては、容易に可能となるということの証明であります。

生けるまことの神は、イエス様において、ご自身を私たちに啓示してくださいました。この主は、ただ単に、すべてをご存知のお方、また、限りなく愛してくださるお方だけではなく、全能なるお方です。主にとって、不可能なことはない。私たちは、この主と結びついていると、人間にとって不可能なことが、主には可能であるということを体験するにちがいない。

このルカ伝18章は、本当にすばらしい書です。うちに帰ってからまた、ゆっくり、はじめから終わりまで、お読みになればいいと思います。結局、この18章の中では、全てが、今、話した真理を我々に証明してくれる、色々なことが我々の目の前で繰り広げられます。それで、これから4つの点について考えたいとおもいます。

まず、第1に、主は差し迫って出された願いに応えてくださるという事実です。1節から8節の中で、私たちは主によって語られたたとえ話を見ることができます。

ルカ
18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。(・・・神がする。・・・)しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

今朝も、重田兄弟が部分的にお読みになった箇所ですね。このたとえ話の根拠なるものは、もちろん、一節に書いてあるでしょう。人は、『いつでも祈るべきであり、失望してはならない』ということです。このたとえ話の中心人物は、一人の裁判官を責めてしまったやもめです。「私の相手をさばいて、私を守ってください」と。この裁判官は、長い間、彼女を無視した。おそらく、助けても、金にならないと思ったのでしょう。けれども、彼女は、何度も何度も同じ訴えを持って来続けましたから、この裁判官は、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしようと言って、譲歩しました。

このやもめは、決してあきらめないで、願い続けた。あきらめないで祈り続けることこそが、考えられないほど、大切なのではないでしょうか。彼女がこの態度を取ったから、イエス様は、彼女を心から喜んだ。彼女の態度を褒めたのであります。聖書全体は、主が、差し迫ってひっきりなしに持ち出される願いを必ず、聞き入れてくださると何度も約束しておられます。私たちは、いつでも祈ること、失望してはならないこと、あきらめてはならないことを要求されています。イエス様ご自身が聞き入れてくださるという約束を与えてくださいましたので、だから私たちは、安心して、喜んで期待をもって、祈ります。私は、主の約束の成就を経験するまで、いつまでも祈ります。この態度を取ることこそが、考えられないほど大切です。祈ることは大切です。祈り続けることは、もっと大切なのではないでしょうか。

マタイ
17:20 もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

イエス様はこう言われました。パウロももちろん、同じことを経験しました。彼は、当時の皇帝であるネロを拝もうとしなかったのです。拝むべきなのは、十字架の上で犠牲になり、復活なさったイエス様だけです。その結果はたいへんでした。刑務所になってしまった。僕はまだ、刑務所に入ったことはないけど、あまり、おもしろくはない場所でしょう。不自由だし、おそらく、食べ物もあまりおいしくないし、もう誰も同情しないし、結局、変な目で見られ、無視されるのではないでしょうか。

パウロは、この刑務所の中で、何を書いたかと言いますと、『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』ピリピ書4章13節です。すごい証しです。彼はそれを望んだというより、経験しました。私たちが祈ると、全宇宙を動かす方の御手が動く。これこそが、パウロだけではなく、数えられないほど多くの人が知るようになったことです。そのことによって、不可能なことが可能となるのです。イエス様は大いなることをなさり、難しいことをも成し遂げてくださると約束しておられますから、私たちもどういう問題があっても、祈り続けましょう。

おそらく、私たちは難しい人のために、また、人間的に見れば不可能と思われることのために、長い間、祈っているかもしれない。失望しないようにしましょう。イエス様だけを見上げましょう。というのは、人間にとって不可能なことも、主イエス様にとって容易いことだからです。イエス様は、祈りを聞いてくださる。差し迫って、ひっきりなしに持ち出される願いを、間違いなく聞いてくださる。

第2番目の事実は、イエス様は、どんなにひどい罪人(つみびと)でさえも救ってくださるのです。絶えず祈ることを呼びかけておられるこのたとえ話との関連で、次の節でしょう、主は9節から14節の間で、いわゆるパリサイ人と取税人のたとえ話を話されます。パリサイ人とは、当時、一番、尊敬された人々でした。聖書学者であり、主なる神を恐れて、神のために生きたい人々でした。取税人たちとは、大切にされていなかった。変な目で見られた。どうしてであるかと言いますと、彼らは敵国のために働いたのです。税金を取ったのです。言うまでもなく、大部分は自分のポケットに入れたでしょう。取税人になった人々は皆、金持ちになった。そして、金があれば幸せと思い込んでしまったのです。イエス様のたとえ話を、ちょっと読みましょうか。

ルカ
18:9 自分を義人だ(・・・良い人だ・・・)と自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人(・・・の方・・・)が(・・・前の人よりも・・・)、義と認められて家に帰りました。・・・なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

聖書を紹介するには、イエス様を紹介するには、この文章が一番、適切なのではないでしょうか。『自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。』へりくだればオーケー。聖書全体の言っていることとはそれなんです。絶えず祈ることを呼び掛けておられる、このたとえ話との関連でイエス様は、パリサイ人と取税人のたとえ話を話されました。

パリサイ人は非常に宗教的でしたが、生けるまことの神を知りませんでした。彼は自分のことだけを考え、自分の立派な生き方や、良い行いのことだけを考えてしました。祈りの中でさえ彼は、自分のことだけしか考えていなかったのです。『神よ』と、言っただけなのです。ほんとうは、主について考えようとしなかったのです。

めちゃくちゃな生活を(送っていた)取税人は、『神よ』と言わなかった、『神様。』取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』主が必ず聞き届けてくださる願い、また、祈りです。この取税人は、ただ単に罪人であっただけではなく、そのことをよく知っていました。認めたのです。彼は、だから言いました、『神さま、罪人の私をあわれんでください。』結局、私はもうダメ、どうしようもないものです。ほろびに至るに値(あたい)するものです、と思いました。けども、イエス様はここで、次のように言いました、この罪人が義とされ、意味は受け入れられ、罪を赦されて、いわば、神の家族の一員となったのです。

しばしば、私たちは、『この人が救われるのか、あの人が救われるのでしょうか?』と、疑っています。けど、イエス様の救いの力は、誰でも贖うのに、本当に十分です。イエス様の血の力は、どのような人の罪をも赦すのに充分です。

第1ヨハネ
1:7 御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

すべての罪から私たちをきよめられるのは、イエス様の流された血にしかできない。私たちは自ら、主を汚す者、どうしようもない者と言い、その上、自分を罪びとのかしらと自称したサウロのような人を考えてみればよいのではないでしょうか。ちょっと読みましょうか。パウロの証しです。

第1テモテ
1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

私たちも正直であれば、同じことを言えるのではないでしょうか。私はあわれみを受けた。努力して、聖書を勉強して、がんばったからではない。人間は、何を待っても的外れです。役に立たないものです。『私はあわれみを受けた』と、言える人は本当に幸せです。パウロは続けて言ったのですね。

第1テモテ
1:14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

一番ひどいのは私ですと、パウロは言えたのです。このパウロ、前のサウロは、私たちの主イエスの熱烈な証し人の一人となりました。世界一の伝道者となったと言ってもいいでしょう。私たちが、家族、親戚、友人など、イエス様から遠く離れている人々のことを考えるならば、次のことを忘れてはなりません。人間にとって不可能なことも、イエス様にとっては可能です。

イエス様は、一番ひどい罪人でさえも救ってくださるのです。私たちは皆、イエス様は不可能を可能としてくださるということを経験したでしょう。信仰に導かれた方々は、イエス様が不可能を可能にしてくださるということの生ける証明なのではないでしょうか。私たちが救われたことを考えるならば、確信をもって、ふたたび、他の人々のために祈り続けることができます。

第1テモテ
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

すばらしい証しです。今日は読む時間がないけれど、ルカ伝7章に出てくる、いわゆる罪の女は、イエス様の非常に深い愛を経験し、救われました。彼女はイエス様の言葉を聞いたとき、うれしくなったでしょう。イエス様は何と言ったかと言いますと、『あなたの罪は許されています。』ルカ伝19章に出てくるザアカイという男についても、いろいろなことが書かれています。結局、お金、お金、お金としか、考えられなかった男でした。金銭欲の強い人でしたが、イエス様との出会いによって完全に変えられました。7つの悪霊に憑りつかれていたマグダラのマリアという女性は、イエス様を通して、大いなる解放を経験しました、私たちはこういった例を、次から次へといくらでも続けることができます。というのは、イエス様は今も同じことをなさってくださるのです。

イエス様にとって、不可能なことはない。私たちが決して、期待できないような人々も、瞬間的に変えられます。なぜならば、その人々は、主に信頼できるからです。人間にとって不可能なこと、従って、絶望的で、何もできない場合でさえ、全能者である主イエス様はご自身を啓示してくださり、奇跡を行ってくださいます。我々の主は生きておられます。私たちは、ますますこの主に信頼しようではないでしょうか。

主は、生きておられるお方として、自分の約束を守ってくださるお方です。これが、今日の3番目の事実ですね。主はあらゆる約束を果たしてくださいます。ルカ伝に戻ります。

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

私たちは、イエス様が、これから受けるべき苦しみと死が、三日目のよみがえりと同じように、すでに何百年も前に預言者たちによって預言され、主の経験なさることが旧約聖書の預言の成就であると仰っているのを読むことができます。イエス様の預言は正しかったのでしょうか。イエス様が預言されたことが、すべてそのように起こったのでしょうか。

その通りです。すべては預言されたように正確に、実現されました。そのことから私たちは、主なる神の時において、すべての約束が成就されるという結論を引き出すことができます。

将来については、信じる者を迎えるためのイエス様の再臨、それから、死を見ずして、すべての真(まこと)の信者の携挙(けいきょ)、さらに、目に見えるかたちでの主イエス様の再臨、そして、千年間も続く平和の国の確立、それから、イエス様は世界の裁き主として、すべての者を裁くようになると預言されています。私たちは、多くのことを想像できません。しかし、すべてのことは成就するのです。というのは、人間にとって不可能なことも、主にとって可能であるからです。

イエスを生んだ処女マリアにとっては、彼女が約束された救い主の母となるなどということは、不可能なことでした。このことが御使いを通して彼女に預言された時、彼女は、次のようにしか言うことができませんでした。

ルカ
1:34 どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。

けども、それにもかかわらず、彼女は、御使いの福音を信じました。そして、マリヤは、みことばの真理を経験したのです。人にはできないことが、主にはできるのです、と。この巌(いわお)のように確固とした確信は、我々の日常生活の特長とならなくてはならないのではないでしょうか。主なる神は、我々のため、イエス様のからだなる教会のため、イスラエルのため、世界の諸国民のためにすばらしい約束を与えてくださいました。そして、主は何でもできる。旧約聖書に書かれているこの言葉をよく引用します。

民数記
23:19 神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。

イエス様も、何回も宣言しました。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。人にはできないことが、神にはできるのです。

4番目の事実は、すなわち、イエス様は奇跡をなさいます。ルカ伝18章に戻ります。

ルカ
18:35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。
18:36 群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。
18:37 ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、
18:38 彼は大声で、(・・・ナザレのイエスとは言わないで・・・)「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。
18:39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
18:40 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。
18:41 彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。
18:42 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、
18:43 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。

ここで、バルテマイという名前の盲人が癒されたことが記されています。この男の人は全盲でした。けど、『見えるようになれ』というイエス様の命令によって、彼は、たちどころに目が見えるようになったと書き記されています。私たちは、このことを理解できませんが、人にはできないことが、主にはできるのです。

旧約聖書の中でもっとも大切な人物の一人は、アブラハムと彼の妻、サラでした。この二人にとって、彼らが大変な高齢で、なお、一人の息子を与えられるということは考えられませんでした。しかし、主はこのことを預言されました。そして、主は、奇跡をなしたもうお方です。聖書は言っています。

創世記
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。

18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。

当時、アブラハムはすでに100歳でした。サラは90歳でした。したがって、人間的に見るならば、子供ができるということは、全く不可能でした。私たちは、アブラハムの信仰とその信仰の土台について、次のような成句を読むとわかります。一番、短くまとめられている箇所は、多分、ローマ書4章ではないでしょうか。

ローマ
4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

不可能なことが可能となりました。アブラハムとサラは、一人の息子を授かったのです。主に不可能なことがあろうか。主にとって、難しすぎるというような状況があるのでしょうか。主が解決できないような問題があるのでしょうか。主が救うことのできないような頑固(がんこ)な罪人がいるのでしょうか。主は回復できないほど堕落してしまった人間がいるのでしょうか。主の能力を超えるようなことが何かあるのでしょうか。

おそらく、あなたの状態は、もう、どうにもならないと思い込んでしまうほど、ひどいものであるかもしれない。もう遅すぎると思われるような状態かもしれない。確かに、人間的に見るならば、すべては全く絶望的になっているでしょう。けど、次のような御言葉は、それに勝っているのです。人間的に見ればというよりは、主の目から見ればということになりますと、すべては全く違ったものとなるということです。

なぜならば、全能者なるイエス様にとって、不可能なことは何一つないからです。人にはできないことが、主にはできるのです。

今、ルカ伝18章を通して、次のことを見ることができましたね。第一番目、イエス様は応えてくださいます、さし待ってでされた願いに。二番目、イエス様は救ってくださる、どんなひどい罪人でさえも。三番目、イエス様は成就してくださり、あらゆる約束を。そして、四番目、イエス様は奇跡をなしてくださる。

そして、次の問いが出されます。私たちの主はいかに大いなるお方なのでしょうか。私たちはイエス様の偉大さと力とを認識しているのでしょうか。私たちは主の偉大さ、主の力を見るならば、安心して、すべてをイエス様にゆだね、進むことができることを、経験するに違いない。私たちの主イエス様は生きておられるがゆえに、我々の人生においても不可能なことが可能になると、聖書の全体が何回も何回も、約束していてくださる。だから、何があっても、主に信頼しましょう。何でもイエス様にゆだねたら、決して、失望はさせられない。


おわり

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