2013年2月17日日曜日

前向きに生活しましょう

前向きに生活しましょう
2013年2月17日、町田福音集会
ゴットホルド・ベック

ピリピ
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

今、読んできてくださった箇所は、パウロの告白であり、証しです。この態度を取れば、主は大いに喜ぶに違いない。大切なのは、何なのでしょうかね?大切なことを知ること、それから、行うこと。前向きに生活することではないでしょうか。

おそらく、五、六十年前の年配の方々は、苦労している若者を励ましたでしょう。『大変ですねえ。けど、がんばれば良くなる。』現代人は、よくなるとは言えない。ありえない。今はまだ、働き場があればありがたいのではないでしょうか?全世界でそうですね。二割以上の人々が働かなくてはいけない。働かないと生活できない。けど無理。

よくなればいいけど、まず、将来はバラ色ではない。それにしても、やはり前向きに生活しないと、悪魔の勝利になります。今、読んでもらいました三箇所から分かる。パウロは、前向き生活ないとだめ。意味は、私は後ろのものを忘れ、目標を目指して一心に走るのです。

確かに人間は、変えられなければなりません。人間は、あらゆる束縛から、あらゆる孤独から、あらゆる惨めさから、解放されなければならない。けど、人間はいくら努力しても、相変わらず、みじめで、寂しくて、束縛されています。けれども、人間を変えるために、イエス様はこの世に来てくださいました。コリント第二の手紙に、次のように書かれています。イエス様がこの世に来られた目的でついてです。

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

ここでパウロは確かに、複数形で、『あなたがた』、『あなたがた』と書いたんですけど、『あなたがた』の代わりに、自分の名前を入れたら?

あなたがたは――私は――私は、私の主イエスとその恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、私のために貧しくなられました。それは、私が、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

富むものとなるために必要なのは何なのでしょうかね?へりくだることです。自分のみじめさ、自分の貧しさを素直に認めることです。イザヤ書は、旧約聖書の福音書と呼ばれています。一箇所、引用します。皆、暗記している箇所だと思います。

イザヤ
57:15 ・・・・わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

これこそが福音、喜びの訪れなのではないでしょうか?大切なのは、へりくだることですけど、へりくだるということは、例えて言うならば、イエス様の前における哀れなコジキのようなものであり、心砕かれた人です。そして、また、イエス様の光によって、自分のみじめさ、自分のむなしさを知った人です。また、自分には、主の御心にかなったものが一つもないことを本当に知ることです。

例えば、ルカ伝18章――今日は読まなくてもいいけど――13節に出てくる取税人こそ、本当の意味でへりくだった人でした。彼は祈ったんです。心から叫んだでしょう。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

【参考】ルカ
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

主の聞きたい祈りです。パウロは、どうしてそんなに用いられたのでしょうか?答えはへりくだったからです。彼は、次のように書き記しました。

第一コリント
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

使徒とは、主によって特別な使命を持つようになる人々です。いっぱいいます。けども、パウロは、使徒の中では、忘れてもいい。もっとも小さい者だよ。もちろん、それだけではない。エペソ書を見ると、彼は今度は、使徒たちではなくて、信じるものについて書いたのです。

エペソ
3:8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え(るためです。)

使徒たち――特別な使命を持つ人々の中で、自分はいちばんもう小さい者です。けど、それだけではない。イエス様を信じるようになった人々の中でも、私はいちばん小さな者です。恵みを与えられたからありがたい。そして、テモテ第一の手紙に、彼は証しした結論について言ったのです。

第一テモテ
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

いちばんひどいのは私、もちろん、捨てるべきです。

昔の預言者たちは、主の使いとして、主のお考え、主の御心を明らかにしたものでした。そして、預言者イザヤは、次のように語ったのです。非常にすばらしい言葉です。

イザヤ
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

66:2 ・・・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

また、ダビデも経験したから、次のように証ししました。

詩編
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

主を知らない人は、誇って自分勝手な道を歩もうとします。実際、救いのない人々は、コジキよりも貧しいものです。従って、心貧しき者となることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。すなわち、イエス様の霊によって、自分の本当の姿を知り、恐れおののいて、自分からは何も期待することのできない人となることが、大切なのではないでしょうか?

へりくだることは、何でしょうか?自分が強い偉大な富んだ者だけが、主は受け入れらないところです。このことを本当に知る人だけが、思うところのすべてを超えて豊かにほどこすことができる主、すなわち、イエス様のみもとに行くことができるのです。おごり高ぶるもの、本当に心砕かれていない者は、約束もないし、望みもないし、可哀想すぎる。

イエス様は、我々のために貧しくなられました。イエス様によって、この大宇宙が創造されたお方です。このイエス様は、もちろん、永遠から生きておられるのです。けれども、人間を救うために、イエス様は三十三年間、この地上に現れ、ご自分の自由意志で、我々のために貧しくなられました。

イエス様の貧しさとはいったい何だったでしょう?イエス様の貧しさとは、父なる神に対して、ご自身がお選びになった依存です。イエス様は、父なる神から聞いたことだけを語り、父なる神が行ったことだけを行われました。イエス様は心から、『わたしは何も知らない、何もできない』と告白しました。

すなわちイエス様は、決して決して、ご自分で勝手になさることはしなかった。父なる神に全くより頼んで、いつも父の御心に服従なさったのです。

わたしの思いではなく、御心だけがなるように。お父さん、あなたの思いがなるように。この祈りば、まさに絶えざるイエス様の態度でした。ですから、私たちはイエス様について考えても、ちょっと分かりません。つかめない。私たちは何かを聞いたり、見たりすると、自分で考えて、それから動くんです。これは、イエス様にはできなかった。動く前に祈ったんです。『お父さん、生きたいけどダメ?』うん、ダメだよと言われたと気は、『うん、わかった。』終わり。

イエス様は、あるとき、弟子たちと一緒に、よくベタニアまで行ったんです、エルサレムから、何キロか離れている町です。マルタ、マリヤ、ラザロの住んでいたところです。そして、聖書の中でイエスは、ラザロを愛したと特別に書いてあるんです。このラザロは――イエス様に愛されたラザロは――病気になっただけではなくて、危篤状態になった。危篤状態の弟から離れられないから、別の人に頼んで、使いを送って、『イエス様、あなたの愛している者が病気です。』

イエス様は、別に行かなくても、遠くから癒そうと思ったならば、簡単にできたんです。けど、イエス様はもちろん、自分で考えて行動したのではなくて、祈ったんです。『お父さん、行きたい。かわいそう!』だめ。『どうして?』死んでから行きなさい。死んでから行って、よみがえらせなさい。『ああ、そういうことか!』もちろん、そういうふうになってしまったんです。

ラザロは死んだ。葬儀のために、間に合わなかった。葬式が全部、終わってからイエス様が着いたんです。そして、おそらく、誘われたのでしょう。ラザロの墓のところに行きましょうよ。もちろん、イエス様は行ったんです。墓の前に、マルタというお姉さんは着いて、泣いちゃったんです。イエス様はそれを見て、我慢できなくて、一緒に泣いちゃったよ。聖書の中でいちばん短い文章です。『イエスは涙を流された。』英語だったら、ドイツ語だったら、二つの単語だけ。いちばん短い箇所です。泣けなくてもいいのに!

結局、人間が悩むとイエス様は我慢できなくて、一緒に悩むお方です。イエス様は涙を流された。二、三分あとで、ラザロ出てこい!と命令して、健康人として出てきた。人間的に考えれば、それを知りながら泣くことはおかしい。けども、人間が悩むと、イエス様は共に悩むお方です。ピンとこないかも分からないけど、そうなんです。

イエス様は、決して、自分で勝手に、なさることはなかった。そして、イエス様はいつも、祈りの最後に言ったに違いない。わたしの思いではなく、お父様、あなたの思いだけがなるように。

私たちは、ただ救われるために救われたのではない。イエス様に似るものとなるためです。そして、イエス様の御姿に変えられるために、本当の知識にあずかる必要があります。
けれども、本当の知識の内容とは、いったい何なのでしょうかね。

真の知識の内容とはいったい、何でしょうかね?私たちは、自分の生まれながらの罪の性質は、決して治らないということを知らなければなりません。これを知ってる人は、自分でやることはできない。イエス様に、より頼まなければ、何もやることができないということも知っています。

私たちは、罪を赦されて、主から義と認められるためには、自分で何もすることができなかったんです。ただ一方的な哀れみによって義とされました。これとまったく同じように、私たちは、主をより良く知るために、清められていくためにも、自分の行いではない。このことも知らなければならない。このことを、真の知識として知っている人は、自らを清めようとすることをやめ、ただ復活なさったイエス様に、自らをおゆだねするはずです。

でも問題は、いかにしてこの知識に至るのでしょうかということです。それはイエス様と、同じ御姿に変えられていくことによってだけ、できるのです。けれども、イエス様の霊は、イエス様と同じ姿に我々を変える御業を、ただ悩みによってのみ行います。悩みと戦いの真っ只中にあって、初めて、イエス様と同じ姿に変えられていくのです。イエス様は、私たちを人間的な目で見るならば、全く望みのない状態に導いてくださいます。いったい、どうしてでしょうか?

それは、私たちが自分の生まれながらの罪の性質は、絶対に良くならないものであるということを、本当の知識として知っているかどうか、また、私たちは清きに至ることについて全く無力であると言うことが、真の知識か、単なる教えであるか、または、私たちの命となっているか、これらを試しみるために、主は悩みのうちに、私たちを導いてくださいます。

イエス様が、私たちを通して、もちろん、集会全体を通して、現されて行かなければいけない。しかし、これは、主ご自身の計画です。偶然はない。運命も存在していません。主は、支配しておられます。そして、信じるものが悩み、苦しみ、押し潰されているのは、主の計画です。その苦しみによって、この兄弟姉妹のうちに、イエス様のみ姿がかたち造られていきつつあるのです。イエス様に変えられることこそ、主の導きの目的であるから、すぐに祈りに答えて、悩みから解放されるということをされないのです。

我々の信じるイエス様によって、全宇宙が創造されました。しかし、イエス様は、叩かれ、鞭打たれ、つばきせられ、侮られました。もし、イエス様がそうしようと思われたなら、それら人々は、イエス様の一言でこの地上が抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったはずです。けども、イエス様は耐え忍んで、全てを負われ、自ら悩みをよしとされ、両手両足に釘を打たれ、十字架の上で、『お前は人を救ったのに、自分を救うことができないのか』と、罵られました。もし、しようと思えば、イエス様のために十二の天の軍勢が控えていましたから、イエス様のひと言葉で、イエス様を救うためにやってきたことでしょう。けども、イエス様はそうされませんでした。

イエス様は、どういうお方だったでしょう?

聖書は答えてます。イエス様は柔和にして、心へりくだった方でした。私たちは、このような主と同じ姿に変えられて行きたいものなのではないでしょうか?イエス様は透き通った人格の持ち主でした。極めまでご真実な方であり、また、偽善を知らなかったお方です。また、ふた心をを持たなかった方です。向こうへ行って、あのように言い、こっちへ行って、都合の良いことを言うといった方ではなかったのです。私たちは、この主の御姿に変えられなければなりません。

イエス様は、はっきりとした目的を持ったお方でした。イエス様は、祈りの方でした。また、勇気の方でした。柔和にして、心へりくだった方でした。平安、平和、よろこびの方でした。このみ姿に、私たちも変えられていきたいものです。これにいたる道は、主の歩まれた道を歩む道です。悩み多き道、誤解に満ちた道、また、それは嘲りに満ちた道です。

私たちが、静かにイエス様によって吟味していただくことが必要なのではないでしょうか?主が我々に語ってくださり、妨げとなっているものを、すべて明らかに示してくださるように、私たちの心を知ってください。私を調べ、私の思い災いをしてください。私のうちに傷ついた道があるかどうかを見て、私をとこしえの道に導いてくださいと、ダビデのように祈るべきなのではないでしょうか?エレミア哀歌に、一文章だけですけど、大切な祈りがあります。

哀歌
3:40 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

主は、立ち返るべきであると言っておられますが、どうしてでしょう?私たちが、間違った方向に進んでしまったからなのではないでしょうか?私たちは、戻らなければ、いけません。どうして?私たちは主から、知らないうちに離れてしまったのではないでしょうか?このことを認識することは、非常に謙遜なことです。そして、認められた債務を告白することは、もちろん、どうしても必要です。

聖書の中で、出ている人物について考えると、もちろん、わかります。

例えば、サムスンという男がいまして、もちろん、彼は主に選ばれた民に属していたし、長いあいだ、主の御手のうちにある、用いられた器でした。けども、士師記16章を見ると、彼が自分の抑えがたい情熱によって、気が付かないうちに主の霊が自分から去ってしまったんです。イスラエルの敵はサムソンをあざ笑いました。というのは、彼は、主の霊なしには、力なく、望みなく、助けのない者になってしまったからです。何という悲劇でしょうか?

ダビデという王様は、ただ単に主の民に属するものではなかったのです。選ばれた民の指導者でした。サムエル下の11章を見ると、このダビデという男は、バテシバという女性と姦淫を犯し、ナタンという預言者の奉仕によって、自分自身を主の光の中に見ることができ、次のように告白せざるを得ませんでした。『その姦淫をした男は私です。』ここにも比類のない悲劇があります。

エリヤという預言者は、主に選ばれ、遣わされた預言者でした。しかし、彼はあるとき、落胆して、荒野に引き戻り、主が自分の命を奪って欲しいと真剣に、祈ったというよりも、叫んだでしょう。列王記下、19章を見るとわかります。すなわち、彼は、全くペッチャンコになってしまいました。そのことに対して、悪魔はどんなに勝ち誇ったでしょうか?

また、イサヤという預言者は、自分自身を主を光の中に見ました。彼は、自分の不潔さ、不順さに驚き、次のように叫ばざるを得ませんでした?『私は災いです。災いなるかな。私はもうだめです』と、彼は全ての障害物を認識し、告白するようになりました。

イエス様の弟子たちのことについて考えても、同じことが言えます。最後の晩餐の時、イエス様は言われました。『あなたがたの一人がわたしを裏切ります。』すると、一人の例外もなく、すべての弟子たちは、驚いて尋ねました。『主よ、それは私でしょうか?』と。私たちもまた、『主よ、それは私でしょうか』と言うべきでしょう。私たちはあなたを悲しませたのでしょうか?隠れたところにある障害物を、私にお示しください。私の障害物を認める恵みをお与えになってください。

イエス様の弟子であるペテロが、自分の恐るべき絶望的状態を認めるようになったことが、ルカ伝22章に書いてあります。彼は、外に出て激しく泣いたと書いてあります。

これらの主のしもべたちはみんな、主に立ち帰りました。光の中に出ることを、あえてすべきです。すべて偽善的な行為を、やめるべきです。私たちも、サムソンのように、力のの無い、望みのない、助けの無いあらゆる状態から脱出すべきです。ダビデのようにあらゆる偽善と姦淫から脱出すべきです。エリヤのように、あらゆる無気力さと失望、落胆から脱出すべきです。イザヤのように、あらゆるメクラの状態と不純から脱出するべきです。ペテロののように、あらゆるおごり、高ぶりと傲慢から脱出するべきです。

聖書の報告とは、すばらしいものです。すなわち、サムスン、ダビデ、エリア、イザヤ、ペテロは、自分の罪過を認め、主に告白し、主のみもとに立ち返った後、全く回復されたのです。前よりも用いられる器となりました。

今日、大きな問題となっているのは、十字架のないキリスト教が宣伝されていることなのではないでしょうか?いかなる努力、いかなる熱心さ、いかなる聖書的信仰も、私たちが十字架、あるいは、十字架につけられることを恐れるとき、すべて不十分なものとなってしまいます。イエス様の苦しみにあずかることなしには、成長も実を結ぶこともあり得ない。

日々、打ち砕かれることなしには、私たちの自我は主の働きの妨げとなります。打ち砕かれた後で初めて、主は用いてくださるのです。

旧約聖書に出てくるギデオンと共にいた三百人の兵士たちの持っていた土の器が砕かれた時、初めて、その中に入っていたたいまつが光を放ちました。イエス様はまず、ご自身のもとに持ってこられたパンを割くことによって初めて、何千人もの人々を満腹させることがおできになりました。ナルドの壺もまた、高価な香りを家中に満たす前に砕かれなければなりませんでした。サウルと男が決定的に砕かれる備えを持った時に初めて、主は彼を豊かに用いることができるようになりました。旧約聖書に出て来るヤコブもまた、腰の骨を外されて、ビッコを引いて歩くようになったとき、聖書に示されてますが、これもまた、砕かれたあと、はじめて、祝福を受けることができました。

信じるもののうちにあるイエス様の命は、私たちが日々、主に自分の意志を意識的に従わせることによって、砕かれることによってのみ、明らかになります。自己否定は自分の権利を捧げることです。自分により頼まないことです。わたしの心ではなく、あなたのみこころを成してください。これが、イエス様の生涯の変わらなかった態度でした。

ですから、イエス様は恵みの流れが、命の泉が人々に分け与えられたのです。私たちも、考え、関心、意思、すべて主のご支配の下に置かれるときはじめて、私たちの内からも命の泉が湧き出てくるはずです。『イエス様、私は自らに絶望しています。自ら何もすることができません。どうか、私を通して、ご自身の御心をなさしめてください』と、祈りたいものなのではないでしょうか?

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